「なあ、比企谷。奉仕部を、辞めるか?」
一瞬、何を言われたのか解らなかった。
その言葉の意味が徐々に浸透するにつれ焦りにも似た感情が沸き上がり、しかし己の心の内を隠したがる性分が冷静を装おうとする。
「……なんすか急に」
「急ということもないだろう。しょせんは部活、などと言うつもりはないが、絶対に必要なものでもないのも確かなんだ。続けるのが難しいなら辞めるのも選択肢の一つだろう」
平塚先生はあくまで淡々と告げる。
それで気付いてしまった。先生は本気だ。
「い、いや、待ってください。そもそも三人しかいない部活なのに俺が抜けたら……」
「幸い今は危急の件案を抱えているでもなし、特に問題ないだろう」
「いやでも、部活って確か三人以上が条件でしたよね?だったら俺が抜けたら定員割れに」
「元々認可など有って無いような部だ。それに部費も受け取ってないからな。最悪同好会に格下げになったとしても何の支障も無い」
「え……えっと、そうだ、ホラ!これって元々罰だったじゃないですか!変な作文書いたからって。だから勝手に辞めるのは」
「私はただの一教師だぞ?生徒に部活動を強制する権利など持ってるはずあるまい。そもそもその罰を申し付けた私がもう良いと言っているのだが?」
「あ……その、だから……依頼!先生が雪ノ下に出した、俺の人格矯正!あれもまだ達成できてないでしょう!?だから……」
「なあ、比企谷」
先生は捲し立てる俺を遮るように口を挟んだ。そして苦笑を浮かべながら続けた。
「どうして辞められない理由を探してるんだ?」
言われて初めて気が着いた。
俺はずっと辞めたいと願っていたはずだった。
働くのはゴメンだと、さっさと帰りたいと、そう思っていたはずだった。
なのに今、実際にその機会が訪れたというのに、俺はそれに気付くことすらなく現状を維持しようとしている。
その事実に愕然としていると、先生は優しく微笑んで続けた。
「よかったよ、君が喜んで飛び付いたりしなくて。もしそうなってたら、この8ヵ月がまったくの無駄だったと嘆かなければならないところだった」
いや、待て。待ってくれ。
「辞めたくないと思ってくれているのであれば、君にとって奉仕部がそれだけ大切なものになっているということだろう。ならば君の孤独体質は既に十分改善されている。私が雪ノ下に出した依頼は達成だ」
辞めたいと言っていた時は絶対辞めさせてくれなかったくせに。
「これ以上、君を奉仕部に縛り着ける意味は無い。辞めたいならいつでも辞めて構わん。まぁ元々私にそれを止める権限など無かったわけだが」
必要になった途端に取り上げるとか、そんなの……!
「だから、続けるかどうかは、君次第だ」
「へ…………?」
茫然と呟く俺に、平塚先生はイタズラを成功させた子供のような、人の悪い笑みを向けた。
「何を情けない顔をしている。入りたくない者を無理矢理入部させることができないのと同じように、辞めたくない者を無理矢理追い出す権利も無い。当たり前だろう?」
「……俺、入らなかったら留年とか言われましたよね?」
「そんなもの本気にする方がどうかしてる」
「うわ、最悪だこの人」
俺がかなり本気で呆れていると、先生は短くなったタバコを灰皿に押し付けながら言葉を続けた。
「……少し意地が悪かったな。だがな、比企谷。これは君が自分で決めなければならないことだ。誰かに決断を委ねてしまえば、いずれはその誰かを恨むことになる。君はそういうのを何よりも嫌っていたはずではないか?」
……先生の言う通りだ。
俺はこの間の生徒会選挙の時、小町に背中を押してもらい、それを良しとしてしまった。自分が動く理由を、誰かに委ねてしまった。
そして今また同じ事を繰り返そうとしていたのだ。
何の反省も無く。
何の恥じらいも無く。
半ば自失する俺に、先生は続ける。
「それで、どうする?辞めるなら辞めるでそれなりの手続きもある。ハッキリ答えてもらえると助かるんだが」
「……少し、考えさせてもらっていいですか?」
「無論、構わんよ。好きなだけ悩みたまえ。私はいくらでも待つ。でもな、比企谷」
先生は一度そこで言葉を切り、あくまでも優しく、諭すように語りかけてきた。
「私はいくらでも待ってやれるが、時間や他の人間はそうとは限らん。それだけは忘れるなよ」
「……ウス」
俺はどうにかそれだけ返し、職員室を後にした。
今朝は雨が降っていた。
クリスマスも近いこの時期、雨に濡れながら自転車を漕ぐのはさすがにキツい。なので今日はバス通学だ。
遅刻というリミットの存在する朝はともかく、帰りならば歩いて通えない距離ではない。なので小遣い節約の為に徒歩にしようと思っていたのだが、なんだか疲れてしまいそんな気も失せた。そんなわけで帰りもバス。
俺は馴染みの薄い震動に身を委ねながら、平塚先生に言われたことを思い返していた。
誰かに決断を委ねてしまえば、いずれはその誰かを恨むことになる。
分かっていたはずだ。知っていたはずだ。そもそもそれが嫌だったからこそ、俺はボッチであることにこだわっていたのだ。
それなのに、俺は理由を他人に求めてしまった。
自分のことは自分で。
それがボッチの誇りであり、矜持でもあったはずなのに、そんな当たり前のことにさえ思い至らないほど自分を見失っていたらしい。
知らず、ため息が漏れる。
奉仕部を辞める。それ自体にはそれほど大きな意味は無いのだろう。
平塚先生の言うように、結局のところはただの部活なのだ。本当に繋がりを失いたくないのなら、この形にこだわる必要なんてない。
奉仕部というのは形にすぎなくて、俺や由比ヶ浜が守りたいと願ったものは、きっとその内側にあったものなのだ。
しかし選挙の時はそれを見誤り、形を残すことに腐心してしまった。
その結果が今の奉仕部だ。奉仕部という形だけが残り、その中身は無価値な馴れ合いにすり換わってしまった。本当、馬鹿げている。
またため息が漏れる。
いつからだろう、ため息が増えたと感じるようになったのは。わりと最近だと思うが。
俺と由比ヶ浜が奉仕部という形に拘泥するなかで、雪ノ下だけは別の何かを見ていた。
それがなんだったのかは分からない。雪ノ下が本当に生徒会長になりたかったのか、その先に別の狙いがあったのかも分からない。
きっとそれを知る機会は永遠に無いのだろう。
浮かんでくるのは後悔ばかり。
仮に雪ノ下が勝っていたとして、それで上手くいっていた保証などどこにも無い。というか無理だと思ったからこそ、俺はおろか由比ヶ浜までもが対立することになったのだ。なんなら今よりも酷いことになっていた可能性さえある。
だから、俺のとった手段は最善のはずだ。少なくとも、俺が選べる手札の中ではあれ以上のものは無かった。
例え誰に否定されようとも、これを自分で否定することは許されない。
だというのに、もっと他の道はなかったのか。そんなことばかり考えてしまう俺は、やはりどこかでまちがっていたのだろう。いつものように。
だけど、他にどうすりゃよかったってんだ。
「何やってんだ、俺は……」
見知らぬ道をとぼとぼと歩く。
バスに揺られて物思いに耽っていたら、いつの間にか自宅を通り過ぎていた。しかも降りたところは学校より遠いでやんの。
まぁ歩いて帰れない距離でもないし、おとなしく歩くか。つーかバス代がねえ。残金三百円とか高校生の所持金じゃねえだろ。
口の中でぶつくさと文句を言うが、誰が悪いかと言われると自分としか答えようがないわけで。
自分のことは自分で。
さっき思ったことを早速実践するあたり俺マジボッチの鑑。
そこらへんですれ違ったオッサンのせいにしないとか超マジメだよね俺。どこぞの竜と虎なら電柱のせいにして殺しにかかるところだ。なにそれこわい。
知らない道を歩くというのは意外と消耗するものらしい。大して歩いたつもりも無いのだが疲れを感じる。
ちょうど公園を見つけたので、手近な自販機でコーヒーを購入して休憩することにした。
走り回る小学生達を横目にベンチに身体を投げ出し一口啜る。苦ぇ。
見上げれば茜色。
この時期はどんどん日が短くなる。この昼と夜の境は特にそれが顕著で、ふと気を抜くとあっという間に真っ暗になってしまう。
子供達に「早く帰れよ~」と念波を飛ばしてボーッとしていると、不意に膝の辺りを引かれる感覚がした。
視線を落とすとおかっぱの幼女。
小学校低学年くらいだろうか。将来有望そうな顔立ちのそれが、ちっちゃなおててで俺のズボンをきゅむっと掴んでいた。
「……何?」
「……!」
声をかけると目に見えて怯える幼女。しかし手は放さない。
えーと、ナニコレ?
女の子は口元を引き結び、目尻に涙を溜めながら、不審者(俺)を逃がすまいと掴み、気丈に睨み着けている。
俺は状況を整理し、対策を考える。
無理矢理引き剥がす→泣かれる→逮捕
怒鳴る→泣かれる→逮捕
無視する→泣かれる→逮捕
微笑む→泣かれる→逮捕
あ、詰んだわ。
つーかホントなにこれ。何となく公園に入ったらbad endとか無理ゲーにもほどがあんだろ。ていうかなんなのこの子?撃破不能の無敵キャラ?絶対絶望少女?
俺が世の理不尽に嘆き、辞世の句とか考えていると、離れたところからボソボソとした話し声が聞こえた。八幡イヤーは地獄耳。悪口は聞き逃さない。
「ちょっ、ヤバいってルミちゃん!大人呼んだ方がいいって!」
「でもその間に何かあったら大変。誰かが見てないと」
うん。二人とも冷静で正しい判断だ。こういう時は、まちがっても自分で助けに入ろうなんて考えてはいけない。
ただ一つだけ見落としがあるとすれば、相手が本当に不審者かどうか確かめてほしかったなぁ。……確かめた上でこれってことはないと思う。ないよね?
「……なぁ、この子お前らの妹か?離れるように言ってほしいんだが」
こそこそと植え込みの蔭に隠れていた二人に声をかけると、はみ出していた頭がビクリと震え、わずかな間を置いてから観念したように立ち上がった。
二人はおそらく小学校高学年くらいだろう。その片方、後ろ髪で二つ小さなお下げを作っている方が声をかけてきた。
「やー、すいません。ウチの妹が」
笑顔がややひきつっているのは、俺に怯えているからではないと思いたい。とかいうかそんな冗談を考える余裕は無かった。
声を発さなかったもう一人。こちらを見て目を円くしている少女。
その少女に、俺は見覚えがあった。
長く艶やかな黒髪。
儚げな、小学生にしては大人びた雰囲気。
そしてどこか、何かを諦めているかのような冷めた表情。
「……八幡?」
かつて俺が関わった少女。
奉仕部が、夏休みに千葉村で救おうとした少女。
鶴見留美が、そこにいた。