「八幡…………?」
その少女は俺を見て呆然と呟いた。
気持ちはよく分かる。俺だってこんなところで再会するなんて夢にも思っていなかった。
かつての知り合い、と呼ぶほど親しくはない。かと言って、赤の他人と呼ぶほど浅い因縁でもない。
そう、因縁である。
俺と鶴見留美という少女の関係を表すなら、きっとそれが相応しい言葉だろう。
「えーっと……留美ちゃん、友達?」
「…………違う」
隣に立つお下げ髪の少女の問いに、留美は大分考えた末に否定した。まぁ、確かに説明に困る間柄ではある。
それきり言葉が途切れ、俺は沈黙を埋めるように口を開いた。
「……久しぶりだな」
「……うん、久しぶり」
開いたはいいものの、やはり会話が広がらない。リア充ってなんであんな間断なく喋り続けられるんだろうな。やっぱスゲーわあいつら。俺には無理だ。
どうすればいいか分からんが、とりあえずはさしあたっての問題をなんとかしてもらおう。
「とりあえず、この子なんとかしてくんない?」
「あっ!ご、ごめんなさい!ほら珠ちゃん!」
俺がいまだにズボンを掴んだままだった幼女を指すと、お下げの子が慌てたように珠ちゃんとやらを引っ張る。が、珠ちゃんはいやいやと首を振って離れようとしない。
えー?マジで何これ?
これが子供になつかれてるだけならば、困りはしても困惑はしなかっただろう。しかし珠ちゃんの表情は幼いながらに必死そのもの。幼女に親の仇の如く睨まれて、俺ちゃんちょっと涙目。
「……八幡、珠ちゃんに何したの?」
「いやいやいやいや。何もしてないから。俺ここに来たばっかだから。なんかする時間なんか無かったから」
「時間あったら何かしてたんだ?」
「揚げ足取ってんじゃねえよ。つかホントなんなの?この子って普段からこんななワケ?」
「いや、どっちかというと人見知りな子なんですけど。どうしちゃったんだろ?」
「……もしかしてそれじゃない?」
留美が指差した先に目をやると、俺の尻の下に黒いノートがあった。気付かずに踏んづけてしまっていたらしい。
手に取ってみると何か違和感を感じた。
よくよく見ると黒い表紙ではなく、普通のノートをマジックか何かで黒く塗りつぶしてあるらしい。さらにその上から修正液を使い、なにやらウネウネした字体でタイトルが記されている。
……………うん。なんつうかものすごい懐かしい匂いがする。具体的には二、三年前まで俺が書いてたような。
俺はそのノートを珠ちゃんに差し出し恐る恐る聞いてみる。
「これ、君の?」
「……姉さまのです」
珠ちゃんはそう答えてノートを受け取ると、大事そうに抱き締めた。
……うん、良かった。この歳でこのノートを書いてたんならどうしようかと思った。なんだよデスティニーレコードって。パンさんのキャラソン集?やだ、雪ノ下が持ってそう。
「あー……珠ちゃんこれ持ってきちゃってたんだ……」
お下げの子がなにやら複雑な表情で呟いた。俺はその子の方を向いて確認する。
「…………ねえさま?」
「違います。いや、姉ですけど」
どうやら他にも姉妹がいるらしい。まあどうでもいいが。
珠ちゃんの狙いはやはりそのノートだったらしく、てててっと走ってお姉ちゃんの後ろに隠れてしまった。うん、微妙にショック。
「あー、ども、すいません。ウチの妹が」
「いや、別にいいけど」
「ほら、珠ちゃんもお兄さんに謝って」
「……怖くないです?」
「怖くないぞ。多分」
「……ノート、ありがとです」
「あっ、珠ちゃん!?」
珠ちゃんはそれだけ言って逃げるように走り去ってしまった。この恥ずかしがり屋さんめ☆(吐血)
お下げのお姉ちゃんは珠ちゃんと俺とを交互に見てオロオロしている。
「行っていいぞ」
「あ、ありがとうございます!ホント、すんませんした!」
お姉ちゃんは俺に向かって気を付け!礼!してから珠ちゃんを追いかける。
そして誰もいなくなった……
とか言おうと思ったんだが。
「……なんで残ってんのお前?」
「……いいでしょ、別に」
一人だけこの場に残った鶴見留美は、不機嫌そうにそう答えた。
留美は俺としばし無言で睨みあった後、やはり無言でベンチに腰掛けた。同じベンチだが隣ではない。俺からもっとも遠い端っこにだ。
一方俺は距離を空けることも詰めることもしない。絶対しない。意地でもしない。ホラ、意識してるとか思われたらヤダし。なにこれすごい意識してる。
「……八幡は」
「ふぁ、ふぁい!?なんでふか!?」
「え……?なにそれ、キモい」
おおっと、いっけねえ。つい変な声出ちゃったぜテヘペロ☆
「いや、なんでもない。んで、なんだ?」
平静を装って促すと、留美は気を取り直したように続けた。
「……八幡は、この公園よく来るの?」
「いや。今日はたまたまだ」
「ふーん……」
それきりまた会話が途切れる。
なんだろうな、これ。なんでこんなに気まずいんだ?普段なら人と会話しないことが理由で気まずさを感じることなんてないのに。
その息苦しさをごまかすようにまた口を開く。
「……さっきのは、友達か?」
「……隣の家の子。夏休みの終わり頃に引っ越してきた」
「ふーん。同じクラスになったとか?」
「ううん。ていうか一つ下だし」
一つ下、か。
こいつくらいの歳で、いや、学生という立場の人間が違う学年の友達と遊ぶというのは、果たしてよくあることなのだろうか。友達自体が居ない俺にはいまいち分からないが、あまり普通ではないような気がする。
もちろん俺がこの公園に立ち寄ったのと同じように、今日はたまたまという可能性だってある。しかし、俺にはどうしても千葉村で必死に涙をこらえていたあの姿がちらついてしまう。
と、そこまで考えて息苦しさの理由に思い至った。
(ああ、そうか)
要するに俺は、この少女に後ろめたさを感じていたのだ。
俺はかつて、鶴見留美を取り巻く世界を叩き壊した。
あんな薄気味悪い友情など、うすら寒い良識など間違っていると。そんなものを強いる世界など間違っていると。そう信じて行動した。
この世の中は間違っている。これには絶対の自信がある。だがそれは、自分が間違ってないということにはならない。
これまでずっと間違い続けてきた俺だ。自分を信じるなんてできるはずがない。この世に自分ほど信じられないものなど他に無いまである。
ましてやあの時は、葉山たちに悪役を押し付けてしまったのだ。それで自分が正しかったなどと、そんな恥知らずなこと言えるはずもない。
俺の行動がどのような結果をもたらしたのか。
それを確かめる術もないまま時は流れ、俺はいつしか彼女のことを忘却の淵に追いやっていた。
そして今、その結末の一端が、こうして目の前にいる。それを直視するのが怖くて怯えている。
なんという無様。
自分が大した人間などと思ったことは無いが、最近の俺はそれに輪をかけてダメすぎる。
「……暗くなってきた」
留美が不意に顔を持ち上げ、ポツリと漏らした。
確かに陽は沈みかけ、街灯が灯り始めている。見れば公園の入り口近くで、先ほどの姉妹に良く似た人影が手を振っていた。
「もう、行くね」
留美はそれだけ言って立ち上がると、その二人の方へと駆けていった。
結局、彼女が何を言いたかったのか、何を思ってここに残ったのか分からなかった。もしかしたら留美自身にも分かってなかったのかもしれない。
一つだけはっきりしているのは、彼女が一度も笑わなかったということ。
再会してからここまでほんの十数分。
俺と留美は屈託なく笑い合えるような仲ではないし、留美が積極的に笑顔を振り撒くタイプとも思えない。何より、千葉村でだって彼女の笑顔を見た覚えなど無い。
それでも、彼女が笑顔を作れない環境にあるのではという疑念は拭えず、その遠因が自分にあるかもしれないという事実は、気分を沈めるには充分にすぎる。
俺はため息を吐いてコーヒーの残りを飲み干す。苦え。
すっかり冷えてしまった黒い液体に顔をしかめ、空き缶を近くのくずかごに放る。カンッ、と硬い音を立てて跳ね返った缶を改めて捨て直してから公園を出る。
と、そこで道端に落ちている物に気付いた。
「ったく、子供ってのはこれだから……」
思わず呆れた声がこぼれる。
落ちていたのはデスティニーレコードだった。あんな大事そうにしといてなんで落とせるんだよ。
さっきのベンチにでも置いといてやるか。
そう思って拾い上げると、視界の端でチカチカと何かが瞬いた。
何事かと目を向けると、遠くの雲が暗く明滅し、数秒遅れてゴロゴロと重い音が響く。すぐさま降りだすことはないだろうが、今夜は雨だろう。
手に持った黒いノートを見る。耐水加工もなにもない、ごく普通のノートだ。
あの珠ちゃんとやらの必死の眼が脳裏をちらつき、俺はため息を吐いてノートをカバンにしまい込んだ。
面倒だが、明日届けにきてやろう。
仕方なく、そう思う。
これで部活に行かなくてすむ。
そんな考えが頭の隅に浮かんだことには、気付かないふりをして。
雨は夜になってから降りだし、夜の内に上がっていた。
水溜まりの残る路をチャリンコで走り抜けて学校に向かい、特に何も無いまま放課後を迎える。
「ヒッキー」
廊下に出たところで声をかけてきたのは由比ヶ浜だった。
彼女の態度はどこか弱々しく、普段の快活さには陰りが見える。
「その……今日は、部活、来るの?」
「あー……すまん。ちょっと用事がある」
嘘ではない。
「そっか。それじゃ、しょうがないよね、あはは……」
「……悪い」
由比ヶ浜が悲しげに目を伏せる。俺はそれに気付かないふりをして顔を逸らした。
「ヒッキー、明日は大丈夫?」
「……いや、ちょっと分からん」
嘘ではない。嘘ではないが、それだけだ。
もしかしたらいきなり急用が入る可能性もゼロではない。しかし今のところはなんの予定も入っていない。そう伝えることはできたはずだ。
由比ヶ浜に聞こえないようにため息を吐く。俺はいつからこんなに弱くなった?
「……なんか、あったのか?」
ごまかすようにそう聞くと、由比ヶ浜は躊躇いがちに口を開いた。
「あのね、昨日、いろはちゃんが来たの」
「……依頼か?」
「うん」
一色いろは。
サッカー部マネージャーのあざとい一年。
女子連中の嫌がらせで生徒会長に立候補させられ、それを角立てせずにぶち壊すために奉仕部の戸を叩いた。そして色々あった末に自らの意志で生徒会長になった少女だ。それが再び奉仕部を訪れたという。
「えっとね、なんか他の学校と合同でクリスマス会やることになったんだって。それで、奉仕部にもそれを手伝ってほしいって……」
「……引き受けたのか?」
「うん」
「雪ノ下が?」
「えっと……うん……」
肯定。しかし消え入るような声で。
きっと雪ノ下は断ろうとしたのだろう。それを由比ヶ浜が押し留めたのだ。……恐らくは、以前の雪ノ下なら引き受けただろうという理由で。
馬鹿げた理由だ。だがそれを責める資格は俺には無い。由比ヶ浜にそんな負担を強いているのは、他ならぬ俺なのだから。
「……時間は、多分作ろうと思えば作れる。手が必要だったら声かけてくれ」
それが今の俺の精一杯。本当、情けない。だというのに。
「……うん。ありがと、ヒッキー」
由比ヶ浜はそう微笑んだ。
その笑顔が、胸に痛かった。
記憶を頼りに自転車を走らせ、どうにか迷うことなく昨日の公園にたどり着く。
軽く見回すと、見覚えのあるお下げ髪が目に入った。
カバンから例の黒歴史ノートを取り出しつつ声をかける。
「おい」
「うぇいっ!?……あ、あれ?昨日の……」
なにやら面白いポーズで固まる少女。
「……なかなか愉快なリアクションだな」
「あ、いえ、できれば忘れてください……」
「まあ別にいいが。それよりほれ」
「あ、拾ってくれてたんですか」
ノートを受け取って頭を下げる。
由比ヶ浜に近い匂いを感じるが、割りと礼儀正しい少女だ。爪の垢でも貰っていこうか。
俺はシュタッと手を上げた。
「じゃ、俺はこれで」
「いやいやいや待ってください」
捕まってしまった。
「……何?」
「いや、そんな嫌そうな顔しなくても。お礼くらいさせてくださいよ」
「いや、そういうのいいから」
「いや助けると思って。うちの姉がそういうのわりと厳しい方なんで、このまま帰しちゃったら怒られちゃいますよ」
えー、なにそれ面倒。
……だけどまあ、いいか。特に予定もないしな。
ぐいぐいと、腕を引かれるままに歩き出す。女の子に手をつながれているが、さすがに小学生相手では何も感じない。ないはずだ。ないよね?頼むよ俺!
「やー、ありがとうございますホント。あのあと珠ちゃん泣いちゃって大変だったんですよ。あ、あたし五更日向っていいます」
「……比企谷八幡だ」
世間話に交えてさらりと自己紹介してくるあたり、やはりリア充側の人間らしい。今後は近寄らないことにしよう。……ん?ていうか今、なんか聞き覚えのある名前を聞いたような……?
日向ちゃんがわきゃわきゃ話すのを適当に聞き流しながら歩いていると、先に先日の珠ちゃんと、俺と同年代くらいに見える少女の後ろ姿が見えた。
珠ちゃんは泣いているらしく、俯いてしきりに目元を擦っている。それを隣の、日本人形を思わせる見事な黒髪の少女が慰めていた。
「あ、珠ちゃ-ん!瑠璃姉-!」
日向ちゃんがその二人にぶんぶん手を振る。二人がこちらを向いた。
「……」
その、珠ちゃんが言うところの姉さまであろう人物を見て、俺は固まった。
おいおいどうなってんだよ。昨日の留美といい、こないだの折本といい、最近やたらと過去の知り合いと会うな。なんなの?借金の取り立てかなんかなの?
なるほど。こいつの妹だってんなら、そりゃ聞き覚えもあるはずだよ。珍しい苗字だもんな。
「比企谷先輩……?」
妹の頭を撫でながら、五更瑠璃はそう呟いた。
出来てる分はここまで。
続きがいつになるかは俺が聞きたい。
……マジすんません。