最終巻―――ああ、終わるんだなーなどと感じつつも、ソフィーは果たして生きているのか死んでいるのか……それが気がかり。
画集の方も買わなければならないのだが―――果たしてどこが一番いいのやら(とら、メロン、ゲマ、メイト)…続報が待たれる。
執務室に腰掛けながら、目の前にいる蒼白な男の報告を受けている。目の前の男スティードは、もともとどちらかと言えば無表情を蝋で固めたような男だが、今の彼はそれ以上に蒼白な顔をしている。
三十三歳にして自分―――フェリックス・アーロン・テナルディエの副官を務めている男だ。その男の報告は事実を述べているとは到底思えないほどに荒唐無稽なものだった。
しかし、そんなことを言わぬ男であるというのは自分も分かっている。何よりそんな風なことをいう男を自分は用いない。
「……アルサスには自由騎士と戦姫がいたのだな?」
「はっ、彼らさえいなければ我々が敗走することも無かったでしょう」
自由騎士リョウ・サカガミがどれほどの実力者なのかはテナルディエも理解はしていた。あのロランと互角かそれ以上の剣士がいたなど俄かに信じがたいが、事実はそうなのだから覆せまい。
「―――下がってよい。領地で英気を養え」
「……懲罰はよろしいのですか?」
無表情で聞いてきたスティードだが、それに対して答えない。ここまで何とか逃げてきた兵士騎士達。それらに「懲罰」を与えるなというのが息子の「遺言」だったのだ。
それを守らないなど出来なかった。例え怒りで腸が煮えくり返っていたとしてもだ。
スティードが退室すると同時に闇に潜んでいた「女」に問いかける。
「聞いての通りだ。ザイアンが死んだ以上、お前は自由だ。好きに生きろ」
「―――大旦那様は、復讐を為さらないので?」
テナルディエですら、一瞬怯むぐらいの声音だった。闇にいた女は怒り狂っている。
「お前の言う通りならばザイアンは負けるべくして負けたのだ。勝敗はいつでも紙一重。兵家の常であり一戦で死ぬことあれば一戦で命からがらということだ」
そして自分の息子には運が無かったということなのだろう。そしてヴォルンには天運があった。そんな戦士としての理屈は「暗殺者」であり「女」であるサラには通用しないものだった。
「ザイアン様は、「人間」として殺されたのではありません。「怪物」として殺された―――。やったのが誰かぐらいは想像付いているのでは?」
「……問い詰めた所で証拠はあるまい。そして何より私の野望にあの「魔性」は必要不可欠だ。だが……最終的に殺したのは、アルサス及びジスタート軍だ」
低い声音で問いかける侍女姿の「暗殺者」。この女とザイアンの関係は知っていたが、ここまで執着されるとは、あの息子にも見所はあったのだと悲しくもなる。
「私は―――自由騎士とヴォルン伯爵を『暗殺』します。これは私にとっては最後の主家に対する御奉公です。それをしてから私は自由の身となりましょう」
「―――『七鎖』と『八蜂』を連れて行け。どちらもお前が「仕込んだ」暗殺者集団。如何様にも使うがいい。これが私からお前に対する最後の支援だ……それを成したならば……ザイアンのことなど忘れて新たな幸せを掴め」
答えは無く、そのままに闇に消えていく侍女。
彼女が失敗しようが、成功しようが構わない。命令を聞けないものなどテナルディエにはいらないのだから。
そうして侍女がいなくなると同時に、入ってきたのはドレカヴァクであった。
「浮かない顔をしておりますな」
「―――ドレカヴァク、次の竜の用意までどれだけかかる?」
怒りで我を忘れそうな頭と手を必死で押さえながらテナルディエは、必要最低限の用件だけを問う。それに返答した後にドレカヴァクは続けて言い放つ
「閣下に朗報を一つ。私は今、竜以外の戦力も用意してあるので、それは恐らく戦姫と自由騎士への最大の抑えになるかと」
「何だと……?」
竜を殺したのが自由騎士と戦姫であることは報告で知っている。そしてザイアンを殺したのも連中だろう。
聞く限りでは、ロラン並の戦士ばかりであるとして、幾つかの策を練っていたが、そこにドレカヴァクの「提案」が入った。
「戦姫が持つ竜具、これは地上に無い物質で出来た武器。自由騎士の持つ『神器』もまた天地の理から外れた武器であります」
「それが竜を殺した原因か。ならば、それを押さえるものとは何だ?」
「魔人―――と言って通じるか分かりませぬが、そういったものを用意しましょう。それは閣下に必ずや勝利をもたらす無限の「軍」を組織出来るものです」
笑みを浮かべながら話す老人。俄かに信じがたい話だが、この老人がそれを用意すると言った以上は、用意出来るのだ。
自分の軍は決して弱卒だけで組織されているわけではない。しかしディナントでの惨状を鑑みて、更に自分に比肩しうる人材がスティードしかいないというのが痛い所だ。
アルマン、ソーニエールなどは、それなりではあるが、及第点をつけられない。
ジスタートとブリューヌでの泣き所は、前者が『職業軍人』を大半として組織しているのに対して、こちらは『市民軍人』を使わなければならないところだ。
無論、『騎士団』などの王宮直属軍は完全な『職業軍人』だが、それはテナルディエが使えるものではない。
要請という形での派遣程度ならば使えるだろうが、自分の指揮下に組み込めぬものを数に入れるわけにはいかない。
「つまりは数で圧倒するしかないわけだ。その数を何とか出来るのか魔人は」
「かつてその魔人は『不死の鬼』を殺しつくし、多くの『獣』を従えて一国を支配しつくそうとした男です―――聡明な閣下ならばその意味、分かるはずですが」
その獣の中に、果たして『竜』が含まれるのかが疑問ではあったが、それでも……自分の敵は寧ろ、同じ権勢を誇るガヌロンだ。
ガヌロンを圧倒するためにも、今は多くの「力」が必要なのだ。ヴォルンなど片手間程度で倒せれば、それでいいぐらいだ。
「分かった。仔細は任せる。必要なものあれば、即座に言え。成果が出なければ―――」
お前は殺す。
視線でそれを告げるもドレカヴァクは不敵な笑みを浮かべたままに退室した。
一人になった部屋。豪奢な椅子に深く座り込みながらフェリックスは、今更ながらの喪失感に気付かされる。
あんな親子喧嘩をするべきでなかった。例え、どんなに自分の信条と反するからといって、それに対して怒りつけるなどするべきでなかった。
怒りが持続しないのは、後悔ばかりが先んじるからだ。だからと言ってアルサスの小僧を許せるわけもなく、自由騎士に対する復讐心無くなるわけでもない。
そうしてフェリックスは―――取り出した銀杯二つに秘蔵の「
「お前と対等に酒を飲めなかったな」
酔いつぶれるまで飲もうとは思わない。いずれ大なり小なりザイアンが功を上げた時に開けようと思っていた酒だ。
銀杯で一口ごとに口中で温めながら胃に下していく。
酔うよりも、その味わいを長く残すようにフェリックスは一瓶、亡き息子を弔うかのように―――時間を掛けて飲み干していった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
公宮は大忙しである。如何に優秀な文官多く居たとしても、それが全ての案件を処理できるわけではない。
多くの武官・文官の頂点に立つ公宮の主。朱い衣装、何でもヤーファで言うところの「ヒトエ」という装束を身に纏った女性は、挙げられてきた案件一つ一つを精査していく。
そして謁見者に対しても同じく執務室にて多くのことを聞く。それは王宮からの訪問だろうが、他国からの人間だろうと同じであった。
夏に行われた一つの大戦。今では「プロビデンスの海戦」などと題されている戦いにおいて海賊共を撃滅したことが影響している。
多くの戦利品。得られた土地。新たな戦術―――海洋都市を多く有するレグニーツァにおいて多くの変化を余儀なくされた。
かつての病身の身であれば、少しは気を利かせて文官達は重要案件だけを持ってきていたが、今の彼女―――アレクサンドラ・アルシャーヴィンは何かに没頭していたかった。
今、自分が着ている衣装は、多くの者には「かぶれている」などと誹りを受けそうであるが、それでも見せたい相手がいたのだ。
その見せたい相手は―――、考えるほどに苛立ちが募る。
「アレクサンドラ様、急な謁見希望者がいるのですが、よろしいでしょうか?」
「―――明日にしてくれないか。流石に疲れたし、何より手続き無視はどうかと思う」
黒髪を乱雑に掻きながら、入ってきた老従僕に言う。謁見予定者は、先程で最後だったはずだというのに間の悪い。
疲労もそうだが、何より自分にとってのやる気を上げる「薬」が欲しいというのに、それが無いのだ。自然と言葉も厳しくなってしまった。
それに構わず老従僕は言葉を重ねる。
「本当に追い返してもよろしいので?」
「例え、王宮・大貴族・大商人・大神官だろうと、規則破りは『やってきたのはリョウ・サカガミなのですが』―――」
言葉の前半で苛立たしげにしつつも、後半では完全にしてやられた形だ。
無言を貫きながら半眼で老従僕を見るが、それに対して笑みを浮かべるのみであり、暖簾に腕押しである。そんな
老従僕の後ろに現れたリョウの顔を見ただけで何か癒しの奇跡でも掛けられたかのような気分だ。
「疲れてるようだったならば、あし『いや、我が公宮の恩人を追い返すわけにはいかない。何より「外国の大使」は別だ』……言い訳が苦しいぞサーシャ」
そう言われて、バツの悪い顔をするしかなくなる。今、言ったことはただの方便だ。そして老従僕は形式を守っただけだ。
これに関しては自分が全面的に悪いだろう。ただもう少し言い方があったのではないかと思う。
「内密の話もあるでしょうから、私はこれにて」
頭を下げて、辞していく老従僕。どちらかといえば「お若い二人にお任せしておきますので、どうぞごゆっくり」とでも言われた気分だ。
それはリョウも同様だったらしく、見合いの席かと思わんばかりだ。
間の良いのか悪いのか、サーシャの着物姿がどうにも似合いすぎて、リョウとしても居た堪れない。
「まぁ……何というか久しぶり」
「――――久しぶり」
言葉と同時に、抱きつかれてしまう。執務机を飛び越えて抱きついてきたサーシャの重さ。
受け止めた彼女は以前より重くなっていると感じて健康であることを確認した。
「女性に対して重いとか言うのどうかと思う」
「読心術の心得でもあるのかよ?」
「好きな男性の心の変化を読み取るぐらいは、加えてリョウは分かりやすすぎるからね」
抱きつかれたままに抱き返しつつ頭を撫でる。お互いの感触や熱を移すように忘れぬように長く抱きしめあう。
百を数えるぐらいの時間が過ぎてから、どちらからともなく離れる。
「飲み物を用意するよ。話したい事もあるんだろ?」
「個人的に寄っただけだ。などと言えばただの女ったらしだからな。まぁ用事が無くても寄る予定ではあった」
「アルサス―――ティグルヴルムド・ヴォルンに関してだね」
首肯して、サーシャの招きに応じてテラスに移動する。それと同時に茶請けと言うには少しばかり、毛色が違うも、アルサスの名産品を取り出す。
清潔な布に包まれた円形の白いものが、何であるかをサーシャは察する。
「チーズ……。良い匂いだね―――もしかして山羊の乳で出来たものか?」
「御名答。シェーブルチーズってやつだ。ある戦姫の入れ知恵もあって作られた第一号らしい」
「オルガか、彼女の功績の一つだね。それを他国でやっている辺りが、彼女のずれた所だよ」
アルサスにて、ティグルとオルガが行ってきた事業の一つ。その成果を示しつつも、サーシャの評価は辛い。
山羊チーズは普通のチーズでは身体にもたれる人間にとっての救いだ。切り分けて、小さい三角形にカットしてからテーブルに乗せる。
陶器はオニガシマ製の瑠璃物。透き通った器の中に様々な色味が加えられており、目で楽しませてくれる。
一切れを口の中に放り込んで咀嚼するサーシャ。その表情が硬いものから段々と軟らかくなっていく。
「まさか……こんなに美味しいとは……いやビックリした」
「一応つけあわせとしてクラッカーやらもある。アルサスの侍女の一人が焼いてくれたものだ」
「野菜とか魚卵も欲しいね。いま持ってきてもらうよ」
呼び鈴を鳴らしてやってきた侍女に用意するものを言ってもってこさせる。
六十秒ほどで全てのものをもってきた侍女にお礼としてリョウは、残りのシェーブルチーズを持たせる。
「こちらは皆さんでどうぞ。わたしからの土産ですので」
「あら、自由騎士様からの贈り物だなんて、アレクサンドラ様に申し訳ありませんわ」
と言いつつもシェーブルチーズ三個を持って下がっていく侍女。多くの人間に「知ってもらう」ことが販路開拓に繋がることは知っている。
これから一緒に戦う相手の懐を温めてやらないと、家臣として失格だ。そうして再びサーシャの方を向く。
「これがまさかただのお土産というわけではないよね?」
「そうだな。サーシャにやってほしいことの一つだよ。意味は分かるよな」
「予想された事態ではあるしね。その辺りはソフィーと協調しあっているよ。問題はエリザヴェータとリュドミラだね」
クラッカー二枚にシェーブルを挟んで食べたサーシャ、実を言うと今度の王都シレジアでの召喚命令、それにおける最大の懸念事項は、二人の戦姫にこそある。
誇り高き戦姫。リーザは己が戦姫であることを誇りと思い、その務めを放棄して諸国を回っていたオルガに対して当たりは厳しい。
ミラもまたそういった人間に対しては厳しいだろう。折角の参戦許可も彼女ら次第では覆りかねない。
無論、ティナやソフィーの言に対抗できるほど二人は口が達者ではないのだから、杞憂かもしれない。
クラッカー二枚にシェーブル。その間に『キャビア』と『トマト』を挟んで食べる。
口当たりに変化が表れて、これまた美味なものである。
そうして口が渇いてきたので果汁水(クヴァース)を、含んでから話を続ける。
「やれやれ。愛しい男性からのお願いが「他の女」を助けてくれだなんて、随分と酷くないかい?」
「戦姫オルガ・タムは、どうやらティグルに個人的な好意を寄せているようだ。第一、俺はあんな年下に興味は無いよ。俺としてはティグルを助けてほしいからこその要請なんだけれど」
苦笑しつつのサーシャの言葉に、同じく苦笑しながら答える。彼女も青年貴族とは面識あったらしく、その言葉にすぐに了承の意を出してきた。
「了解したよ。久々に七人の戦姫が集まるんだ。色々と話し合わなければならないだろうね……アスヴァ―ルも情勢に変化あったようだし」
道すがら、聞こえてきた言葉。どうやらタラードは上手くやったようである。
これを以て休戦条約を破棄する―――とまでいかないだろうが、新政権になったバルベルデ側に、エリオットがどう出るのかが、気がかりだ。
「そんな所だな。俺としては頼みたい事と言うのは」
「ならば―――僕としてはお礼が欲しいな……女の子に頼みごとするんだ。男ならば何が……代価になるかぐらい分かるだろ?」
手を組み合わせて上目遣いで言ってくるサーシャ。頬は上気して、何とも艶っぽい空気を出してくる。
要求されていることは理解している。ティナもそうだったが、要求の言い方が婉曲的ながらも仕草などで直接的に分かってしまう。
「俺としては願ったり叶ったりというのも変だけれど、身体は―――大丈夫なのか?」
「体調に変化は無いよ。寧ろ、君と会えなくてイライラしていたぐらいだ。欲求不満ってやつだね」
一番に気を使うのは女の子の身体の方だ。男性の場合は特に日を選ばないが、女性の場合は違う。
そこを気遣ってあげるのは男の役目だと教わってきただけにリョウは、サーシャが、あっけらかんと笑顔で語る以上は、安心することにした。
とはいえ、まだ夜になってはいない。彼女の自然なしなだれ方に熱くなりながらも、抑えなければならない。
月明かりの下でこそ、『煌焔の朧姫』アレクサンドラ・アルシャーヴィンという姫君の肌の白さ。闇に溶け込まぬ黒髪の艶やかさは映えるのだから―――。