その日は外が思いの外騒がしかった。母親と思わしき人の苦しげな声、父親と思わしき人の焦りまじりの声、他にも数名の声。色々な物音。様々な声や音が混じり合う。
そして次に感じたのは身を包む胎内の胎動。住み慣れたといってもいい場所が、まるで地震に見舞われた感覚に焦りを禁じ得なかった。矢継ぎ早に身を包む圧迫感に息苦しさ、体中をぎゅうぎゅうにゴムホースで締め付けられるような苦しさに一体何が起こっているのかを連想できないほどに緊張が走る。
体中が痛い、苦しい。一体何が起こっているのか、襲いかかる混乱を必死で抑え思考する。
今自分は出産中なのかと。確かに、この体に感じたものやその前の騒がしさ、それらをピースに組み立てればそうなる。
しかし、そうかこれが出産時に赤子が感じる感覚なのかと、実際覚えていないほうがいいものだ。自分もこの体験は覚えておきたくないものだと思うに至った。
『暗いトンネルを抜けた先に光に溢れた世界があった』程度で認識したかったものだ。
圧迫感や息苦しさによる苦痛も相まって、どれ程時間が経過したか正確に把握できないが、ようやく産道を抜けたようだった。
視界を焼くほどに眩しい光、体を包む粘液が剥ぎ取られ感じる寒さ、口内に滞る胎液を吐き出すとひりつく程に清涼感をもった空気を感じる。
自分は一個の生命としてここに誕生したという確かな存在感があった。
ただ、ただ、その事実に自分は感情を制御できずに産声を上げた・・・。
朝靄に遮られた薄い光が差し込み、目を開く。
こちらを包み込むように抱いた母の腕の温かさと、ベッドに広がった肩下ほどの長さの栗色の柔らかな髪から仄かに花のような香りを感じる。
少し顔を母に向けると、鼻筋の通った小顔に、少し薄い肉厚の薄桃色の唇が少し開く。長めの睫毛が震えるように2度ほど動いたかと思うと、透き通ったグリーンの瞳がこちらを映した。
「おはよう、イツキ・・・早起きさんだね、いいこ、いいこ」
少しタレ目がちの瞳を微笑むように閉じ、我が子を優しく撫でる。
「あ~」
自分は発音の練習も兼ねて声を出す。初めて声を出した日などは、意味を持たない
「ん・・・おぉ、おはようエリーン、イツキ・・・ふぁあ、イツキ~今日も可愛いなぁこいつぅ」
母親の反対側から声がし、こちらの頬を突っつく指の感触がした。
父親の方に顔を向けると目尻を下げた少し眠そうな顔をした父の姿が目に入る。
少し癖っ毛の剛毛のツンツンした短髪で人懐っこい笑顔を浮かべる父親は、普段は切れ長の目を好々爺のようにニッコリと下げ、普通にしていればキリッとした精悍な顔立ちが台無しだった。
自分が生まれてから約一月程度が経過していた。
まだ首も座りきっておらず、頭の重心がグラグラと不安定に揺れるので動き回れない。
発声に関しては呂律が回らないというか、精神と体のズレが大きすぎてこれもまたあまり上手くできない。
常に母親か父親が見守っているので魔術行使を試すことも出来ては居ないが、その代わり魔力の制御は常に行うようにしていた。
「イツキ、お腹減った?ご飯にしようか?」
母親の声と共にゆっくりとベッドから離され、胸を押し付けるようにかき抱かれる。
流石に、年の頃20代前半と思わしき人から授乳させられるのは恥ずかしいが背に腹は代えられないので慣れようとは思っている。実際前世の記憶をまるまる持ち越したので感覚としては自分は30なのだ、自分より若い、下手をすれば10代後半と言われても違和感がない母を持つなど誰が予想しようか。
雑念を拭い去り、これは生命活動に必要な行為だと割り切り、授乳を受け入れる。
早く離乳食に移行する日を望む日々だった。
ーAnother Viewー
陽だまりの中、揺り椅子に腰掛けイツキの背を優しく叩きながら椅子の揺れに従って身を任せる。
私はイツキの真っ黒な瞳を眺めながら微笑む。フワフワと生え始めたこれもまた真っ黒な髪の毛を撫でながら鼻歌を口ずさむ。
「ん~~ん~・・・ん~・・・イツキ?眠くない?眠くはないみたいね、イツキは本当に大人しいのね、もっとワガママいったり困らせても大丈夫なのよ?母さんはイツキがこれがしたいよ~とかおなかすいたよ~って泣いて知らせてくれても平気なんだからね?」
私は少しだけ困ったような表情をするイツキの頬を撫で擦りながら、不意打ちでキスをする。
「ん~チュッ。ふふ、本当にイツキは良い子ね、お母さんや叔母さんに聞いた話とは全然違うから別の意味で母さん戸惑っちゃうわ。でも本当に可愛い、食べちゃいたいくらいに・・・ん~チュッ」
何度もキスしていると、イツキが不意に悲しそうな表情を浮かべる。
どうしたの?とイツキの頬を撫でるとツゥと涙を流した。
「・・・かぁ・・・さん」
「イツキ!?今母さんって言ったの?」
私は驚きと喜びを同時に感じ、イツキがどうして悲しそうな表情を浮かべたのかを疑問に持たなかった。
ーAnother View Endー
自分が生まれてから二月程度が経過しようとするころの事だった。
我が子を抱いて家の中をゆったりと歩く母の腕の中、身動ぎもせずただ周りの景色を見続ける。
ログハウスのような造りの家は割りと区分けが広く、キッチンとリビング、寝室、お風呂のある場所は覚えた。優しい木の香りが心地いい家だ。
行ったことのない部屋はトイレや物置の類だろうか?どうやら2階建てらしいが2階には行ったことはない。
母はゆったりとした歩みを止めて揺り椅子に腰掛けて、ゆっくりと揺らし始めた。
「ん~~ん~・・・ん~・・・イツキ?眠くない?眠くはないみたいね、イツキは本当に大人しいのね、もっとワガママいったり困らせても大丈夫なのよ?母さんはイツキがこれがしたいよ~とかおなかすいたよ~って泣いて知らせてくれても平気なんだからね?」
母の言葉は分かるのだが、泣いて知らせるべきことが特にないのだから仕方がない。
空腹を感じる前にはきちんと授乳させるし、下の世話もほとんど問題がない。
「ん~チュッ。ふふ、本当にイツキは良い子ね、お母さんや叔母さんに聞いた話とは全然違うから別の意味で母さん戸惑っちゃうわ。でも本当に可愛い、食べちゃいたいくらいに・・・ん~チュッ」
不意打ちのキスに少し驚いたけれど、母の深い愛情を感じる。
そして自分は母の愛情を感じて思う。
一度目に生まれた時もそうだったのだろうかと。いや、そうだったのだろうかではない、何不自由なく暮らしていたのだからそうだったのだろう。なら自分が最後にした行為は、母や父に対して酷い裏切りだったのではないだろうかと。
ただあの子供を見捨て、生き延び続けたとしてどうなったというんだ。子供を救った息子を誇りに思ってくれなんて言わない、親より先に死ぬ親不孝者だと罵ってくれて構わない。
自分はきっとそれを知ってなお、この世界を選んでしまったと思う。
もう謝ることも出来ない両親を思い浮かべると、自然に涙がこぼれ落ちていった。
気遣わしげに頬を撫でる母を見て、自分は何を思ったのだろうか?その時の感情は自分でも理解できないのかもしれない。
まるで自分の意志とは関係なくスルリとこぼれ落ちるかのように言葉が滑り出た。
「・・・かぁ・・・さん」
それはどちらの母に向けたのだろう。・・・きっと、どちらにもだろう。
「イツキ!?今母さんって言ったの?」
驚いて、次いで満面の笑顔を浮かべる母を見て少しだけ心のざわつきが無くなった気がした。
時間の流れが緩やかだと思っていた。
自分は物心がつく前の記憶は全く覚えておらず、気がついたら動き回れていたように思う。
しかし今は二回目の人生を記憶を持ち越したまま歩んでいるのだ。
現在は生後5ヶ月。
体に負担をかけすぎない程度に体の筋肉を動かし、首がすわったのは一月ほど前、このところ足の筋肉もしっかりとしつつあり、今は這うように移動しているがそのうち歩行も可能になりそうだ。
個人的に嬉しかったこともある。それはついに離乳食へと移行してきたことである。
まだドロドロした芋をすりつぶしたスープのようなものだが、気恥ずかしさを感じずにすむのは大いに歓迎だった。
さて、魔術関係に関しては色々とやっていた。
囲い付きのベビーベッドを充てがわれ、ようやく目を離してくれるようになった日から魔術の行使を行っていた。
自分がまず行ったのが、視界、自分の目を
感覚的には幽体離脱という表現に近いが、思考などを共に飛ばせるわけではなく単純に視界だけが別の場所を映してくれるといった非常に単一的な魔術だった。
魔術の知識は未だないが、これまで休まずに行ってきた魔力の制御の成果もあって、単純な指向性を持たせる魔術の行使を可能にしていた。
この魔術はまず、自己の視界を実体より切り離し、精神体として扱い移動させるというもので、手のひらから炎をだすとか人を切り裂けるほどの風圧を持った風を起こすなど、物理的な現象を起こすより魔術に指向性をもたせるものとしては比較的簡単にできるものだった。
どうしてこれを行おうと思ったかは、魔術書を読解するためでもあった。
自由に色々な場所に視界を飛ばすことによって、例えば魔術書を貯蔵した図書館などでその書物を学ぼうとする人に視界を定めてこちらもそれを読むという目算であったが、これは失敗した。
まず、魔術書の文字自体の読解が出来ないこと。こちらの世界の文字は当たり前だが前の世界の文字とは全く違うもので初歩から学ぶならまだしも、魔術書を文字を理解しないで読み解くなど出来るはずもなかった。
そして、文字を理解したとしても難航を極める理由は単純明快で、読み手の理解とこちらの読解にずれが生じることだった。
読み手は事前知識として持っている知識を照らして文書を理解し、読み進める。
こちらは文字を追うのに必死で、理解し読み進めるということが出来ない。
例えるなら、英語が得意な人が読んでいる英文の小説を自分は英文を和訳することも必死な状態で脇から眺め、ページをめくる速度もその人が主導する中、内容を理解しろと言われるようなものだ。
この時点でこの魔術の利用価値は目に見えて下がった。
即ち、別の方法を探るべきだと思うに至っていた。