病院へ戻った真姫は、そのまま医局に向かった。車を降りる際に、太田はまず国東に挨拶に行き、それから医局へ向かうと言っていたためだ。医局のドアを開けると、太田はおらず、曽根が自分の机で仕事をしている。曽根は真姫のほうを振り向き、声をかける。
「ああ、西木野さん。送り迎えご苦労様。早速で申し訳ないのだけど、白衣に着替えたら、太田先生を北方さんに紹介してもらえるかしら。あと、当直室はしばらくの間、太田先生が使用されることになったわ」
「えっ・・・太田先生、本当に病院で寝泊まりされるんですか?」
真姫は太田の滞在期間が3週間であることを事前に聞いていた。その3週間を全て病院の当直室で過ごすというのは、当直以外に病院に宿泊した経験がなく、かつ女性である真姫にとっては信じられない話である。
曽根は真姫の疑問には応えず、彼女の驚きがさらに増幅する言葉を口にする。
「滞在中は当直も手伝ってもらえることになったわ。あと、他の手術にも立ち会ってくださるそうよ」
大病院の勤務医というのは基本的には多忙だが、ここまで仕事を詰め込む人間に真姫は会ったことがなく、真姫は太田の仕事量に呆然として言葉が出ない。それを察したのか、曽根はさらに言う。
「太田先生はそういう人なのよ。相変わらず患者さんと・・・あと、アイドルにしか興味がないの。本当に変わらない」
「相変わらず」「本当に変わらない」という曽根の言葉に真姫は内心で軽く驚いた。どうやら二人は既知の仲らしい。
「曽根先生、太田先生とはお知り合いなんですか?」
「2年前にアメリカに研修に行ったことがあって、その時にお世話になったのよ。種明かしになるけれど、貴方がスクールアイドルだったことを教えてくれたのは太田先生よ。北方さんの執刀の話をした際に、医局員全員のプロフィールに目を通してもらったの。すぐに気づいたわ」
真姫は、曽根が昨日言った「教えてくれた人」が太田であることを理解した。たしかに、μ‘sの熱烈なファンである太田であれば、西木野という珍しい姓を目にするだけで
「μ’sの西木野真姫」ではないかと見当をつけるだろう。
「そういうことだったんですか・・・それで、太田先生はどちらにいらっしゃるんですか?医局に寄られると伺っていたのですが・・・」
「ほかの先生たちに挨拶してから、当直室に荷物を置きに行ったわ。追いかけてもらえるかしら」
真姫は曽根に一礼してから、更衣室で白衣に着替え、当直室に向かった。
当直室から出てきた太田は、長身を白衣に包んでいる。着ている白衣はケーシー白衣といい、上衣は前がきっちり閉じられているため、彼が好んで着るアイドルTシャツは見えない。そんな太田と、真姫は北方マリアの病室に向かって歩いている。すでに午後4時を回っており、窓から差し込む夕焼けが病棟全体を照らしている。
太田を迎えに行く前に、真姫は午前の回診でマリアと会っていた。マリアは暴れこそしなかったものの、ヘッドホンをして頭から寝具を被り、真姫の問いかけには一切答えなかった。看護師たちにも相変わらず非協力的であるという報告も受けていた。
そんな状況を知っているからこそ、真姫は太田がマリアにどのような接し方をするのか興味があると同時に、マリアの態度に太田が匙を投げてしまわないか、という不安もあった。
「太田先生・・・彼女、ご存じとは思いますが、相当神経質になっている患者さんです。なかなか心を開いてくれなくて・・・」
マリアの状況は、すでに太田の耳に入っている。日本に来る前に、曽根から情報を仕入れていたのだ。
「心を開いてもらって、手術に前向きになってもらうことも、医者の仕事ですよ。まあ、やってみましょう」
太田は穏やかに応えた。
マリアの病室は個室だが、着替えや清拭など、女性特有の配慮が必要な場合以外は、ドアは常に開いている。これは病院のルールで、常に医療スタッフが出入りし易いようにするためだ。そのドアを太田はノックした。しかし返事はなかった。
「北方さん」
太田は呼ぶが、以前返事はない。
二人は部屋の中に入った。マリアは二人に背を向けた形でベッドに横たわっており、午前と同じように、ヘッドホンを外していない。
太田は、彼女に近づくと、そっとヘッドホンを外した。マリアは驚いた表情を見せ、ゆっくり起き上がる。動作が緩慢なのは、腫瘍の影響で運動能力が低下しているためである。ヘッドホンからは音楽が漏れ、マリアが大音量で音楽を聴いていたことが分かる。流れてきた音楽はA-RISEのものだった。
「何するのよ・・・」
「へえ、これ、A-RISEがスクールアイドルだった頃の曲じゃないか。懐かしいねえ。A-RISE、好きなの?」
太田はマリアの力ない抗議に全く動じない。
「そんなこと、どうでもいいわ・・・。誰よこの人・・・」
マリアは不機嫌な表情で真姫に問いかける。腫瘍のため、ところどころ声がかすれており、力もない。真姫は努めて冷静に応じる。
「この方は太田先生。貴方の手術を担当される方よ。貴方へご挨拶に来たの」
「太田です、よろしく」
太田はおどけた調子で挨拶したが、マリアの表情は不機嫌なままである。
「この人が私の手術をするの?そもそも私は手術なんてするつもりはないから、関係ないけど」
「太田先生はね、貴方の病気を手術するためにアメリカから来られたの。世界的に有名なお医者さんなのよ」
「そうなの?まあ、どうでもいいわ。私は手術を受ける気はないもの」
「ほう、やっぱり、手術はしたくないか」
太田は穏やかに言う。
「当たり前よ。難しい手術なんでしょ?100パーセント成功する保証なんてないでしょ?それなら、このまま消えていったほうがマシだわ。歌ったり踊ったりできなくなっても、死ぬことはないんだから」
マリアの表情は、不機嫌から諦めに変わっていった。太田は穏やかな表情のまま、ベッドサイドで長身をしゃがみ込ませ、マリアに目線を合わせる。
「君はスクールアイドルなんだよな?本当にそれでいいのか?」
「調べたの?それともあなたが教えたの?」
諦めの表情を変えないまま、マリアは真姫に問いかけた。真姫は思わず首を横に振る。
「知ってるさ。君がMADAのセンターで、日本を代表するスクールアイドルってことは。俺はオタクなんでね」
そう言うと、太田は上衣をまくり上げた。中に着ているTシャツが露になる。それは、MADAのメンバーがプリントされたもので、マリアがセンターで笑顔を浮かべているものだ。マリアの表情に、驚きと気恥ずかしさが入り混じる。
「これって・・・デビューして最初のシングルの・・・」
「また、この君に戻るつもりはないか?君の手術は確かに難しい。だから、俺が来た。君のアイドルとしての笑顔を取り戻すために俺が来た。もう一度、輝く気はないか?」
そう問いかける太田の表情は、いつしか穏やかなものから真摯なものに変わっていた。患者に対してどこまでも真っすぐに向き合う。真姫は、太田の医師としての根幹を垣間見たような気がした。そして、これまで患者に対してどこか一歩引いて接していたところのある自分を反省した。
「戻りたくないわけない・・・でも、怖いのよ。手術が怖いの。もし失敗したらって思うと、踏み出せない・・・踏み出せないのよ・・・ごめんなさい・・・」
そう語るマリアのかすれ声には、涙声が混じっていた。
「そうか・・・分かった。でも、病気をこれ以上悪化させないように、西木野先生や看護師さんたちの言うことは聞いてあげてくれないか?俺は、君の病気を治すためのもっといい方法を考えるよ」
これ以上説得するのは無理と悟ったのか、太田は優しく声をかけた。マリアは小さくうなずいた。
「どうしたら手術を受けてもらえるんでしょうね・・・」
医局のソファに腰を落ち着かせながら、真姫は言った。
「でも、本心は打ち明けてくれたんでしょう?大進歩じゃない。これで明日から、いろいろやり易くなるわね。さすが太田先生」
晴れやかな表情で言うのは、マリアと太田とのやり取りについて報告を受けた曽根である。たしかに、これまでは手術に対して拒否の一辺倒であった彼女が、本心を吐露したことは大きな進歩である。
「でも、手術を受けてもらわないことには、彼女の病気は完治しません」
対照的に、真姫の表情は晴れない。
「手術を受けてもらうんじゃなくて、受けたいと思ってもらえるようにすること、それが必要なんだよ」
デスクに腰かけて、太田が言う。さらに続ける。
「そのカギを握っているのは・・・君かもな、西木野先生、いや、μ‘sの元メンバー、西木野真姫さん」
太田は真姫を見つめた。真姫は嫌な予感を覚えた。
【あとがき】
お久しぶりです。
仕事がようやく落ち着きましたので更新しました。
激辛コメントでもぜんぜんウェルカムなので、よろしくお願いします。
余談ですが、作中に出てくる。北方マリアの所属するスクールアイドルグループ「MADA」とは、"Music And Dance Assembled"の略です。解散したどっかのアイドルグループに似てるだけでなく、ネーミングが安易すぎて今更後悔しています。
次回以降、真姫ちゃんが奔走します。また目を通して頂けたら幸いです。