読み切り、無双シリーズクロスあれこれ   作:キューブケーキ

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真・三國無双6以降の無双シリーズに登場する王元姫を恋姫世界にぶち込んだ作品。多分、加筆する。


2.王元姫、恋姫世界に行く(恋姫†無双)

LAYER:01 元姫は元気!

 

 

 

 王元姫は死んだ。

 泥と血の混じった戦場で、足を滑らせたのが最後だった。敵兵の刃が彼女の胸板を貫き、ざくりと音がした。

 

(子上殿、ごめんなさい)

 

 そのひと息で、心臓が沈黙したはずだった。なのに――

 

「は?」

 

 眼前にひれ伏す肥満体の男は、自らを神と名乗った。操作ミスだ、と神は詫びた。どうやらこの人生、そいつの指一本の操作で終わったらしい。

 

「つまり……やり直しができるのね」

『ただし、あの戦いには戻れない。敗北は確定事項だ』

 

 意味は分からなかった。だが神は饒舌だった。

『恋姫世界なら空いてる。そこでなら皇帝にもなれるぞ。記憶、容姿、名前はそのままだ。サービスでステータスも維持してやる』

 

 ステータス? 何を言っているのか分からなかったが、元姫は静かに頭を下げた。

 

「ありがたく、頂戴します」

 

 光が降った。浮遊感が訪れ、そして――再生が始まった。

 

 

 再び目を覚ましたとき、私は十歳の少女だった。

 母は優しく、父も誠実。愛情には何一つ不自由がなかった。ただ――生まれた年が違っていた。

 子上殿よりも、私の方が年上になってしまった。それが気に障った。

 だが、それよりも問題はこの世界だった。

 後漢末期。女性の地位が高く、真名とやらの制度もあるらしい。笑わせる。

 私は王元姫。名を変える気などない。

 運命はまた、戦の匂いを運んでくる。

 いずれ曹魏は興り、漢は潰えるだろう。それまで、私は黙って見ているつもりだった。

 そう思っていた。――だが、静寂は破られる。

 我が家には司馬一族との縁があった。水鏡女学院。司馬徽の学び舎に、私は入ることが決まっていた。

 滑稽な話だ。私に学ぶことなど、何も残っていない。

 けれど、そこには驚きが待っていた。

 入門初日。

 私の後輩として、諸葛亮と鳳統が現れた。いや、正確には――彼女たち。女だ。

 鳳統は目が鋭く、言葉に毒があり、だが人懐こさを隠し持っていた。

 諸葛亮は冷たい氷のようで、ただ一点、知識に触れた時だけはその目が熱を帯びた。

 二人とも、頭が切れる。まだ幼いが、あれは本物の軍師の芽だ。

 嫌でも、面倒を見ることになった。年齢が上であるというだけで、先輩としての義務を押しつけられる。

 不本意だったが、悪い気はしなかった。

 彼女たちが後に何を成すのか、私は知っている。だからこそ、鍛えておく必要がある。

 ――もし、子上殿が彼女たちのような姿で現れたなら。

 そんな妄想が脳裏をかすめたが、私はすぐにかき消した。

 今はまだ、ただの少女。

 この世界が私を何者に仕立て上げようとしているのか、それを見極めるまで、私は牙を隠しておく。

 

 

 連休明け。実家から学院へ戻る途中、路地の奥で異音を聞いた。

 

「……ん、んーっ……!」

 

 不審だ。

 足を止める。声は筵の中からだった。男が一人、その上に荒縄をかけている。

 

「大人しくしろ、暴れるな」

 

 下卑た声音。目が合った。

 男は舌打ちし、こちらを睨んできた。

 

「嬢ちゃん、運が悪かったな」

 

 そう言って、手を伸ばしてきた。

 私は即座に鏢を抜いた。

 回転させて一つ、左手に握り、右の指先で二本目を弾いた。

 一直線。金属の刃が空気を裂き、男の肩に深々と刺さる。

 

「……ッ!」

 

 叫び声が上がる前に、もう一本、足に突き立てた。

 膝を折って倒れる音が、木箱にぶつかって止まった。

 これで終わりだ。

 私は賊のうめき声を無視して、筵の縄を解いた。

 中には猿轡をかまされた金髪の少女。

 肌は焼けず、衣は絹混じり。手間のかかる巻き髪が、明らかに身分の高さを示している。

 

「大丈夫。もう平気よ」

 

 少女の瞳が潤んだ。震えたまま、私を見上げてくる。これは面倒になるな、と思った。

 

「元姫さん、でしたか。袁本初と申しますわ」

 

 詰所で調書を取っていると、彼女はそう名乗った。

 名は知っている。官渡で滅びた名門、袁家の当主――後の袁紹だ。

 

「麗羽様!」

 

 騎馬の少女が駆け込んでくる。泣きそうな顔で、無事を確かめるように彼女に抱きついた。

 

「ご迷惑をおかけしました」

 

 彼女は顔良と名乗った。名は聞いたことがある。袁家の将。勇将で、忠義に厚い。

 

「主人の命を救っていただき、何とお礼を申し上げればよいか……」

「当然のことをしたまでです」

 

 私は帰ろうとした。だが、本初様が裾を掴んで離さない。

 

「お願いです。一度だけ、屋敷にいらして下さいな。恩人に素通りされては、袁家の名折れですわ」

 

「……仕方ありませんね」

 

 私は静かに応じた。

 裾を掴む手に、力が籠もっていた。泣き顔を見せた後とは思えないしなやかな圧。

 袁本初――この少女、表層だけの貴族ではないらしい。

 

「せめて一晩だけでも。お礼を申し上げさせてくださいな」

 

 断る理由はいくらでもあった。

 歴史が繰り返すなら、袁家はやがて滅ぶ。親しくなるのは、愚だ。

 だが、指先の温度に意志を感じた。

 

「……わかりました。そちらで使いを出して下さい」

「まぁ……本当に、ありがとうございますわ」

 

 微笑は明るく、どこか子どものようだった。

 

 学院には私の親が連絡を入れたらしい。「無礼のないように」と短く書かれた手紙が宿に届いた。

 

 袁家の屋敷は広く、壁は高い。通された客間は静かで、調度は無駄がない。

 これが、名門の底力かと思った。

 

 宴席が設けられ、私の膳には魚と酒が置かれた。香りのよい、贅を尽くした料理。

 だが、気は緩めない。

 

「元姫さん。お口に合いますか?」

「ええ。過ぎたもてなしに、ただ恐縮しております」

 

 本初は笑った。隣の顔良が盃を差し出してきた。

 

「うちの者も、皆感謝しております。貴女がいなければ、どうなっていたか……」

 

 私は酒を口に含み、静かに頷いた。

 この一夜で、袁家の人間模様がいくらか見えてきた。

 礼儀に厚く、上下関係は厳しい。そして、主君には誰も逆らわない。

 ――おそらく、誰も言えないのだ。本初の未熟さに。それが、じわじわと家を腐らせる。

 私は笑わなかった。

 目の前の魚が冷めていくのを待ちながら、ひとつ、計算を終えた。

 

 

 三日目の夜。

 私は月を見上げながら、薄い夜着の袖を撫でた。廊下は冷たい。

 静かだった。騒がしいだけの歓待も、ようやく終わる。

 袁本初は若い。

 芯に何かを持っている。

 ただ、誰もそれを育てようとしないだけだ。

 それが問題だった。

 取り巻きは彼女に何も言わない。顔良でさえ、時折目を逸らす。

 女の王の顔をしていても、中身はまだ少女。

 誰かが正面から言わなければ、何も変わらない。

 ――変わる可能性が、あるのなら。私は、機会を与えるべきだと思った。

 過去の記憶に縛られて、彼女を見限るのは容易い。

 けれど、この世界は別だ。未来は未だ、白紙だ。

 私は目を閉じ、背筋を伸ばした。

 王元姫として生きる。ならば、礼を受けた者に義を返す。

 それが、この命を託された意味であるなら。

 翌朝、私は出立の支度を整えながら、本初に言った。

 

「一つだけ条件があります。私を置物として扱うなら、今すぐにお暇をいただきます」

 

 本初は目を見開き、そして頷いた。

 驚いたように見えたが、それは一瞬のことで、すぐに小さく笑った。

 

「ええ、もちろん。そのような事は……決して致しませんわ」

 

 そう言った彼女の目は、昨日よりも澄んでいた。

 

 学院に戻ると、廊下の角で待ち構えていた小さな影が三つ、四つ。

 鳳統が頬を膨らませて詰め寄り、諸葛亮は言葉こそ控えたが、袖を掴んで放そうとしなかった。

 

「寂しかったんですからね」

 

 鳳統が言った。

 

「急に戻らないなんて。講義も質問も、全部止まったんですよ」

「……すみません。少し、事情があって」

 

 私は素直に謝った。こういうところが、あの二人には通じる。

 

 学院の空気は変わらない。石畳は冷たく、講堂は静かで、風は少しずつ春を孕んでいた。

 妹弟子たちは本当に素直だ。

 不器用な手つきで点てた茶を持ってきたり、巻物を抱えて席に来たり。

 煩わしいが、嫌いではない。

 そういう日々の中で、一通の文が届いた。袁本初からだった。

 封を切ると、上質な墨と女らしい筆跡が現れた。

 季節の移ろい、春先の装い、髪油の話。

 そして、政のこと、武芸の稽古の話も混じっていた。

 文の末尾に、花の押し葉が添えられていた。

 ああ、と思った。

 この子は本当に、手を差し伸べてもらったことが少ないのだ。

 私は筆を取った。

 化粧の話には簡単に返し、政には一言助言をつけた。武芸には、稽古の構えを書いた図を添えた。

 そういう返事を書ける相手が、この時代に現れたことが、少しだけ嬉しかった。

 

 

 春が過ぎ、雨の匂いが薄れてくる頃。

 休みの日には、時折袁本初から誘いの文が届くようになった。

 茶屋での茶会。舟遊び。あるいは花街のイナゴ仮面の劇を遠くから覗くだけの日もあった。

 彼女の趣味は細やかで、どこか子供じみていた。

 それでも、私はたまに付き合った。

 妹弟子たちの稽古もある。講義も、質疑応答も。正直、毎度のように顔を出せる余裕はなかった。

 だが、たまに会う程度が、むしろ心地よかった。

 仮面を被らずに話せる相手は、この世界には少ない。

 本初は、綺麗なまっすぐな目をしていた。

 政治のことも、武芸の話も、あるいは女としての嗜みについても、奇譚なく語り合える。

 くだらない話で笑い合い、偶に互いの髪飾りを交換したりもした。

 

「元姫さん、今度はご一緒に香を練りませんこと?」

「私に似合う香りがあれば、付き合いますよ」

 

 他愛もない。だが、心が重くならない。

 過去の知識を抱えて、戦乱の行く末を知っている身でも、こうして無防備になれる時間があるとは思わなかった。

 楽しかった。嬉しかった。

 それが事実だった。

 

 

 季節は巡り、木々の緑が濃くなっていた。

 袁本初は変わり始めていた。

 以前のように衣装の流行ばかりを気にするのではなく、領内の施政に口を出すようになった。

 文には、租税の見直し、郷士の動向、村落の貢租配分まで細かく記されていた。

 最初の頃とは違う。

 言葉の端々に、実感がある。地に足のついた、己の言葉を使うようになっていた。

 驚いたのは、私が助言しなかった箇所であっても、彼女なりに試行錯誤の跡が見られることだった。

 きっと誰かが背中を押したのだろう。

 いや、違う。

 彼女はきっかけを求めていた。その一端を、私が担っただけだ。

 私は、そんな彼女の変化を見ていて、ふと気づいた。

 私自身も変わっている。

 過去の記憶に縛られて、すべてを知った顔で世界を見下ろしていた。

 だが、今は違う。

 分からないものに触れ、まだ伸びる可能性に出会うたび、胸の奥が揺れる。

 私はこの世界に生きている。

 息をして、誰かと交わり、言葉を交わし、未来に影響を及ぼしている。

 戦ばかりが人生ではない。戦に備えることすら、ほんの一部でしかない。

 本初は変わった。そして、私もまた。

 気がつけば、私はもう袁本初に肩入れしていた。

 理由は単純だった。

 彼女が変わったから。

 そして、その変わろうとする姿に、私の心が揺れたからだ。

 最初は恩義だった。

 命の礼に三日間の歓待。形式的な儀礼にすぎなかった。

 だが、あれから彼女は何度も文を寄越し、意見を求め、言葉を交わすたびにその瞳が強くなっていった。

 媚びず、誇り高く、だが脆くて危うい。

 そういう女を、私は放っておけなかった。

 歴史の知識が私の中にある。

 彼女はやがて敗れる。官渡で、曹孟徳に屈する。それが、この時代の定めだった。

 だが、そんな未来は未だ訪れていない。今の彼女は、あくまで“可能性”の器だ。

 ならば、私は賭ける。理ではなく、情に。未来ではなく、今に。

 彼女の未来が、誰かに潰されるものなら――その時は、私の手で変えればいい。

 私は、そういう女だ。

 

 

 

 その日は風が穏やかで、日差しも柔らかかった。

 袁本初と共に、小舟に乗って郊外の村へ遊びに出ていた。目的は、春の草花と市井の菓子。

 本初は機嫌が良かった。

 村の菓子屋に寄って、粉菓子を包ませ、川辺の石に腰かけていた。

「このあたりの甘味、香りが残りますのね」

 私は頷きながら、視線を遠くに向けていた。

 風に乗って、きな臭い空気が混ざってきていた。

 野焼きではない。

 それは、血の匂いだった。

 視線の先、村の入り口。

 走ってくる男の子の姿が見えた。後ろには、怒声。そして火。

 

「元姫さん……?」

 

 本初の声に応じず、私は腰を上げた。

 鏢を帯から外し、舟の下に隠してあった長巻を掴む。

 火の柱が立った。

 屋根が焼け落ちる。叫び声。斬り伏せられる音。

 官の装束を纏った男たちが、民を縛り、女を引きずっていた。

 命乞いの声が、煙のなかでかき消えていた。――これは、略奪だ。

 制服の者が、民を屠る。公を装った賊。官匪。

 本初が声を失っていた。

 肩を掴んで舟に押し戻す。

 

「戻ってください。護衛を呼び寄せ、私の言うことだけを伝えるように」

「ま、待ちなさい、元姫さん! 貴女は――」

「私は武を持つ者として、救うべきものを見た。放ってはおけない」

 

 本初の手を振り切り、私は走った。

 村の門は半ば焼け、道には血が広がっていた。

 火の粉が頬を掠める。

 この炎は、ただの火事ではない。

 これは、政治の腐臭が燃えている匂いだった。

 走る。足裏が地を打つたび、胸の奥が焼けるようだった。

 見過ごせなかった。

 正義だとか忠義だとか、そんな言葉はどうでもよかった。

 女が泣いていた。子供が引きずられていた。

 村が、焼かれていた。

 敵の村なら気持ちよく見れたが、ここは戦場ではない。

 義侠心。理由はそれだけで、十分だった。

 それは理屈じゃない。動く前に、心が火を吹いていた。

 背後で、砂利を蹴る音が聞こえた。

 振り向かなくても分かる。あれは、袁本初の足音だ。

 

「元姫さん、待って……っ!」

 

 追いついた彼女が、手を伸ばしてくる。乱れた金の巻き毛が、陽光に散って揺れた。

 その瞬間、私は――手を伸ばしかけていた。

 繋ぎかけた指先。だが、寸前で止めた。

 ここは、情を交わす場所ではない。

 背後の気配が消えなかった。

 何度か振り返ったが、彼女は引かなかった。

 炎の煙が舞い上がる中、袁本初はその小さな体で、私の後ろを一歩も離れずについてきた。

 足元は震えていた。目は怯えていた。

 それでも――逃げなかった。

 私はため息を飲み込んだ。

 彼女に剣を持たせるわけにはいかない。だが、否定することもできなかった。

 嬉しかったのだ。

 命のやり取りを前にしても、私の背に追従する者がいた。

 綺麗事じゃない。情でも、忠義でもない。

 彼女はただ、自分の目で確かめたかったのだろう。

 民が焼かれるという現実を。

 この国がどう崩れていくかという現実を。

 それを選んだ以上――私は、決めた。

 

「本初様」

 

 火の粉が風に舞った。

 彼女は立ち止まり、私の顔を見上げた。

 

「命じます。絶対に私から離れないでください。……それが、あなたを護る最短距離です」

 

 彼女は驚いたように目を瞬き、それから静かに頷いた。

 

 私は、剣を握り直した。

 誰が倒れてもいい。何を捨ててもいい。

 だが彼女だけは、絶対に死なせない。

 私は一歩進み、短く言った。

 

「離れないでください。護るには、近くにいてもらわないと困ります」

 

 本初は小さく頷いた。震えていたが、目は逸らさなかった。

 指先が、ほんの一瞬、触れ合った。

 それだけで十分だった。

 彼女もまた、逃げなかった。

 ならば私は――この戦を共にする。

 

 

 村の外れ、門をくぐる前に、私は一瞬立ち止まった。

 焼け焦げた布の臭い。

 血の鉄臭さ。その中に、もう一つの匂いがあった。

 ――違う。私は息を潜めて、その場にいた者たちを見た。

 粗雑な動き。腰の落ちていない歩き方。足並みのばらつき。

 装束こそ官憲だが、鍛えられた兵のそれではない。剣の重さに身体がついていっていない。

 戦場にいた者は、こういうのを嗅ぎ分けられる。

 ――これは、匪賊だ。官憲の皮を被った、人間の屑。

 女の髪を掴む手に、訓練の形跡はなく、

 子供の首元を踏みつける足には、規律の片鱗もない。

 武人と匪徒は、動作と臭いでわかる。

 奴らは、人ではなかった。

 己の暴力を合法と信じた、外道の成れの果てだ。

 

「……黙っていられるほど、私は悟っていない」

 

 私は呟いた。

 指先が、鏢の冷たい柄を確かめる。腰の長巻を引き抜き、踏み出す。

 袁本初が背後で何か言ったが、もう聞こえていなかった。

 炎の中へ歩み出す。

 剣を抜く理由は、とうに決まっている。

踏み込んだ瞬間、土の焦げる臭いが鼻を突いた。

 民家は焼かれ、柱は崩れ、地面には血と灰が広がっていた。

 女が一人、地に伏していた。肩口が裂けている。

 声を上げる間もなく、誰かの足がその上にのしかかろうとしていた。

 私は動いた。

 鏢を抜いて放る。

 投げる、ではない。狙って、殺す。

 金属の刃が空を裂き、男の首筋に深々と突き立った。

 

「ぐ……っ!」

 

 悲鳴も出せずに膝を折る。血が吹き上がった。

 構う暇はない。私は地を蹴って次の影へ躍りかかる。

 腰を浅く構えた敵が一人。右手で長巻の柄を握り、真っ直ぐ踏み込む。

 刀身が唸った。

 一閃。敵の喉が、紙のように裂ける。

 兵ではない。刃を向けた時の、あの反応の鈍さ。

 生死の境に慣れていない。やはり、ただの賊だ。

 それも、質の低い。

 背後で袁本初が息を呑む音が聞こえた。

 私は短く振り返り、指を一本、口元に立てる。

 

「声を出さないで。居場所が割れる」

 

 彼女は頷いた。小さく、震えて。その震えが、怒りに火をつけた。

 この娘を、こんな風に怯えさせるものを――

 私は、絶対に見逃さない。

 長巻を逆手に構え直し、次の敵影を追う。

 刃が、また火のなかを走った。

 血が混ざり、地面は泥のようにぬかるんでいた。

 私は、その上を迷わず踏みつけて進んだ。

 賊徒が三人。

 左から回り込もうとした男の動きを見切って、鏢を二本。

 喉と肘を貫いて倒す。

 残りの二人は、一瞬足を止めた。その一拍の隙を逃さず、踏み込む。

 長巻の柄を握り直し、横薙ぎに払う。

 刃が骨に当たる感触を確かに感じながら、もう一歩進み、最後の一人の腹に叩き込んだ。

 鋼が肉を裂き、空気が破れる。

 息を吐いた瞬間、視線を感じた。振り返らなくても分かっていた。

 袁本初が、私を見ていた。

 その目は熱かった。怯えていない。私の戦いを、まっすぐに見ていた。

 剣を抜いて血を浴びながら、私は不思議と心が澄んでいた。

 あの目があったから、私は乱れなかった。あの視線が背中にあったから、私は強くいられた。

 戦いとは、技と理由だ。信じるもののために、誰のために刃を振るうか。この一戦は、私のものではない。

 彼女がいてくれたから、私は勝てた。

 だからこそ、私はこの命を賭けるに足ると知った。

 戦は、終わっていた。

 炎は消え、死者は倒れ、生者は震えていた。

 私は刃を拭い、鏢を回収しながら、無言で歩いた。

 その足を止めたのは、老婆の手だった。血のついた袖を握り、彼女は頭を垂れた。

 

「……ありがとうございました。どうか、お名前だけでも……」

 

 私は首を横に振った。

 名乗るほどのことではない。だが、彼女の手の温もりは、確かに胸に残った。

 次々と村人が集まり、泣きながら礼を言った。

 その声は、遠い雨音のようだった。

 そして、不意に。

 後ろから、温かなものに包まれた。袁本初だった。

 震える手で、私の背を抱いていた。

 女としての弱さも、強がりも全部捨てて、ただ私を抱きしめていた。

 

「怖かった……でも、貴女がいたから……」

 

 彼女の声が、首筋に触れた。

 震えが移ってきた。けれど、私は立っていた。

 戦いの昂ぶりが、静かに抜けていく。身体の芯が冷えていく感覚。

 だが、胸の奥だけは、妙にあたたかかった。

 私は何も言わなかった。

 ただそのまま、彼女の腕の中にいた。

 優しさだった。友情だった。

 そしてそれを、心からありがたいと思った。

 私は一人で戦ったわけじゃない。

 あの視線が、声が、手があったから、私は最後まで立っていられた。

 そう思えたことが、何よりも救いだった。

 

 

 数日後、褒章の沙汰が届いた。

 官匪を討ち、村を救った功により、勅命で金三十両と絹三疋を賜るという。

 身に余る扱いだった。だが、文面を見てすぐに分かった。

 これは――袁家からの働きかけだ。

 火急の事態とはいえ、私の動きは私的なものだった。

 褒賞が出るのは、政を持つ者が声を上げたからだ。

 本初の顔が浮かぶ。

 恐らく、彼女は自分で言い出したわけではない。

 顔良か、文若か、誰かに促されて、迷いながら筆を執ったのだろう。

 恩が、また一つ増えた。

 私は苦笑した。

 恩を返すのが好きな性分ではない。だが、彼女には――何かしてあげたいと思った。

 褒章の巻物を机に置き、文机に向かって筆を取る。

 季節の花を添えた短文に、小さな贈り物を添えて送るつもりだった。香の調合瓶でもいい。あるいは、絹の手巾に小さな刺繍でも。

 形は何でもよかった。想いを返したかった。

 ……きっと、彼女も同じだろうと思った。

 あの夜、私を抱きしめたあの手。炎の前で、逃げなかったあの瞳。

 私たちはもう、単なる知り合いではない。

 信頼と敬意と、わずかな照れくささの混じった、複雑で柔らかな距離。

 そう――私たちは、友人なのだ。

 その言葉を思うと、胸が少しだけ熱を帯びた。

 

 

 春の終わり、午後の日差しは柔らかく、葉の陰が地面に揺れていた。

 袁本初と私は、木陰に並んで座っていた。

 言葉はなかった。

 風が吹き、枝葉が鳴る音だけが、静かに耳を満たしていた。

 ふと、彼女が手を伸ばしてきた。

 私は、拒まなかった。そのまま、指を絡める。

 手のひらは小さく、少しだけ汗ばんでいた。けれど温かかった。確かだった。

 その温もりが、心の芯に届いていた。

 一緒にいるだけで、充分だった。

 言葉はいらない。理由もいらなかった。

 こうして隣り合って、同じ光を見ているだけで――私は、生きていて良かったと思えた。

 このひと月、私たちは何度も顔を合わせた。

 笑いを交わし、時には意見をぶつけ合った。

 彼女は未熟で、感情的で、だがどこまでも誠実だった。

 だからこそ、自然と決まっていた。

 袁家に身を置く。それは打算ではなかった。

 選び取ったのでもない。ただ、ここにいることが当然になっていた。

 仕官という言葉を持ち出す前に、私の心はもう、この家にあった。

 本初は、指を絡めたまま、こちらを見た。

 目が合う。何も言わずに、笑った。

 その笑顔に、私は何も言わず、ただ少しだけ力を込めて、指を握り返した。

 

 

 家臣となる以上、距離は保たねばならない。

 それが私の理屈だった。

 友として、情を通わせるのは許されても、主と臣の関係に入れば、それはもう義務に変わる。

 礼を崩せば、私自身が彼女の足を引く。

 だから私は、覚悟していた。

 今日を境に、呼吸を整え、言葉を選び、表情すら制御しようと。

 だが――

 

「元姫さん、これからはずっと一緒ですわね」

 

 そう言った彼女は、まるで小娘のように笑って、何の躊躇もなく私の腕に絡みついてきた。

 驚く暇もなく、距離がゼロになった。

 密着した肌、細い指、柔らかな頬が肩に触れる。礼儀も節度もあったものではなかった。

 だが、不思議と怒る気にはなれなかった。

 ああ――そうか。

 この娘は、線など引いていないのだ。それが、彼女の強さであり、怖さでもある。

 私は視線を落とした。彼女の金の巻き髪が風に揺れていた。

 こういう無防備な仕草が、いちばん人の心に触れる。

 彼女はそれを、意図せずやってのける。

 可愛らしいと思った。好ましいと思った。

 この人を守ろうと思ったのは、きっと正しかった。

 そう思えるだけで、今日は充分だった。

 

 

 形式に則り、書面を交わし、主従の礼をとる。

 それだけで、一つの関係が定まった。

 そのあと、挨拶回りが始まった。文若、顔良、そして奉孝。

 重臣たちは一様に私を歓迎し、好意的な眼差しを向けてくれた。

 

「よく来てくれました、王元姫殿」

「麗羽様が変わられたのは、貴女のおかげと皆が申しております」

 

 そんな言葉を、何度も耳にした。変わった、か。

 私は横目で本初を見た。

 今日の彼女は緊張していたが、凛としていた。

 挨拶も、命令も、少しずつだが自分の言葉で語っている。

 あれが、変わったというのなら、それを私の手柄だと呼ぶのなら。過分だ。

 だが、悪い気はしなかった。

 誰かが変わる過程に、寄り添えたという事実は、否定できなかった。

 私は英雄でも導師でもない。

 けれど、傍にいて言葉を掛けるくらいのことは、たしかにしてきた。

 それが彼女を動かしたのなら、それはただ友人だからだ。

 その言葉だけが、周囲の賞賛よりも心に残った。

 

 

 出仕してからの私は、日々、実務に追われていた。

 政務の帳簿、郷吏からの報告、農政に関する陳情。

 だが、最も重きを置いたのは――治安維持だった。

 領内には、未だ官を騙る賊がいた。徴税を装い、里を焼き、女を攫う。

 その影は遠くに潜んでいても、常に民の暮らしを蝕んでいた。

 私は、討伐を続けた。

 出陣の報を聞くたび、兵を募り、自ら前線に立った。

 剣を振るうことに、躊躇はなかった。

 民が道で眠れず、幼子が空腹で泣くなら、それは戦を選ぶ理由としては充分だった。

 兵たちは私の命に従った。かつての名声が、役に立ったのだろう。

 だが、信を得たのは――剣を抜いてからだった。

 一太刀で敵を伏せ、無駄なく退路を断ち、民の一人すら傷つけずに戦を終える。

 その積み重ねが、彼らの目を変えた。

 私は、民政の机に向かいながらも、刃を忘れなかった。

 書と剣の両方を携え、ただ静かに責務を果たす。

 この地に暮らす者が、明日も平穏でいられるように。その当たり前のために、私は武をとっていた。

 匪賊の討伐は、誉れではない。けれど、それは確かに大切な務めだった。

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