LAYER:01 元姫は元気!
王元姫は死んだ。
泥と血の混じった戦場で、足を滑らせたのが最後だった。敵兵の刃が彼女の胸板を貫き、ざくりと音がした。
(子上殿、ごめんなさい)
そのひと息で、心臓が沈黙したはずだった。なのに――
「は?」
眼前にひれ伏す肥満体の男は、自らを神と名乗った。操作ミスだ、と神は詫びた。どうやらこの人生、そいつの指一本の操作で終わったらしい。
「つまり……やり直しができるのね」
『ただし、あの戦いには戻れない。敗北は確定事項だ』
意味は分からなかった。だが神は饒舌だった。
『恋姫世界なら空いてる。そこでなら皇帝にもなれるぞ。記憶、容姿、名前はそのままだ。サービスでステータスも維持してやる』
ステータス? 何を言っているのか分からなかったが、元姫は静かに頭を下げた。
「ありがたく、頂戴します」
光が降った。浮遊感が訪れ、そして――再生が始まった。
再び目を覚ましたとき、私は十歳の少女だった。
母は優しく、父も誠実。愛情には何一つ不自由がなかった。ただ――生まれた年が違っていた。
子上殿よりも、私の方が年上になってしまった。それが気に障った。
だが、それよりも問題はこの世界だった。
後漢末期。女性の地位が高く、真名とやらの制度もあるらしい。笑わせる。
私は王元姫。名を変える気などない。
運命はまた、戦の匂いを運んでくる。
いずれ曹魏は興り、漢は潰えるだろう。それまで、私は黙って見ているつもりだった。
そう思っていた。――だが、静寂は破られる。
我が家には司馬一族との縁があった。水鏡女学院。司馬徽の学び舎に、私は入ることが決まっていた。
滑稽な話だ。私に学ぶことなど、何も残っていない。
けれど、そこには驚きが待っていた。
入門初日。
私の後輩として、諸葛亮と鳳統が現れた。いや、正確には――彼女たち。女だ。
鳳統は目が鋭く、言葉に毒があり、だが人懐こさを隠し持っていた。
諸葛亮は冷たい氷のようで、ただ一点、知識に触れた時だけはその目が熱を帯びた。
二人とも、頭が切れる。まだ幼いが、あれは本物の軍師の芽だ。
嫌でも、面倒を見ることになった。年齢が上であるというだけで、先輩としての義務を押しつけられる。
不本意だったが、悪い気はしなかった。
彼女たちが後に何を成すのか、私は知っている。だからこそ、鍛えておく必要がある。
――もし、子上殿が彼女たちのような姿で現れたなら。
そんな妄想が脳裏をかすめたが、私はすぐにかき消した。
今はまだ、ただの少女。
この世界が私を何者に仕立て上げようとしているのか、それを見極めるまで、私は牙を隠しておく。
連休明け。実家から学院へ戻る途中、路地の奥で異音を聞いた。
「……ん、んーっ……!」
不審だ。
足を止める。声は筵の中からだった。男が一人、その上に荒縄をかけている。
「大人しくしろ、暴れるな」
下卑た声音。目が合った。
男は舌打ちし、こちらを睨んできた。
「嬢ちゃん、運が悪かったな」
そう言って、手を伸ばしてきた。
私は即座に鏢を抜いた。
回転させて一つ、左手に握り、右の指先で二本目を弾いた。
一直線。金属の刃が空気を裂き、男の肩に深々と刺さる。
「……ッ!」
叫び声が上がる前に、もう一本、足に突き立てた。
膝を折って倒れる音が、木箱にぶつかって止まった。
これで終わりだ。
私は賊のうめき声を無視して、筵の縄を解いた。
中には猿轡をかまされた金髪の少女。
肌は焼けず、衣は絹混じり。手間のかかる巻き髪が、明らかに身分の高さを示している。
「大丈夫。もう平気よ」
少女の瞳が潤んだ。震えたまま、私を見上げてくる。これは面倒になるな、と思った。
「元姫さん、でしたか。袁本初と申しますわ」
詰所で調書を取っていると、彼女はそう名乗った。
名は知っている。官渡で滅びた名門、袁家の当主――後の袁紹だ。
「麗羽様!」
騎馬の少女が駆け込んでくる。泣きそうな顔で、無事を確かめるように彼女に抱きついた。
「ご迷惑をおかけしました」
彼女は顔良と名乗った。名は聞いたことがある。袁家の将。勇将で、忠義に厚い。
「主人の命を救っていただき、何とお礼を申し上げればよいか……」
「当然のことをしたまでです」
私は帰ろうとした。だが、本初様が裾を掴んで離さない。
「お願いです。一度だけ、屋敷にいらして下さいな。恩人に素通りされては、袁家の名折れですわ」
「……仕方ありませんね」
私は静かに応じた。
裾を掴む手に、力が籠もっていた。泣き顔を見せた後とは思えないしなやかな圧。
袁本初――この少女、表層だけの貴族ではないらしい。
「せめて一晩だけでも。お礼を申し上げさせてくださいな」
断る理由はいくらでもあった。
歴史が繰り返すなら、袁家はやがて滅ぶ。親しくなるのは、愚だ。
だが、指先の温度に意志を感じた。
「……わかりました。そちらで使いを出して下さい」
「まぁ……本当に、ありがとうございますわ」
微笑は明るく、どこか子どものようだった。
学院には私の親が連絡を入れたらしい。「無礼のないように」と短く書かれた手紙が宿に届いた。
袁家の屋敷は広く、壁は高い。通された客間は静かで、調度は無駄がない。
これが、名門の底力かと思った。
宴席が設けられ、私の膳には魚と酒が置かれた。香りのよい、贅を尽くした料理。
だが、気は緩めない。
「元姫さん。お口に合いますか?」
「ええ。過ぎたもてなしに、ただ恐縮しております」
本初は笑った。隣の顔良が盃を差し出してきた。
「うちの者も、皆感謝しております。貴女がいなければ、どうなっていたか……」
私は酒を口に含み、静かに頷いた。
この一夜で、袁家の人間模様がいくらか見えてきた。
礼儀に厚く、上下関係は厳しい。そして、主君には誰も逆らわない。
――おそらく、誰も言えないのだ。本初の未熟さに。それが、じわじわと家を腐らせる。
私は笑わなかった。
目の前の魚が冷めていくのを待ちながら、ひとつ、計算を終えた。
三日目の夜。
私は月を見上げながら、薄い夜着の袖を撫でた。廊下は冷たい。
静かだった。騒がしいだけの歓待も、ようやく終わる。
袁本初は若い。
芯に何かを持っている。
ただ、誰もそれを育てようとしないだけだ。
それが問題だった。
取り巻きは彼女に何も言わない。顔良でさえ、時折目を逸らす。
女の王の顔をしていても、中身はまだ少女。
誰かが正面から言わなければ、何も変わらない。
――変わる可能性が、あるのなら。私は、機会を与えるべきだと思った。
過去の記憶に縛られて、彼女を見限るのは容易い。
けれど、この世界は別だ。未来は未だ、白紙だ。
私は目を閉じ、背筋を伸ばした。
王元姫として生きる。ならば、礼を受けた者に義を返す。
それが、この命を託された意味であるなら。
翌朝、私は出立の支度を整えながら、本初に言った。
「一つだけ条件があります。私を置物として扱うなら、今すぐにお暇をいただきます」
本初は目を見開き、そして頷いた。
驚いたように見えたが、それは一瞬のことで、すぐに小さく笑った。
「ええ、もちろん。そのような事は……決して致しませんわ」
そう言った彼女の目は、昨日よりも澄んでいた。
学院に戻ると、廊下の角で待ち構えていた小さな影が三つ、四つ。
鳳統が頬を膨らませて詰め寄り、諸葛亮は言葉こそ控えたが、袖を掴んで放そうとしなかった。
「寂しかったんですからね」
鳳統が言った。
「急に戻らないなんて。講義も質問も、全部止まったんですよ」
「……すみません。少し、事情があって」
私は素直に謝った。こういうところが、あの二人には通じる。
学院の空気は変わらない。石畳は冷たく、講堂は静かで、風は少しずつ春を孕んでいた。
妹弟子たちは本当に素直だ。
不器用な手つきで点てた茶を持ってきたり、巻物を抱えて席に来たり。
煩わしいが、嫌いではない。
そういう日々の中で、一通の文が届いた。袁本初からだった。
封を切ると、上質な墨と女らしい筆跡が現れた。
季節の移ろい、春先の装い、髪油の話。
そして、政のこと、武芸の稽古の話も混じっていた。
文の末尾に、花の押し葉が添えられていた。
ああ、と思った。
この子は本当に、手を差し伸べてもらったことが少ないのだ。
私は筆を取った。
化粧の話には簡単に返し、政には一言助言をつけた。武芸には、稽古の構えを書いた図を添えた。
そういう返事を書ける相手が、この時代に現れたことが、少しだけ嬉しかった。
春が過ぎ、雨の匂いが薄れてくる頃。
休みの日には、時折袁本初から誘いの文が届くようになった。
茶屋での茶会。舟遊び。あるいは花街のイナゴ仮面の劇を遠くから覗くだけの日もあった。
彼女の趣味は細やかで、どこか子供じみていた。
それでも、私はたまに付き合った。
妹弟子たちの稽古もある。講義も、質疑応答も。正直、毎度のように顔を出せる余裕はなかった。
だが、たまに会う程度が、むしろ心地よかった。
仮面を被らずに話せる相手は、この世界には少ない。
本初は、綺麗なまっすぐな目をしていた。
政治のことも、武芸の話も、あるいは女としての嗜みについても、奇譚なく語り合える。
くだらない話で笑い合い、偶に互いの髪飾りを交換したりもした。
「元姫さん、今度はご一緒に香を練りませんこと?」
「私に似合う香りがあれば、付き合いますよ」
他愛もない。だが、心が重くならない。
過去の知識を抱えて、戦乱の行く末を知っている身でも、こうして無防備になれる時間があるとは思わなかった。
楽しかった。嬉しかった。
それが事実だった。
季節は巡り、木々の緑が濃くなっていた。
袁本初は変わり始めていた。
以前のように衣装の流行ばかりを気にするのではなく、領内の施政に口を出すようになった。
文には、租税の見直し、郷士の動向、村落の貢租配分まで細かく記されていた。
最初の頃とは違う。
言葉の端々に、実感がある。地に足のついた、己の言葉を使うようになっていた。
驚いたのは、私が助言しなかった箇所であっても、彼女なりに試行錯誤の跡が見られることだった。
きっと誰かが背中を押したのだろう。
いや、違う。
彼女はきっかけを求めていた。その一端を、私が担っただけだ。
私は、そんな彼女の変化を見ていて、ふと気づいた。
私自身も変わっている。
過去の記憶に縛られて、すべてを知った顔で世界を見下ろしていた。
だが、今は違う。
分からないものに触れ、まだ伸びる可能性に出会うたび、胸の奥が揺れる。
私はこの世界に生きている。
息をして、誰かと交わり、言葉を交わし、未来に影響を及ぼしている。
戦ばかりが人生ではない。戦に備えることすら、ほんの一部でしかない。
本初は変わった。そして、私もまた。
気がつけば、私はもう袁本初に肩入れしていた。
理由は単純だった。
彼女が変わったから。
そして、その変わろうとする姿に、私の心が揺れたからだ。
最初は恩義だった。
命の礼に三日間の歓待。形式的な儀礼にすぎなかった。
だが、あれから彼女は何度も文を寄越し、意見を求め、言葉を交わすたびにその瞳が強くなっていった。
媚びず、誇り高く、だが脆くて危うい。
そういう女を、私は放っておけなかった。
歴史の知識が私の中にある。
彼女はやがて敗れる。官渡で、曹孟徳に屈する。それが、この時代の定めだった。
だが、そんな未来は未だ訪れていない。今の彼女は、あくまで“可能性”の器だ。
ならば、私は賭ける。理ではなく、情に。未来ではなく、今に。
彼女の未来が、誰かに潰されるものなら――その時は、私の手で変えればいい。
私は、そういう女だ。
その日は風が穏やかで、日差しも柔らかかった。
袁本初と共に、小舟に乗って郊外の村へ遊びに出ていた。目的は、春の草花と市井の菓子。
本初は機嫌が良かった。
村の菓子屋に寄って、粉菓子を包ませ、川辺の石に腰かけていた。
「このあたりの甘味、香りが残りますのね」
私は頷きながら、視線を遠くに向けていた。
風に乗って、きな臭い空気が混ざってきていた。
野焼きではない。
それは、血の匂いだった。
視線の先、村の入り口。
走ってくる男の子の姿が見えた。後ろには、怒声。そして火。
「元姫さん……?」
本初の声に応じず、私は腰を上げた。
鏢を帯から外し、舟の下に隠してあった長巻を掴む。
火の柱が立った。
屋根が焼け落ちる。叫び声。斬り伏せられる音。
官の装束を纏った男たちが、民を縛り、女を引きずっていた。
命乞いの声が、煙のなかでかき消えていた。――これは、略奪だ。
制服の者が、民を屠る。公を装った賊。官匪。
本初が声を失っていた。
肩を掴んで舟に押し戻す。
「戻ってください。護衛を呼び寄せ、私の言うことだけを伝えるように」
「ま、待ちなさい、元姫さん! 貴女は――」
「私は武を持つ者として、救うべきものを見た。放ってはおけない」
本初の手を振り切り、私は走った。
村の門は半ば焼け、道には血が広がっていた。
火の粉が頬を掠める。
この炎は、ただの火事ではない。
これは、政治の腐臭が燃えている匂いだった。
走る。足裏が地を打つたび、胸の奥が焼けるようだった。
見過ごせなかった。
正義だとか忠義だとか、そんな言葉はどうでもよかった。
女が泣いていた。子供が引きずられていた。
村が、焼かれていた。
敵の村なら気持ちよく見れたが、ここは戦場ではない。
義侠心。理由はそれだけで、十分だった。
それは理屈じゃない。動く前に、心が火を吹いていた。
背後で、砂利を蹴る音が聞こえた。
振り向かなくても分かる。あれは、袁本初の足音だ。
「元姫さん、待って……っ!」
追いついた彼女が、手を伸ばしてくる。乱れた金の巻き毛が、陽光に散って揺れた。
その瞬間、私は――手を伸ばしかけていた。
繋ぎかけた指先。だが、寸前で止めた。
ここは、情を交わす場所ではない。
背後の気配が消えなかった。
何度か振り返ったが、彼女は引かなかった。
炎の煙が舞い上がる中、袁本初はその小さな体で、私の後ろを一歩も離れずについてきた。
足元は震えていた。目は怯えていた。
それでも――逃げなかった。
私はため息を飲み込んだ。
彼女に剣を持たせるわけにはいかない。だが、否定することもできなかった。
嬉しかったのだ。
命のやり取りを前にしても、私の背に追従する者がいた。
綺麗事じゃない。情でも、忠義でもない。
彼女はただ、自分の目で確かめたかったのだろう。
民が焼かれるという現実を。
この国がどう崩れていくかという現実を。
それを選んだ以上――私は、決めた。
「本初様」
火の粉が風に舞った。
彼女は立ち止まり、私の顔を見上げた。
「命じます。絶対に私から離れないでください。……それが、あなたを護る最短距離です」
彼女は驚いたように目を瞬き、それから静かに頷いた。
私は、剣を握り直した。
誰が倒れてもいい。何を捨ててもいい。
だが彼女だけは、絶対に死なせない。
私は一歩進み、短く言った。
「離れないでください。護るには、近くにいてもらわないと困ります」
本初は小さく頷いた。震えていたが、目は逸らさなかった。
指先が、ほんの一瞬、触れ合った。
それだけで十分だった。
彼女もまた、逃げなかった。
ならば私は――この戦を共にする。
村の外れ、門をくぐる前に、私は一瞬立ち止まった。
焼け焦げた布の臭い。
血の鉄臭さ。その中に、もう一つの匂いがあった。
――違う。私は息を潜めて、その場にいた者たちを見た。
粗雑な動き。腰の落ちていない歩き方。足並みのばらつき。
装束こそ官憲だが、鍛えられた兵のそれではない。剣の重さに身体がついていっていない。
戦場にいた者は、こういうのを嗅ぎ分けられる。
――これは、匪賊だ。官憲の皮を被った、人間の屑。
女の髪を掴む手に、訓練の形跡はなく、
子供の首元を踏みつける足には、規律の片鱗もない。
武人と匪徒は、動作と臭いでわかる。
奴らは、人ではなかった。
己の暴力を合法と信じた、外道の成れの果てだ。
「……黙っていられるほど、私は悟っていない」
私は呟いた。
指先が、鏢の冷たい柄を確かめる。腰の長巻を引き抜き、踏み出す。
袁本初が背後で何か言ったが、もう聞こえていなかった。
炎の中へ歩み出す。
剣を抜く理由は、とうに決まっている。
踏み込んだ瞬間、土の焦げる臭いが鼻を突いた。
民家は焼かれ、柱は崩れ、地面には血と灰が広がっていた。
女が一人、地に伏していた。肩口が裂けている。
声を上げる間もなく、誰かの足がその上にのしかかろうとしていた。
私は動いた。
鏢を抜いて放る。
投げる、ではない。狙って、殺す。
金属の刃が空を裂き、男の首筋に深々と突き立った。
「ぐ……っ!」
悲鳴も出せずに膝を折る。血が吹き上がった。
構う暇はない。私は地を蹴って次の影へ躍りかかる。
腰を浅く構えた敵が一人。右手で長巻の柄を握り、真っ直ぐ踏み込む。
刀身が唸った。
一閃。敵の喉が、紙のように裂ける。
兵ではない。刃を向けた時の、あの反応の鈍さ。
生死の境に慣れていない。やはり、ただの賊だ。
それも、質の低い。
背後で袁本初が息を呑む音が聞こえた。
私は短く振り返り、指を一本、口元に立てる。
「声を出さないで。居場所が割れる」
彼女は頷いた。小さく、震えて。その震えが、怒りに火をつけた。
この娘を、こんな風に怯えさせるものを――
私は、絶対に見逃さない。
長巻を逆手に構え直し、次の敵影を追う。
刃が、また火のなかを走った。
血が混ざり、地面は泥のようにぬかるんでいた。
私は、その上を迷わず踏みつけて進んだ。
賊徒が三人。
左から回り込もうとした男の動きを見切って、鏢を二本。
喉と肘を貫いて倒す。
残りの二人は、一瞬足を止めた。その一拍の隙を逃さず、踏み込む。
長巻の柄を握り直し、横薙ぎに払う。
刃が骨に当たる感触を確かに感じながら、もう一歩進み、最後の一人の腹に叩き込んだ。
鋼が肉を裂き、空気が破れる。
息を吐いた瞬間、視線を感じた。振り返らなくても分かっていた。
袁本初が、私を見ていた。
その目は熱かった。怯えていない。私の戦いを、まっすぐに見ていた。
剣を抜いて血を浴びながら、私は不思議と心が澄んでいた。
あの目があったから、私は乱れなかった。あの視線が背中にあったから、私は強くいられた。
戦いとは、技と理由だ。信じるもののために、誰のために刃を振るうか。この一戦は、私のものではない。
彼女がいてくれたから、私は勝てた。
だからこそ、私はこの命を賭けるに足ると知った。
戦は、終わっていた。
炎は消え、死者は倒れ、生者は震えていた。
私は刃を拭い、鏢を回収しながら、無言で歩いた。
その足を止めたのは、老婆の手だった。血のついた袖を握り、彼女は頭を垂れた。
「……ありがとうございました。どうか、お名前だけでも……」
私は首を横に振った。
名乗るほどのことではない。だが、彼女の手の温もりは、確かに胸に残った。
次々と村人が集まり、泣きながら礼を言った。
その声は、遠い雨音のようだった。
そして、不意に。
後ろから、温かなものに包まれた。袁本初だった。
震える手で、私の背を抱いていた。
女としての弱さも、強がりも全部捨てて、ただ私を抱きしめていた。
「怖かった……でも、貴女がいたから……」
彼女の声が、首筋に触れた。
震えが移ってきた。けれど、私は立っていた。
戦いの昂ぶりが、静かに抜けていく。身体の芯が冷えていく感覚。
だが、胸の奥だけは、妙にあたたかかった。
私は何も言わなかった。
ただそのまま、彼女の腕の中にいた。
優しさだった。友情だった。
そしてそれを、心からありがたいと思った。
私は一人で戦ったわけじゃない。
あの視線が、声が、手があったから、私は最後まで立っていられた。
そう思えたことが、何よりも救いだった。
数日後、褒章の沙汰が届いた。
官匪を討ち、村を救った功により、勅命で金三十両と絹三疋を賜るという。
身に余る扱いだった。だが、文面を見てすぐに分かった。
これは――袁家からの働きかけだ。
火急の事態とはいえ、私の動きは私的なものだった。
褒賞が出るのは、政を持つ者が声を上げたからだ。
本初の顔が浮かぶ。
恐らく、彼女は自分で言い出したわけではない。
顔良か、文若か、誰かに促されて、迷いながら筆を執ったのだろう。
恩が、また一つ増えた。
私は苦笑した。
恩を返すのが好きな性分ではない。だが、彼女には――何かしてあげたいと思った。
褒章の巻物を机に置き、文机に向かって筆を取る。
季節の花を添えた短文に、小さな贈り物を添えて送るつもりだった。香の調合瓶でもいい。あるいは、絹の手巾に小さな刺繍でも。
形は何でもよかった。想いを返したかった。
……きっと、彼女も同じだろうと思った。
あの夜、私を抱きしめたあの手。炎の前で、逃げなかったあの瞳。
私たちはもう、単なる知り合いではない。
信頼と敬意と、わずかな照れくささの混じった、複雑で柔らかな距離。
そう――私たちは、友人なのだ。
その言葉を思うと、胸が少しだけ熱を帯びた。
春の終わり、午後の日差しは柔らかく、葉の陰が地面に揺れていた。
袁本初と私は、木陰に並んで座っていた。
言葉はなかった。
風が吹き、枝葉が鳴る音だけが、静かに耳を満たしていた。
ふと、彼女が手を伸ばしてきた。
私は、拒まなかった。そのまま、指を絡める。
手のひらは小さく、少しだけ汗ばんでいた。けれど温かかった。確かだった。
その温もりが、心の芯に届いていた。
一緒にいるだけで、充分だった。
言葉はいらない。理由もいらなかった。
こうして隣り合って、同じ光を見ているだけで――私は、生きていて良かったと思えた。
このひと月、私たちは何度も顔を合わせた。
笑いを交わし、時には意見をぶつけ合った。
彼女は未熟で、感情的で、だがどこまでも誠実だった。
だからこそ、自然と決まっていた。
袁家に身を置く。それは打算ではなかった。
選び取ったのでもない。ただ、ここにいることが当然になっていた。
仕官という言葉を持ち出す前に、私の心はもう、この家にあった。
本初は、指を絡めたまま、こちらを見た。
目が合う。何も言わずに、笑った。
その笑顔に、私は何も言わず、ただ少しだけ力を込めて、指を握り返した。
家臣となる以上、距離は保たねばならない。
それが私の理屈だった。
友として、情を通わせるのは許されても、主と臣の関係に入れば、それはもう義務に変わる。
礼を崩せば、私自身が彼女の足を引く。
だから私は、覚悟していた。
今日を境に、呼吸を整え、言葉を選び、表情すら制御しようと。
だが――
「元姫さん、これからはずっと一緒ですわね」
そう言った彼女は、まるで小娘のように笑って、何の躊躇もなく私の腕に絡みついてきた。
驚く暇もなく、距離がゼロになった。
密着した肌、細い指、柔らかな頬が肩に触れる。礼儀も節度もあったものではなかった。
だが、不思議と怒る気にはなれなかった。
ああ――そうか。
この娘は、線など引いていないのだ。それが、彼女の強さであり、怖さでもある。
私は視線を落とした。彼女の金の巻き髪が風に揺れていた。
こういう無防備な仕草が、いちばん人の心に触れる。
彼女はそれを、意図せずやってのける。
可愛らしいと思った。好ましいと思った。
この人を守ろうと思ったのは、きっと正しかった。
そう思えるだけで、今日は充分だった。
形式に則り、書面を交わし、主従の礼をとる。
それだけで、一つの関係が定まった。
そのあと、挨拶回りが始まった。文若、顔良、そして奉孝。
重臣たちは一様に私を歓迎し、好意的な眼差しを向けてくれた。
「よく来てくれました、王元姫殿」
「麗羽様が変わられたのは、貴女のおかげと皆が申しております」
そんな言葉を、何度も耳にした。変わった、か。
私は横目で本初を見た。
今日の彼女は緊張していたが、凛としていた。
挨拶も、命令も、少しずつだが自分の言葉で語っている。
あれが、変わったというのなら、それを私の手柄だと呼ぶのなら。過分だ。
だが、悪い気はしなかった。
誰かが変わる過程に、寄り添えたという事実は、否定できなかった。
私は英雄でも導師でもない。
けれど、傍にいて言葉を掛けるくらいのことは、たしかにしてきた。
それが彼女を動かしたのなら、それはただ友人だからだ。
その言葉だけが、周囲の賞賛よりも心に残った。
出仕してからの私は、日々、実務に追われていた。
政務の帳簿、郷吏からの報告、農政に関する陳情。
だが、最も重きを置いたのは――治安維持だった。
領内には、未だ官を騙る賊がいた。徴税を装い、里を焼き、女を攫う。
その影は遠くに潜んでいても、常に民の暮らしを蝕んでいた。
私は、討伐を続けた。
出陣の報を聞くたび、兵を募り、自ら前線に立った。
剣を振るうことに、躊躇はなかった。
民が道で眠れず、幼子が空腹で泣くなら、それは戦を選ぶ理由としては充分だった。
兵たちは私の命に従った。かつての名声が、役に立ったのだろう。
だが、信を得たのは――剣を抜いてからだった。
一太刀で敵を伏せ、無駄なく退路を断ち、民の一人すら傷つけずに戦を終える。
その積み重ねが、彼らの目を変えた。
私は、民政の机に向かいながらも、刃を忘れなかった。
書と剣の両方を携え、ただ静かに責務を果たす。
この地に暮らす者が、明日も平穏でいられるように。その当たり前のために、私は武をとっていた。
匪賊の討伐は、誉れではない。けれど、それは確かに大切な務めだった。