「は・・・・はあ・・・・はっ・・・・・!」
逃げる、逃げる。
夕暮れに染まる街を、小さな手を握り締めて少女は走る。
鳴り響くノイズ警報。
小学生の自分より年下な男の子を連れての逃亡。
「・・・・ッ」
「うぅ・・・・おかーさぁん・・・・」
怖い。
油断すれば、この子を置いて逃げてしまいそうで。
(――――ダメッ!)
絶対にダメだと、首を振り回す。
だって、決めたんだ。
春先、お友達のお姉ちゃんと一緒に助けてくれた。
あの人みたいに、かっこよくなりたいって。
「だいじょーぶ、こわくない」
「おねーちゃん?」
手を握る。
思い出せ。
あのお姉ちゃんは、こんな怖くてたまらない時にだって笑っていられる。
すごい人なんだから・・・・!
「――――ぁ」
涙をボロボロ零す男の子。
見れば、こっちをじぃっと見つめるノイズの群れ。
引き返そうにも、道をふさぐように別の群れが降ってきた。
前もノイズ、後ろもノイズ。
わき道は見えず、逃げ場はない。
どう見ても十以上はいるノイズ達。
飛び掛られれば、一溜まりもないだろう。
(――――やっぱり、無理だったのかな)
しがみついてくる男の子を抱き返して、少女は思う。
あの姿に憧れたのは、願いすぎだったかと。
子供の身に余る大願だったのかと。
「・・・・ぁ・・・・・ゃ、だ・・・・!」
とうとう我慢の限界を迎えた恐怖が、溢れそうになって、
「そーぅは問屋が下し金ーッ」
降り立った何かに、強引に地面に伏せられる。
頭上を通り過ぎるノイズ達を、呆然と見送るしか出来ない。
立ち上がったその人は、見覚えのある刃物を右腕の鎧から出す。
腕を振るえばノイズが裂けた。
足を突き刺せばノイズが吹き飛んだ。
恐怖でしかない連中をやっつける姿は、あの時見たのと全く同じ。
「ん、いっちょあがり」
あっと言う間にノイズを倒してしまったその人は、こちらに歩み寄って。
「よく頑張った」
温かい手のひらを、頭に乗せて来る。
「生きるのを諦めなかったね、えらいよ」
そして。
いつかと同じように、笑いかけてくれた。
◆ ◆ ◆
気付けば、日本に戻ってから二ヶ月もの時が流れている。
朝身支度をしていた際、ふとカレンダーを見て驚いたものだ。
たかが二ヶ月、されど二ヶ月。
少なくとも一般的な女子高生が体験するには、濃密過ぎる出来事ばかりだった。
「未来!ちょっとこっち!」
「へっ?」
放課後。
ホームルームが終わるなり、弓美に手を引っ張られた。
「どうしたの?」
「いや、見てほしいものがあってさ」
人のいないところに連れ込むなりスマホを操作した弓美は、画面を見せ付けた。
「ほらこれ、響じゃない?」
未来も聞いたことのある大型掲示板。
『【変身ヒロイン】例の少女に出会った件について【実在した?】』というタイトルで、こちらに背を向ける響の写真が上げられていた。
「昨日話題になってたの。こういうのってすぐに削除されちゃうから、スクショ間に合ってよかったよ」
「そう、なんだ」
画像の中の書き込みには。
先日ノイズに襲われたとき、響が来てくれて助かったこと。
不安な中に駆けつけてくれて、本当にありがたかったことが書かれていた。
「・・・・ふふ」
もう一度日の目を見ることが難しかっただろうあの子が、賞賛を受けている。
そのことが何だか誇らしくて、笑みがこぼれた。
「今日も二課行くんでしょ?褒めてあげなよ」
「うん」
画像を見せてくれた弓美にありがとうを告げてから、学校内にある二課の入り口に向かう。
――――今、響は二課でお世話になっている。
少し前の騒ぎが原因で、半ば軟禁状態になってしまっているが。
出動などで外出自体はちょくちょくしているらしい。
・・・・当然その度に、ガングニールは響の体を蝕んでいく。
だが、響はそれで構わないと笑っていた。
本来なら、あのまま襤褸の様に擦り切れ、朽ち果てていたのだからと。
死に体の分際からすれば、十分すぎるハッピーエンドだと。
それに冤罪から始まったとは言え、この身は罪人だ。
幾十、幾百もの人間を屠り、屍を踏みつけてきた咎人だ。
だからこれでいい。
そう言ってどこか照れくさそうに、それでいて嬉しそうに笑った。
未来だって、その辺は一応理解している。
翼は今まで二課の方に出ずっぱりだったお陰で、表の仕事が滞り始めてしまっていて。
そこへ、響が叩き込んだダメージである。
もちろん人類守護も大切だが、だからといって歌姫の役目を疎かにするわけにもいかない。
そんなある種の『責任』を負う為にも、戦わないという選択肢は取れなかった。
しかし、いい加減に荒事から離れて欲しいというのもまた、未来の本音に違いない。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
すれ違う職員と何度か挨拶を交わしながら、廊下を進む。
足は自然と、休憩スペースに向いていた。
自販機横のソファ。
背もたれに背中を預けて、気を抜いている姿が見えた。
「響」
「未来」
こちらを見つけると嬉しそうにはにかんで。
未来もまた、笑顔が浮かぶ。
二課のものとはまた違うカッターシャツとズボン。
どこか野生的だった以前と比べて、パリっとした雰囲気になっている。
未来が通うたびにこの格好なのだが、響曰く『自分なりの正装』らしい。
オフのときはもっと別の格好なんだろうなと思いつつ、その姿を未だ見られていないのがちょっと悔しい。
「小日向、来ていたのか」
「翼さん」
飲み物片手におしゃべりでもなんて考えているところへ、翼がやってきた。
「お仕事まだ残ってるんじゃあ?」
「顔を出しに来ただけだ、お前が気にかかってな」
首をかしげる響へ、にやりと笑いかけて、
「つい最近まで野犬だったのだしな、誰かに噛み付きでもしたら大変だ」
「ぬ、ぐ・・・・!」
さすがに冗談だろうが、図星だったために言葉が詰まってしまう響。
その顔は、まさに悔しそうに歯を見せていた。
「はは、冗談さ。抜けた穴を埋めてもらえて助かっているよ」
「わわわっ」
大らかに笑いながら翼は響の頭を撫で回した。
髪をくしゃくしゃにされた響は、手ぐしで手早く整えつつはにかむ。
嬉しいのだろう。
気を張らなくていいことが、いざと言うときに刈り取らなくていいことが。
浮かべた笑顔は信頼の証。
自分の命も、未来の命も脅かされないという環境は、確かに響の助けになっていた。
翼も加えた三人で、近況報告なんかの世間話をする傍ら。
未来は生き生きと話す響を、感慨深く見守っている。
――――謂れのない罪を着せられて、ほの暗い道を歩かざるを得なかった響が。
こうやって何気ない笑顔を浮かべて、他愛ない話で盛り上がる。
もはや叶わないと思っていた願いが、こうやって実現する日が来るなんて。
未来はおろか、響だって想像もつかなかっただろう。
誰かを傷つけた分、自分を呪い続けていた響。
身も心も限界以上にぼろぼろになって、それでもなお立ち止まることを許されなかったこの子が。
やっと至れた安息の地がここだ。
全てを疑う必要も、どこかへ逃げる身構えも必要ない場所。
十分、十分だ。
響はもう、十分すぎるくらいに苦しんだ。
悪質な善意に、醜悪な欲望に。
苛まれ、脅かされ、蝕まれて。
もういいだろう。
そろそろ休ませてくれたっていいだろう。
もちろん、いつかは立ち上がって進まないといけないのは分かっている。
立ち止まる怠け者に容赦しないのがこの世界だ。
だけど、だからこそ。
一秒だけでも、なんなら一瞬だけでもいい。
このあたたかい時間を、穏やかな日常を。
(ねえ神様、どうかお願い)
嗚呼、願わくば。
この誰もが持ちえる当たり前の時間で、響がずっと笑っていられますように。
ここにフラグがあるじゃろ?←