重い。今までこんなにも重い引き戸はあっただろうか。 今朝、あんな夢を見たから茜ちゃんと会うのが気不味い。どうしようかこうしようかと思案していると、
「ゆかりさーん、なーにやってるんやあ。」
背後から茜ちゃんの声。
「ひぃっ、あ、あ、あ…。いや、その、なんでもないです。」
あまりの不意打ちに心拍は高鳴り、気が動転しそうになった。
「んー。まあ、なんか悩み事があるんやったら言ってや。後輩やけどなんでも聞くで。」
茜ちゃんは不思議そうにしながらも私の事を気遣ってくれているようだ。
茜ちゃんはいい娘だなぁ―――。
夢の中では茜ちゃんと呼べていたので現実でも呼べるだろうかと思ったが、その結果が先の「あ」の連発である。このままではいつまで経っても名前で呼ぶのは夢のまた夢 。溜め息をつきつつ、部活動の場として使っている空き教室に入る。引き戸をピシャリと閉めたとき、私に天啓の様に妙案が閃いた。
そうだ、茜ちゃん自身にこの悩みを相談したらいいんだ――。
冷静に考えればおかしい考えのはずだが、茜ちゃんともっと近づきたいという焦りが私の背中を押した。
「あ、あ、あか…。あの、悩み事があるんです。聞いて貰ってもいい・・・ですか。」
と私は茜ちゃんの了解を得るべく問いかける。すると、
「ええで、ゆかりさん。うちが聞くって言うたしな。」
快く了解してくれた。よし、ここまでは上々。しかし、この後の奇妙な悩み事相談の内容を受け入れてくれるだろうか。
「あ、あの…ですね。悩み事というのは、琴葉さんを名前で呼びたいんですけど、その、なんというか、恥ずかしくて、呼べないという…。」
琴葉さんと呼んだ時には少しムッとした顔をしたが、私が言葉を言い終えたときにはちょっと嬉しそうだった。しかし、ちょっと嬉しそうな顔はすぐに悩みの表情となった。
あぁ、コロコロ表情変わる茜ちゃん可愛い――。
そんなことを私が思っているとも知らない茜ちゃんは本気で悩んでいるようだ。悩ませてしまったのは少々気が引けるけど、悩んでいる顔も可愛らしい。そんな顔を観察していると、
「あっ、そうや。お互いに交互に名前呼び合えばいけるんちゃう。私がゆかりさーんって言ったらゆかりさんは茜ちゃーんって言うんや。」
なんだこの茜ちゃん。いきなりすごい難易度のことを言ってくれる。
「はい、いくでー。」
しかも、容赦がない。
「ゆかりさーん。」
満面の笑みを携えた呼びかけに卒倒しそうになるも、私はそれに耐え答える。
「あ、あか、あ、あ…」
駄目だ、急になんて無理だ。本人を目の前にしているなら尚更に厳しいものである。
「ダメやでゆかりさん。諦めたらあかん。せーの、ゆかーりさーん。」
まずい、茜ちゃんは鬼コーチの気質があるようだ。こんな拷問のような呼び合いがしばらく続いた後、
「あ、あ、あかね…ちゃん…。」
言えた。鬼コーチの指導の賜物である。ただ、物凄く疲れた。今までにないぐらいの精神的疲労をもってしても途切れ途切れにしか名前を呼ぶことができなかったが、
「おぉー。ゆかりさん言えたやん。途切れ途切れやけど、これで一歩前進やな。」
茜ちゃんは誉めてくれた。年下なのに何という包容力。
茜ちゃんは天使ではなく女神だったか―――。
なんてことを思っているともう下校時刻。今日も私の書いている小説は一文字も進まなかったが、それ以上の進展があったので良しとしておこう。良くないけど。
「あ、そうや。ゆかりさん、今日なゆかりさんと行きたいとこあるんや。一緒に来てくれんかな。」
ほ、放課後デート…。マズい、ただでさえ一緒にいるだけで緊張するのに放課後デートなんて…。これ以上の心労は精神に異常をきたす可能性があるが茜ちゃんからの放課後デートのお誘い、断れるはずもなく。
「もちろん、逝きますとも。」
私は耐えることができるのだろうか…。