ふたりの恋愛前線【完結】   作:Kohya S.

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 梅雨が明けるのとほぼ同時に学院は夏休みに入り、曜と会うこともぐっと少なくなった。とはいえ部活の練習が朝からある日、週に一度ほどは体育着の彼女と一緒になり、僕はそのときが楽しみだった。

 

 毎日、内浦の海と天気図とを眺めた甲斐(かい)があったのか、僕は気象予報の原稿をときどき任されるようになった。まだ先輩予報士の確認は絶対だったけれど。

 

 八月に入ったある日の午後、僕は会社を出た。

 夏らしいむわっとした熱気が体を包む。潮の香りも朝より強かった。それでも都内にくらべれば涼しく感じるのは海がすぐ近くにあるおかげだろう。

 

 目的地はすぐ近くなので県道沿いを歩き始める。免許は持っていたものの社用車は他の社員が使っていた。

 ただ内浦にある公共交通機関はバスくらいで、車がないとやはり不便だ。今日は近いからいいものの、そのうち自分の車を買うべきかもしれない。

 

 数分ほどで内浦の漁協に着く。漁協は会社の重要な顧客のひとつで社員が定期的に訪問していた。

 

 僕は担当者にこれからの水温や潮流、波高、風向に風速などの予測――僕ではなく会社が予測したものだが――それに台風情報などを伝えて、簡単な質問に答えた。漁協ではこれらを操業計画の材料に使うことになる。

 顧客のところで話をするのは僕は好きだった。というのも、自分たちの予報が実際に使われている現場を見る、よい機会だからだ。

 

 漁協を出た僕はすぐ近くのコンビニに入った。アイスコーヒーを買う。

 そのまま会社に戻ってもよかったのだが、気分転換も兼ねて少しあたりを歩くことにした。ビジネスカジュアルでネクタイはしていないとはいえ、吹き出てくる汗でシャツが体にまとわりついた。

 

 まあ、たまには暑さを実感しないと予報にも真実味が出ないからな、と思う。

 

 右手に海を見ながら百メートルほどいくと遊覧船の桟橋(さんばし)があり、その先は小さな海水浴場になっていた。

 

 そこで泳いでいるのは十人にも満たず、こじんまりした入江はまるでプライベートビーチのようだった。湘南あたりの海水浴場の芋を洗う混雑にくらべると、なんと贅沢なことだろう。

 桟橋のたもとからそれを見て、僕は素直にうらやましいと思った。

 

 海水浴客のなかには数人の女の子の姿も見えた。ひとりは競泳用の水着を着けている。もしかして。

 僕はもっとよく見ようと歩道を進んだ。

 

 水にぬれたアッシュブロンドの髪。いつもスカート越しに見ていたすらりとした脚。やはり曜だ。

 

 曜は波打ち際で、茶色の髪にオレンジのワンピースの子と、黒髪をうしろでまとめたビキニ姿の子、三人で遊んでいた。

 三人とも可愛かったが、曜の健康的な美しさは特に僕の目をひいた。

 

 そして、曜のぴったりとした水着が明らかにする体のライン。彼女の胸は制服や体育着の印象からは意外なほどに豊かだった。ウエストは水泳のおかげかきゅっと締まり、そこからお尻にかけて優美な曲線を(えが)いていた。

 脚はよく見るとしっかりと筋肉が付いていることがわかる。ただそれは武骨さではなくむしろしなやかさを感じさせた。

 

 曜の可愛らしさ――いや、美しさに、僕はどのくらいそうしていただろうか。曜がふたりから離れてこちらへ走ってきた。

 

「あ、田嶋さん、こんにちは」

 

 途中で僕に気づいて立ち止まり、微笑む。

 

「こんにちは、曜さん」

 

 いつもよりずっと大人びて見えた彼女に、つっかえそうになりながら僕はなんとか答えた。

 

「今日もお仕事ですか?」

「うん、ちょうどいまお客さんのところ……漁協に行ってきたんだ」

「へー、漁協かあ。暑いなか、お疲れさまであります」

 

 曜はそういいながら敬礼してみせた。いつも通りの曜に僕はほっとして、()いていた右手でつい敬礼を返した。

 

「本職の責務であります」

 

 曜は口に手を当ててぷっと吹き出した。僕もつられて笑った。

 

「ねえねえ、どうかしたの?」

 

 いつの間にか曜の背後にワンピースの女の子が立ち、不思議そうに首をかしげていた。

 

「あ、千歌ちゃん。このまえ話した気象予報士の人だよ。田嶋さん」

 

 曜は振り向いていった。なるほど、この子が高見千歌か。

 

「あ、高見千歌です。よろしくお願いします」

「田嶋です、よろしく」

 

 ぺこっと頭を下げた彼女に、僕も応じた。

 

「あそこから飛び込むから、見ててね。私、飛び込み得意なんだ」

 

 曜はウインクをしてから走り出した。

 

「あーっ、待って。わたしもー」

 

 すぐに千歌もあとを追う。

 

 曜は桟橋の端まで一気に駆けていくと、ぽーんと大きく踏み切った。

 

 次の瞬間、僕は息をのんだ。

 

 曜は空中高く飛び上がり、膝を抱えるようにして丸くなった。くるくると二回、後ろ向きに回転すると、すっと体を伸ばして指先から吸い込まれるように海面へ消えた。しぶきは思いのほか小さかった。

 すべてがほんの一瞬だった。

 

 水泳競技に詳しくない僕でもすごさは感じられた。曜のそれは、本当に(たく)みな技だけが見せる美しさを持っていた。

 水泳部で飛び込みをやっているという話は聞いていたが、ここまでとは思っていなかった。

 

「とうっ!」

 

 続けて千歌がごく普通に飛び込み、盛大な水しぶきを上げて、僕は我に返った。

 

 ふたりが海面に出てきたのはほぼ同時だった。そのまま残るひとりのところまで泳いでいく。

 

 曜が海面から伸び上がり僕に向けて手を振った。僕も手を振り返した。

 

 そろそろ戻らないとまずいだろう。僕は来た道をゆっくりと歩き始めた。

 

 会社に向けて歩きながら、思いは曜から離れなかった。芸術的ともいえる飛び込み。競泳用水着がよく似合う、均整の取れた肢体(したい)。そして飾らない笑顔。

 嬉しかったのは曜が友達に見せていた笑顔と、僕に向けるそれとが同じことだった。きっと彼女が僕に心を許してくれている、ということだろう。

 

 ――いや、本当にそうだろうか。

 もしかしたら僕に向ける笑顔は違う色彩を帯びているのではないだろうか。それは友人に見せるものではなくて、もっと限られた――。

 

 そこまで考えて、すとんと僕の心のなかでなにかが落ち着いた。

 

 僕は曜のことが好きだ。そしてそれは単なる好意ではなくて、恋なのだ。曜の笑顔のなかに、なんとかして違う意味を見い出してしまうような――。

 

 彼女のことを女性として意識したのは今日なのかもしれないが、僕の恋はずっと前に始まっていたのだ。

 

 思い出してコーヒーを飲むと、それはすっかりぬるくなっていた。

 

        ・

 

 それからというもの曜のことを思い出す機会はぐっと増えた。ときには夢に出てきて、一緒に内浦の海を泳いだり天気図を書いたりしているのだった。

 次に曜に会ったとき果たして今まで通りに接することができるのか、僕は少し不安だった。

 

 その機会が来たのは夏休みも(なか)ばを過ぎたころだった。

 

 その日、防波堤のたもとから、突端(とったん)で気持ちよさそうに目を閉じる曜を見て――僕ははっとした。曜は夏休み中ずっと目にしていた体育着ではなく制服姿だった。彼女は高校生、それも一年生だった。

 

 自分が高校生のころ、いわゆる社会人がどう見えたか思い出す。まるで別の世界の住人のようだった。

 

 僕の心にぶわっと一陣のつむじ風が吹き抜けて、高揚を吹き飛ばしていった。

 

 曜のところに着いたときには意外なほど平静に話すことができた。

 

「今日は制服なんだね」

「うん、登校日なんだ」

「ああ、そういうのあったかも。すっかり忘れてたよ」

「もう、おじさんくさいなあ。田嶋さんだって、ついこの間まで学生だったんでしょ」

 

 やっぱり。僕の胸はずきりと痛むが、それを押し殺して笑いかけた。

 

「大学には登校日とか、ないからさ。勝手に登校する学生は、いっぱいいるけどね」

「あれっ、そうなんだ」

 

 ふたりで県道に戻って歩きはじめた。僕は曜に先日のことを話す。

 

「そういえばこの前、あそこの海水浴場で……飛び込み、すごかったよ」

「あっ。えっと……ありがとう」

 

 曜はぱっと頬を赤く染めた。もしかすると――いや、一瞬前の僕なら誤解していたかもしれないが、たんに()められて嬉しいだけだろう。

 水着がとてもよく似合っていた、というのはやめておいた。

 

 曜はごまかすように話題を変えた。

 

「田嶋さんは漁協に行ってたんだ。でも、どんなことを話したの? 天気予報の話……なら、テレビとかで十分だよね」

「うん、そうだね。僕たちが話すのはもっと具体的なことなんだ……」

 

 僕は簡単に仕事について説明した。こういう話題ならずっと気が楽だった。

 

「……だから漁協、農協だけじゃなくて、ダイビングショップ、水族館なんかもお客さんなんだよ」

「へえーっ、意外だなあ。そんなにいろんなところで、役に立ってるんだ」

「まあね」

 

 曜といつも通りに手を振りあってから、僕は会社へ向かった。

 

        ・

 

「田嶋君は、初めてだね」

 

 その日の定例のミーティングの席で、先輩社員の言葉に僕はうなずいた。

 プロジェクターで映し出されたいくつもの図や表を前に彼は続けた。

 

「いつもよりずいぶん遅かったけど、いよいよ来そうだ」

 

 フィリピンの東で台風10号が発生していた。最新のアンサンブル予報では東日本に近づく今年最初の台風になりそうだった。ちなみにアンサンブル予報とは、条件を変えていつくかの数値予報をおこないそれらを総合する手法だ。

 

「このままだと……」

 

 カレンダーと進路予想図を交互に見ていう。

 

「週末から常駐かな。ふたりで交代になるから頼むよ」

「わかりました」

 

 支社の社員は、支社長に先輩の社員、事務担当の女性、僕の四人だけだった(気象予報士は先輩社員と僕のふたりだ)。

 社員が少ないので、ふだん夜勤はおこなっていなかったが――夜間の注意報、警報などは本社から発報(はっぽう)されている――台風のように特別な場合は別だった。

 去年までは支社長が出ていたそうだが、今年は僕に役目が回って来たらしい。

 

 曜に会えなくなるな。僕は残念に思った。

 

 金曜日の朝、アパートを出ると、雨こそ降っていないものの空はすっかり雲に(おお)われていた。風はまだそれほどでもないが湿り気を帯びていて生暖かかった。

 今日は昼過ぎにいったん帰宅して仮眠を取り、夜遅くから夜勤の予定だった。僕は曜に会えるといいが、と思いながら県道へ向けて歩いた。

 

 曜は先に来ていて、防波堤の先端から海を眺めていた。南東からの風に彼女の髪が揺れる。半袖にジャージの体育着姿で、美しい脚が見えないのをちらっと残念に思った。

 

「おはよう、曜さん」

「おはヨーソロー!」

 

 挨拶を交わしてから曜の隣に立つ。

 内浦の海は黒く、西から大きなうねりが次々と押し寄せてきていた。いつもの穏やかなようすとは異なり、なにか底知れぬ力を感じさせた。

 

「台風、近づいてるね」海を見つめたまま曜がいう。「けっこう、近くまで来そうなんでしょ」

「うん、進路によっては上陸するかも」

「そっかー」

「お父さんが心配?」

「ううん。お父さんは腕もいいし……ほら、いまは天気予報もあるから、準備もできるし」

 

 曜は僕のほうを向き髪を押さえながら笑った。僕はうなずく。

 

「それでね、私……」

「ん?」

 

 首をかしげると曜はきまり悪そうにした。

 

「なんかね、わくわくするんだ。台風が来ると。特別な日、って気がして」

 

 上目遣(うわめづか)いになって続ける。

 

「いろいろ被害も出るし、本当はこんなこと、いっちゃダメだよね」

 

 秘密を打ち明けられたような気がして、僕は嬉しくなる。

 

「実をいうと、僕もそうだよ」

 

 それは本心だった。誰しも覚えるだろう子供のころの高揚感は、僕の場合は大人になっても続いていた。資格を取って台風について詳しくなっても、それが急に変わるわけでもない。

 共犯者めいた笑みを浮かべると曜はほっとしたように力を抜いた。

 

 僕はいう。

 

「そう思えるようになったのは、きっと気象予報が当たるようになって……被害が少なくて済むようになったからだと思うんだ。だとすると、やりがいがあるよね」

 

 僕の言葉に曜ははっとしたようだった。

 

「そっか、そうだよね」と曜。

「ただ、この仕事をしてると、わくわくしてる場合じゃないけどね」

 

 僕が苦笑すると曜は、あははっと笑った。

 

 県道に戻って歩きながら、僕はしばらく夜勤になることを話した。

 

「お客さんから問い合わせとか、あるかもしれないからね」

「なるほど、お(つと)め、ご苦労さまであります」

 

 曜の敬礼に僕は手を振って否定する。

 

「まあ、基本、いつもと同じ仕事をしてるだけだから」

 

 曜はじっと足元を見つめ、やがてなにか思いついたように顔を上げた。かすかに頬が赤い。

 

「あのっ。よかったら連絡先、教えてもらえませんか。ほら、台風のこととか、私もなにか、聞きたくなるかもしれないし」

 

 僕はどきりとして息をのんだ。それをためらいと取ったのだろうか、曜はあわてて続けた。

 

「そ、その、もちろん、邪魔しないようにします。返事は、暇なときだけで……」

「うん、かまわないよ。お父さんのこととか、気になるよね」

「は、はい」

 

 話の流れとはいえ思わぬ幸運に、はずむ心をおさえながら僕は冷静さを(よそお)って曜と連絡先を交換した。

 

「ありがとうごさいます」

 

 曜は自分のスマートフォンを胸に抱きしめた。曜の口元が緩んでいるのは気のせいだろうか。

 

 もしかしたら曜も僕のことを――そう思いたくなるが、もし万が一、そんなことがあったとしても、きっと曜の「好き」はたんなる憧れのようなものだろう。それこそ兄に向けるような。

 

 いつの間にか曜と別れる交差点まで来ていた。

 

「それじゃ、これから風が強くなるから、気をつけて」

「田嶋さんも」

 

 曜は微笑むと軽い足取りで駆けていった。

 

        ・

 

 それから三日間は夜勤になった。

 曜からは何通かメールが届いた。ごうごうと吹く風が建物全体を大きく揺らす中、ひとりでいる僕の孤独感を、そのメールは(いや )してくれた。

 幸い台風は東に()れて、伊豆半島の南をかすめて日本の東海上に抜けた。内浦でも被害は出なかった。

 

 八月の終わりごろ僕は車――中古の軽――を買った。会社の借り上げのため僕には関係ないとはいえ、アパートの駐車場が無料だったことには驚いた。都内では家賃の数割は取られるものだ。

 

 九月になり曜と会う機会は元通りになった。

 曜はあいかわらず元気でまぶしいようだった。夏休み中にすこし日焼けしたかもしれない。

 

「あちゃー、やっぱり焼けちゃったか。気をつけてたんだけどなあ」

 

 僕がそういうと曜は頭を抱えた。僕には魅力が増したようにしか思えなかったけれど。

 

 連絡先を交換したとはいえ、曜からはほとんどメールも電話も来なかった。僕もあえて連絡を取ることはしなかった。

 

 九月の半ば、まだまだ暑い日だった。午後遅く、僕は顧客のひとつである西浦(内浦より少し伊豆半島の先端に近い集落だ)の農協の支所へ向かった。会社からは3キロほどの距離で、僕は社用車を借りた。

 支所に着いたあたりから雲行きはすでに怪しく、遠くから雷の低い音が聞こえていた。そして用件を済ませたときには降り出してきた。

 

 予報では降水確率はあまり高くなかったのだが――念のため折り畳み傘をお持ちください、という感じだ――思ったよりも寒気が南側まで入ってきたのだろう。

 

 岬を回りトンネルを抜けるころには滝のような雨になっていた。ときおり稲光(いなびかり)が輝き、ごろごろと雷鳴が響く。

 僕はワイパーを最高速にしてライトを()け、慎重に運転していった。

 

 内浦に入り会社まであと少しというところで、右側のとある建物の軒先に見慣れた制服のふたり連れが見えた。

 通過してから右折し、裏道をぐるっとまわって建物の脇まで出る。

 

 そこは観光案内所だった。

 大きく張り出した屋根の下にいたふたりは、僕の思った通り曜と千歌だった。曜は腕組みをして空を見つめ、千歌は頭にハンカチを乗せている。

 

「曜さん、高海さん!」

 

 僕は車を止めて窓を開け、雨に負けないように呼びかけた。

 

「あっ、田嶋さん!」

 

 曜がぱっと顔をほころばせた。

 

「これから帰るところでしょ?」

 

 僕の問いにうなずくふたり。

 

「よかったら送るよ!」

 

 ふたりは顔を見あわせてうなずきあうと、車めがけて走ってきた。うしろのドアを開けてまず千歌が、続いて曜が乗り込んだ。

 

「はあっ、地獄に仏だよー」

 

 大げさにいいながらハンカチで頭をふく千歌。あまり役に立っているようには見えなかったけれど。

 

「すみません、田嶋さん」

 

 曜は座席のあいだから身を乗り出した。思いのほか距離が近くて僕はどきりとする。

 

 そして千歌と曜の制服の上着は一部が濡れていて、そこから下着が透けて見えていた。

 

「いや、たまたま通りがかっただけだから」

 

 あわてて目を逸らして前に向き直る。

 

 僕は車を出した。ふたりは下校途中に雨に降られたらしい。

 

「いやー、曜ちゃん天気予報も外れちゃったね」

「雷雨はちょっとした雲のできかたで、降ったり降らなかったりするからね。降る範囲も狭いし、仕方ないよ」

「あっ、聞いたことある。夕立は馬の背をわける、っていうんだよね」

「そうそう、よく知ってるね」

「えへへ」

 

 曜は褒められて嬉しいのか目を細めた。

 

「うまのせ? ってなに?」

「それはね、千歌ちゃん……」

 

 僕は曜が説明するのを微笑ましく聞いた。

 

「へーっ、なるほどね」

「それで、どこまで送ればいいのかな」

 

 千歌がうなずいたところで僕はたずねる。

 

「あっ、すぐ近くなんだ」と千歌。「トンネルを抜けて、すこし行った、右側。十千万(とちまん)っていう旅館です」

「わかった。曜さんは?」

「えっと、私は……」

 

 曜はいいよどんだ。

 

「そうだ。曜ちゃん、雨が止むまでにうちでお風呂入っていきなよ、濡れちゃったし」

「ち、千歌ちゃん、お風呂なんて、そんな……」

 

 僕がバックミラーをちらっと見ると曜と目があった。彼女の顔に朱がさしている。

 

「ええーっ、いつも一緒に入ってるじゃない。あったまるよー」

「ああ、もうっ……」

 

 千歌はあっけらかんといった。

 もう一度見ると、曜はすっかり赤くなって困ったように目をそむけた。恥ずかしいらしい。高校生の女の子の反応としては、千歌と曜、どちらが普通なのだろうか。

 

 トンネルを抜けた先で、千歌の指示で右折する。十千万は二階建て、和風の昔ながらの旅館で、この前の海水浴場の向かいだった。

 僕は玄関の正面で車を止めた。

 

「ありがとうございましたっ!」

 

 千歌はぺこっと頭を下げ、ドアを開けると玄関へ走った。

 

「あの、助かりました。あとでお礼を……」

 

 いいかけた曜を僕はさえぎる。

 

「いや、ほんとに偶然だから気にしないで。それより、早く行かないと風邪ひくよ」

「あ、あはは、そうですよね」曜はどこか吹っ切れたように笑った。「それじゃ、また」

「うん、またね」

 

 曜が千歌のところへ走っていく。

 

 ふたりは玄関の軒の下で手を振った。僕はクラクションを短く鳴らし車を出した。

 

 旅館の広い風呂に入る曜のイメージがふと脳裏にちらついて、僕はあわててハンドルを握りなおした。

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