9:崩れた日常で、人は人の暮らしを
「はいじゃあ、今日の授業はこれにて終いだ。来週にはテストがあるからな、この後遊びに行くのは俺の知ったこっちゃないが、自分の頭と要相談だぞ〜。」
あれから一ヶ月、久しぶりに行われた授業を、校内放送で流れてくるチャイムと同時に数学科の教師が締めくくる。変わらず放任主義がチラ見えするセリフをやる気のない口調で話す教師の言葉が、なんだか懐かしい。それだけに、ここ最近は心に余裕がない生活を送っていたのだと、改めて思わせられる。
「って言いながら俺をチラチラと見られるのは至極心外なんですけどぉ!?」
「いや、正確にはお前含む『卒業大丈夫かこいつらトリオ』を順番に代わる代わる見てた。」
「余計タチわりい!!」
「ていうか!それ先生が言っちゃうあかんやつでしょう!」
「おっと、失礼。口が滑ったということでこの場の全員即刻忘れるように。はい3、2、1忘れた。」
「んな簡単に忘れてたまるかぁ!」
そんな四人の変わらず可笑しな漫才を見て笑う教室も、今は席が七つほど少なくなっていた。そのせいか、その笑い声が慣れ親しんだものより少し弱い。おそらく他にもこのことに気付いた生徒はいただろう。だが、それを敢えて口にしようとする者はいない。
ほとぼりも冷めた頃合いを見て、クラス委員が号令をかける。いつもなら終わったと同時にすぐ出て行ってしまう隣人を追いかけるべく自分も急いで帰り支度を済まさなければならないところだが、今日はその必要はない。
いや、この先卒業するまでずっと必要ないのだ。
「おい
たまにはボランティアでもしようかと教室の掃除当番に声をかけようとすると、珍しく教師が話しかけてきた。よく隣人のことを我が子のように褒めるついでに自分の事を話題に上げてはいたが、こうして直に話しかけられることはあまりない。その頻度で言えば、先の仲良しトリオの方が上だ。
何事かと思った教師の話は、今日の授業で配られたプリントを休んだ隣人に届けて欲しいとのことだった。確かテストの範囲が印刷されていたものだったはずだが、彼にそのようなものは必要ないだろう。実際教師も「まあ、あいつには必要ないかもな。」とこぼしていた。けど、だからと言って公平性を欠くような真似はしたくないのが彼の心情だ。生徒目線から見てもすこぶる立派なものである。
「ねえ、それ紫君に届けるの?」
預かったプリントを眺めて少し複雑な気分に浸っていると、先の会話を聞いていたらしい
「うん…そうみたいだね。」
「どうしたの、なんかすごく嫌そうだけど?」
余程らしからなかったのだろう、不審に思われてしまったようだ。そんなことはないと慌ててかぶりを振るが、時すでに遅し完全に怪しまれてしまった。友達ってすごい。
「紫君と何かあったの?……それとも、その、別れたとか?」
後半、耳元で囁かれた文章に思わず絶叫してしまう。さらにそのせいで玲奈まで驚かせてしまった。自分の素っ頓狂な絶叫を聞いたクラスが、なんだなんだと野次馬的視線を送って来る。やたら物量の多いそれに、しかし曖昧な笑顔で何でもないことをアピール……ああこれ、絶対誤魔化せてない。
だがそれでも意図を察してくれる、素敵な人達だ。上辺だけでも、こういう時友達と呼べる人達は融通を利かせてくれるので実に助かる。皆すぐに自分が遂行していた作業に移ってくれた。
「もう、急に大声出さないでよね。」
「ごめんごめん、でもちょっと物凄ーく意外な質問をされたものだから…」
「意外?どこらへんが?」
「えぇと、誤解されてるみたいだけど私誰とも付き合ってないよ…?」
今度は玲奈が叫ぶ番。ああ、可笑しな二人組認定されてしまうかもしれない…
「
「いやだから誤解だって、紫とはそういう関係じゃないから。」
「じゃああんだけ授業中までいちゃいちゃするような異性との関係を、茜はどう説明するの?」
「え、えぇ……うーんと、相互的に利害の一致した相互お世話係?」
今度は悲鳴があがらない、だが代わりに絶句されてしまった。確かに、これまた可笑しな言い方をしてしまった自覚はある。だが、であるからと言ってそんな天変地異を目の当たりにしたような目を向けなくとも良いではないかと言いたい。
「茜って、意外と打算的なの?」
「腹黒い感じに言うのはひどいなぁ、もちろん友達だから仲良くしてたってのもあるよ?でも、元々は紫の体質のことが原因かな。」
言って少しだけ後悔、実はこのことは紫と自分とが知ることであり、前にクラスの皆に向かって公言しようとしたところを紫に「わかってもらえないし別にそれで構わない」と言われて口止めされたこともあるのだ。しかし、自分の不用意な発言で首を傾げさせてしまった責任は取らねばなるまい。観念して、要点を押さえつつも掻い摘んで説明した。
「へぇ、紫君がよく倒れるのって、病気のせいだったんだ。そういえば前に聞いたことあるかも、なんて病気だっけ?」
「ナル…なんちゃら症候群?」
「あ、思い出したナルコレプシーね。滅多にいないって思ってたけど、案外近くにいるんだ。」
あっさりと信じる玲奈の柔軟さに驚くが、確か彼女は看護師を目指していると前に語っていたはずだ、それならばこのくらいわけないのかもしれない。
「で、一人で大変な思いをしてる紫君を、茜が手伝ってあげてたんだ……もう、それならそうとみんなに言えばいいのに。」
「そう言えば、今日の玲奈随分と紫に興味があるんだね、どうかしたの?」
瞬間、誰の目からでもわかる程に玲奈がギクリとした顔を見せた。今のは脳内で「ギクッ」という効果音を付けてリプレイするのが容易なレベルでわかりやすい。
「えっと、別になんでもないよ…?その、この前助けてもらったから、お礼したいなーって思ってたくらいで、それなのに今日休みだっていうから残念だなーってちょっとだけ……」
怪しい、明らかにそれだけではない。その証拠に目が100m自由形中である、紫は自分を心理戦に全く向かないと評価したが、目の前の玲奈はそれ以下だろう。この調子ならじゃんけんだろうが顔を見れば何を出そうとしているのかも推測できそうだ。
余程訝しげな目で見ていたのだろう、居心地悪い空気を払うようにワザとらしい咳払いをすると、改まって玲奈が向き合ってきた。
「茜、そのプリントを届けるの私に任せてくれない?」
身構える間はあったが、それでも予期しなかった突然の申し出にしばし
ただ、どこかで自分の考えに疑問を抱いている部分が、彼女の発言の真意を確認せずにはいられなかった。
「いいよ、うん…大丈夫、むしろありがたいよ……でもやっぱりどうして急にそんなこと言い出すのかはやっぱり気になっちゃうな…」
それを聞くと、観念したかの様な目をした玲奈は、袖を掴んで教室から人気の薄いところに引っ張り出した。何故、そんなことをするのか。決まっている、こうでもしないと話しづらいことなのだ。それに気が付いて、後悔する。素直にプリントを渡して行かせれば良かった、でなければまた傷つく。
「まだ、あまり気持ちの整理はつけられてないんだけど……」
「……」
「私ね、紫君のこと…好きになっちゃった、のかもしれない……」
覚悟していた、だがそれでも受け止めきれなかった。どう言葉を返せばいいかわからない。言いたいのは「どうしてそうなった」なのか、それとも「やめた方がいい」なのか、「その話をするな」「へぇ、そうなんだ」「かもしれないとはなんなのか」「なっちゃっただから本当は嫌なのか」「用事があるから」「態々自分に断りを入れなくていい」「世話役は譲る」「奪うな」「相手は色恋沙汰に興味が無さそうだが大丈夫か」「やめろ」「お幸せに」「立ち入るな」「近づくな」「応援する」「嫌われてる自覚はなかったのか」「選ばれるはずがない」「既に相手がいるだろう」「見る目がある」「人の気もしらないで」「彼の痛みを知るのは自分だけだ」「軽い気持ちで寄り添えるなどと烏滸がましい」次から次へと頭に浮かぶ台詞が、どんどん昏く醜悪なものになっていく。溢れんばかりの言霊の毒を脳から排除しようとすれば、その分だけ意識が分断されて呼吸に手が回らなくなる。鼓動が痛い、息苦しい、頭が割れそう、吐き気がする、喉奥が渇く、このえも言われぬ焦燥感に似た苦しみを、或いは嫉妬というのかもしれない。だが、初めて経験するこの感情に思考が振り回されてそんなことはどうでも良かった。
「茜、大丈夫…?具合悪い?」
「う、ううん平気…」
「あまり辛かったら無理しなくても…」
「いいから…」
「養護の先生呼んでこようか?少しだけ待っててくれれば…」
「いいから、私は大丈夫だから!」
抑えきれなくなった自分の醜い部分が漏れ出す。慌ててそれを涙と共に噛み殺して、泥と化した空気ごと吞み下す。もう自己嫌悪で頭が壊れてしまいそうだ。何故、こうも自分のことを慮ってくれる友達を前にして負の感情が湧き出てくるのか。既に無いものとなった絆にいつまでも縋り付いてその先を望むのか、実に愚かしい。挙げ句の果てには不本意な形で切られた縁の当てつけを、勇気を持って真摯に打ち明けてくれた友達にするのか。
これ以上は自分の思考に耐えられなかった。呼吸が落ち着くのを待って、その後プリントを半ば強引に玲奈に押し付ける。
「ごめん、用事あってそっちに行かないとだった…紫には何も言わないで……」
最後の言葉は、
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
慣れぬ集合住宅の一室の前に立ち、小気味良い電子音を歌うインターホンを鳴らした。返事は、無い。
(留守かな……それとも、茜だと思ってるのかな。)
前者であらば出直そう。だが後者であるなら困ったことになった。何故なら、茜から聞くところによれば、この部屋の住人
留守であることの方を願いながら、茜から預かり受けたプリントにメッセージを一言書いた付箋を貼り付け、郵便受けに入れてこの場を去ることに。ここに来る段階で心臓が暴走しかけていたので、それだけ落胆は大きい。
「あれ、吉川さん?わざわざこんな所に来るなんて、どうかしたの?」
階段を降りようとした瞬間、階下からついこの間までは知識の中にしかなかった声が聞こえてきた。
「あ、紫君!丁度良かった!留守かと思ってた。」
「ごめん、少し買い物に行ってたんだ。それで、僕にどんな御用?」
嬉しさと少しの気恥ずかしさ、興奮と緊張、声を聞いた瞬間湧き上がった幸福感……そして、少しの後ろめたさ……それらをヘタな深呼吸で制御し、ここは来るまでの経緯を、茜が関わる部分を巧妙に回避して話した。
「そっか、家から遠いのにわざわざありがとう。」
「ううん、別に大した距離じゃないから……そ、そうだ、荷物持つよ。今倒れたら大変だし。」
「いいよ、
そう言って、腰に帯びた嫌に物騒な日本刀を見せてくる。確かに、今の日本は『旧時代』の頃より圧倒的に治安が悪化している。そのため、銃なら免許を取得、刀剣であれば正式な届け出を行政機関に提出すれば、それぞれ護身目的という理由の上で所持・携行を認められている。学生の場合は校則によって規制されていることが多いが、あくまで敷地内への持ち込みを禁ずるのみで、プライベートでは彼と同じようにホルスターを腰から下げたり、懐刀(珍しいケースではクナイ等)を持ち歩く者も高校生ともなれば少なくない。
だが、彼の帯刀している物は今まで見た護身刀と呼ばれる物とは比較にならない程に刃渡りが長く、シンプルながらも深い黒に塗られた鞘はそれだけで護るためではなく害意を相手にぶつけるための物だと思わせられる。
よくよく思い返せば以前彼に命を救われた時にも、同じ物を帯びていた気がする。あの時は目の前の惨状から目を背けることに必死だったので鮮明な記憶はないのだが……
「そんなに怖い物を見るような目で見ないでほしいかな、まあ確かに物騒な代物だけどさ。それよか、僕の病気のこと、吉川さんに教えたことあった?」
倒れたら大変だから荷物を代わりに持とうかと提案した時のことだ、確かに彼の患っている病気は、それが医師であれば話は変わるが、まともな会話をしたのが今回で初めてという相手が見抜くのには少々難がある。それを彼は気にしてしまったのだろう、余程今まで理解された経験が少ないらしい。
「え、えっとそのこと?……えっと、そう、あれだよ。私看護師目指してるから、色んなこと勉強しているうちに…その、前見た本に紫君と同じような症状のある人が出てきたものだから、それで、何となくそんなんじゃないかなって。」
「そうだったんだ、凄いなぁ余程勉強してるんだね。吉川さんが看護師志望だったなんて、知らなかった。」
「医学科志望の人向けの講座の募集がある度に、私手を挙げてたよ?」
「ごめん、志望じゃないからいいやっていつも気にしてなかった。」
口を尖らせる自分に、彼は悪びれを含む笑みを浮かべながら謝ってきた。こうしていると、彼が何故今まで交わりを断とうとしていたのかわからなくなるほど、実に気さくで、彼を包む雰囲気も優しく、話しやすい。対面しているだけで、どんどん彼の空気に惹きこまれるような気さえした。恐怖でいつまでも逃げ出すことができなかった自分に、苛立ちを隠すことなく叱責したあの時の彼が、なんだか幻のように感じられる。
「ああごめん、そろそろ帰らないとだよね。プリントありがとう、後で先生にもお礼言っておいて。」
「え、あ、うん……」
「……? 帰らないの?」
中で爆発でも起きたかのように、心臓が急激に鼓動を早める。何か、何か言葉を紡がなくては。
弛緩したようにもつれてしまいそうな舌を、発声の仕方を忘れたかのような声帯を奮い立たせ、よろけてしまいそうな足に力を込めて踏み止まる。言わなくては、ここで勇気を奮わなくてどうする。目の前の彼は、命の危険を理解してなお化け物が闊歩する浜に戻り、自分を見つけ出してくれたではないか。それに、付け焼き刃の愛に浮かれ見落としていた大切なものにも気づかせてくれた。今度は自分の番だ。
「……えっと、紫君。」
「何?」
間髪入れずに短い問いを発する彼に怯みそうになる自分を鼓舞する。だが、ここでは少し場所が悪い
「あの、いきなり来て図々しいかもしれないけど……部屋に入れてもらっていい?ちょっとここだと話し辛いかなって…」
「……ごめん、それは無理かな。」
自分の勇気が、一瞬崩し将棋のような音を立てて形を歪めた。だが、まだ立てている状況に必死に食らいついて食い下がる。
「ど、どうして?私が見たらマズい物とかあるの?じゃあ、私待ってるから片付けてても…」
「違うんだ、そうじゃない。君に配慮してるのもあるけど、そんな簡単なことじゃないよ。」
「えっと、じゃあその理由は?」
くしゃっと歪んだ表情、人の感情の機微にはそこまで敏感ではないが、このくらい簡単にわかる。
どこか、彼の琴線に触れてしまったのだ。
だが、それを知ってもこの瞬間、次は訪れないかもしれない状況と自分の勇気を、簡単に諦めることはできない。罪悪感に胸を痛めながらも答えを待ち、やがて腹を括ったように彼は重たい口を開いた。
「あまり、僕に長いこと関わらない方が良い。吉川さんがしたいのが立て込んだ話しであれば、それは危険だ。自殺行為だって断言してもいい。」
「どうして?ただ話しするだけだよ?」
「お願い、僕にはあまり関わらないで……僕の周りの人が消えてしまうのは御免だ。」
意味など、理解のしようがなかった。何故、上がって話すのが危険なのか、こうして話すことは危険ではないのか……ただ、愛を伝えることがどんな暗く染められた未来を呼び寄せる事態になるというのか。
「紫君、私にはなんで紫君が他の人と関わろうとしないのかわかんない……でも、少なくとも私は紫君と関わりたい!」
「後悔してからでは遅いんだ、今は理解できないかもしれない。いや、これから先ずっと理解できない。理解できるのは、君の体が骸になってこの世から去った後だ…」
「そんなことわからないでしょ!?もしかしたら後悔する前に理解できるかもしれないし、何も知らなくても後悔せずに済む道だってあるかもしれないじゃない!」
「じゃあ、僕に関わったことでもし仮に後悔するしかない未来へ向かうしかなくなったら?自己責任なんて言えたものか、君は変わり者の僕を他のみんなと一緒になって笑ってるだけでいいんだ!」
「なら連帯責任にしてよ!私は紫君をそんな見せ物みたいな扱いはしたくないの!笑われるなら一緒がいい、だって紫君のこと好きなんだもん!!」
言ってしまった
頭の中で想い描いていた理想とかなりかけ離れた形で、伝えてしまった。無論、理想と言っても茜や研二のことがある手前、ある程度の一悶着なら想定していた。だが、想像の枠を超えた場所での問答に、対処出来することが出来なかった脳は、勝ちに拘るあまりとんでも無いタイミングで手紙を叩きつけてしまった。心の込もり様も伝えられない、字面だけ飾った空虚なものだと思われるに違いない。いや飾りっ気すらあったものではないだろう、あるのはネームバリューくらいだろうか。事実、目の前の彼は無言を貫いている。当たり前だ、自分でも浅ましさに呆れて物も言えなくなる。
居た堪れなくなって、その場から逃げ出そうかと思い、まさに逃走計画を練り終わった頃。黙っていた彼は徐に口を開いた。
「部屋に入っていいよ。話をしよう。」
驚きでえも言われなかった。信じられないものを見たときと同じような心理状況で心が埋まった。そして、飛び上がりたい程の喜びが溢れた。結果オーライというやつである、不本意な過程ではあったが、ゴールは本意となったのだ。
招かれるまま部屋に入る。中は至ってシンプルで、自分の部屋と違い物がかなり少なく洗練されたイメージをもたらしてくる。それなりに整理整頓には自信があるが、物の少なさのせいかどうも自分の部屋と比べると片付いている度は圧倒的にここの方が上だ。
目ぼしい物は無さそうだとわかっていてもついつい物色してしまう自分を尻目に、紫は何故かまだ明るい時間だというのにカーテンを閉め始めた。厚手のカーテンに阻まれ、徐々に室内が陰って辛うじて見える相手の顔がやたらと強調される。
「ここに座って。」
ポフポフと音を立てて、ベッドの上に隣りあって腰掛けろと催促を受ける。だが、多感な女子高生薄暗い男の部屋で、しかもベッド上に至近距離で腰掛けることなどそう易々とできたものではない。
やっとの思いで、示された場所に彼との間を20cmほど開けて腰掛けた。愛を伝えたはいいものの、いきなり積極的なスキンシップを図る勇気などありようがない。いや、前はあった。だが研二の場合、彼に求められたのが半分、周りから囃立てられたのが少し、背伸びしようとやけになったのが残りで、今思えばあの時と比べると胸の高鳴り具合が段違いだ。
「緊張してる?」
「そ、そりゃ、もちろん……」
「研二君とは、こういうことは?」
「したこと、ないよ…実はキスもまだなんだ……」
言って意外だと笑われるのを覚悟したが、隣に座る彼はそんなことはしない。横目で感じられるのは、落胆でも呆れでもなかった。素敵なことだと思う、高校生ともなれば普通
「……ねえ吉川さん。」
「な、何?」
「今一度確認するよ……僕と添い遂げる覚悟はある?」
一度聞いた分にはかなり使い古された台詞のように聞こえるが、それを言った彼の表情には、それが甘ったるい愛の囁きでも、誓約を交わす際のものではない、本気の、嘘偽りの無い覚悟を問いただしているという真剣さが宿っていた。
「……うん、あるよ。私は紫君のことが好き。」
今度は、淀みなく正直に言えた。
「そう……じゃあこれでも?」
そう言って、彼は大きく指の細い手を頰に近づけてきた。いよいよ始まろうとしているのだと思うと、羞恥心と背徳的興奮が高まった。永遠にも感じられる程に、ゆったりと近づけられる手。触れられた瞬間に伝えられるあろう熱の感覚を思うと酷く焦ったく、我慢が出来ずに自分から手を取って掌を肌に触れさせる。
だがその刹那、突如暴発した生理的嫌悪感がそれまで頭を占めていたものを全て洗い流してしまった。
「きゃあああ!!?」
掴んだ手を無理やり頰から引き剥がし、弾かれたようにベッドから転げ落ちる。
手が、異常な程冷たかったのだ。氷水に延々付けていた直後、などという言葉では効かない程の冷たさ。まるで死人に触れられたと錯角せざるを得ないような、酷く常世離れした体温にあらざる体温。
未だに鳥肌が収まらない中見上げた紫は、さも全てを予期していたような目でこちらを見下ろしていた。
「ごめん、驚かせたよね。」
「驚くも何も……なんで…?」
「
言って紫が刀を、刀身をわずかに覗かせて目の前に掲げた。それと同時に、彼の双眸に紅い光が宿り始める。
「こう言うことだよ、僕と添い遂げるってことは……僕はもう化け物なんだ、既に死んだ身で、人間とは一線を画す醜い醜い呪われた怪物。茜には黙ってたけどね、君はしつこいから特別に教えてあげるよ。」
「そん、な……」
「第一、そもそも僕が君と恋仲になることをこの化け物の身でなくとも良しとすると思った?今まで散々人のどうしようもないコンプレックスをあげつらって大口開けて笑ってくれてさ、そんな相手に告白されて「はいじゃあ付き合いましょうか」、なんてなるとでも思った?随分と虫のいい話だね、ここまで見事な利己主義者初めて見たよ。逆に賞賛してあげようか。」
先ほどとは180°真逆に、辛辣な言葉をもって叩きつける紫。失せた先の穏やかさと優しさ、冷徹で冷酷な底抜けの無感情と心の急所を射抜く鋭くて返しの付いた口調。射すくめる血よりも鮮やかに紅い視線に晒された瞬間、周囲の気温が真冬日のように急激に低下した。凍りつくような冷気に纏わり付かれ、四肢が痙攣を起こし、それによって真面な判断能力を奪われた脳が不安と恐怖によってさらに思考を侵される。
「この状況で答えを聞き出そうとする程、僕も理性がないわけじゃない。だからもう帰りなよ、これ以上居残っても傷が深くなるばかりだ。」
有無の言いようもない、だがかと言って恐怖で咄嗟の行動を起こせない。そんな臆病者を罵るかのように、今度は予報外の強烈な風雨が窓を叩き、雷鳴が大気を震撼させた。天凪 紫という男、彼の住む部屋、それのみならず今度は世界までもが拒絶を始めたのだ。
徹底に徹底を重ねた勧告に脳が最大限の危険信号を発し、ようやく生存本能を呼び覚ました体が駆け出す。雨が降っている事も忘れ、鞄さえも部屋に放り投げたまま、恐怖に背中をど突かれるような気分を抱えて濡れたアスファルトの上を疾走する。全身がずぶ濡れになっていることに気づいたのは、学校の校門前に辿り着いてからだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「マスター…」
「何も言わないで、これでいいんだから。」
吉川玲奈が退出して、冷え切ったまま温度の上がらない部屋の真っ只中、我が主である天凪 紫は座って俯いたままその場を動こうとしない。室内の温度は10°cにも届いておらず、寒さなど全く考慮されていない春の服を身に纏った紫がこのまま何も行動しないのは、健康上非常に危険である。しかし、そんな寒さの中身震い一つしないで佇んでいられるのは、彼の失われた体温が問題なのだろう。昨日検温した際は4.2°c、部屋の空気の方が暖かく感じてしまうような体温だ。
だが、目下最優先で気にかけなくてはならない事案がある。彼の精神衛生だ。今にも押し潰されてしまいそうな絶望、悲しみ、虚無、孤独感が彼の心を蝕んでいる。このままでは、メモリーに記憶された彼の人格が二度と戻ってはこなくなる気がした。
「マスター」
「静かにしてくれる?僕のことは放っておいて…」
「いいえ、静かになんてしません。」
「……今から寝る、邪魔をしないでよ。」
「嘘ですね、そんなんで眠れるわけがないじゃないですか。」
抜け殻同然のように動かない主の頭の中は、今頃想像もつかない程の情報量が出たり消えたり、過ぎ去ったり停滞したりしていることだろう。廃品を掻き集めて構成されてはいても、それなりに優秀な電子回路を持つ自分に勝ることはないのだろうが、それでも主の脳は普通の人間種と比べてはるかに処理能力は高いことを知っている。呆けている時ほど、心が思考の奔流の中に浸かっているのだ。
「既に僕の心からは、負の感情が抜け落ちてるんだ…大丈夫だよ、そんなに心配しなくても。」
負感情が抜けるというのはよくわからない、人間の中には常に正と負両方の感情か背中合わせで存在しているはずだ、その片方が無いというのは矛盾を生む。喜びがあるからこそ、喜ぶことが出来ない時に湧く感情を悲しみと呼ぶのであり、憎しみがあるからこそ、その対象になっていない相手には愛を抱く。それが感情のあり方だと認識していたのに、主の中には負極だけが無いと言う。それはすなわち、正の感情すらも失ったと同義だ。彼の言うことを信じるならば、確かにまだ正の感情は存在するのかもしれない。だが、正の感情だけが存在する心に慣れてしまっては、いずれ感情の定義を、概念をも瓦解させてしまう。
遅かれ早かれ、彼の心は一切の感情が抜き取られて氷よりも冷たい人間となってしまうであろう。
だが…
「ならどうして、そんなに泣いているのですか?」
「……」
顔はよく見えないが、雫が両の目から幾度となく零れ落ちるのが見える。それが悲しみでないことは、付き合いの長さのおかげで推察できた。
「寂しいなら、そう仰ってください。吉川様も……茜様も、心のうちを全て伝えれば、理解してくださるかと思われます。」
「ダメに決まってるだろ、もう誰も僕に関わるべきじゃない……非力な人間が、僕と関わっちゃいけないんだ…」
「マスター、貴方も人間です。」
「……それを肯定できたら、どれだけ幸せだったかな。」
「少なくとも、私のような機械には成り得ません。」
「一度死んだ…怪物を斬り殺した…体の一部を失っても再生した…全身が冷たい……こんな僕を、みんなは人間と呼ぶと思う?」
自嘲するような口調は、酷く乾いた笑いを含み、静かな部屋の中で壁に反響するまでもなくすぐに消え去った。代わりに、鼻をすする音だけが木霊する。
「もう…人間だなんて、言えないんだよ……みんなから避けられないといけない、触れたらダメなんだよ。触れて僕の冷たさを知ったら…」
「触れたら……」
思い出したように、そしてあり得ない物を見るような目で主は自分の右手を見た。先程、吉川玲奈に触れた部位だ。
「行かないと…!」
先程まで蹲っていたのが嘘のような勢いで立ち上がり、傍に置いてあった刀を引っ掴んで外へ飛び出した。相変わらず外は大雨が降っているが、一分一秒でも惜しいと言わんばかりに、傘を取り出す手間さえかけないで出て行く慌てぶりからして、余程のことであることがわかる。
「……私は、マスターに何ができるのでしょう。」
この時、初めて無力という概念を知った。
今度軽くキャラ解説付けようかなって思います。最初はあの三人(正確には二人と一台)、まあ堅苦しくはやらないのでお楽しみに