それは、劉徳然こと地香と名乗っている、張宝こと地和によるものだった。
「何で私も一緒に行っちゃいけないの!?」
「だから、地香にはここを守っていてほしいんだ。」
地香の自室にてかれこれ一刻の間、この様な涼と地香の会話が続いている。
ここには他に、雪里、雛里、趙雲こと星、廖淳こと飛陽が居る。この中では、飛陽以外は皆、地香=地和という事を知っている。
「桃香が青州に行っていて、俺が明日から兗州に行く以上、地香には徐州に残ってもらって、俺達の帰る場所を守っていてほしいんだ。」
「それは解るけど……ち……私も皆の役に立ちたいのよ。」
「地香が徐州を守ってくれれば、充分に皆の役に立ってくれるよ。」
涼がそう言って地香を宥めても、地香は納得しない。どうやら地香は、戦の役に立ちたいと思っている様だ。留守を守ると言うのも立派に戦の役に立つのだが、地香はそれを解っていない。いや、解りたくないのかも知れない。
「ここの守りは
「それはそうだけど……。」
地香が言う羽稀とは、徐州軍武将、
軍議の末、羽稀の娘の
「だったら、私が居なくても大丈夫じゃない。」
「いや、だからね。」
地香は引き下がらず、涼も決して譲らない。既に触れたが、この様な会話がずっと続いているのである。
その様子を雪里たちはそれぞれ呆れ、慌て、苦笑しつつ、見守っている。とは言え、このままでは埒が空かないので、雪里は折衷案を出す事にした。
「では地香様、こういうのはどうでしょう。間もなく青州から定期の報せが来ます。その報せの内容によっては、地香様に青州への援軍を率いてもらうというのは。」
「それは……。」
雪里の提案に、地香は大いに心揺らいだ。
彼女が出撃したいのは前述の通り、戦の役に立ちたいからである。ならばこの提案には乗っても良い筈だ。ただ、青州戦線が優勢に進んでいるという事は地香も知っているので、この提案に乗るという事は、恐らく出陣は出来ないという事でもある。
それだけに地香は返答に困っている。これを受ければ出陣できる可能性はあるが、限りなく低い。だが、受けなければ絶対に出陣できない。実際は違うといえ、徐州牧の従姉妹として名が通っている地香が自ら軍律を破る訳にはいかない。
しかも、涼たちは明日には兗州に向けて出陣しなければならない。その為の準備もまだ終わっていないかも知れないので、これ以上この話題で彼等を足留めさせる訳にもいかない事は、地香も解っている。
その為、地香は暫し考えた後、雪里の提案を受け入れる事にした。雪里は極力、表情には出さなかったが、涼は彼女の内心が揺れている事を気づいていた。
翌日、徐州軍は揚州軍と共に兗州への援軍として出陣して行った。
総勢八万以上になる大軍を見送った地香は、前日と違って晴々とした表情をしている。
それから程なくして、青州からの定期連絡が入った。内容は以前と然程変わらず、優勢に進めているとの事だった。これで、地香が出陣する事はないと、徐州居残り組は皆思った。
だが、予想に反して地香は出陣を命じた。兵数は一万。筆頭武将には趙雲、筆頭軍師には鳳統が選ばれた。
これには皆が異論を唱えたが、地香は一通の手紙を見せ、今回の出陣の正当性を説いた。
「確かに、桃香様からの手紙には援軍の要請は無かったわ。けど、ここで援軍を出せばそれだけ早く遠征は終わる。青州が落ち着けば、兗州遠征も早く終わるでしょう。良い事尽くめです。」
「あわわ。で、ですが、そうすると徐州の守りが薄くなります。」
「徐州の周りに敵は居ないわ。主だった将が羽稀殿一人でも、問題は無い筈よ。違う?」
「そ、それはそうですが……。」
地香の言葉に雛里も言い返せない。地香の言う事は、先日雪里が言った事と同じだからだ。
言い返したら、否定した事になる。否定しては、徐揚同盟に信頼は無いという事になってしまう。この場に揚州軍の将兵は居ないものの、「周りに敵が居る」とは、決して口にしてはいけない言葉である。
その代わりに、星が別の理由を持ち出して反論とした。
「地香殿。青州遠征は以前の報告で既に総仕上げに入っていたのだ。もう賊を倒しているのではあるまいか?」
「そうだったらそれで構わないわ。けど、戦は必ずしも計画通りに行くとは限らないわ。敵の抵抗が激しかったら時間が掛かるし、天気が悪ければ進軍が遅くなる。だったら尚更援軍を出すべきだと思うのだけど。」
地香はそんな星の反論に、彼女らしからぬ理路整然とした答えを返した。これには星も驚いたが、すぐに表情を戻し、地香たちの話を聞きながら密かに思案する。
(地和のこの落ち着きっぷり……清宮殿か雪里に何か含まれたか。)
星のその予想は当たっている。地香が手にしていた手紙は、昨夜の内に涼が雪里と相談の上に書き上げ、今朝の出立前に手渡した物である。
内容は先程、地香が言った通りであり、手紙には青州へ援軍を出す正当性をいくつも書き連ねてあった。地香はそれを口にしているだけであった。
そうして手紙の内容を知った諸将は、そこに二人の、主に涼の意図がある事を察した。その為、これ以上の異論は挟まず、地香の指示に従った。なお、留守居の責任者は当初の予定通り、陳珪が承る事になった。
地香は一万の大軍を率いて青州に向かった。地香の傍らには、副官として廖淳こと飛陽が侍っている。彼女も気持ちは地香と同じである。
徐州援軍は、桃香たちが青州の殆どを黄巾党から取り返しているお陰で、さしたる苦労もなく進軍していった。その為、桃香たちのそれとは進軍速度が大きく違った。
途中、一、二度の大休止を挟んだものの、目的地へは予定より早く到着すると思われる。
「地香様、良い天気ですね。」
「そうね。このまま、最後まで持ってくれると良いのだけれど。」
どこまでも澄み渡る蒼。そんな空を見上げながら、飛陽と地香は馬を進める。
この空の様にのんびりとした日々はいつになるか、そんな事が地香の脳裏をかすめる。そののんびりした日々の為に、今の自分達が動いているんだと、言い聞かせて。
「進軍速度をやや速めるわ。後続に通達を。」
「はい!」
地香の指示を受けた飛陽は、それを後続部隊に報せる為に馬を走らせ、地香は暫し飛陽を見つめていたのだった。