それを見た地香は、隣の飛陽を、周りの徐州軍兵士達を見てから再び正面を向いた。地面に刺さったままだった剣を引き抜いてから大きく息を吐き、
やがて右手の親指と薬指を繋げて輪を作ると、何かを呟き始めた。それは何かの呪文の様だった。
「
血の流れよりも熱きもの。
時の流れに埋れし、尊大なる汝の名において、
我、ここに天に誓わん。
我と汝が力もて、我の望みを叶えんことを!
……
次の瞬間、地香が手にしていた靖王伝家(予備)の刀身が一瞬だが黄色く輝いた。
そうした地香の一連の行動を見ていた飛陽は驚き、口を開けたまま彼女を見つめている。やがて、何か言葉を口にしようとしたのだが、険しい表情の地香にそれを制された。
「……後で説明するわ。良いわね?」
「は、はいっ!」
地香の珍しく有無を言わさない迫力に圧された飛陽は、了解を口にするしか出来なかった。
地香はそんな飛陽に今度は優しい笑みを向けてから、ゆっくりと馬を進めた。前では、自棄になった管亥が愛紗に向かって斬りかかっていたが、歴戦の勇士である愛紗には掠りもしていない。
「愛紗、もう良いわ。後は私がやるから。」
地香のその言葉を受けた愛紗は暫しの間返答しなかったが、やがて「分かりました」と応えると、管亥を牽制しながら地香と交代した。
管亥はというと、この様な絶体絶命の状況であっても、地香が目の前に現れるとまたも下卑た表情を浮かべ始めた。それはまるで、パブロフの犬の様であった。
「嬉しいよ~。やっと俺のモノになる決心がついたんだね?」
「そんな訳ないでしょ。寝言は寝てから言いなさい。」
管亥の戯れ言を一蹴した地香は、表情を引き締めながら自身の剣の刃先を管亥に向けて言った。
「今降伏するなら、自害する権利を与えます。どうしますか?」
ちゃんとした武将ならこの提案を飲んで潔く自害をするだろう。だが、黄巾党という賊にそんな潔さがある訳はなく、その首領である管亥の答えは当然ながら否であった。
「そんな事……俺がどうするかなんて決まっているでしょう!!」
管亥はそう叫びながら地香に斬りかかった。見苦しい、と愛紗が呟く。
一方の地香は、静かに両手で剣を右に構えると、足で馬に合図を送り、管亥を迎え撃つ。
両者の距離はみるみる縮まり、やがてほとんど同時に得物を振った。誰もが、得物と得物のぶつかり合いになると思い、そうなると力で劣る地香が不利だと思った。
愛紗がいつでも加勢に行ける様に、手にしている偃月刀を握る力をいつもより強くしたのも、そうした予測や判断からだった。
だが、その予測は大きく外れる事になる。
地香の剣が再び黄色く輝くと、管亥の得物を真っ二つにし、そのままその体をも両断したのである。
「な……に…………っ!?」
管亥は地面に落ち、そこに自身の腹部から下があるのを見て、自分の体がどうなったかを悟った。だが、何故こうなったのかは当然ながら分からなかった。
そんな管亥に、地香は管亥に対して振り向かず、真っ直ぐ前に視線を向けたまま応えた。
「今のは、私たち劉家に伝わる必殺剣、“
劉覇斬。そんな必殺技をお持ちだったのか。といった声が、徐州軍諸将から起こった。
尤も、実際はそんな必殺技は無い。たった今、地香が名づけた
とは言え、必殺技の様なものは確かにあり、だからこそ管亥は今にも絶命しそうになっている。では、その必殺技の様なものは一体どうやって出来たのか?
それは、地香が先程呟いていた呪文の様なものが大きく関係していた。
地香は元々“張宝”、真名を“地和”という名の娘で、姉と妹と共に旅をし、音楽で生計を立てていた。その最中、とある本を手に入れた。「
その本には色々な事が書かれていたが、特筆すべきは妖術について書かれていた事であった。張三姉妹の歌は素晴らしかったが、流しの歌手である彼女たちの歌を聴く人は少なかった。そこで彼女たちはこの妖術を使って、自分たちが作った音楽を広めていったのである。
その後、様々な誤解や偶然が重なって、いつの間にか「黄巾党」という集団が出来、それが平和を打ち砕く「賊」に成り果てたのは、彼女達にとって不幸だったと言えるだろう。
勿論、だからといって地香が完全に許される訳ではない。それを解っているからこそ彼女は名を変え姿を変え、今に至っているのだ。
地香は今、大平要術を持っていない。妹である
地香が地和だった頃、大平要術を持っていなくても妖術を扱えていた。そうした才能があったのかも知れない。涼たちが鉄門峡の戦いに挑むまでは、大平要術無しで妖術を使い、官軍を撃退していたほどだ。
だが、大平要術無しで妖術を使うのは精神的疲労が大きい様で、一度使うと最短で翌日まで、長くて三日は休まなければならなかった。それでも大平要術を妹に預けたのは、姉妹の中で一番頭が良い彼女が持っていた方が一番だと考えたからであり、実際、それは当たっていた。張梁自身も地香ほどではないが妖術を使えたので、やはり適任だったのだろう。
そんな地香が、この一騎討ちの前に唱えた呪文。それは武器に龍の牙が獲物を噛み砕く様な威力を持たせる妖術だった。威力が凄まじい為、呪文を唱える時間が必要となり、地香はその時間をとる為に愛紗に管亥を任せたのだった。
管亥は息も絶え絶えになり、出血もおびただしい。間もなく死ぬだろう。
そんな管亥を見た地香は、剣に付いた血を振り落としながら呟いた。
「貴方が敬愛していた張宝は、恐らく死んでいる。あの世で自分の罪について詫びてきなさい。」
それを聞いた管亥は、目を大きく開いて地香を見つめた。
地香がやはり地和だと確信したのだ。何故なら、地香は今、地和の事を「張宝」と呼んだ。今回の一騎討ちでは、管亥は地香の事を地和とは呼んだが、張宝とは呼んでいない。
張三姉妹は、黄巾党に対して自分たちの事を真名で呼ばせていたので、官軍として黄巾党と戦った現在の徐州軍、つまり当時の劉備軍がその情報を知っていてもおかしくはない。だが、それを確認する術は管亥には無いし、時間も無い。
だからこそ、管亥は先程の地香の言葉だけで確信したのだ。
「や……やっぱり貴女は、ちぃほ…………。」
管亥の命はそこで尽きた。何か危険を察した愛紗がその首を断ち斬ったのである。
愛紗は地香の前に進むと下馬し、跪いて言葉を紡いだ。
「これ以上は、いくら賊とはいえ見ていられませんでした。勝手な振る舞い、お許しください。」
「関将軍の気持ちはよく分かるわ。気にしないで。」
地香はあくまで「劉燕」として愛紗に振る舞い、愛紗もそれを望んでいた。この辺りの会話は、それなりに長く付き合っているから分かる呼吸の合わせ方だろう。
首と身体と足の三つに分かれた管亥だが、その死に顔は安らかだった。悪逆非道の限りを尽くした賊の最期の顔としては、限りなく幸せな最期だといえるかも知れない。
地香は剣を高々と掲げると、かつて歌で鍛えた声を限りに叫んで全軍に報せた。
「青州黄巾党首魁、管亥はこの劉徳然が討ち取った!!」
その瞬間、徐州軍と青州軍の諸将が雄叫びを上げた。自分達の勝利を祝ったのだ。
対して、あくまで抵抗を続けていた青州黄巾党は、自分達の首領が死んだと知ると皆落胆し、その場に座り込み、武器を捨てた。青州黄巾党の中では圧倒的な実力を持っていた管亥が戦死した事は、彼等の気力を削ぐのに充分だったのだ。
そうした残党に対して、桃香は降伏したなら殺さないように、と厳命した。それを諸将はきちんと守り、多くの青州黄巾党残党は捕縛された。
一部は、あくまで抵抗したりしたが、そうした相手は容赦なく愛紗や星によって地面へと倒れていった。
そうして、管亥の死から一刻も経たずに、青州黄巾党は全面降伏し、臨淄は青州の民のもとへと戻った。無論、人的・物的被害は甚大であり、復興には長い時間が掛かると思われる。
それでも、長い間、黄巾党によって支配されてきた青州が解放されたのは事実であり、人々はそれを喜んだ。涙を流している者も、数多く居た。
桃香たちはその様子を遠目に見ながら、自分達がやってきた事を誇った。
犠牲が無かった訳ではない。お金も沢山使った。誰もが疲れている。
それでも、この光景を見れば自分達の行いが正しかったと思えた。そう思わなくては、やっていけないという理由もあるが、それはこの際考えないようにしたかった。
「涼義兄さんも、上手くやっているよね。」
桃香がぽつりと呟く。それに応えたのは愛紗だった。
「義兄上は天の
うん、と頷く桃香。涼は確かにここでは「天の御遣い」として活躍しており、徐州を始めとした各地の人々から慕われている。
だが、元の世界では普通の高校生であり、軍事や政治に関しては素人である。それは多少良くなった現在でも同じであり、難しい所は
それでも、仕事を完全に投げたりはしないので、諸将から慕われている。一応現代の高校生だったので、その経験を生かせる場合もあるのだ。あくまでそれなりに、だが。
そんな人物が自分達の「義兄」である事を桃香たちは誇りに思っている。だからこそ、こうして自分達の役目を無事に終わらせる事が出来てホッとしているのだ。
それは、管亥を討った地香も同じであった。
「桃……香、ゴメン、しばらくの間、お願いね…………。」
力無く呟いた地香は、そのまま倒れ込んだ。間一髪のところで飛陽が支えたので怪我はなかったが、地香の顔を見た飛陽は慌てふためいた。地香の顔色が一目で判る程悪かったのだ。
「と、桃香様! 地香様が! 地香様があっ!!」
「お、落ち着いて飛陽ちゃん! だ、だ、大丈夫だから!!」
そう言う桃香も落ち着くべきである。
「お二人とも落ち着いてください!
「ふむ、任された。」
慌てふためく義姉であり総大将の代わりに、愛紗がテキパキと指示を出していく。お陰で、徐州軍は総大将の従妹が倒れたという緊急事態においても、大きな混乱を出す事なく部隊を集結させ、戦闘を終わらせる事が出来た。