さて、華琳がその様な帰途についていた間も、雪蓮はなかなか帰ろうとしなかった。
「雪蓮、いつまでここに居るつもりなの?」
「ずーっと……って、もちろんそれは冗談だから怒らないでよ冥琳。」
孫策軍に
勿論、海蓮の娘である雪蓮はそれくらい解っている。解っているのだが……。
「ちょっとね、気掛かりというかなんというか……。」
「蓮華様と小蓮様の事か?」
雪蓮は自身の懸念をピタリと当てた冥琳に一瞬驚くものの、すぐに「冥琳なら当然ね」と思い直し言葉を紡いだ。
「そうなのよー。ほら、私は黄巾党討伐の頃から何ヵ月も涼と一緒に居たから良いんだけど、あの二人はそうじゃないでしょ? 蓮華は十常侍を誅殺した時に少し一緒に居たからまだ良いけど、小蓮はそういったのが無かったから。」
「小蓮様の年齢と立場なら、それも致し方あるまい。」
「それは解ってるんだけど、今のままじゃ、ね。」
「私が見たかぎり、小蓮様は清宮とうまくやっている様だが。」
それは事実だった。この徐州に来て以来、小蓮は暇さえあれば涼と一緒に居た。余りにもずーっと居るので、桃香や地香が不機嫌になったり、小蓮の護衛も務める思春や
尤も、涼は小蓮の事を少し歳の離れた妹くらいにしか思っていなかったりするのだが。
雪蓮の危惧や懸念は、まさにその事についてだった。
「涼は私や蓮華とだけでなく、小蓮とも婚約したのだから、そこら辺をちゃんと認識してくれないと困るのよ。」
「言いたい事は解るのだがな、小蓮様はその……雪蓮や蓮華様とは違うからな。」
「違うって、背が低くて胸が無いってところ?」
「ハッキリ言うな。小蓮様が聞いたら泣かれるか怒られるかその両方だぞ。」
そうなのである。孫家の女性は母親の海蓮、長姉の雪蓮、次女の蓮華と皆なかなかのスタイルの持ち主ばかりなのだが、小蓮だけは幼児体型なのである。
とはいえ、それは仕方の無い事でもある。小蓮はまだ実年齢が幼い。現代なら中学生になったばかりか少し経ったくらいであり、同じく現代換算すると高校生の蓮華や、大学生の雪蓮と比べればそりゃスタイルは違うだろうという当たり前の事だった。
だが、頭では理解していても簡単に納得できないのが人間であり、小蓮は今の自分を肯定出来ないでいた。時が経てば、少なくとも今の蓮華くらいの年齢になれば、自分も背が伸びて胸が大きくなっていると思うのだが、もしそうならなかったら? という不安が常に彼女の胸中を支配していた。
勿論、世の中の男が皆、胸の大きな女性を好む訳では無いのだが、生まれてから今までがそう長くない小蓮はそう思わないし、仮に理解しても不安が無くなる訳では無い。そもそも、自分が好きになる相手がどんな趣味嗜好の持ち主かなんて判らない。
それに、周りが胸の大きな女性ばかりならば、尚更コンプレックスに感じてしまうのも仕方が無いかも知れない。孫堅軍は前述の海蓮たちを含め、胸の大きな者ばかりなのである。勿論、全員がそうではないが、多いと言って良いだろう。
「清宮がそう言った趣味嗜好とは限らんだろう。」
「どうかしら。桃香も愛紗も、それと星も結構大きいし、他にも何人か居るわよ。」
「確かにそうだが、鈴々と軍師二人など、そうではない者も居るではないか。」
「それはそうだけど……あと、涼は元々私と婚約しに来たって事も忘れないで。それにあの夜は私の胸に興味を持ってたし。」
雪蓮が言う「あの夜」とは、涼たちが孫家と同盟を結んだ日の夜の事だ。
同盟締結の夜、雪蓮は涼に夜這いをかけた。いろいろあって結局上手くはいかなかったが、一夜を共にする事は出来た。どうやらその際、涼が雪蓮の胸を触ったりしたのかも知れない。
「あの時も言ったが、普通の男性なら女性の胸に興味を持つのが普通だろう。清宮は男色家では無い様だしな。よって、それだけでは清宮が巨乳好きとは断定出来ん。」
「んー……だったらシャオにも機会は有りそうね。」
「そう言う事だ。分かったらそろそろ帰り支度を始めておけ。」
「んー……。あ、じゃあ冥琳、こんなのはどう?」
雪蓮は何かを思い付いた様で、一際明るい表情になっていた。それを見た冥琳は嫌な予感がした。雪蓮がこんな顔をする時は、決まって何か要らぬ考えを思い付いたという事だと、彼女は長年の経験から理解していた。
だが、雪蓮とは幼少の頃からの付き合いである冥琳は同時に、こうなっては止めても無駄だという事も理解していた。それに、殆どの場合はその思い付きが良い結果になっているという事も。
雪蓮から思い付きを耳打ちされた冥琳はやはり驚き戸惑い悩んだが、同時に上手くいくかも知れないと判断し、雪蓮の行動を止めなかった。
それと、ついでの様にだが、孫軍が揚州に帰還する日は、三日後に決まった。
雪蓮たち孫軍が揚州へと帰還する日がやってきた。帰還日和、なんて言葉は多分無いだろうが、軍が出立するには丁度良い快晴である。
涼や桃香たちの本拠地である下邳城前には、今から帰還する孫軍の一軍と、それを見送りに来た涼たちが向かい合っていた。
付き合いの長い涼と雪蓮などだけでなく、今まで殆ど接点が無かった
だが、いつまでも別れを惜しんでいる訳にはいかない。やがて、それぞれの将が持ち場に戻ると、両軍の総大将が挨拶を交わす。
「それじゃ涼、またね。」
「ああ、今度はもっとのんびり話したいね。」
「そうね。桃香も帰ってきたばかりで大変だろうけど、州牧の仕事、頑張りなさいよ。」
「あはは……何とかやってみます。」
涼は普通に、桃香は苦笑しながら雪蓮にそう応えた。州牧とその補佐が長い間居なかった為、徐州の仕事は溜まっているのである。ある程度は居残り組がやっているが、物によっては州牧や州牧補佐が自ら決済しなければならない書類などが有り、その数は二人の予想より多かった。
涼は一時的ではあったが、桃香より早く徐州に戻っていて書類の整理をしていたので、その分仕事は少ない。
だが、遅く帰ってきた桃香は帰還後も華琳や雪蓮たちとの宴や会談などがあり、殆ど書類仕事をする事が出来ていない。両者の表情の差はこうして生まれているのである。勿論、涼や桃香の仕事がどんな感じかなど、雪蓮は知る筈が無いが。
その雪蓮は後ろに居並ぶ自分の軍勢を見て頷く。軍師であり今回は副将的立場でもあった冥琳が頷き返すと、雪蓮は再び前を向き、涼と桃香と握手を交わした。涼には盛大な抱き締めも付け足したので一時騒然となったが、それも慣れっこになっている両軍はすぐに落ち着きを取り戻した。一部の者を除いて。
そうして別れの挨拶を済ませた雪蓮は自身の馬に騎乗すると、孫軍全体に帰還命令をくだそうとした。だが、それに待ったをかける者が居た。雪蓮の妹の一人、孫家三姉妹の次女、蓮華である。
「どうしたのよ蓮華、そんなに慌てて。」
「慌てもします! まだ小蓮が来ていないのですよ!」
蓮華のその言葉に孫軍は勿論、涼達も驚いた。
そういえば見かけないな、とは思っても、それぞれに事情はあるだろうから特に気にしてなかった、と言って良い。勿論、何かあれば協力するのはやぶさかではない。
涼達がそう思いながら小蓮はどこに行ったのかなと思っていると、その小蓮の声が聞こえてきた。何故かその涼達の後ろから。
驚きながら振り向くと、そこには確かに笑顔の小蓮が居た。だが彼女は、帰還するにしては荷物を持っていなかった。仮にも揚州の姫なのだからそうした荷物は既に運び込まれているのかも知れないが、それにしても長旅をする風貌には見えない。
涼がそうした疑問を内に秘めていると、小蓮は涼の隣に立ち、雪蓮たちに向かって笑顔で手を振りながら言った。
「雪蓮姉様ー、蓮華姉様ー、二人とも気を付けて帰ってねー。母様にヨロシクー♪」
この子は何を言っているのだろうか、と涼は思った。いや、涼だけでなく桃香や愛紗たちも、蓮華や明命たちもそう思った。
そうした思考停止から一番早く元に戻ったのは小蓮の姉の一人である蓮華だった。
「しゃ、小蓮!? 貴女は一体何を言っているの!?」
孫家唯一? の常識人である彼女は、極めて常識的な問いを投げ掛けた。そしてそれに答える妹の小蓮は、極めて非常識な答えを返してきた。
「何って、シャオは今日からここに住むんだよ? シャオは涼の婚約者だから当然でしょ♪」
いや、その理屈はおかしい、と涼は言いたかったが、しばらくの間、小蓮と蓮華の言い合いが続いた為に口を挟めなかった。仮にもここの主の一人であるのに情けないったらありゃしない。
仕方が無いので、涼はこの件について何かを知っているであろう人物、というか恐らく当事者である雪蓮に話を訊く事にした。そうでもしなければ、桃香たちから向けられる疑惑の視線に耐えられなかったというのもあったが、それは仕方がない事であろう。
そして、当事者と思われた雪蓮はあっさりと自白した。それはもう清々しいくらいにあっけらかんと。
「いやー、ほらね? シャオは私達の中で一番涼との時間が短かったでしょ? だからこの際ここに置いていって、貴方と親密になってくれないかなあって♪」
呆れて物が言えないとはよく言ったものだ、と思いながら涼は雪蓮の隣に来ていた冥琳に視線を向ける。
「……冥琳も同じ考えなの?」
「……正直に言えば、多少やり過ぎだとは思う。だが、孫家の将来を考えれば理にかなっているのも事実。ならば私は雪蓮の考えを支持するしかあるまい。」
「普通、こうした大事な事を決める場合は事前に話し合いをすると思うんだけど。」
「それは私も言ったのだがな、雪蓮は“この方が分かり易いでしょ”と言って聞かなくてな……。」
「そこをどうにかするのが冥琳の役目だと思うんだけど。」
「……面目ない。」
冥琳は本当にそう思っているらしく、涼とまともに目を合わせようとはしなかった。また、涼自身も雪蓮をどうにか出来る訳ではないので、それ以上追及する事はなかった。
さて、問題は小蓮である。彼女はいまだに次姉である蓮華と口喧嘩をしているが、彼女が揚州に帰りたい、と言えばこの問題は収まるのである。よって、涼は小蓮を説得する事にした。
「えっと、シャオ。」
「あ、涼♪ これからヨロシクねー♪」
思わず「よろしくー♪」と応えそうになるくらい、小蓮は明るくかつ自然に言ってきた。
途端に蓮華が説教を再開するが、小蓮には馬の耳に念仏なのか堪えていない様に見える。末っ子というものはこういうものなのだろうか、と涼は思った。
とは言え、そんな悠長な事を考えている場合ではない。このままでは「押し掛け女房」という既成事実が出来てしまう。それも相手は現代で言えば女子中学生である。しかも外見だけなら女子小学生に見えなくもない。涼と小蓮の歳の差は数歳なので現代換算だと高校生と中学生のカップルになるのだが、二人が並んで立つと身長差も相まってぱっと見が余りよろしくない。下手したら涼がそういう好みの持ち主に見えてしまう。
(そりゃ、孫夫人は三十歳ほど歳の離れた劉備と結婚したから、俺との年齢差は大した事無いんだろうけど、それでもやっぱり、なあ。)
涼は姉妹喧嘩を眺めながらそう思った。
孫夫人、いわゆる孫尚香が劉備と結婚したのは、演義はもちろん史実でもある。
ただ、孫権の妹であり劉備の妻という立場だったにも係わらず、正史三国志における孫夫人についての記述は驚く程少ない。昔の中国の女性の名前が正しく伝わっていないのはまあ普通の事であるが、この立場の人間の生い立ちや没年すらも判らないというのは珍しいかも知れない。
だからだろうか、演義や小説では正史と違い劉備との仲が良かったとか、「
ひょっとしたら、この世界の孫夫人こと小蓮も何かのアレンジがーーとまで考えたところで、涼は意識を再び小蓮たちに向けた。口喧嘩は相変わらず続いている。
「シャオは涼と結婚するの! 末っ子のシャオが孫家の為に出来る事って、こういった事しか無いんだから!」
「……っ! だからといって、行動に移すには早過ぎるでしょう!」
蓮華、確かにそうだけど、実はそうでもないから困るんだよなあ、と涼は思う。その脳裏に浮かんだのは一人の戦国武将。通称「
利家は日本の戦国武将である。織田信長の家臣として活躍し、本能寺の変後は羽柴秀吉の家臣となり、秀吉の天下統一に貢献した。五大老の一人として徳川家康らと共に豊臣政権を支えた、屈指の名将である。
そんな利家の事を涼は何故思い浮かべたのか。実は利家の正室であるまつ(
目の前の少女もまつの様になるのだろうか、まさかね、と思いつつ、涼は改めて小蓮に話し掛けた。
「シャオ、あのね。」
「涼からもお姉ちゃんに言ってよ! シャオは涼のお嫁さんだって!」
何を言わせようとしてるのこの子は! と内心ツッコミと焦りを感じながら、涼はチラッと蓮華を見た。睨んでいた。彼女は三姉妹の中では明らかに常識人なだけ、小蓮の言動に納得出来ないのだろう。
確かに、涼は孫家の三姉妹とはそうした約束、つまりは婚約をしている。それはその方が両者の未来にとって良い事だと思ったからである。
だが、涼はそうした約束を交わした後も、漠然と結婚は先の事と考えていた。結婚適齢期が二十代後半から三十代前半という価値観になってきている現代日本に生まれ育った涼だから、そう思ったのも無理なかった。
しかし、この世界の結婚観は当然ながら現代とは違ったし、政略結婚というものが比較的身近に存在していた。涼の誤算は、そうした事情を考えていなかった、もしくは甘く見ていたという事だろう。
婚約した以上、いつかは結婚しなければならない。もし破棄したいなら、それなりの理由が必要になる。だが、今の涼には婚約を破棄する気は無いし、あったとしても理由が無いので難しい。
また、元々は雪蓮との結婚を想定していた訳であり、妹である蓮華や小蓮との結婚は想定していなかったのも現状をややこしくしている。もし、当初から三姉妹との結婚を想定していたのならもう少し考え方もあったのだが、先述の通り結婚観が違う涼には、三姉妹との婚約なり結婚なりを想定する事が出来なかった。
だから、年上の雪蓮や同年代の蓮華との結婚は兎も角、幼い小蓮との結婚は全く考えていなかった。正確に言えば、孫家の事情や三国志の知識から考えれば小蓮との結婚は想定出来たが、それはまだ先の事と考えていた。演義で劉備が孫夫人と結婚したのは赤壁の戦いの後である。この世界ではまだ赤壁の戦いどころか官渡の戦いも反董卓連合も起きていないので、赤壁の戦いもまだしばらく先だと思っている涼は、小蓮との結婚もまだしばらく先の事と思っていた。
そうした、ある意味先送りにしようとしていた現実を突きつけられた涼は答えに困った。選択肢はいくつかある。小蓮を今すぐ妻にする、あくまでまだ婚約者だと正論で諭す、等である。
まず、「小蓮を今すぐ妻にする」というのは難しい。涼の結婚観もそうだが、現代で言えばまだ女子中学生という年齢の小蓮と結婚するというのは、「それなんてエロゲ?」な展開である。……はい、今つっこんだ人は手を挙げて。
確かに、政略結婚では年端もいかない男女の結婚は歴史的によくある事である。例えば、豊臣秀吉の子である豊臣秀頼と、徳川秀忠の子である千姫が結婚したのは秀頼十歳、千姫七歳の時である。それと比べたら小蓮はまだ大丈夫である。何がとか言わない。
とは言え、それでもまだ幼い小蓮との結婚は二の足を踏むし、周りの目も気になる。桃香とか愛紗とか。よって、今すぐ結婚は出来ない。
では、「あくまでまだ婚約者だと正論で諭す」はどうだろうか。恐らくこれが正しい選択肢と思われるが、そう諭した際の小蓮の反応を考えると言い出しにくい。涼たちの承諾は無かったとはいえ、彼女は姉である雪蓮から「このまま結婚しても良い」という意味の事を言われたのである。元々涼に好意的だった彼女がその気になるのは当然であった。
そこに、「結婚はしばらく後」と言われたら彼女はどう思うだろうか。泣いて悲しむだけならまだ良い。だが、それを切っ掛けに孫家との関係がギクシャクしないとも限らない。可愛い妹に、娘に恥をかかせたと言い出さないだろうか。この状況を作ったのは雪蓮なので、もしそうなったら逆ギレになるが、人間の感情というものは必ずしも正しく動くものではない。
仮に、そうした事がなく同盟が維持されたとしても、その事実を知った誰かがこれを利用して徐揚に離間計を仕掛けるかも知れない。結婚を延期された小蓮が傷つき心身を病むかも知れない。はたまたもっと厳しく悲しい結末になるかも知れない。そもそも、何も起こらないかも知れない。
「知れない」ばかりだが、未来というものは本来そんなものである。確定された未来なんて存在しないし、確定されないからこそ人は前に進めるのだ。
だからこそ人は、可能な限り不確定な未来に進まない様にしている。涼が雪蓮と、結果的には孫家の三姉妹と婚約したのは前述の通りであり、もし両者の関系が悪化すれば、早い段階で「
桃香たちだけでなく、雪蓮たちも好ましく想っている涼は、その悲劇を望んでいない。
そうしたいくつもの考えが涼の頭の中を駆け巡った。常の彼は楽天的な性格をしているが、こんな時に限ってその性格は鳴りを潜めている。それだけ重大な決断を下さないといけないという事でもある。
涼は唾を一つ飲み込んだ。
「シャオ、君はここに居たいの?」
「うん! 涼のお嫁さんになってずーっと一緒に居たい!」
いかにも子供の、だがそれだけに無垢な、素直な感情が涼にぶつけられた。
ーー何でそんなに俺を買ってくれるんだ、天の御遣いだからなのか、それとも政略結婚だからか。
涼は困惑していた。まだ二十年も生きていない少年ではあるが、今迄こんなに好意を向けられた事は無い。
人付き合いはそれなりにあったし、恋人が居た事もそれなりにあった。だけどそれは普通に生きていれば普通に経験する事であり、少なくともここに来てからの、少女達からの様々なアプローチは現代では経験していない。彼女達のアプローチにいろいろな意味があったのは理解しているが、悪い気はしなかった。勿論、有頂天になる事も無かった。
だが、そうした経験をした結果、彼女達だけでなくいろいろな人達の言葉の裏を気にする様になった。いや、正確には涼自身はその事に気づいていない。彼の深層心理が注意をしているだけであり、常の彼はいつも楽天的だった。
楽天的な分、一度深層心理の奥に眠っていた疑念が表に出ると困惑し、この様に悩んでしまう。何とも厄介な
そんな涼の正確な性格に気づいている者は居るのだろうか。本人すら気づいていないのに、他人が気づくというのは難しいかも知れない。
だが、今ここにそれに気づいたかの様な反応をした人物が一人居た。小蓮の姉の一人、蓮華である。
彼女は妹を見ながら何か悩んでいる涼を見て、違和感を感じていた。ちなみに桃香たちもそんな涼を何か変だと思ってはいるが、それはここに留まろうとしている小蓮に対して、なかなか断りの言葉を言えないでいるのだろうと結論付けていた。
だが、蓮華は違った。彼女は桃香たちと違って涼とは殆ど一緒に過ごしていない。それだけに彼の微妙な変化に気づく事が出来た。雪蓮は付き合いが一番長いだけに却って気づけず、小蓮は逆に短すぎて分からなかった。
蓮華も付き合いは短い方だが、つい最近、真夜中に二人で話した分、涼がどんな人間か理解していた。少なくとも、理解したつもりにはなっていた。
だから涼の変化に気づくと、いつの間にか彼の腕をつかんで小蓮や桃香たち、そして雪蓮たちから離した。
妹の、姉の、同盟者の一人のそんな行動に皆驚いた。誰かが何か声をあげたが、その声は蓮華にも涼にも届いていなかった。
蓮華は涼の腕をつかんだまま話し掛けた。
「私は貴方じゃないから、貴方が何を考えているかは分からない。だから、私が思った事、感じた事を言うわね。」
涼はそう言った蓮華を見つめていた。常の彼女であれば異性に見つめられれば赤面したりしていただろうが、今の彼女は良い意味でそんな余裕は無かった。あるのはただ、自分が何をすれば良いかという事だけである。
「あの子……小蓮は天の御遣いとか、政略結婚とかを考えて貴方に好意を向けている訳では無いわ。ただ純粋に、貴方を好きなのよ。」
不思議な事に、その言葉だけで涼は落ち着きを取り戻し始めた。
「だって、君達との婚約は政治的な……。」
「確かにそうだけど、それだけで結婚する女は、孫家には居ないわ。」
「そう言えば、雪蓮もそんな事を……けど、だとしたら小蓮は会ってからの期間が短い俺をなんでそこまで……。」
「あの子は人を見る目があるの。母様や姉様みたいにね。」
「……どう、感じたんだろう。」
「私はシャオじゃないから分からないわ。ただ、一つだけ言える事はあるわ。」
「どんな事?」
落ち着きを取り戻しつつある涼は、それでもまだ完全に迷いが無くなった訳ではなかったらしく、すがる様な目で蓮華に訊ねた。
蓮華は簡潔に答えた。
「貴方が感じたままをシャオに言って。そうしたら、きっと小蓮も貴方も上手くいくわ。」
それは以前、涼が蓮華に対して言った『蓮華のやりたい様にすれば良い』と似た意味の言葉だったが、涼の迷いはこの瞬間に消え去った。考えてみれば簡単な事である。彼がいつもしている様に、楽天的に行動すれば良いのだ。何故か。それが清宮涼という人間だからだ。
人間の性格なんて、そう簡単に変わらない。知識や経験も一朝一夕には得られない。だったら、うだうだ悩むより行動した方が性に合っている。涼は蓮華の言葉でその事に気づいたのだ。
涼は再び小蓮の前に立った。蓮華は先程と違い、雪蓮たちの側に下がって二人を見ている。雪蓮は何かを言いたそうに蓮華を見つめ、そしてそのまま前を向いた。
桃香たちは涼と蓮華が何を話していたのか気になっていたが、涼が再び小蓮の前に立ったので大人しく見守る事にした。
涼は自分より頭一つ以上背が低い、けど器は自分より大きいかも知れない少女ーー小蓮を見つめながら、言葉を紡いだ。
「シャオ、君はここに居て良いよ。」
その言葉に、徐揚両軍がどよめく。
桃香たちは涼が言った事に混乱し、雪蓮たちはほっと胸を撫で下ろしている。
小蓮はというと、母や姉達と同じ紺碧の瞳をキラキラと輝かせながら涼を見つめていた。
そんな小蓮を見ながら、涼は更に言葉を紡ぐ。
「ただし、いくつか条件があるから、それを守ってくれるなら、ね。」
その言葉に、徐揚両軍がざわめく。
小蓮は一瞬表情を曇らせたものの、しばらく考えてから頷いた。
涼が言った事は、当然ながら某歌手の歌の様なものではなかった。だが、徐州の決まり事を守る事、桃香たちと仲良くする事、孫家のお姫様でも殊更特別扱いはしない事など、簡単なものからちょっと悩むものまで様々だった。
そして、最後に言った事は涼にとって、小蓮にとって、そして徐揚両軍にとって大きな意味を持つ言葉だった。
「あと、結婚はすぐにはしないよ。」
小蓮は一瞬、涼が何を言ったのか理解出来なかった。対して雪蓮は「仕方ないか」と呟いた。
小蓮は戸惑いながら涼に訊ねた。よく見ると、瞳が潤んでいる。その姿に涼は良心が痛んだが、大事な事なのでしっかり、はっきりと、でも優しく説明していく。
「いくつか理由はあるけどね、その一つは、まだ俺達はお互いの事を知らないからさ。」
そんな状態で結婚しても上手くいかないだろうから、これを機にお互いをよく知ろうと涼は提案した。言われてみれば確かに、と小蓮は納得し頷いた。
「他には、まだシャオが成長段階にあるから、かな。急いで結婚する必要は無いと思うんだ。」
間接的に幼児体型だと言われたと思った小蓮は、頬を膨らませた。涼はすぐにそれは違うと訂正し、若年での結婚のメリット、デメリットを説明した。
その中で小蓮が特に興味を持ったのは、やはりというか妊娠・出産についてであり、余りにも若すぎたり、体が成長しきっていない内の妊娠・出産は母子共に危険だと分かると、残念な表情のまま了承した。この世界でも若年での妊娠・出産の危険性はある程度分かっていた筈だが、天の国の人間ーー正確には勿論違うのだがーーに言われると納得してしまうのかも知れない。
「そうした理由から今すぐには結婚出来ないんだ。……シャオは、それでも俺と一緒に居たい?」
涼は改めて小蓮に訊ねた。蓮華の言う様に純粋に自分を慕っていても、政略結婚の為にでも、これは訊いておかなければいけないと思ったから。
だが、そんな涼の誠意、または心配は杞憂に終わった。
「あったり前じゃない! シャオは涼以外の男と結婚する気なんて無いんだから!」
涼はハニカミながら言いきった小蓮を見ながら、何でこの子はそこまで自分を買ってくれてるんだろう、と再び思った。だが、今度は先程の様に暗くなる事も悩む事も無かった。ただ一つ、「この子の期待に応えられる様になれたら良いな」と思える様になった。
涼は小蓮と違い、まだ彼女を恋人として見ていなかった。理由は年齢差とかいろいろあるが、これからきちんと意識するのかな、と、涼は心の中で笑った。
「そっか。なら、取り敢えずそれまでは婚約者としてよろしくね、シャオ。」
涼は微笑みながら右手を差し出す。
「ヨロシクね、涼!」
小蓮はその手を掴みながら微笑み、次いで抱きついた。周りの反応など気にせず、自分がしたい様に行動していく。その様を見て、涼は先程の蓮華の言葉を思い出した。
『ただ純粋に、貴方を好きなのよ』
この仕草を見てると、彼女の言う通りなのかもな、と涼は思いながら、蓮華を見た。
何故か不機嫌そうだった。
え、何故? と涼は思ったが、答えは出なかった。「義兄上、いつまでそうしてるのですか!」「私もー♪」「姉様!?」という風に、良くも悪くもしびれを切らした周りの乱入により、それどころではなくなったからである。
そうしたドタバタを終え、孫軍は揚州への帰路についた。
末妹の事はひとまず上手くいったと見た雪蓮はご機嫌だった。
(これで、私達に万が一の事が起きても孫家の血は残る。まあ、その血が産まれるのはまだ先みたいだけど。)
妹の年齢を考えれば仕方ないか、自分もまだおばさんと呼ばれるのは何だか嫌だし、なんて思う雪蓮。
(けど、これで全てが終わった訳でもない。天の御遣いの威光や人気がいつまで続くか分からないし、涼が不慮の死を迎えるかも知れない。その時は……小蓮には悪いけど、他の所に再嫁してもらうしかないわね。)
けど、小蓮がそれを承知してくれるかしら、と、雪蓮は先程見た妹の姿思い出す。好きな人と一緒に居られる喜びを、小さな
そんな妹が、不測の事態になった時に孫家の為に再嫁してくれるだろうか。ひょっとしたら後を追うのではないだろうか、と心配になる。
雪蓮は当然知らない事ではあるが、演義の孫夫人は劉備が戦死したとの誤報を受けて絶望し、長江に身を投げたという。この世界の孫夫人である小蓮が、涼に万一の事があった際に同じ様な行動をしてもおかしくはないが、それは雪蓮はもちろん、小蓮本人も知らない事である。
仮にそうなった場合でも、最期まで共に出来るのは幸せなのかも知れないとも、雪蓮は思った。
(良いなあ。)
心の中でそう呟くと、本当なら自分が涼と一緒に居たいのに、と続けた。
それがすぐに叶わない事も、当然ながら理解している。雪蓮は孫家の後継者であり、母である海蓮に何かあった場合はすぐに孫家を継ぐ事になる。
そして、そんな自分に何かあれば妹の蓮華に、蓮華に何かあれば小蓮やその子供が孫家を継ぐ事になる。今回の小蓮の徐州行きは徐揚同盟の強化はもちろんながら、孫家に万一があった際の事を考えてでもあった。
「数年の内に結婚する」と同盟締結の時に決めていたが、その数年で事態は大きく変わるかも知れない。その時に傷を最小限に抑えるには、打てる手は可能な限り打つ。今回の事はその一つだった。
(涼と最初に逢ったのが私だったら、どうなっていたのかしら。)
涼に好意を抱いてからそう思ったのは一度や二度ではない。
聞けば、涼が桃香たちと出逢ったのは偶然であったらしい。そして一緒に賊の討伐をする内にその勢力はどんどん大きくなり、今の徐州軍になったという。天の御遣いという立場を考えれば黄巾党征伐の時の様に涼が総大将のままでも良いと思うが、彼はそれを固辞し、あくまで総大将は桃香こと劉備だと譲らないらしい。
理由は分からないが、もしそれに明確な理由があるならば、仮に涼が雪蓮たちと行動を共にしても同じ様にするかも知れない。尤も、徐州軍と揚州軍では事情が違うので、ある日突然揚州軍の総大将が天の御遣いになった、なんて言ったら大混乱に陥って支離滅裂になるかも知れない、いやきっとなると雪蓮は思う。
(となると、結局は徐州軍の様に涼は副将に留めておくしかない……私達の伴侶にして総大将にするという手もあるけど、実績が無い人間が総大将になったらうちは明らかに対立する……か。そう考えると、徐州軍はあれで上手くいっている事になるわね。)
徐州軍の総大将は徐州牧の桃香であり、涼は副将と言える州牧補佐という立場に収まっている。
桃香は中山靖王・劉勝の末裔であり、それはつまり漢王室の縁者という事である。黄巾党討伐や十常侍誅殺、そして今回の青州救援などで実績があり、噂ではいずれ左将軍に昇進するとも言われているが、確かではない。
一方の涼は天の御遣いである。当初は胡散臭い、という声があり、雪蓮もその一人だった。だが、桃香たちと共に黄巾党討伐や十常侍誅殺などで実績を積み、特に十常侍誅殺時は二人の皇太子を救出するという大きな実績をあげた。一部の者しか知らないが、徐州牧には本来涼が任命される筈だった。だが涼はそれを固辞し、徐州牧には総大将である劉玄徳をと願い出た。涼に助け出された恩があり、皇帝に即位していた
そうした両者の経緯と実績を考えれば、徐州軍が劉備派と清宮派に分かれていてもおかしくない。だが、雪蓮が徐州に滞在している間にそれとなく徐州を観察してみても、そうした状況は微塵も見られなかった。寧ろ、徐州の将兵も民衆も二人を慕っており、派閥だなんだという事とは無縁に感じられた。
雪蓮にはそれが羨ましかった。孫軍、つまりは揚州軍は地方豪族の集合体であり、彼等をうまく取りまとめる事で成立している。
つまり、そんな穏たちを取りまとめる事が出来る孫家だからこそ今現在揚州の統治を任されているのであり、もしそれが出来なくなれば、孫家に代わって他の豪族が揚州を治める事になるだろう。
雪蓮たちの母である海蓮はそれをよく理解している為、豪族への配慮は欠かしていないし、常に武勇をあげてきた。今はそこに雪蓮が加わっている為に孫家の影響力は強大になっている。だが、それだけでは安泰と言えないので、打てる手は何でも打っている。徐揚同盟もその一つであり、姻戚関係になろうとしているのもその為だ。もちろん、それだけで結婚しようとしている訳ではないが。
(涼や桃香にどうやって徐州をまとめているか、訊いておけば良かったかしら。)
雪蓮は二人に訊かなかった事を少し後悔した。だが、訊いても無駄だったかも知れない。文官である諸葛亮こと朱里たちは兎も角、桃香や涼はそこまで深く考えていない。只ひたすら、「どうすれば徐州の人達が喜ぶか」だけを考えているのであり、豪族やら派閥やらの事を考えていないのだから。
(まあ良いわ。これからは小蓮が徐州に居るんだし、その内二人に訊いてもらう様、手紙に書いてみましょ。)
もちろん、文章は冥琳に考えてもらうけどね、などと思いながら雪蓮は後ろに居るもう一人の妹の顔を見た。先程、涼と何やら話していた時の蓮華は、今までと違って大きく成長した様に見えた。見えたの、だが。
(相変わらずのしかめっ面ね。ま、理由は涼の事なんでしょうけど。)
雪蓮と同じく馬上の蓮華は何故か機嫌が悪かった。その理由は雪蓮の推察通り、涼の事だった。
(……何で私はイライラしているのかしら。助言通りに小蓮と涼が仲良くなれそうだから、喜ばしい事なのに……。)
徐揚同盟を強固なものにする為には、涼と孫家の娘の誰かが結婚するべきだという事は蓮華も勿論分かっていた。彼女の姉は涼に対し、『三人とも貴方の妻にしても良いのよ♪』という事を言っていたが、孫家の現状では今すぐそれが出来る訳では無いので、あくまでからかっていたのだろう。
雪蓮は孫家の後継者であり、自分はその雪蓮に何かあった場合のスペアだと蓮華は理解している。よって、現状では涼と結婚できるのは小蓮しか居ないのだ。
それは分かっていたのだが、実際に小蓮が徐州に残って涼と結婚すると言うと「馬鹿な事を言うな!」と思ったし、涼が小蓮との結婚について迷っていたのを見た時は「貴方の思う様にしたら良い」と助言もした。その結果、小蓮と涼の同居? が決まった。すぐの結婚は実現しなかったが、徐州側から見れば小蓮という「人質」を得る事になったし、揚州側、というか孫家からすれば「天の御遣いの威光」を更に得て揚州での地位を磐石に出来た。付け加えれば、孫家に万一の事が起きても最悪の事態は避けられるという事も重要だろう。
それなのに、今の蓮華の胸中は晴れていなかった。そこにはまるで今にも雨が降りそうな黒雲が覆い被さっていた。
小蓮が涼から傍に居て良いと言われ、あどけなさの残る顔を喜びに満ち溢れさせているのを見た時は確かに嬉しかった。良かったね、と祝福できた。
だが、次の瞬間、涼に小蓮が抱きついたのを見た瞬間に胸がチクリと鳴った。桃香たちが二人を引き剥がそうとする姿や、雪蓮が混乱に乗じて涼に抱きついた姿を見た時も、よく分からない感情が沸き立った。
それからずっと、蓮華の胸中は一向に晴れない。理由も分からない。
(何なのよ……これは。)
蓮華は何度も理由を考えた。だが答えが見つからない。
彼女がその答えに辿り着くのは、まだ少し先の事である。