そんなこんなで数日が過ぎ、いよいよ徐州軍出立の日を迎えた。
旅立ちには最適の快晴無風の中、徐州軍遠征部隊は青州遠征の時と同じ様に下邳城外に集まっていた。
今回の総数は約八万。青州遠征時の約十万と比べれば少ないが、その大多数は先の遠征に参加していない、休養万全の兵達である。
率いる将も歴戦の名将である関羽、張飛を筆頭に活躍著しい
文官も今回初の筆頭軍師として従軍する諸葛亮とその級友である
この、綺羅星の如く集った文武将官をまとめあげるのは徐州牧であり総大将である劉備。その補佐に義兄の清宮が就く。まさに徐州軍のオールスターキャストである。
今度は下邳城の城壁の上からではあるが、劉備は先の青州遠征時と同じ様に諸将達に向かって演説を行った。そこには関羽たち重臣達だけが劉備の左右に
「かつて、
そこで一旦呼吸を整え、唇を湿らせて再び言葉を紡ぐ。
「私の先祖である
沛は沛県の事を指し、小沛とも言う。後漢時代は豫州に属しており、徐州のすぐ近くに在る。
「その後の高祖劉邦がどうなったかは皆さんご存じの通りです。
この国に生まれ住んでいる者なら誰もが知っている事を敢えて強調するかの様に、劉備は言葉を紡いでいく。
「ですがそれも、二世皇帝や項羽が居なくなったからこそです。もしどちらかが居れば、この国は今滅んでいたかも知れません。」
もし二世皇帝が暗愚でなく、または項羽が自滅しなければ歴史は大きく違っていたかも知れない。そもそも漢王朝は建国されなかったかも知れない。
「今、この国は滅ぶか生き残るかの瀬戸際にきています。かつての桀王や二世皇帝の様な暴君……董卓が畏れ多くも皇帝陛下に反旗を翻し、帝都洛陽では多くの人々が苦しんでいると言います。」
心なしか、若干言いよどんだ気もするが、劉備は続ける。
「私は、偉大なる先祖である高祖劉邦と同じ様に、今ここに打倒董卓の旗を掲げ、皇帝陛下をお救いする為の戦いに挑みます!」
劉邦の様に。そのフレーズを敢えて強調し、利き手を軽く挙げる。
「高祖劉邦も漢王朝を開くまでは辛い日々を送りました。ひょっとしたら、私はそれ以上に辛く苦しい日々を送るかも知れません。……それでも。」
一度言葉を切り、
「それでも私は先祖の名を汚さぬ様、劉の名を持つ者として戦います! そしてその為には皆さんの力が必要です! 皆さん、私と共に正義を成して暴君を討ち果たしましょう‼」
劉備が利き手を高々と挙げながらそう言うと、八万の将兵は皆雄叫びをあげて応えた。徐州軍の士気は否応なく高まったのである。
さて、そんな将兵達とは真逆に士気が下がっている者が居る。他でもない劉備こと桃香である。
「涼
「桃香はよくやったよ。本当に頑張った。」
演説を終えて城壁から離れた桃香は、涙を浮かべながら義兄である涼に抱きついていた。涼はそんな桃香を優しく抱き締めると、幼子をあやす様に頭を撫でる。
「で、でも……私は
「それは仕方ないよ。そうしないと兵達の士気が上がらないし、それに……。」
そこで一旦言葉を切ると、声音を低くして自分と桃香に言い聞かせる様に呟いた。
「居るかも知れない
中途半端に言うよりも徹底的に悪く言う方が将兵の一体感を強くするし、それを聞いたどこかの間者(スパイの事)も徐州軍の動向や目的を勘違いするだろうとの考えでこの様な内容になっている。
ちなみに、桃香の演説内容はあらかじめ軍師達が考えたものだ。
桃香は涙を拭うと涼から離れ、改めて決意する様に頷く。
「そう……だよね。私達がしっかりやれば、その分だけ月ちゃん達を助けられる確率が上がる訳なんだし。」
例えその確率の上昇具合が微々たるものであっても、桃香たちにとっては必要なもの。塵も積もればなんとやら、の精神でやっていく所存なのだ。
涼は意地らしい桃香を微笑ましく見つめた後、出立の合図を出した。それを受けて愛紗たちは皆持ち場へと動いていく。
ただ一人、趙雲こと
「……? どうしたの、星?」
「いやなに、その様にしておられるとお二人は
「「っ!?」」
思わぬ言葉に涼と桃香は同時にむせてしまった。その様子を見て星は可笑しそうに笑っている。
「いや失礼。恋人の様に見えましたが、その息の合い様はやはり兄妹ですな。」
からかっているのだろうか、と涼は思いながら星を見、次いで桃香を見た。桃香は頬に手を当てながら顔を真っ赤にしていた。それこそ耳まで。
それを見て涼も少なからず顔を赤らめた。星は口許に手を当てながらクスリと笑っている。
やがて、涼はわざとらしく咳払いをし、それを受けて桃香も深呼吸をした。
「桃香、先に行って将兵達に顔を見せておいで。出立前できっと緊張している筈だから。」
「そ、そうだね! じゃ、じゃあ私は先に行ってくるから義兄さんも早く来てねっ。……ひゃあっ!?」
慌てて走り出したからか少し躓いて変な声が出てしまっていたが、どうやら大した事はないらしくそのまま走っていった。
涼はそんな
「……で?」
「で? とは?」
「出立の忙しい時にわざわざ残っているんだ。俺か桃香に話があったと考えるのが自然だろ。」
「成程。そして私はまだここに居る。」
「それはつまり、星の話したい相手が俺って事だね。」
星はさっきと変わらぬ仕草で、だがその心情は満足しているという風な表情を作り、次いで言葉を紡いだ。
「私が聞きたいのはただ一点。“覚悟がお有りか”という事です。」
星の表情は変わっていない。口調も同じく。だが、涼にはその言葉が厳しく重く聞こえた。
星は真っ直ぐに涼を見据えている。答えを聞く為に。
覚悟とは何の事か。そんなもの、出立の前に聞くのだから決まっている。
「……どんなに頑張っても月たちを助けられないかも知れない事や、徐州を危険に巻き込むかも知れない事についての覚悟なら、とっくにしてるよ。」
「……ならば結構。迷いは身を滅ぼすと言いますからな。
そう言った星の表情は幾分か柔らかくなっていた。それを見た涼は内心ホッとしていたが、それを星に見透かされていた事は気づかなかった。
その後、二人は集合場所へと並んで向かった。道中、世間話や今回の事を話しながら。
「まあ、不安点と言えば俺達が居ない間の徐州の守りだね。それなりの人物を配した筈だけど、一部はいろいろと懸念材料のある人だったりするから……。」
「その点でしたら心配御無用。留守居には
そう言った星の表情は自信とも自慢ともとれる風だった。
陳到とは正史に於ける劉備配下で、趙雲に次ぐ名声、官位があったとされる人物である。が、陳到に関する記述は殆どなく、どんな活躍をしたかは分かっていない。これは、
その所為か陳到は三国志演義にも登場していない。ただ、その少ない正史の記述を読むと「忠義に篤く勇猛な武将」だったらしく、もし現代に記録が多く伝わり、演義にも登場していたらゲームや小説にも登場して大活躍していたかも知れない。
なお、この世界の陳到はやはり女性であり、真面目な性格の様だ。いつ仕官したのかは判らないが、作者が陳到を知ったのが比較的最近なので仕方がない。いずれ活躍の日も来るかも知れない。……多分。
涼と星は所定の場所に着くと、直ぐ様自分の馬に騎乗した。既に桃香を始めとした諸将は騎乗し終えている。
諸将の中では最後となった涼の騎乗を見届けた愛紗は、利き手を挙げながら号令した。
「旗を掲げよ!」
徐州軍筆頭武将である愛紗の凛とした声が響くと、各隊の旗手が旗を揚げていく。
徐州軍を示す「徐州」、劉備を示す「劉」などのお馴染みの旗に混じって、涼の周りには見慣れない旗が三種、掲げられていた。
それを見た桃香は見たままの疑問を呟き、傍に居る朱里もまた同じ様に言葉を紡いだ。
「あれって……涼義兄さんの新しい旗?」
「その様ですね。一つは孫子の兵法にのっとった物の様ですが……少し違いますね。あとの二つは何なのか見当もつきません。」
流石の名軍師、
掲げられた旗はそれぞれ、
『風林火山』
『誠』
『
と書かれている。
「風林火山」は武田信玄の、「誠」は新撰組の、「厭離穢土欣求浄土」は徳川家康の旗印である。
涼は今回の遠征に大きな願いをしている。それは実現が難しく、だがどうしても成功させたい事である。涼自身には武力は無く、政治力も無い。そんな彼が最後に頼るのは神頼みだった。そしてその神頼みは新しい旗を作る事で実現しようとした。端から見ると何とも無茶苦茶で馬鹿馬鹿しいが、当人は至って本気で真面目である。
その際自身が知る、日本の戦国時代や幕末の有名な旗印の中からいくつか選んだ。
「風林火山」を選んだのは、戦国最強と言われた強さを徐州軍にもたらしてほしいという事と、元ネタが孫子の兵法に由来する事から、孫子の子孫を自称する孫家との繋がりを暗に示す為でもあった。
「誠」を選んだのは、不器用ながらも自分達の道を正しいと思い突き進んだ新撰組に敬意を払い、今の自分達がやっている事が正しいと再認識する為。
「厭離穢土欣求浄土」を選んだのは、本来の意味である“
これら三つの旗に加え、いつもの「清宮」の旗を掲げた清宮隊の陣容は、一見するとまとまりの無い、何とも奇異に見えたかも知れない。
だが、既に触れた様に涼自身は到って本気で真面目である。これらの旗が掲げられ、風を受けてなびいている姿を見た涼は満足し、次いで今回の遠征の成功をこの真新しい三つの旗に祈った。
その光景を見た桃香たちは何を思っただろうか。
涼の並々ならぬ意思を感じ取ったか。
それとも困惑したままか。
はたまた無理矢理にでもその真意を探ろうとしたか。
いずれにせよ、見慣れぬ旗を作ったという事はそこに何らかの意味があると考えただろう。その意味が当たっているかは別にして。
「何か格好いいかも。」
桃香はそう言葉を紡いだ。それが彼女の答えだった。
確かに「風林火山」と「誠」は格好いいと思う。特に「誠」の旗は赤地に白抜き文字、下部に所謂ダンダラ模様があり、現代でもこの隊旗に憧れを持つ歴史ファンは多い。
尤も、この隊旗は現存しておらず、現在有るのは当時の関係者の証言に則って再現されたものである。一方で、新撰組隊士だった永倉新八は後年、隊旗にダンダラ模様は無かったと言っていたりする。
それら二つと比べると、「厭離穢土欣求浄土」の旗は白地に黒で書いているだけである。果たしてこれが格好いいかどうか。義兄に対する贔屓目かも知れない。
そうしたまとまりの無い旗印ではあるが、並べてみるとカラフルと言えなくもない。黒地に金、赤地に白、白地に黒。実は色合いは被っていなかったりする。
「清宮」の旗は義勇軍の頃から何回かデザインが変わってきたが、今は紺地に白というデザインに落ち着いており、先の三つとやはり被っていない。うん、意外とカラフルな旗印になっている。
その清宮隊が行軍の先陣を務める。なのでここに「徐州」という旗も加わる。更にごちゃごちゃしてきたが仕方がない。
清宮隊は
総勢八万もの大軍の行軍である。城下の人々は皆その光景を見送った。
その多くは大切な家族や親友、恋人を見送る為であり、残った者の心情は果たしていかばかりか。ただただ、無事に戻ってきてほしいと願うばかりだろう。