曹操軍は、徐州軍、孫軍と比べれば素早く動いていた。
いち早く自陣に戻った華琳は直ぐ様指示を出し、明日の出立に向けて万全の準備を進めていった。馬車の整備、武器の確認、兵士の士気を維持する為に造った舞台の撤収等々、やる事は山積していたが、桂花や
一通り指示を出し、自らも出来る事をやった。そうして日暮れ前には早々と明日の準備が全て終わった。
「ん……。」
天幕の中、一人休憩をとる華琳。組んだ両手を頭上に上げる。背骨が伸びる様な感覚が伝わる。ついでに背も伸びれば良いのにと思う。決して口には出さないが。
「華琳さま、お忙しいところ申し訳ありません。今よろしいでしょうか?」
外から声を掛けられる。幼い頃から何度も聴いてきた二つの声の一つ。華琳がこの声を聞き間違える事は決してない。
「良いわよ。入ってらっしゃい、
華琳が真名を口にすると、水色の髪の女性が「失礼します」と言いながら天幕の出入り口から現れる。秋蘭こと
「どうしたの? 何かあったのかしら。」
「いえ、華琳さまが懸念される様な事は何もありません。ただ……。」
「ただ?」
「あの二人が兵士の士気を上げたいと申してきまして。」
今の華琳にとって
「兵士の士気を上げるのはとても大事よ。けど、既に舞台は撤収したじゃない。また舞台を組むのは時間と体力の無駄よ。」
「私もそう言いましたが、二人は“歌えるなら舞台が無くても良い”と申しており、どうしたものかと。」
「ふむ……。」
それを聞いて華琳は口許に手を当てて暫し考え込む。
現代にある様な便利な工作機器などがないこの世界では、舞台を造るのも一苦労である。だからこそ、帯陣してからずっと設置していた舞台を今日の内に片付けると決め、その通りにした。
間もなく夜の帳が落ちる。今から舞台の再設置は現実的ではないので却下しようと思った華琳だったが、舞台が無くても良いのなら当然考えも変わる。
「分かったわ。兵士達の士気の高揚と維持に彼女達の歌は必要不可欠。許可するから思いっきりやりなさいと伝えなさい。」
「はっ。」
「その代わり、明日の出立に影響が出ない様に無理をしないで、ともね。」
「ふふ……分かりました。」
華琳の許可を貰った秋蘭は一礼して天幕を出ていった。天幕の中には再び華琳だけとなった。人の動きは天幕の中に居ても感じられるし、出入り口には見張りの兵士が居る筈だが、少し寂しさを感じる静かさが訪れた。
だからだろうか、華琳は沈思黙考すると誰に聞かせるでもなく言葉を紡いだ。
「今夜は私も聴きに行こうかしら。」
そう一人ごちると、もう一度両手を組んで頭上に上げ、伸びをする華琳。意図せず甘い吐息が漏れる。
明日、洛陽に向けて出立すれば、いつ董卓軍と戦闘になるか分からない。そうなればこんなにのんびりとした日は当分来ないだろう。下手をしたら将兵だけでなくあの二人も失うかも知れない。そうなっては大きな損失だし、そうはさせないと華琳は思う。
伝える必要が無いと思った。伝える事で起きるかも知れない損失を考慮すれば当然といえた。
そもそも、同盟関係だからといって何もかも教える必要はない。恐らく涼や雪蓮だって全てを華琳に見せてはいないだろう。そうでなければ一軍を率いる事は出来ない。
だからこれで良いと華琳は思う。ただ、それと同時に、
「いつか涼たちにも彼女達の歌を聴かせたいわね。」
とも思った。
単に自慢したいだけではない。彼女達の歌は華琳が認める程に素晴らしいものであり、絶対に聴かせるべきだと思ってる。万人受けするかは分からないが、少なくとも気に入る可能性は高いと自負している。
華琳が傍に置いているだけあって、二人の容姿も抜群である。異性である涼は特に気に入るだろう。
「……何故かしら。ちょっとイラっとしたわ。」
原因は涼が二人を気に入ると想像したからか、二人が華琳よりスタイルが良いからか、もしくはその両方か。
何にせよ、華琳は暫し休息をとった後に二人の歌を聴きに行き、常の様に満足し、その夜は気持ち良く眠りについたのだった。
徐州軍、孫軍、曹操軍はこの様に出立前日を過ごしていった。
勿論、彼等と同じ様に他の軍もそれぞれに準備をし、各自万全の状態で出立の日を迎える事となった。