桃香は体を折り曲げて額を床に擦り付け、両手を頭の両端近くに置いている。
それは所謂「土下座」の姿勢になっていた。
この時代に土下座という行為と言葉があるかは不明だが、とにかく桃香はその姿勢のまま話し始める。
「……私は、孔明さんに謝らなければなりません。ですから、こうして床に膝を着け、頭を下げているのです。」
「私に……謝る?」
孔明は桃香が何を言っているのか理解出来ないでいた。
先程迄、あれだけ知略や弁舌を披露していた孔明が、目の前に居るたった一人の少女の思考を読む事が出来ないのである。
孔明は、桃香が自分に対して何を謝ろうとしているのか考えた。そんな孔明の頭の中に真っ先に浮かんだのは、桃香達が自分を徐州に連れて行こうとしている事だった。
だが、それは桃香達の旅の目的であり、今こうして話しているのもその為である。
それなのに謝るというのは不自然だ。謝るくらいなら初めから話し合いをする必要は無いのだから。
それからも孔明は幾つか心当たりを思い浮かべたが、どれも謝るという程のものではない。
結局、理由が思い付かなかった孔明は桃香に訊ねた。
桃香は顔を伏せたまま答える。
「……実は、私が孔明さんと話した内容の大半は、私自身の言葉では無いんです。」
「……どういう事ですか?」
孔明は戸惑いながら桃香の独白を聞く事にした。
「私は、私の義兄……清宮涼からの助言をそのまま口にしたに過ぎないんです。」
「そのまま……?」
「はい。例えば、孔明さんが“玉を捨てて石を拾う様なもの”と言ってきたら、“石を玉と見せようとしてもダメな様に、玉を石と言われても誰もそうは思いません”と答えると良い、と言われたので、私はその通りに喋っただけんです。」
「……つまり、清宮涼さん、いえ、“天の御遣い”は私がどう考え、どう話すか
「そうかも知れません。私も、今日孔明さんと話す迄は半信半疑でしたけど、孔明さんの言葉の中に幾つも“聞いていた言葉”が出て来た時は、やっぱり義兄さんは天の御遣いなんだなあと再認識しました。」
依然として顔を伏せたままだが、その声からは誇らしげに微笑んでいる表情が容易に思い浮かぶ。
そんな桃香を見下ろしながら、孔明は思案に耽っていた。
(どういう事……? 確かに、相手の行動を読むのは兵法にも有る。だけど、見ず知らずの人間の言葉を予測するなんて事、普通は出来る筈が無い……。噂通り、天から来た人物だから出来たという事なの?)
孔明の疑問は尤もだ。幾ら雪里から話を聞いているとしても、一度も会った事が無い人物の思考だけでなく発言迄予測する事等、不可能と言って良い。
これが、相手を少しでも知っているのならば未だ理解出来る。
例えば、兵法書で有名な孫子(
その言葉通り、
だが、清宮涼は孔明と会った事も話した事も無く、雪里の話だけで孔明の行動や言動を予測している。
「孫子」「
いや、恐らくこの国に居る誰であろうとこんな事は無理だろう。
尤も、天の御遣いこと清宮涼がこんな予測を立てられるのは、「三国志」に関する様々な書物から得た知識が有るからである。
勿論、そんな事を孔明は知らないし、桃香も知らないのだが。
だが、そうした事実は孔明の知的好奇心を揺さぶるのに充分だった。
(……この国の様々な書物を読んで、知識を頭の隅々迄記憶する様に勉強してきたつもりですが……世の中には、まだまだ私の知らない事が沢山有るのですね。)
先程迄戸惑っていた孔明の口許が、いつの間にか綻んでいる。
解らない事に対する恐怖心は残っているし、戦争に対する忌避はまだあるが、それ以上に、知らない事を知りたいという探究心が彼女の心を突き動かしている。
(それに……。)
孔明は未だに顔を伏せたままの桃香に目をやる。
(私を連れて行きたいのに、わざわざ言わなくても良い事を正直に話してくれた玄徳様。私は、玄徳様のその素直で正直な性格にも惹かれ始めている……。)
孔明はしゃがみ込んで桃香の手をとる。
「玄徳様、どうかお顔をお上げ下さい。そうしてもらわなければ、私はどうして良いのか解らなくなります。」
「ですが……。」
「玄徳様、先程の会話の中に玄徳様御自身による言葉は有りましたか?」
「はい、勿論有りました。流石に、涼義兄さんも会話の全てを予測する事は出来ない様でしたから。」
そう言いながら桃香は僅かに頭を上げる。
「でしたら、玄徳様は御自身の言葉で私を説得しています。なので、頭を下げる必要はないのです。」
「孔明さん……。」
そこで漸く、桃香は頭を上げた。
それと殆ど同時に孔明は桃香の手を両手で握り直し、その瞳を見詰め続け言葉を紡ぐ。
「玄徳様の人を想うその気持ちに、私は心をうたれました。そして、そんな玄徳様の義兄であり“天の御遣い”である清宮様にも、興味が出ています。」
「え……それじゃ……?」
孔明の言葉を聞いた桃香の表情が、まるで花が咲いた様にパッと明るくなった。
そんな桃香を見詰めながら孔明は頷き、言葉を続ける。
「はい。大した力も無い私ですが、共に国事に尽くしましょう。」
「あ……有難うございます、孔明さんっ!」
「“朱里”、です。」
「えっ?」
「私の真名です。これからお仕えする方に真名を預けるのは当然ですから。」
「なら、私の事も真名の桃香と呼んで下さい、朱里さん。」
「はい、桃香様。」
桃香はそう言うと孔明――朱里の手を握り返してニッコリと微笑み、朱里も同じ様に微笑んだ。
これが、後に名軍師と謳われる諸葛孔明が世に出た瞬間だった。