そんな感じで、涼の滞在時は色々なドタバタがついて回った。
お陰で余り休息にならなかった気もするが、後になって振り返れば、間違いなく休息になったと言える。
涼達の建業滞在は、計四日になった。本当はもう少し早く旅立ちたかったが、兵達の休養に時間を要した事、孫一家による接待等で遅れてしまった。
それと、もう一つの理由がある。
「涼、呂蒙を連れて来たわよー。」
「……えっ?」
兗州の曹操こと華琳の許へと出立する日の朝、雪蓮はそう言って一人の少女を連れて来た。その少女は黒に近い茶髪を三つ編みの様に二つのお団子ヘアにしている、どこか気弱そうな子だ。
「えっ? えっ?」
「何をそんなに驚いているのよ。」
「いや、だって呂蒙が居るって事は、明命が汝南迄行って帰って来たって事だろ? 幾ら何でも早過ぎない?」
「普通ならね。けど、明命なら可能なのよ。ね、明命。」
そう言うと、雪蓮の視線が涼の後ろに向かう。それに気付いた涼が後ろを向くと、そこにはいつの間にか明命が立っていた。涼は驚いた。
そう、涼が今日迄ここに留まっていた理由は、明命が呂蒙を連れて来るから暫くここで待っていてほしいという雪蓮の頼みをきいたからだ。
本来なら、涼達の用事を早く済ませないといけないので断っても良かったのだが、涼は雪蓮の情事の誘いを断っていたので後ろめたい気持ちがあり、彼女の誘いをこれ以上断る事は難しかった。
それに、雪蓮が言うには明日、つまり今日中には来るだろうという事だったので、それくらいなら待とうと思った。もし、一週間待って、と言われていたら流石に待てなかっただろう。寧ろ、地理的にはこちらから行った方が早いかも知れない。
とは言え、涼は常識的に考えて車も飛行機も無いこの世界で、四日で呂蒙を探し出し、往復する事は不可能だと考えていた。だが、今目の前には呂蒙らしき少女が居る。
雪蓮の性格を考えれば、わざわざ赤の他人を呂蒙と偽って連れて来ないだろう。となれば、この少女は呂蒙本人だと考えられる。
「……何か怯えている様に見えるけど、何かした?」
「何もしてないわよ。ちょっと説得して、無理矢理来てもらったくらいよ。」
「それ、充分酷いからっ!」
涼は雪蓮に怒りながら呂蒙と思われる少女に謝った。まさかこんな強引な手に出るとは思いもよらなかった様だ。
思い返してみれば、あの時雪蓮は「見つけたら力尽くでもここに連れて来る様に」と言っていた。
涼は頭を抱えながら、今は取り敢えず呂蒙についてどうにかしなければならない。
図らずも、自分の言動の所為で彼女はここへ連れて来られたのだ。彼女へのケアは出来るだけ自分がしなければと思った。
「えっと、初めまして。俺の名前は清宮涼、徐州の州牧補佐をしている。……君が呂子明で間違いないのかな?」
「は……はい、私の名前は呂蒙、字は子明、です……。…………きよみや、りょう、さん?」
呂蒙は涼の問いに答えると、俯けていた顔を上げ、涼の顔を見た。
その瞬間、怯え、震えていた彼女の表情は一変した。
驚き、涼の顔を凝視する呂蒙の頬は段々と紅が差しており、朱色の両眼はキラキラと輝き、右眼はモノクルを付けている事もあって特に光っている。
服は平民の物で、現代風に言うなら小豆色のワンピースの腰の部分に緑色の帯を巻いている様な感じ。そこから伸びる白い手足はスラっとしていて、だが細過ぎず、バランスのとれた体躯をしている。
胸は一見小さく見えるが、実際はそんな事は無く平均かそれ以上の大きさなのだが、孫軍の面々の殆どが規格外の大きさの胸の持ち主という事もあってか感覚がおかしくなっている様だ。
その呂蒙が、ジーっと涼を見詰めている。
涼は何故こんなにも見詰められているのか判らなかったが、暫くして彼女が口にした言葉で納得した。
「あ……あの、きよみや、りょうさんとは、あの“天の御遣い”と呼ばれている“清宮涼”様の事ですか?」
所々詰まりながらも、そう言った呂蒙。身長の関係上上目遣いになって可愛いなと涼は思ったりしたが、それは置いといて彼女の質問に答えた。
「一応、そうかな。自分ではあんまり自覚無いけど。」
「や……やっぱり! あ、あの、失礼しましたっ‼」
頬を人差し指で搔きながら、照れる様に言った涼。それに対して呂蒙は、再び驚くと慌てて両手を平伏時の形に組み、体ごと頭を下げて、まるで皇帝陛下に拝謁するかの様に恭しくなった。
「知らなかったとは言え、
「え、えーっと……。」
呂蒙の行動に戸惑う涼。こんな時は何て返せば良いのか判らない。笑えば良いのだろうか。
「これが貴方に対する一般人の認識よ。少しは解ったかしら?」
「う、うん。充分過ぎる程に。」
涼は尚も戸惑いながら対応を考えつつ、そう答えた。
まさか、自分に対してここ迄恭しく接する人が居るとは思いもよらなかった。
勿論、今迄も自分に対して恭しく接する人が居なかった訳ではない。だが、自分自身が元々普通の一般人であり、堅苦しいのが嫌だという事もあって、周りの人は比較的普通に接してくれた。それは、徐州の州牧補佐となった今も変わらず、桃香達と共に政治を行っている下邳や、隠居した陶謙が居て第二の州都とも言える彭城の民も、最初はそれなりに恭しく接していたものの今では比較的フレンドリーに接してくれている。勿論、それでも州牧補佐や「天の御遣い」として接しているが。
そんな風に暮らしてきた為、目の前の呂蒙の様に多少大袈裟とも言える対応をされると涼は非常に困ってしまう。
彼はこの世界に来てそれなりの月日を過ごしてきたが、今も普通の高校生という気分で居るのだから。
その為、涼は何とか現状を変えようと動く。
「と、取り敢えず、そんなに畏まらなくて良いですから、顔を上げてください、子明さん。」
「あ、
「えっ?」
「私の真名です! どうか受け取ってください!」
「……え、ええええっ!?」
だが、呂蒙の発言で現状は更に混乱する事になった。
彼女は自身の真名を涼に預けると言った。真名というこの国、若しくはこの世界独特の文化、風習がどういった意味を持つかを、こことは異なる世界から来た涼でもよく知っている。
真名は神聖なものであり、その名を口にして良いのは本人から認められた者のみ。それ以外の者が口にした場合は、殺されても文句は言えない。
その真名を預けられるという事の重大さを知っている涼は、呼吸を整えてから呂蒙に訊き返す。
「し、子明さん。急に真名を預けるなんてどうしたんですか!?」
「そ、それは……一つは、先程の無礼に対する謝罪の意味を込めていまして……。」
「そんなに気にしないで良いですよ。寧ろ、気にされ過ぎるとこっちが困ってしまいます。」
「す、すいませんっ。け、けど、も、勿論、それだけでは無いのでしゅっ。」
涼の気遣いに却って畏まってしまった様で、呂蒙は言葉を噛んでしまった。それを見た涼は、徐州で留守番をしている鳳統こと雛里を思い出した。
呂蒙は言葉を噛んだ事で赤かった顔が更に赤くなったが、何とか落ち着きを取り戻して言葉を紡ぐ。
「あ、あの……先程御遣い様を見た時、私は今迄に無い感覚に陥ったのです。」
「今迄に無い感覚?」
「はい。御遣い様のお顔を見た時、何故か私は動けなくなりました。勿論、その時間は短かったのですが、動ける様になってからも私は中々動けず、只々御遣い様を見詰める事しか出来なかったのです。」
「そうだったのか。不思議な事もあるもんだな。」
「子明さんの身に起きた現象は一体何なのでしょう……。」
(おいおい。)
涼、呂蒙、明命の三人の会話を聞いていた雪蓮は呆れながら心の中でツッコミを入れた。普段は冥琳の役目である。
(どう考えたって、それって彼女が涼に“一目惚れ”したって事じゃない! 年頃の男女が三人も居て、どうしてそこに考えが到らないの!?)
雪蓮は「年頃の男女」である涼達を見ながら人知れず溜息を吐く。幾ら世の中が乱れているとはいえ、恋愛に疎い人物が身近に三人も居るとは思わなかった。しかも、その内の一人は自分の婚約者であり、少しばかり体を重ねた相手である。
(……涼って、時々解らないわ。)
清宮涼。異世界から来たという、雪蓮より年下の少年。年齢で言えば妹の蓮華の方が釣り合いがとれるだろう。実際、先の同盟締結の場で蓮華や末妹の小蓮との結婚を可にしているのは、そうした事も考えた結果だった。
これ迄の経緯を考えると、涼の恋愛経験はそれなりにあるのだろう。少なくとも、年上の女性を何度も満足させる技術を得るくらいには。
それなのに、今の涼は目の前に居る少女の反応が、特別な好意だという事にすら気付いていない。当の少女本人が自身の気持ちに気付いていないのも要因かも知れないが、それにしても鈍い。
(これだと、蓮華を焚きつけるだけじゃなく、涼も蓮華を意識させるしか無いわね。)
涼に関しては孫家の事を考えてそう思った雪蓮だが、同時に呂蒙については敢えて教えない方が良いとも思った。
何せ、彼女の一目惚れの相手は、今日にも此処を発つのである。好きになったその日に逢えなくなるというのはかなりの悲劇ではないだろうか。
あと、立場の問題もある。幾ら涼自身が否定しても、この世界に於ける彼の立場は下手をすれば皇帝とほぼ同じである。少なくとも、一般の人々の認識は先程の呂蒙の反応と同じといって良いだろう。
そんな人物に対して、王族でも無ければ貴族でもない、これといって地位が無い平民の少女が恋に悩んだらどうなるか。只でさえ萎縮している彼女が、更に萎縮し心身を壊してしまうのではないだろうか。
そうなっては、折角涼が教えてくれた人材を失ってしまう。それは呂子明という人材を失うというだけでなく、孫家にとって大きな痛手になってしまうかも知れない。未だ会って僅かな時間しか経っていないが、雪蓮はそう思った。彼女得意の勘というやつかも知れない。
(まあ、取り敢えずは彼女の実力を見ましょう。全てはそれからね。)
相変わらず続いている三人のツッコミ不在の寸劇を見ながら、後に「江東の小覇王」と呼ばれる事になる孫策こと雪蓮はこれからの事を考えていた。