都心から少し離れたところにある貿易港、その港のコンテナ置き場に、爛々としたとても強い光が溢れていた。
その光は、現在進行形で赤く、妖しく揺らめきながら、倒れている“それ”を包み、文字通り焦がしていっている。
髪の焼けた、タンパク質が燃やされたような独特な臭いを発し、倒れた“それ”は皮膚、肉、筋肉、内臓と体の表面から深部へと順番に溶かされ、最後には骨すらも炭化し、生き物だったものは完全な炭屑になってしまった。
商業の一端を担う重要な役割を持っていたであろうこの港は、夏の気候特有のジメジメとした湿度の高い空間に磯臭さと鉄の錆びた生臭さが充満しており、その空間に留まるだけで気分を害してしまう火災現場と化していた。
とてもじゃないが、この場所が三時間前まで様々な職種の人々が社会の歯車として働いていた、活気の溢れた貿易港だったとは思い難い。
今は深夜二時、そんな火災現場で炎は猛るように燃え盛り、辺りを赤く照らす。
人気なんて有るわけがないそんな場所で、ある少女が炎の中を走っている。
まだ高校生くらいの年なのだろう、Yシャツの上からブレザーを羽織り、膝丈より少し上のスカートを穿いている少女は、後ろにいる誰かから逃げ惑っていた。
年頃の肉付きの良い肢体を包む衣服は、所々炎で焦げ落ち、白い素肌は火傷で赤い水膨れができている。
手入れされていたロングの黒髪も焦げ、顔中すすだらけになってでも、少女は走るのを止めない。ここで足を止めることは死に直結すると、理解しているからだ。
「逃げても無駄よ。私からは、絶対に逃げられないもん!」
少女の後ろから、高圧的な女の声が聞こえる。
少女と追跡者の逃走劇は、一時間前から続いていた。少女はコンビニで目当ての商品を購入し、家に帰るところだった。そこに急に追跡者の女が現れ、執拗にまで追いかけてきたのだ。
追いかけられる心当たりなぞ少女には無い。だが、現実に少女は追いかけ回され、そして命の危機に瀕している。
なんでこんな目に、と現状の理不尽さを嘆いた。
その瞬間、少女の足元に炎が着弾した。
「きゃあぁっ!?」
急に飛んできた炎は着弾したするやいなや、ゴウッ!!と音をたてて瞬く間に弾け飛び、少女の足を燃やす。その熱量は尋常ではなく、少女の履いていた革靴を溶かし、少女の足首からは何かが炭化したかの要に煙がたっている。
それでも少女は何とか焦げた足を引きずりながら、コンテナ置場の陰に身を潜める。
たがもう、そこで限界だった。
少女の足は一歩も動かなくなり、鉄のコンテナを背に座り込んでしまう。
逃げなくてはいけない事を、脳は体にうるさいほど警告してくる。しかし、逃げるための足そのものの機能が、殆んど死んでいた。
コツ、コツ、と近くからコンクリートを踏むハイヒールの靴音が響く。
少女が逃げている間、人気のないこの貿易港で、ずっと炎の燃え盛る音とこの靴音だけしか聞こえなかった。
少女と追跡者以外、この場には誰もいなかった。少女を助けるヒーローは、存在しない。
コツ、コツ、と再び鳴る。先程よりもじょじょに靴音が近づいて来る。確実に、迫ってきている。
(来ないで、どうか来ないで!)
陰に隠れながら少女は必死に祈るしかなかった。
どうかこの危機が去ってくれますように、どうか見つかりませんようにと、いるかも分からない神様に祈り続ける。
膝と頭を抱え、場所をばれたくない一心で体の震えを手で押さえこみ、息を殺す。すこしでも音をたてれば直ぐに見つかる。
(神様、神様ぁ!!)
そして、しばらく靴音が聞こえなくなったかと思うと。
コツ、と頭を抱える少女の正面で、靴音がなった。
少女は、ゆっくり顔を上げる。そして、確信する。
この世界に神様なんて、居なかったのだと。
「全くぅ、手を煩わせるんだから」
目の前に立っていたのは、件の追跡者だった。中学生くらいの幼い女の子の風貌をしたその人物こそ、少女を焼こうとした追跡者だった。
金髪のツインテールにルビーと見紛うほど輝く碧眼、赤黒いドレスを身にまとい深紅のハイヒールを履いたその少女の姿は、人形か何かかと思うほど完成された美しさだった。
「やっと見つけたよぉ。どうせ死んじゃうのに、見苦しく逃げ回っちゃって。私でもさすがに覚悟を決めるのにぃ、みっともない人なんだね」
そんな美しい姿からは想像もつかないほどの高圧的かつ嘲笑的な言葉が、可愛らしい小さな口から吐き捨てられる。
その目は先程まで逃げ回っていた、目の前の少女に対する侮蔑と同情の色で染まっており、「可哀想ね、これから貴方は私に殺されちゃうのよ」と言わんばかりだった。
この時点で少女は、もはや肉体だけでなく、自分の心までが限界を迎えているのを感じていた。
「ほら見てよ、お姉ちゃんが逃げ回っていたせいで他の人まで死んじゃったぁ。お姉ちゃんのせいなんだからねッ!」
追跡者はそう言い、少女に向かって重そうに何かを放り投げる。放り投げられた何かは、少女の目の前で横たえる形で落下する。
何を投げたのか、少女が目を見やる。それは、少女よりも大きい何かの炭だった。
それも、人の形をした。
「ヒッ……!」
誰かが殺されたのだ。この少女の手によって。そして他でも自分自身のせいで、この誰かはむごたらしい形でその生を終えてしまった。
それを意識した瞬間、少女は例えがたい吐き気と頭痛を覚える。
人が死んだという事実のグロテスクさ、そして自分はその人を間接的とは言え殺してしまったという罪悪感が、まだ高校生である彼女の身には堪えられず、思わずえづく。
手や足、頭といった体全体の形を保った炭はよりその少女の心を追い込み、磨耗させるのにはあまりにも充分過ぎた。
震えを押さえ込んでいた体はガタガタと故障した機械のように振動し始め、澄んだ黒い瞳は大量の涙を流しながら濁っていく。喉の奥からは嗚咽が漏れ、呼吸をすることすら難しくなる。
惨めに少女は泣き散らし、恐怖で体を揺さぶらせる。
むしろ、そうすることしか出来ないのだ。もはや詰みだと、自分に出きることはもうないと理解してしまったのだから。
「た、たす、助けて、助けてぇ……」
「あらあら。涙で綺麗なお顔をグシャグシャにして、私に命乞ぃ?お姉ちゃん見たところ私より年上のようだけど、年下にそんな醜態を見せてさぁ。恥ずかしくないのぉ?フフッ!アハハハハハハッ!!可哀想すぎて、私お姉ちゃんを見逃したげたくなっちゃう!」
目の前の自分よりも年上の人物が惨めたらしく命乞いをする様に、追跡者である少女は愉悦を感じ、嗜虐的な笑みを浮かべたままお腹を抱えてゲラゲラと笑う。笑いすぎて少し苦しいようで目のはしには涙がたまっている。
「でも、ダァメ!プライベートならまだしもぉ、今回はリリーちゃんのお仕事だから!せっかくいい感じの命乞いをしてくれたのにゴメンねぇッ♪静香のお姉ちゃん!」
ひとしきり笑った後にリリーと名乗る少女が告げたのは、あまりにも無慈悲な死刑宣告だった。
その宣告に絶望する少女──静香の前で、リリーは手をかざす。
かざした手を中心に熱が集まっていき、やがて拳程度の大きさの火球が形成された。その火球の放つ熱量は凄まじく、リリーと少女までの距離は十メートルはあるというのに、まるで肌のすぐちかくで燃え盛っているように熱い。
「誰か!助けて!誰かぁ!!」
頭を両手で抱え、ただただ叫ぶ。誰でも良い、だから私を助けて欲しい。その一心で助けを呼ぶ。だが──
「キャハハハッ!無駄だよお姉ちゃん、ここの港に居たのはそこの炭になった男だけ。それに、今この港一帯は情報規制されてて、近隣の住民どころか消防隊や警察すら入れないように細工されてるのぉ♪だ・か・らぁ、助けを呼んでも誰も来ないよ。残念だったね、お姉ちゃんッ!」
──そんな静香の叫びを嘲笑うかのようにリリーはあっけらかんと告げた。その言葉から言外に、「諦めた方が楽だ」といったニュアンスがありありと伝わってくる。
そして、もう自分に出きることはないと、理解する。
「あぁ、ああぁ……」
その一言、たった一言で静香の心は、完全に折れてしまった。叫ぶことも止め、体を硬くさせるのも止め、ただただ涙を流し喉から嗚咽を漏らしながら、鉄製のコンテナの壁に寄りかかった。
叫ぶことも体を強ばらせるのも、無駄だと理解した静香に出来るのは、涙を流して座り込むか一時間前の自分の行動を悔やむことぐらいだった。
「じゃあね、お姉ちゃん。また来世で!」
リリーは凄まじい熱量を持った火球を何でもないように握りしめ、思い切り振りかぶる。
避けようとすら、思わなかった。それだけ静香は絶望したのだ、この理不尽な世界と無力な自分に。
自分はこの後、火に焼かれ目の前の人だった物のような炭になるのだろう。だが、これ以上何かに期待してその度に絶望する事に、耐えられそうになかった。それならいっそのこと、楽になってしまいたかった。
火球が投げられようとする光景を前に、静香は涙を流しながら、目をつぶる。
(死にたく、ないな……)
もう無理だと分かっている。それでも、最後までそう思ってしまう。死の恐怖は、静香が思った以上に振りほどけるものではなかった。
(もっと生きて、いろんな事を、したいのに……)
そんな思いを余所に、無情にも火球は投げられる。
「待ってもらおうか、そこの嬢ちゃん。その子はやらせないぞ」
──はずだった。
誰も居なかったはずの港に突然、誰かの制止の声がする。その制止の声で静香への攻撃は中止され、ひとまずではあるが、体が炭化するという事態を避けられた。
(まさか、助けに来てくれたの?私の為に、危険を省みずに!)
誰がが助けにきてくれた事実に静香は喜び、同時に後悔した。
助けに来たくれたのは、確かに嬉しい。そのお陰で静香の心は救われたし、私のために助けてくれたと思うと、感謝の念でいっぱいだった。
しかし、同時に自分が助けを呼んだばかりに、死ぬかも分からない危険な場所に呼び込ませてしまったことに、後悔してもいた。
これは少女が暴漢に襲われているだとか、そういうレベルの話ではない。今の静香を救うには、この港一帯を火の海に変え、更には情報規制なんて真似をできるような人物を相手にしなければならないのだ。正直そんな相手に挑むなど、正気の沙汰ではない、自ら死ににいくようなものだ。
それでも、その声の主は来てくれた。
「誰よ、あなた!ここは誰も入れないように、規制されてるはずよ!?なんで居るの!?」
「嬢ちゃん、こんな大掛かりな下準備で襲うとは、さてはファントム・ソサエティの一員だな?」
「ッ!?なぜその名前を……!」
「やはり、奴等の一員か!ならば貴様を倒す!!」
謎の声はリリーに対しそう啖呵を切り、敵意をあらわにする。しかし肝心の声の主の姿は見えない。声の元を探ろうとしても、コンテナが密集してるせいで声が反射して分からないのだ。
おそらくコンテナの陰に潜みながら、乱入者は話しているのだろう。そのせいで乱入者の姿を見つけることが出来ない。
リリーも静香も突然現れた乱入者を探そうとするが、二人が必死で辺りを見回しても、一向に見つかる気配がない。
しかし、声はどう考えても二人に近いところから響いてきている。近くに居るはずなのに、どこに居るのか見当もつかない。
「クッ!何処にいるのよ、出てきなさい!さもなくばこの子を港ごと、私が消し炭にしちゃうわよッ!!」
「だ、ダメです!私のことは放ってください!貴方まで私のせいで、命をおとしてほしくないんです!」
探せど探せど見つかることの無い乱入者に痺れを切らし、リリーが苛立ったような声で乱入者を脅しつけるのを聞いて、静香は逃げるように呼び掛ける。これ以上、自分のせいで人が死んでほしくないからだ。
「いいや、俺は逃げやしない。ファントム・ソサエティの陰謀を、黙って見過ごせるものか!」
だが、乱入者は逃げない。大人のような渋く威厳のあるその声で、リリーと戦う確固たる意思を伝える。
「全く、二人して何処を見ている!俺は貴様たちのすぐそばに居るというのに!!」
乱入者のその挑発がきいたのか、リリーは取り乱す。すぐそばに居るという言葉に明らかに焦り、首を縦へ横へ振り周囲を必死で探す。
「ファントム・ソサエティとあろうものが呆れたものだ!ここだ!!俺はここに居るぞぉ!!!」
叫ぶような乱入者のその声で、リリーも静香も声の出所が何処か分かる。
そして、静香は気付いた。
横たわっていた全身真っ黒の人の炭が、グリンッと首を回してこちらを見ていることに。
そしてその炭と、目があってしまったことに。
「キェエエエエアアアァァァ!!!シャベッタアアアアアアアアアアァァァァァァア!!!」
腹の底から悲鳴をあげる。
それもそうだろう。目の前の炭が突然喋り、爛々と光る目でこちらを見てきているという、Xファイルも顔負けオカルトマニアも逃亡必死の怪奇現象が発生しているのだから。
あれほど取り乱していたリリーもこの光景をみて口をただただ開けて固まっている。
「大丈夫、俺は君の味方だ。怖がらなくて良い」
「ぅわキモ……」
悲鳴をあげる静香に優しく炭男は笑いかけるが、笑いかけたせいで全身真っ黒なのに目は赤く光り白い歯が見えるという気持ち悪い姿になってしまう。
さながら某殺人蝶ネクタイ少年の作品に出てくる全身黒タイツの犯人のような格好だ。
もし第三者が端からこの状況をみたら様携帯を取りだし「二人の少女が全身黒タイツに襲われている」と通報されて炭男は冤罪で逮捕されてしまうだろう。
静香があまりの衝撃と気持ち悪さに目眩を起こしていると、リリーがやっと硬直から解かれ立ち直る。
「ふ、ふん!ま、まで、まだ生きちぇいたとはお、思わなかったわぁ!しし、しぶといひひひ人ねぇッ!?」
「噛みすぎぃっ!?この状況に驚くのには分かるけど落ち着かない!?」
「うううう、うるさいわねぇ!!?私だって今凄く恥ずかしかったんだから追及しないでよぉっ!!」
しかし完全に立ち直れては居ないようで先程まで怯えていた静香が思わず突っ込む程に話す言葉は全部噛み噛みだ。
炭男はリリーのその言葉に反応するように、今度はリリーのほうへ首を回す。
「表面コンガリ中ジューシーに仕上げる火加減。そしてオリーブオイルを使わない姿勢。恐れ入ったぜ、貴様の肉焼きスキルは中々の技量だ」
「いや肉は肉でも焼き人なんだけどぉ!?グルメ雑誌特有のくどい言い回しで誉められても困るわよぉ!?あとなぜオリーブオイル!?」
「だが、相手がわるかったな!そんな炎、この俺にとっちゃ日焼けサロンの紫外線みたいなもんだ!!」
「焼けすぎだよ!?焼きすぎて炭化しちゃってるよ!?というかなんで炭になってもまだ生きてるの貴方ぁ!!」
「なに?この俺が何者かって?」
「え、いやそんなこと言ってn……」
「ぅい~だろぅ!冥土の土産だ教えてやる!」
「聞いてなぃ!?」
もはや会話ですらない対話をリリーと交わしながら、真っ黒黒助の炭男はおもむろに立ち上がる。
「コメディアン・ナイトストーカー。それが俺の名前だ!貴様らなら、この名前に心当たりが有るだろう!!この、俺の名前に!!」
自分の名前を名乗るその姿は、正に威風堂々。心なしか真っ黒の体から白い後光が指しており、その光で身体中の黒さが際立ってしまい、とてもキモい。
「コメディアン……ナイトストーカーですって!?」
『コメディアン・ナイトストーカー』という名前を聞いて、リリーは目を見開く。
リリーからは憤怒の形相が浮かび上がり、目は憎悪で染まっている。それほどまで、この目の前の炭男に