知らない天井。知らない壁。
私は知らない部屋にいた。幸いに病院ではない。気絶しているうちに誰かに連れ去られたのかもしれない。
まあ、そんなこと、考える必要はなかった。だって、拘束もされていずに、布団へ寝かされているだけだもの。
犯人なんて丸分かりだ。
目をパチパチさせて、チャクラの流れを確認する。良好だ。異様な量が一箇所に集中してたりしない。
もう、発動させないように、細心の注意を払わなければならない。もう、悲しまないように、感情を押し殺さなければならない。
なにをしてたか私は知らない。どうして開眼したのか私は知らない。思い出さない。これでいい。
とにかく、お礼を言って帰ろう。
でも、どうしよう。太陽が沈んでしまっている。親になんて言われるかわかったもんじゃないんだけど。
「ん?」
だれかがこっちに向かってくる気配がする。大人の人だ。襖がスッと開けられた。
「あ、起きたの? 具合は大丈夫?」
女性だった。
そうして、起きている私に気がついて、声をかけてくれる。その親切な態度に恐縮してしまう。
「だ、大丈夫です」
ややおどおどする私の髪をかき分け、おでこに彼女の手が当てられる。
「熱もないみたいだし、うん、問題ないわね。待ってて、今から、お夕飯を持ってくるから」
「あっ……」
言いたいことを全て言ったのか、去って行ってしまった。なかなかに快活な人だ。
取り残された私は、逃げるわけにもいかず、ただ呆然としていることしかできない。
もう月は真円ではないのであるが、差し込む光は周りが見えるほどには明るい。ぼうっとしていて、時間だけが過ぎていく。
「お待たせ」
また戸が開いて、今度はお盆を持って、女の人が入ってきた。いい匂いがする。
お盆は私の寝ている布団の横に置かれた。
「あの……」
「さあ、召し上がって?」
「いや……」
素直に私は手を付けることができなかった。
ずっと立ち昇る湯気を視界に収めるだけで、動くことができない。そんな私を不思議な顔で、女性は見つめる。
「遠慮しないで。早く食べないと、冷めちゃうわよ?」
笑顔で優しく声をかける彼女。良い人であることはありありと伝わってくる。
だけど、そうじゃない。私を止めるものはもっと違うなにかだ。私の中でなにか線引きがされていて、越えたからって別にどうということもない、くだらない線引き
私は手が出せない。
「無理です」
だから、そう言ってしまった。
そんな私の突き放すような台詞に、女性はとても悲しそうな顔をする。
悪いことをした。別に子どもなんだから、これくらいなら許してほしい。
「でも、ちゃんと食べないと――」
「すみません。帰らせてください。お礼は後でちゃんとします」
彼女の言葉で、反射的に身体がビクつき、無理矢理に話をそらしてしまった。
私の冷たい態度に彼女は困惑してしまう。
とにかく私は帰りたかった。怒られたくなかった。
もう手遅れなこと自体はわかっている。それでも、無駄なあがきをしないわけにはいかなかった。
「いい? こんな時間に、子どもを外に出すわけにはいかないわ」
本当に出て行ってしまいそうな様子の私に、見兼ねたのかは知らないが、肩を掴んで真剣に、こちらの目を見て。
耐えられずに、私は俯いてしまう。これなら怒鳴られる方がいくぶんかはマシだった。
力強く、私は振り払うことができない。
「……はい」
そう言って、渋々に了承をする。涙が出てきそうだった。
力を抜いた私に、彼女は少し困ったような、安心したような表情を見せる。
「じゃあ、食べてもらえる?」
どういう理由でそう繋がったのかはわからない。
だけど、私に断る気力は生まれない。従うという選択肢しか頭には思い浮かばなかった。私の心は折れていた。
うなずいて、素直に私は箸を取る。そしてさまよわせた。
味噌汁、白いご飯、魚の味噌煮、御浸しに漬物。とりあえず、魚の味噌煮に手を付けることにした。
「…………」
無言のまま、女性はまじまじと、私の手を、私の箸の動きを見つめている。
どうしようもなく、私は緊張を強いられている。
意を決して、口の中に放り込んだ。
「……おいしい……」
つい口に出た一言だった。
こんなにおいしいものを食べたのは、とても久しぶりだと感じてしまった。だから、私は食べるのが嫌だったんだ。
「ふふ、大したものではないけど、そう言ってもらえるなら嬉しいわ」
女性はとても喜んでいた。当たり前だ。だって、自分の料理が褒められたのだから。
それに対して、私は涙をこらえるのに必死だった。もともと、精神的にボロボロだったはずなのに、こんな仕打ちは惨すぎる。
食べ終わった。
私のお腹は満たされた。けれど、心にはぽっかりと穴が開いたような気分になった。
「じゃあ、片付けるけど……」
じーっ、と私から目を離さない。たぶん、心配なんだ。私が目を離した隙にどこかに行ってしまわないか。
「なら、私に片付けさせてください」
食器の片付け、皿洗いくらいならば自分でやってる。自分のものは、自分の力で。それが
「え……、ええ……いいわ」
戸惑いが隠しきれていない。それでも彼女には断る必要がなく、都合が良かったのだろう。私の提案を受け入れてくれた。
私はお盆を持って、立ち上がる。そして、女性の先導してくれるのを待つ。
「なら、こっちよ?」
そう言って、襖を開けて、私を案内してくれる。お盆から食器を落とさないように、慎重に、注意しながら私は付いていった。
「あっ、そういえば……」
その間に、一つ気になることを思い出してしまった。
「どうしたの?」
振り返って、問いかけてくる。
おそらく、目の前にいるのがイタチの母である、うちはミコトさん。であれば、面倒を見なくてはならない子がいるはず。
「サスケくんは、どうしたんですか?」
まだ一歳にも満たない小さな子。それを放置しているとはあまり考えられない。
「ああ、サスケ? それなら、今はイタチが面倒見てるの」
「へ、へぇ……」
確かにそれなら大丈夫だ。そう思わせる力がイタチにはあった。
私と同い年のはずなのに、安心感が段違いだ。なんでも任せられそうだし。
「本当は私が面倒見なきゃなんだけど、あの子、聞かなかったわ。母さんはミズナの看病をしててくれって。あの頑固なところは、誰に似たのかしら?」
呆れたように、でも少し嬉しそうに話す彼女。
きっと、幸せな家族なんだと想像がつく。そしたらなんだか、心の穴から気持ちの悪い感情が湧き出してきた気がした。
そんなことないと私は首を横に振る。
「着いたわ」
「あっ……」
台所。連れられて来て、そこで問題にぶつかる。
高い。
私の身長では、流し場までは手が届かない。
いや、当たり前だ。私の家だってそうだもん。だから、私は近くにある椅子を足場にして、いつも洗っている。
でも、この家。椅子が見つけられなかった。何かを踏み台にしなければ届かないのに、その候補が見つけられない。
とうぜん私は絶望で立ち竦んだ。
「え、どうしたの?」
「洗えない……」
もはやどうしたらいいのかわからない。そんな私の奇行に、ミコトさんは慣れて来てしまったのかもしれない。
冷静な対応をする。
「ほら、これならどう?」
浮遊感に包まれた。
お盆から食器を落とさないように、頑張ってバランスを保つ。余裕だ。この程度で落としていたら、いくつ命があっても足りない。
気が付けば私は、流し場に手が届くところまで、ミコトさんに持ち上げられていたのだ。
なるほど、これならしっかり洗える。
スポンジや洗剤を巧みに操り、私は自分の食べた食器を全て処理してみせた。完璧だ。
そう誇らしげに片付け終わると、ミコトさんはゆっくりと丁寧に降ろしてくれる。
一人では
「偉いわね」
そう言って、ミコトさんは私の頭に手を伸ばした。
「ダメ……っ!!」
反射的に私は叫んでしまった。
ミコトさんの手は止まる。そして、少し悲しげな表情になった。
「ごめんね」
彼女は謝る。拒んだ理由、それを真の意味で理解していたわけではないと思う。
「う……ううん」
それに対して、私は首を横に振った。
彼女が悪いわけではない。それをどうにかして示したかった。けれど言葉が出なかった。
ひたすらに私は困る。
だからだろう。つい隙を突かれてしまった。
「本当にごめんなさいね。あなたの辛さを、私は理解しきれていなかった……だから……」
温もりに包み込まれた。
こんなのはおかしいと身体が叫ぶ。今すぐに振り払いたいくらいの衝動に駆られる。
だけど動かない。私の手足は言うことをきかない。
押さえつけられ
疲労がたまっ
痙攣をし
緊張
――安心しきって、力が入らないんだ。
もう堪えることはできなかった。力の限りの声を出した。どうなったっていい。何が起ころうと構わない。
今まで心に積もったものを全て吐き出すように私は慟哭する。
私がなんなのか、わからない。守ってきたくだらないものたち、それは確かに今、揺らぎ、崩れている。なにもわからない。わからない。
そんな中でも、優しく背中を撫でてくれる彼女だけは感じとれた。安堵できた。
ひとしきり叫んだ私は、力が抜けていくのを感じる。
また、写輪眼がオンになってるよ。こりゃダメだね。
けれど今度は、あらかじめ受け止められているのだから、倒れるなんてことにはならない。
心地の良い優しさが、私の耳を包み込んだ。
「……我慢をする必要はないわ」
私はもうしゃっくりが止まらない。涙でなにも見ることができない。
こんなに泣いたのはいつぶりだろうか。少なくとも、二歳の誕生日より前のことは確かだ。それが今、爆発してしまったのかもしれない。
「ごめんなさい……」
私は謝った。誰にかはわからない。なんのためにかもわからない。でも、謝った。
「ごめんない……。ごめんなさい――」
うわごとのように何度もなんども。
「大丈夫……、あなたは悪くないわ。悪くない」
彼女はそう言い聞かせて、私を落ち着かせてくれる。甘えさせてもらうことしか私にはできない。
身体が震えていることが自分でもわかる。どうにかして、力を振り絞って、心を落ち着かせようと努力をする。
深呼吸だ。深呼吸。
「すー、はー……。すー、はー……」
なんとか乱れる心を鎮めさせることに成功した。いつの間にか写輪眼も解除されている。
「落ち着いた?」
私は首を縦に振る。
声を出す力も残っていなかった。今更になって恥ずかしいという感情が込み上げてきたが、後の祭りだ。どうすることもできない。
どうにでもなれと私は思った。
「じゃあ、お腹もいっぱいになったことだし、一緒にお風呂、入ろうか」
「無理です……」
ダメだ、どうにでもなっちゃダメだ。これだけは絶対に拒まなければならない。そうしなきゃ。
けっきょく私の抵抗も虚しく、この家で一週間だけ、お世話になることになった。
もう、こいつ、駄目だ……。末期だ……。