授業が終わった放課後、俺は靴を履いてバックを肩にかけ、校舎の出入り口にある壁に背中と傘を預けていた。
外は昼よりちょっとだけ強くなった雨が降っている。
そんな天気だから部活をしている運動部はいなく、雨音がよく聞こえるほどの静けさだ。時々、雨にまぎれて吹奏楽部の練習する音が聞こえるのは淡々と続く雨の音以外を聞くことができて楽しいものだ。
しばらく音を聞きながら雨を見ることに飽き、バッグの中から1冊の本を取り出す。
それはビスマルクの影響で読むようになった、ゲーテ格言集というもの。
18世紀の人が書いたものでなかなか面白い。
200年ぐらいたっても人間の考え方というのはそう変わらないのがよくわかる。悩むところは同じだし、そんな先人の教えは勉強になる。
そうしてゲーテの言葉に納得し、考えることもできる。
ゲーテを読むと頭が良くなった気分になり、詩集や哲学書などを学生に読ませるようにすれば、今よりも深く考えるようになって賢くなるんじゃないかと思ってしまう。
そのぶん、昔の本や人にとらわれすぎて柔軟な発想力が減ってしまいそうな気もするが。
ビスマルクを待っているあいだは時間があるのでゲーテの本を読みながら小さなことを考えたりしていると、背後のほうにある廊下から誰かが急いで走ってくる足音が聞こえてくる。
本をバッグへとしまって壁から背を離し、音の方向を見ると少し荒くなった息をついたビスマルクがいた。
バックと傘を手に持っているから仕事が延長したのを謝るとかではなく、きちんと終わって帰るみたいだ。
「おつかれ」
「ええ。弟のために思い切り頑張っちゃったんだから」
下駄箱で靴を履きかえているビスマルクに近づくと、ビスマルクは俺の顔を見上げて笑顔を浮かべたが、俺の傘を見てなにかを考え始める。
「どうした?」
「……ごめんなさい。生徒会室に戻る必要が出たから、ちょっとだけ待っててちょうだい」
そう言って履きかけていた靴を乱暴に脱いで上靴を履くと、来たときと同じように走っていった。
忘れ物でもしたんだろうか。または家で仕事するために書類を忘れたとか。
そのまま待っているとすぐにビスマルクは戻ってきた。短い時間のあいだに1.5往復も走ってため、会話するのもつらそうなほどに息を切らしている。
「ま、待たせた、わね」
「無理に喋らなくていい」
息を整えたビスマルクは「ありがとう」と言って靴を履いていくがさっきと違って手には傘がない。
用事があって戻ったのに、傘を置いてくるなんて。なんというドジっ子なんだろう。
学校だから気のゆるみは家の時より少ないと思ってたが、やっぱりビスマルクはビスマルクだ。
「さ、帰りましょう!」
「その、言いづらいことがあるんだが」
「なによ、今日の仕事はきちんと終わらせたわよ?」
「傘はどうした?」
「あー……傘ね、傘」
そう言うと不自然なほどに俺から目をそらし、弱々しい声で「忘れたわ」なんてことを言ってくれた。
わざと傘を忘れてきてどうするんだろうかと呆れるが、ビスマルクの視線はちらちらと俺の傘を見てくる。
つまりは傘を忘れたから相合傘をしてもらおうと考えたのだろう。
今日からはビスマルクを大事にしようと思い始めていたが、これを許してしまうと甘やかしすぎになってしまう。
本当に忘れたなら別に怒りはしないが、わざと忘れたのはよくない。
弟として時には姉を導くのも役目だ。
俺は傘を開くと、何も言わずにビスマルクを置いて外へと出る。怒っていると思ってもらうために、早足で。
ビスマルクが走ってくるとか、何か叫ぶかと思ったがそんなことがないまま俺は歩いていく。
大体20歩ぐらい歩いたところで不審に思って振り向くと、まるで俺に捨てられたかのような絶望を感じている顔をしたビスマルクがいた。
悲しいというだけでなく、それはひどいショックを受けたかのような。まるで雨の日に捨てられた子猫の印象が。
やりすぎたか、と体が多少濡れるのにも構わず走ってビスマルクの元へと行くが、俺と目を合わせてくれない。
「帰る」
そう言ってもビスマルクは何も言わず、歩く様子もない。
俺は鞄を傘を持っている手へと持ち直すと、背が高いビスマルクが濡れないように傘の高さを普段よりも高くし、手を引いて隣へと連れてくる。
ひさしぶりに握るビスマルクの手は暖かく、柔らかくすべすべとした手の感触は胸が高鳴ってしまう。
なんだかんだと毎朝会ってはいたが、手を握りあう機会なんて意外となかった。
そんな珍しい機会だから、これで機嫌良くなると思うもそうはならない。
相当に重症で落ち込んだままのビスマルクを傘の中に入れて外へ歩き出す。
ビスマルクは学校の校門を出ても何も言わず、うつむいたままだ。
朝に通った通学路、あの時は晴れやかな気分だったのに今は重い。明日になれば、暗い気分は治るかもしれないが俺がやってしまったことは自分の手でやりたい。
「寄り道するぞ」
その言葉にも反応してくれないまま、少し離れたところにあるコロッケ屋へと向かう。
住宅街にあるその店は小学生の頃からよく通っていた店だ。
安く、量もあって味がそこそこなのは俺たちのような学生には大人気だ。
店の前に来るとコロッケの香ばしい匂いが感じられ、ビスマルクはうつむいていた顔をあげる。
その顔は少し明るくなっていて、バッグから財布を出すとつないでいた手を離して店の中へと急ぎ足で入っていった。
寄り道で元気になってくれたのは嬉しいが、コロッケに負けたのはなんともいえない気分になる。
店の窓から見えるビスマルクは素早く商品を決め、注文をしていた。おばちゃんが渡してきた量はふたりで食べるには少し多く見え、5個以上はありそうな気がする。
コロッケを買って満足そうなビスマルクは店を出て俺のところへやってくると、コロッケが入った紙袋を手渡してくる。
機嫌が良さそうだから、さっきはなぜ落ち込んでいたかと聞こうとしたが、それはできなかった。
なぜなら、俺が持つ紙袋からコロッケを取り出すと開けた口の中に放り込んできたからだ。
できたてほかほかのコロッケを心構えもなく口に入れられるのは突然すぎて、頭が熱さでパニックになってしまって味はわからない。
口から噴き出してしまわないように必死に食べ終わると、すでにビスマルクはもう1個持っていた。
「自分で食べれる」
「両手がふさがっているのに?」
そういわれて紙袋を手渡そうとするが受け取ってくれず、ニコニコと実に楽しそうな笑顔で「あーんっ」と甘い声でかわいらしく言ってくる。
……なんという頭の回転具合。さっきまでずずーんと効果音をつけてもいいぐらいに落ち込んでいたというのに。
食べるという選択肢しかないが、せめてもの抵抗とばかりに俺は歩きだす。
歩きながらでも差し出されるコロッケを食べていると、半分になったあたりで口から離され、残りはビスマルクの口に入っていく。
「ああ、ジャガイモの味がおいしい! 私、高校生になってから放課後にユウと一緒に買い食いをやってみたかったのよ。これってなんだか大人っぽいわよね?」
「大人っぽいか?」
「ええ、とてもね。以前はこういう時間の大切さがわかってなかったし。それに中学生のユウだったら、私といるのが恥ずかしくて外では一緒に入れなかったのもあったわよね。今だって家に帰ってから3日に1度ぐらいで私の部屋にやってくるのに。
まったくもう、そんなに私のことが好きなのね! もっと私に甘えてもいいのよ!?」
どうにも少しばかり記憶が改変されてしまっている。
ビスマルクの部屋に行くのは綺麗じゃない部屋のために掃除をするだけだし、寝る前に俺が注意しないと夜更かしして肌がガサガサになってしまう。
だから俺がいないとビスマルクはダメな人なってしまう。朝に起こしに行くのだってそうだ。
そもそも幼馴染なら普通は男の俺が起こされるんじゃないだろうか。
それに過去の話のほかに、こうやって俺の了解も得ずに食べさせてくるとか。どうにかして手のかかる弟にしたてあげたいみたいだ。
ビスマルクを無視しながらコロッケを食べ終え、文句を言おうとしたがなんだか寂しそうな顔を俺に向けてくる。かと思えば、すぐに笑顔へ戻ったり。
「顔、どうしたんだ?」
「私の顔が美しくてたまらないですって?」
心配した俺に対し、そんなことを自慢げに言われたらイラッとしてしまうのは無理もないと思う。
だから紙袋をビスマルクの顔に押し付けて傘の外へと押し出した俺は悪くない。
押し付けたときに傘の外へと出てしまったけど、すぐに傘の中へと入れ戻したし、すごく優しいと我ながら褒めてやりたい。
「さっきからおかしいぞ。最初から傘に入れなかったのがそんなに悲しかったのか?」
「そういうわけじゃないわ。今日のユウがなんだか遠く感じたのよ。ちょっと前までは子供と思ってたのに大人っぽくも見えたし」
ビスマルクは押し付けた紙袋をどけると自分の手へと持ち、静かに言う。
俺は空いた手で紙袋からコロッケを取り、ビスマルクの口へと差し出す。
「それは学校で話すのが今日初めてだったし、雨で気分が重いってのもあるだろ。俺はまだまだ子供だよ」
「そうかしら?」
「ああ。勉強だって教えてもらいたいし、たまには甘えたくもなるかもしれない。だから弟の俺にはビスマルクが必要なんだ」
ビスマルクのことが必要というのは恥ずかしく。
でも弟という扱いになっている俺が、姉みたいな存在であるビスマルクに頼ることが少ないのが寂しいということの要因だと思う。
少しの沈黙のあと、俺が持つコロッケを手で受け取って、安心した様子で食べ始めた。
「ちょっぴり大人になったわね」
「もう高校生だからな」
「ええ、高校生だものね」
こうやって話しているあいだにビスマルクの家の前へとたどりつき、俺とビスマルクはお互いに手を振って別れる。
そうしてから俺は自分の家へと向けて歩き出すが、服のすそをやんわりとした力で掴まれる。
振り返ると、すそを掴んでいたビスマルクは自分自身の行動に困惑したようだったがすぐに手を離して寂しげな笑顔を俺へと向けると、走って家へと帰っていった。
そんな様子に不安を感じるが、それは今日が雨だからかもしれない。一日中、ずっと雨を降るのは気分が落ち込むものだから。
そう解釈をするも心配でならない。今すぐに家へと行きたくなるが、ビスマルクは俺より年上で立派な姉の姿を見せたいと思っていたんだ。今は弱い姿なんて見せたくないだろう。
だから明日の朝は甘やかしてやろうかと思う。朝の起こし方を丁寧にし、少女漫画的なことを思わせるような甘い言葉をつけて。なんならお姫様抱っこでもしてやろう。
そう思ってビスマルクの部屋がある2階を見上げ、自宅へと帰った。
実際の姉と弟ってどんな話やスキンシップをするのだろう。