ビスマルクと別れた俺は家に帰り、2階の自分の部屋へと行く。
俺の部屋は物が綺麗に整頓された部屋で朝にきちんとなおしたベッドへと疲れた身を投げこんだ。
両親が共働きでまだ帰ってこないために家の中は静かで、雨音が屋根へとあたる音だけが響く。
今日1日は精神的にとても疲れたから着替える気力もすぐには出ない。
そのまま天井をみあげ、ぼーっとしていると1階から固定電話の音が鳴り始める。出る気にもなれず放っておくが、なかなか音が止まらない。
あまりにもうるさいため、けだるげな体を頑張って動かして1階へと行き受話器を取りに行った。
「ユウ、今すぐ会いたいの」
「……ビスマルク?」
受話器を取って耳に当てると、すぐにビスマルクの声が聞こえた。その声はか細げで元気がまったくない。
ビスマルクはその一言だけを言い、俺が名前を読んだら何も返事をせずに電話を切った。
脳裏には別れるときの寂しげな顔を思い出す。
状況がわからないが急に不安になった俺は、なにか問題でも起きたのかとすぐに家を出る。
午後6時を過ぎて薄暗くなってきた雨の空。
傘も持たずに出た俺は転ばないように気をつけつつビスマルクの家へと走る。
体や服が濡れながら家へとやってきてチャイムを鳴らすが反応がない。
ドアから少し離れてビスマルクの部屋を見ても明かりはついていないが、いると確信している。
もう1度チャイムを鳴らし、無反応だったがドアノブに手をかけるとそれは動いた。
鍵がかかっていない扉を開けると、家の中は物音ひとつ聞こえてこない。
「ビスマルク!」
大声で名前を呼ぶも返事は帰ってこなく、ビスマルクがいないかもということに焦りを覚える。
急いで靴を脱いで家へと上がると、2階への階段を上がって行く。
ビスマルクの部屋へと来てノックもせずに扉を開けると、部屋は薄暗い。
探していたビスマルクはベッドの上にいて、制服姿のままで膝を抱えて座っていた。
入口から見える横顔は、理由がわからないがとても落ち込んでいるように見える。
なんて声をかけようかと悩んでいるとビスマルクのほうから声をかけられた。
「あれだけで来てくれるだなんて、さすがは私の弟ね」
俺に顔さえも向けてこないことに不安を覚え、すぐそばまで近づく。
「何があった?」
そう聞いても返事はくれない。悲し気な横顔があるだけだ。
俺はベッドにいるビスマルクの隣へと腰をかけ、何かを言ってくれることを待つ。
しばらく沈黙の時間が流れたが、俺を横目で見たビスマルクは立ち上がるとクローゼットの中からタオルを取って俺へと手渡してくる。
俺は渡されたタオルで体を拭き、それが終わるとタオルを返す。受け取ったビスマルクはそれを適当に床へ放り投げると、さっきまでいたベッドに戻って顔をうつむかせた。
「私、今まで立派な姉を演じているつもりだったの。家ではちょっとダメなところもあったけど、全体として見るならユウが自慢できるぐらいにって」
「タオルを渡してくれたのは姉らしいじゃないか。それに立派じゃなくても俺は構わな―――」
「私が構うの! 今日までユウの優しさに甘えてばかりだった。学校では生徒会長とか騎士姫とか呼んでくれる人たちがいて、信頼や尊敬のまなざしで見てくれたわ。それに慣れてしまってユウが私の後輩になれば自然といい姉になれると信じてた。でもそれじゃダメだってことがわかったのよ」
ビスマルクは俺へと顔を向けてくれたが目には力がなく、いつもの明るさがどこかへ消えてしまったことが悲しく思えた。
「家でユウに甘やかされて気分よく朝を過ごし、学校では立派な姉らしいところを見せる。これで大丈夫だと思ってた。
でも違った。私は慢心していた。そのことをユウが学校で他の女の子と仲良くしているのを見て気づけたわ。
ユウ、私とユウの接点はなんだと思う?」
「幼馴染だろ。それに姉や弟に似た関係だ」
考えるまでもなく、普段から思っていることを言う。接点だなんだと難しく言ってくれたが落ち込む理由がわからない。俺は今の関係に不満がないからだ。
「そうね。でもそれは血が繋がってないとも言えるわ。幼馴染でも姉弟みたいな関係でも結局は関係が薄いのよ。少し仲が疎遠になれば、それはただの他人なのよ?
それで今日になって愕然としたの。私はもう高校3年生。卒業して大学に行くとなるとどうしてもユウと離れてしまう。就職でもいいと思ってたけど、ずっと前から大学へ行くって言ってたから大学に行かなきゃ嫌われると思ってた。でも嫌われないために大学行ってたとしてもユウに会いづらい」
「電話があるだろ。休日になれば会うこともできる。世界というのは意外と狭いものなんだ」
「私はそうは思わない。精神的な距離はいつだって遠くで、物理的距離が遠いほど仲は冷えていくと思うの」
俺が思っているよりビスマルクにとって問題は重いみたいだ。
だけど、俺とビスマルクの仲は大学ぐらいですぐには薄くならないと思う。離れていたって俺はきちんと一人暮らしをやっているかと心配する。逆にビスマルクだって俺のことを恋しく思うかもしれない。
1度悪く考えてしまえば、その考えが中心となって悪いことばかりが集まってくる。
俺と離れたら実際にそうなるかもしれない。だけど、もしかしたらよいことがあるかもしれない。
「良いことだってあるさ。お前と離れれば俺はお前が恋しくなる。たぶんじゃなく、きっと。毎朝寝顔を見ることも声も聴けなくなる。電話だけじゃ物足りないものさ」
「違うわ、そういうことじゃないの」
「ビスマルク、今のお前は疲れているんだ。明日になったらまた話し合おう。なんだったら学校を休んで遊んだっていい」
「……違うのよ」
弱々しく俺へと手を伸ばすと雨に濡れた髪を、頬を、胸をさわり、手をそっと握ってくる。
その手は暖かいはずなのに、相合傘をしてつないでいた手よりもとても冷たく感じる。
「1度離れてしまえば、ユウは私をもう姉と見なくなる。覚えてるかしら? 最後に私のことを『お姉ちゃん』って言った日のことを。
私は覚えてる。もう2年と4か月は言ってもらってないわ」
言われてみればそうだ。近頃の俺は『ビスマルク』や『お前』とだけ言っていた。頭のなかでは姉と思っていたのに。
姉と呼ぶのが恥ずかしいからか? 違う、いまさら恥ずかしがる年齢ではない。
ダメ姉と思うことはあっても口で言うことはなかった
なぜだ?
血が繋がってなくてもビスマルクのことは姉と思っていた。なのにそう呼ばないのはなぜだ?
俺が頭に手をあてて必死で理由を考えている姿を見て、ビスマルクは寂しげにほほ笑んだ。
「私があなたを男として見てしまった時から、もう姉と呼ばれなくなったのよ」
その一言は俺の意識を凍らせるには充分だった。
ビスマルクは俺に対してまるで恋人にするかのようなことをしてくることがあった。
俺の指を舐めたり、手をつないだり。裸だって時々見せてたのも俺に意識して欲しいからだとわかる。
段々と大人になっていくにしたがって、色気を感じることがあった。髪の匂いやちょっとした女の子らしい仕草なんかを。
だけれど、それだけで俺は姉ではないと思わないはずだ。ビスマルクに告白もされてないんだから。
「ユウ、あなたが思っていることは間違っているわ。違うの。行動が問題じゃないの。感情がユウを弟として見れなくなったのよ。私はもうあなたを守れるような姉ではないわ」
「だから、それがどうしたっていうんだ。俺がお前を姉だと思っているかぎりは姉弟なんだ」
ビスマルクは俺から手を離し、顔をうつむかせた。
苦し気な息を吐きだすと、小さな声で俺にこう言った。
「無理よ。だって私はもう愛してしまっているもの」
その言葉はやけに俺の頭へと響き、現実という今が一瞬遠くなったような気になる。
ありえないこと、意識の外から不自然なほどに追い出していたそれは、言葉という形にしてしまったら世界が崩れてしまうものだった。
思い返せば、過剰なスキンシップがあった。いつも俺の姉だと言ってはいたが、それはビスマルクがビスマルク自身を守るためのもの。
それが今日になって崩れてしまったのは学校で接するように決めてからだ。
俺と摩耶とのやりとりがキッカケだろう。でもそんな短時間で弟から男へと見る目が変わるだろうか?
いや、そもそも男と見ていたが、弟と思い込もうとして思い込めずに想いがあふれてしまったということか。
混乱する頭で考えていると、ふと気づいたときにはすぐ目の前にビスマルクの顔があった。
その目はうるんでいて息は荒く、頬は赤くなっている。
「キス、しましょうよ」
近づいてくる顔を両手で抑えようとしたが、俺より背が高いビスマルクは身長差を生かして強引に勢いよく俺を押し倒してきた。
ビスマルクは俺の体へと馬乗りになり、頭の脇へと手をついて俺を逃がさない態勢に。
お互いに好きなんだからもうこのままでいいかと思ってしまう。
キスをしてしまえば、もう姉弟ではなくなり、新しい関係になるだろう。
抵抗しない俺へとビスマルクは目を開けたままゆっくり近づいてくるが、俺は心の片隅でキスが嫌だという気持ちが膨れ上がってくる。
それは状況に流されてしまえば、後悔するに違いないということを。
ビスマルクも俺を愛していると言っていたが、すぐにキスをしてこないのはムードが欲しいというだけではなく、まだ戸惑っていると思う。それは今まで俺のことを弟と見ていたからだろう。
別にすぐに関係を変える必要がないと思う。
幼い頃に出会い、一緒に過ごしてきた俺たちは時間の流れと共に友達、親友、姉と弟という関係になった。
では次はどうすると考える。
俺もビスマルクも姉弟では気持ちが収まらない。それなら関係を修正して新しく作ってしまえばいい。
単なる姉と弟ではなく、今まで築いてきた関係を全部入れたものをだ。
それは恋人未満という関係を。恋愛という感情を取り除いたら、あらゆる好意を持つ状態へと。これが俺の思う最善だ。
俺はビスマルクの唇に手をあて、近づいてくるのを押さえる。
そして今、ビスマルクに送るべき言葉を言う。
「恋愛と情熱は消え去ることがあっても、好意は永久に勝利を告げるだろう」
これはゲーテの言葉だ。
ビスマルクは、俺がビスマルクから離れてしまうのが嫌だと言った。そして愛しているとも。
その両方に答えれるのがこれだ。
ビスマルクはいったんは俺から顔を離し、難しい顔をして悩み始めたがそれも一瞬で終わった。
「苦しみが残していったものを味わえ。苦難も過ぎてしまえば、甘い」
それもゲーテの言葉。言い終わると、ビスマルクはゆっくりと近づいてくる。
もう止める言葉が俺にはない。
キスをしてしまえば戻れない。ビスマルクという姉を持つ弟という俺の存在が変わってしまう。
唇がふれあった瞬間に俺はこれ以上キスしてしまわないように首をそらしてビスマルクを強く抱きしめる。
ビスマルクはちょっとだけ抵抗したが、キスよりもこっちのほうがよかったのか同じように抱きしめてきた。
やわらかい体、頬へとあたる綺麗な髪、フローラルな甘い匂い。
――――その時に昔のことを思い出す。
あれは俺とビスマルクが小学生の頃、公園にひとりでビスマルクがいて、そこに俺がやってきたのが始まりだった。
公園での出会いは偶然で、それだけならどこにでもあることだった。
でも綺麗な金髪を持つ白人の子だったから日本語があまり通じなくても俺は強い好奇心があった。
あの頃のビスマルクはまだ日本語に慣れていなかったし、俺はドイツ語なんか全然知らなかった。
それでもひとりで寂しそうにしていたビスマルクを俺が強引に遊ぼうと手を引っ張って誘った。どちらも幼くて、体を泥で汚して日が落ちるまで遊んだことはすぐに思い出せる。
今のように苦しむほど考えることはなく、楽しいことばかりだった。
言葉が通じなくても手を握り合ったり、抱きしあったりと。
あの頃のようにはやっぱり戻れないのだろうか。以前ように。
そして俺は思春期が始まった中学生の頃から、以前はよく言っていたことを言う。
「ビス姉ちゃん」
その言葉を言った瞬間、俺に抱きしめられたビスマルクは強引に俺の手を振りほどいて体を起こした。
さっきまでのキスをしたがってた雰囲気とは代わり、口をぽっかりと開けて目を見開いた驚く姿。
ありえないことを聞いた、そんな様子だ。
「何年ぶりに聞いたかしら、ビス姉ちゃんだなんてこと」
「恥ずかしくて言えなかった時期があったからな。いつだって俺はビスマルクを姉だと思ってるよ。もちろん今だって」
「……関係を変えてしまおうとした私を、まだ姉と呼んでくれるの?」
「ああ。出会った頃は俺がビス姉ちゃんに頼られていたけど、それからは俺が頼るようになっていたじゃないか。立派な姉だよ」
「本当に?」
「俺はビス姉ちゃんと仲良くなりたかったし、もっと近づきたかったんだ。そうじゃなきゃ、ドイツ語を覚えた理由がないだろう?」
押し倒されてた俺は体を起こすとベッドから離れて立ち上がる。
ビスマルクはベッドに座ったまま、信じられないという様子で俺を見上げていた。
「私はユウをまだ弟と思っていいの?」
返事をせずにビスマルクの肩を押してベッドへ転がすと、肩と膝を持ち上げてお姫様抱っこをする。
意外と重いが、そういうことは言葉に出さず、落とさないように精一杯に気を付ける。
ビスマルクは体を固くし、緊張している。
「こんなふうに生意気な弟でよければな」
「……私、重い女じゃない?」
俺の首へと腕をまわしたビスマルクの不安そうな表情と声を聞き、物理的な意味ではないと理解できたが俺はバカな振りをする。
「重い。盛大に重い。もう少し痩せてくれ。それもこれも朝に自分で起きようとしないからだな」
「ちょっと!? そんな言うほど重くないでしょ! 勝手に人を抱き上げておいてなに!? バカでしょ、ユウは絶対にバカなんでしょ!?」
抱き上げられたままだというのに、首に回した腕で俺の頭を揺らしてくるので落としてしまいそうになるが、それを気合で必死に耐える。
「バカだからビス姉ちゃんが必要なんだ」
俺が想っていることを正直に視線をずらさずに言った。そういうとビスマルクはすぐに静かになる。
お互い、静かに見つめあっていると俺たちは自然に笑みを浮かべあう。
「まったく、ユウはこの私がいないと本当にダメね!」
そんな憎たらしいビスマルクに皮肉でもいいたかったが、重みで腕が震えてくる。
体を鍛えていないためにビスマルクの重みで腕からうっかり落としてしまう前にベッドへと降ろす。
でも間に合わず、放り投げるようにして乱暴に降ろしてしまった。
そうした勢いは俺はビスマルクをまるで押し倒したような、つまりは先ほどビスマルクに押し倒された状況と逆のようになってしまった。
ビスマルクへと覆いかぶさるようになっていた俺に、ビスマルクは文句を言うでもなく顔を緊張で強張らせていた。
そして静かに目をつむり、俺からのキスを待っているかのようだった。
その注文どおりに顔を静かに近づけ、ビスマルクの緊張を抑えている呼吸を聞きつつ、鼻をつまんでやった。
「ビス姉ちゃんのようなエロい人には弟の俺がいないとダメダメになってしまいそうだからな」
笑顔でさっき言った言葉について言うと、急にビスマルクは手足をぶんぶんと振り回して暴れ始めた。
危ないから距離を取ると今度は枕や本を投げつけてくる。それも結構な力を入れて。
こういう雰囲気が俺たちにとってただしいことだと思う。
恋愛やエッチなこととか、ピンク色なことなんてのはいらない。
姉と弟は仲良く、信頼できるのが一番だと信じている。時々はケンカも必要だろう。それとビス姉ちゃんと呼ぶのもだ。毎回呼ぶのは俺自身が恥ずかしいから、特別な時だけ呼ぼうと思う。
そして、これから成長して大人になっても仲がいいままで、寂しさなんてない関係でいたいと思う。
ダメ姉であるビス姉ちゃんと一緒に。