生命の唄~Beast Roar~ 作:一本歯下駄
『何処だよ』
『あそこ、ほら、あの宿。窓から外を見てる黒毛の狼人の女の子。間違いない』
『……アイツに似てるな。ムカつく顔だ。一発殴って良いか?』
『馬鹿言え、冒険者の力で殴ったら死んでしまうだろう。とりあえず適当に縛って連れて行こう』
『やっぱ殴らせろ。ムカつく』
『やめろ、彼女を殴りたいなら僕が相手に──ぐぶぅっ』
『るせぇな、ムカつくんだよ、あの顔……気取った様な顔しやがって』
『っ……(気取った顔? どう見ても物憂げな顔してるじゃないか。何が見えてるんだコイツ……) まぁ良いよ。とりあえず怒った、痛い目を見て貰うよ』
『あん、まずテメェから潰されてぇのかよ』
『(なんでこんなの仲間にしたんだナイアル。恨むぞ……)』
ダンジョン四十一階層。『
【ロキ・ファミリア】の調査班に編成された
余裕も余裕。元々敏捷と隠密性、奇襲が得意なだけの蝙蝠型モンスターである『ライダーバット』が、真正面から突っ込んでくるだけならなんとでもなる。それが、一体だけなら。
即座に横合いから飛び出してきた個体がディアンの腕に齧りつく。
「いってぇっ!? 放しやがれっ!」
急ぎ個体を反対の手でぶっ叩いて引き剥がして腕を見る。牙が深々と突き立てられるだけにとどまらず、肉を抉られ、骨が覗くその傷に冷や汗を流す。腰から
「馬鹿野郎、動きを止めんなっ!」
罵倒と共に
「お前はああはなりたくないだろ」
そこにあった光景を見てディアンは悲鳴を押し殺した。
つい先ほど、ディアンの腕の肉を齧りとった個体が、別の個体に群がられ、悲鳴を上げる事も出来ずに貪り食われる光景が其処にある。ディアンがあの場に留まっていれば同じように貪られていた危険性もある。
「糞、カエデの奴の姿が見えん。リディアっ! カエデが見当たらんっ!」
「こっちで保護できてないっ! それよりもドワーフが重傷っ!
現状の戦力を軽く見回したフルエンが苦虫を噛み潰したような表情で呟く。
「……カエデはもう死んじまったか?」
フルエンが確認できる範囲での戦力は
そして最悪なのがカエデ・ハバリの不在。アマゾネスの少女と共に強化種の一撃は回避したはずだが、姿が見えない。
天井付近で貪り合う個体の所為で、血と肉片、骨の雨が降り注ぐ地獄の様な空間。強化種によってベート、アイズの両名は足止めを喰らっており、最悪な事に彼ら二人がかりで10匹以上を相手にしているにも関わらず、此方にも強化種が突撃して来る事があるのだ。
「そっちに抜けたぞっ!」
「っ! ディアン、立て。来るぞ」
「ドワーフが動けないんだけどっ!?」
「……っ! どうにか担ぐなりなんなりしろっ!」
ベートの警告の叫びに反応してディアンを立たせて前に出る。どうにか突進を止める為に剣を握りしめる。
フルエンの自己評価は『それなり』でしかない。判定基準の厳しいベート班に編成されてはいるが、かといって他の者に比べて圧倒的に強いかと言えばそんな事は無く。しいて言うなれば『便利』であるぐらい。
罠を見抜く才能があっただとか、それだけの事。要するに戦闘方面は『それなり』と言う評価である。
そも
後方ではウェンガルがディアンを担いで走り出し、リディアとアマゾネスの二人がかりでドワーフを移動させていく。カエデの姿は見えず、狼人の男が何処に居るのかもわからない。
目の前にせまった強化種の個体を見据え、引き攣った笑みを浮かべ、強がるのが限界。
血と、肉片と、骨の降る狂気じみた世界に相応しく、憎悪を滾らせた強化種にライダーバットが自身をむさぼろうと牙を突き立てる通常種を払い退けながら突っ込んでくる。
アマゾネスの様だと常々言われていたヒューマンの少女の様に、剣を打ちあわせて火花を散らし、フルエンは武器を構えた。
カエデ・ハバリは血と肉片と骨が降り注ぐ中、狼人の男の応急処置を手早く終え、
「なっ!? 何して、くっ」
驚きに声を上げた彼を肩越しに振り返り、直ぐに前に向き直る。油断出来る状況でも無ければ、彼の言葉に応えている余裕なんてありはしない。
近づいてくる飢餓に狂う通常種を凍りつかせて黙らせ、強化種が何処から突っ込んでくるのかにだけ意識を集中させる。
「おいっ、糞っ────
後ろから聞こえる声を無視しよう。──彼が何を言おうが。自分は手を差し伸べると決めた。
師の言葉に従うべく、
「お前みたいな奴に庇われるなんて────聞いてんのかよっ!」
五月蠅い。黙っていて欲しい。今、この瞬間にも目の前の飢餓に狂うライダーバットの喰らいあいの中から、強化種が此方を狙っているのだ。意識を逸らせばすぐにでも突っ込んでくる。間違いない。
「
五月蠅い。心の中で有らん限りに叫び、目の前を見据える。足元の血と肉片、骨のおりなす吐き気を催す光景。一度だけヒヅチに聞いた『血の池地獄』と言うモノを思い出した。生前に、血によって生を汚す事をし続けると、死後に其処に落とされるのだと。
まだ、
轟音と共に、ライダーバット達が群がる光景が拉げ、無数の肉片を撒き散らしながら強化種が飛び出してきた。
これだけ視界も臭いも最悪だと言うのに、強化種は違う事無く狼人の青年を狙っている。
歯を食いしばる。冷気を前方に集めて出来る限り大きな『氷塊』を生み出す。カエデの魔法の特性上、攻撃に対する自動防御を行う冷気はある程度、自在に操作できる。それを操作して防御力を高めて──突っ込んできた強化種を受け止めようと試みた。
────ド派手に氷の砕け散る音が響き渡り、分厚く形成された氷塊はあっけなく粉みじんに砕け、冷気によって相手の動きを阻害しようにも、彼の個体は冷気を風圧で吹き飛ばして突っ込んでくる。
まるで、最初から障害等ありはしないとでも言う様に、真っ直ぐ、確実に突っ込んでくるその光景に悲鳴をあげかけ、ウィンドパイプでその進路を逸らすべく息を吸う。
──熱く、赤く、紅く、朱く、心の臓より生まれる小さな熱を、全身に移す。燃える様に、一瞬の瞬きを。
烈火の呼氣を発動。体が一瞬で沸騰した様な感触を覚えながらも、腰を落として剣を構えた。
カエデの持つ剣は居合切り等と言う洒落た切り方なんぞ出来ないし、そもそも居合切りは『間合い内では最速、間合い外では最遅』と言う剣技であり、威力が優れる訳では無い。
砕けた氷の破片を撒き散らしながら、血に染まったその姿が目の前に迫る。──今、剣を振るう。
肉を打つ音とは思えない様な音が響き渡る。目の前に迫ったその牙を、横合いからぶっ叩いて逸らす。
元々、降り注ぐ血肉によって血塗れだったからわからないが、もしかしたら腕から出血しているかもしれない。両腕に残る痺れを感じつつ、カエデは後ろを振り返った。驚きの表情で引き攣った笑みを浮かべる
無理だからやめろだとか、お前みたいな禍憑きに庇われるなんてだとか、そんな事ばかりを叫んでいた
「待っててください、なんとかしますので」
「おいっ────
後ろから聞こえる喚き声を無視する。黙って助けられてくれ。
たった一度、烈火の呼氣との併用で突撃の進路は逸らせた。
元々、ライダーバットと言う個体は重量に優れている訳では無かった事も幸いしたのだろう。
難しくはないだけで、出来るとは言っていないのだが。
手の中に残るのは酷使した事によって、刀身が砕け散り、柄だけになってしまった
今まで、世話になってきた剣の末路としては、褒められたモノではない。何せ無茶を重ねる真似ばかりしてきていたのだから、折れるのは当然として、よもや砕け散る羽目になるなんて。
刀匠が聞けば頭を抱えるに違いない。無茶を繰り返し、一度目は
これでは修理や修繕は完全に不可能であろう。いかなる鍛冶の神とはいえ、完全に砕け散った剣の再生は不可能。故にこの剣は剣としての道を終えた。ほかならぬ未熟な腕しか持てなかった愚かしい剣士の手によって。
剣士を名乗るのも烏滸がましい、未熟な自身の腕を恨まざるをえない。師なら、きっと剣が砕かれる事も無く、華麗に彼の強化種を切り伏せていたのだから。
歯を食いしばる。武器の無い今、次の攻撃に備えなければならない。だが、彼の個体の意識は此方に向いただろう。
それに
床に散らばる肉片や骨のおかげで、彼は大人しくしていれば見つかる事は無いだろう。強化種は別として。
彼の強化種はなんとしてでも冒険者を、人間を殺してやると言う憎悪に塗れている。きっと、見つけ出して殺されるだろう。だから、
何かをわめく
「そこで大人しくしててください。隠れていれば──生き残れるかもしれません」
ワタシだって死にたくない。強化種となった個体を引きつけるなんて馬鹿げてる。武器も今の攻防──一方的な防衛戦で失われた。勝ち目なんて無いのだってわかってる。けれども、見捨てる事だけは出来ない。
尻尾を掴まれた感触を覚え、回避の為に一歩踏み出そうとして、ぐちゃりと肉片を踏み潰す感触と共に足を滑らせかけて身を投げ出す。
次の瞬間にはカエデが居た位置に強化種のライダーバットが地面を半ば抉りながら突っ込んできた。肉片に足をとられて回避し損ね、翼に跳ね上げられたカエデの体が遥か遠くへ跳ね飛ばされた。
視界を埋め尽くす喰らいあうモンスター共。狂気的な光景に舌を巻くでもなく剣を縦横無尽に振るって個体の数を出来る限り減らす。後ろを振り返る余裕は全くなく、ベート・ローガは後方で起きた事に後ろ髪を引かれつつも戦闘を継続していた。
先程やらかした事で、一匹だけ強化種がベートとアイズの二人では無く、後方に居た者達に突撃をかました。
ベートの視界の中でカエデとディアンだけはなんとか助けられたらしいが、二人が致命傷を負った事を感じ取り、舌打ちをした。
ドワーフの男は、多分生きてはいる。即死はしないだろう、耐久に優れた奴を選出したのだから、むしろ耐えてくれなきゃ困る。狼人の方は──即死しなかったのが幸運。身を捻った事で即死を免れたのか、一撃で噛み千切られるほどの顎の力を持っていなかったのが幸いだったのか。だが、狼人の姿が見えない。
一瞬だけ後方を振り向けば、別の強化種を相手にリディアとウェンガル、フルエンの三人が戦っている。ウェンガルが素手で相手の背中や翼をすれ違い様に撫でて挑発する様に動き、フルエンが目を狙って視界を潰し、リディアが強烈な一撃を叩き込む。
目の前に迫った強化種を蹴り、魔石を砕く事に成功して一匹減らせた事に鼻を鳴らし、別の箇所で三匹の強化種が発生したのを音で感じ取り、舌打ちをする。
いたちごっこ所か、完全に手数が足りない。アイズが相手している二匹は
自身の方はどうなのかと言えば、纏わりついてくる
肩で息をしつつも後ろを気にするベートは、ようやくディアンの姿を見つけて目を細めた。
致命傷を負ったドワーフの男を担いで部屋の隅で盾を構えつつも肉片と骨に埋もれる様に隠れる姿に安堵の吐息を零すと同時に、近くで負傷したらしいアマゾネスの少女が悲鳴を上げながら貪られる光景に喉を引き攣らせる。
雑魚と侮った、と言う訳では無い。無限に等しく湧き続ける個体の雨に、ついに崩れたのか腹を食い破られ、内臓を零れ落としながらも懸命にメイスで応戦しているが、柔らかな臓腑と言うごちそうを目の前にした飢餓個体は彼女を優先して狙い始めたのだろう。
あと数分もすれば、動けなくなり、死ぬ。
「糞っ」
判断は一瞬。迫ってきた強化種の一匹の脳天に剣を突き刺し、抜く事はせずにそのまま柄を手放して別の個体を蹴り飛ばし、そのアマゾネスの元に向かう。
「ベートさんっ!」
アイズの、焦った様な声が聞こえた瞬間。ベートは横合いから受けた衝撃で視界が回転し、地面に叩き付けられた所で自分が突進の直撃を喰らった事を悟る。同時に片手で地面を叩いて立ち上がり、足に齧りついていた通常種を掴んで引き剥がし、地面に叩き付けて踏み潰す。
アマゾネスの方に視線を向ければ──ディアンが群がっていた個体を叩き伏せ、内臓を零して死にかけている彼女を引き摺ってドワーフの元まで運んでいる姿があった。
応急処置が間に合えば、冒険者の再生能力ならもしかしたら助かるかもしれない。二割ぐらいの確率で。
舌打ち、この状況を招いたのは間違いなくこの大部屋の探索をすると決めたベート・ローガの責任であろう。
とは言え、フィンが同じ状況になった場合でも、間違いなく同じ選択を選ぶ事は間違いない。
あと一つの大部屋を残して戻ると言うのは有り得ないし、罠がありそうだから引き返しましたなんてやっていたら、それこそ永遠に調査なんて完了する訳も無いからだ。
だが、もし引き返していれば。
轟音が響き、ベートの意識が一瞬其方に向く。
「なんだありゃ……」
ベートの視線の先、氷の塊が
血に塗れた体が一瞬で冷やされ、体が震える。つい先ほどまで動き続けた事で火照っていた体が冷やされ、背筋に氷柱を差しこまれたのではないかと言う悪寒を感じ取り、目を細める。
あれが何なのかわからないが、もしかしたら
よく見れば、強化種の動きが悪くなっている。と言うよりその翼に氷が張りついて動きを阻害しているらしい。ベートが地面を踏締めて動きの鈍った個体を始末する為に動こうとした瞬間、アイズ・ヴァレンシュタインが横から斬りかかり、その個体を軽く膾切りにして別の個体に突っ込んでいく。
どうやら、この氷が与えた影響は冒険者側に有利に働いている様子である。
「ベートさん」
走り寄ってきたフルエンの顔を見て、眉を顰める。彼が相手どっていた個体はどうなったのか視線を向ければ、砕け散った脳天を晒したままの骸が見え、リディアがその上に腰かけたまま放心状態に陥っていた。
「こっちの強化種はなんとか片付きました。この氷のなんかのおかげで天井まで凍りついてモンスターの発生を抑えてくれてるみたいで、この氷は何でしょうかね。見た事の無いタイプの罠ですけど」
「知らん。それより怪我人を回収しろ。あそこら辺で埋もれてる」
「それはウェンガルが今回収してます。アマゾネスの方は──致命傷です。急いで戻って治療しないと不味いです。ドワーフの方は動けないみたいですけど、命に別状は無くて……。それよりも、カエデの姿を見てないですか?」
フルエンの言葉にベートは一瞬動きを止める。
思い返してみればカエデの姿は見ていない。狼人の奴は即死こそしていなかったが死んでいる可能性が高いが、カエデはアマゾネスの奴が引っ掴んで突進を回避していたはずだ。
つまりあの時点で死んではいない。アマゾネスはその後合流していたはずだが、カエデは合流していない?
ベートはフルエンの胸倉を掴んで睨む。
「おい、しっかり
「ぐぅっ……すいません、乱戦になってて……」
身を震わせて答えるフルエンの姿に苛立ちを覚え、直ぐに手放して周囲を見回す。
モンスター同士の喰らいあいの残飯塗れになっている大部屋。冷気の所為で上手く臭いを嗅ぎ分けるのは不可能であるが、たとえ冷気が無かったとしてもこの部屋の中で死体を探すのは骨が折れるだろう。
十中八九、死体は貪られて骨と肉片だけになっているのだから。
「ちっ」
氷の塊の方に視線を向けて思案する。あの氷塊がどういった効果なのか不明だが、モンスターの発生を抑え、なおかつ行動を妨げる冷気を放っている。冒険者であるベート達に影響は少ないものの、無い訳では無い。
だが蝙蝠型モンスターであるライダーバットは激しく影響を受けて動けない個体が出ているのでどちらかといえば冒険者に優位な状況になってはいるが。
「ベートさん、一つ思い出した事が」
「なんだ」
フルエンが氷の塊の方に視線を向けながら、口を開いた。
「カエデの魔法、氷属性の
「……この規模の魔法をカエデが? ババアじゃねえんだぞ」
カエデは自己申告で氷属性の
「どうなってやがる……」
跳ね飛ばされたが、運が良かったのか、叩き付けられた場所にはモンスターの食べ残しである肉片が一杯に敷き詰められた悪趣味なほどの柔らかな大地であった事もあり、なんとか無傷で済んだ。
直ぐに立ち上がろうとして、足を滑らせる。
肉片が敷き詰められたカーペットの上では、立ち上がるのは至難の技所か、腰を落としてゆっくり歩かねば直ぐに足を滑らせて転倒してしまう。こんな状況で戦うなんて冗談じゃない。
即座に足元に冷気を集中させ、床に散らばる肉片を凍りつかせる。
踏ん張りの利かない肉片と骨のカーペットの上を歩くのと、滑る氷の上で戦うの、どちらがマシかを考えて、今までは床を凍らせる事をしなかったものの、凍らせてみると思った以上に
と言うよりしっかり足場として機能した事に気付いてもっと早くに同じことをすればよかったと後悔をしつつも、武器になりそうな骨の塊を掴みとって構える。
狼人を狙っていた強化種は、狼人の捕食を妨害された事に怒りを抱いてカエデを狙い始めていた。故に跳ね飛ばされて結果的に
せめて、武器を貰い受けておけば良かった。
手にしたのは肉片がこびり付くモンスターの骨。強度はそこまで無さそうだが、ふと、違和感。
もう一度、足元の血と肉片を見て、違和感が強まる。
モンスターは、魔石が奪われるか、砕かれた場合、灰になって消えるはずだ。
ここに散らばる肉片は、どう考えても魔石から切り離されたモノであって、それで──足のブーツに違和感を覚えて足元を見た。
首だけだ、首だけになったライダーバットが、カエデの身に着けていた重装甲のヘビーブーツの爪先を齧っている。なんだこれは。
「っ!? これはっ」
慌てて足を上げ、爪先に齧りついて居たライダーバットの頭を踏み潰す。あっけなく潰れた感触に怖気を感じつつ、違和感の正体に気付いて悲鳴を噛み殺す。
消えるはずの肉片が消えず、どこからどう見ても死んでいる姿で動く。そんな異常が発生する空間。
一定空間の中でモンスター、冒険者問わずに死亡した場合、
下層や深層で稀に見られると言うそれが、今この場にある。
四つ目の
本当に、運の無い。──ワタシの所為?
「っ! ワタシは、悪く無い」
師なら、ヒヅチならこんな状況でも即応で否定してくれるだろう。そんな考えに浸るさ中、尻尾を掴まれた感触を覚えて即座に横に飛び退く。今度は翼に巻き込まれない様に大き目に飛んで回避する。
轟音と共に、体をむさぼられて頭だけになった個体が何十匹と蠢く屍のカーペットを引っぺがした強化種がカエデを見据える。空中で羽ばたき、他の個体を翼で叩き落しながら、カエデだけを見据えていた。
武器が無い。手に握り締めた骨は、強度なんて期待していなかったが、回避した際に翼に巻き込まれ、粉々に砕け散っていた。
武器が必要だ。何処かに武器は──あった。
思い出したのは『追加詠唱』によって生み出せる氷の刀。あれさえあればなんとかなるかもしれない。しかし、詠唱する余裕があるのか?
目の前の強化種が一気に急降下してくる。飛び退いて回避しつつも意識を詠唱へと切り替えようとして──足場を凍らせる為に使用していた冷気が上手く作用しなくなり、足場が血肉のカーペットへと戻り足を滑らせ掛けて慌てて再度凍らせる。
「っ……詠唱できない」
詠唱する為の隙をなんとしてでも作り出さなくては、どうやって?
再度、突っ込んでくる。回避しようとして──ふと思い出したのはリヴェリアの言葉。
『並行詠唱、と言う技術は知っているな?』
並行詠唱。本来なら足を止めてする詠唱を、高速戦闘をしつつも行うと言う技術。
顔を上げて強化種を見据える。今、ワタシがしなくてはいけないのは、足場を維持するために魔法の操作。敵の攻撃の回避。魔法の詠唱。
失敗したら、確実な死が其処にある。
それ所か、詠唱に集中し過ぎれば回避し損ねて挽肉だし、足場の形成が出来なければ回避もままならない。
こんな事になるのなら、並行詠唱の練習もしておけばよかった。
──あぁ、ヒヅチの言葉が身に染みる。
あの時、ああしてればよかったのに。そんな風に後悔を抱く事は珍しくない。出来る事は全てしてきたつもりなのに、まだ……まだ足りない。足りない、足りない、どれだけ積み上げようと、どれだけ磨きあげようと、
努力を怠るな。研鑽を極めよ。妥協点を見いだすな。どれ程の力も知恵も足りぬだろうと
迫ってきたライダーバットを回避する。カエデの体格に対し、ライダーバットの体格は倍近い大きさを誇る。翼まで含めれば数倍の大きさだ。
どの道、失敗すれば死ぬし、このまま増援を待つ選択をしようにも、魔力が残り少ない。
チリチリとした、脳の裏側で火花の散る様な、感触。魔力が尽き始めている事を知らせる感覚がする。
選択肢なんて、ありはしない。
あの日だって、あの時だって、今だって、何時だって選択肢なんて一つきりだ。
ここで、
最初に、一歩踏み出したあの日から、決めたのだ。
顔を上げる。未だに湧き続けるモンスターは、互いを喰らいあい、意図せずに強化種へと至ろうとしている。
目の前には一匹の強化種。ベートとアイズが二人で十匹以上の強化種を相手にしていて、他の皆はどうなっているのか知りようも無い。もしかしたら、死んでる人が出ているかもしれない。
あの
それでも、ワタシは
「『乞い願え────
モンスターが突っ込んでくる。回避しなきゃ、魔力が変な方に流れていきそうになる。止めなきゃ。足場が上手く形成出来ない。血肉に足をとられ転倒しかける。
────望みに答え────
なんとか手を突きつつも血肉のカーペットを転がって回避に成功する。
────鋭き白牙────
後一言。魔力が減り過ぎている。頭の内側に響く鈍痛が意識を鈍らせる。もう一度来る、回避を──出来ない。
足場が形成出来ない。魔力不足で意識が朦朧とする。
このままだと、突進を回避できない。……、致命傷だけ回避しよう。武器を、せめて武器がなければ抗えない。それに今詠唱を中断すれば間違いなく
────諸刃の剣と成らん』」
手の中に生み出された氷の剣。師の持った長い刀、想像の通りの出来に嬉しさが生まれ──次の瞬間にはモンスターの牙が腹を突き破り肉を抉られ、咥えられた。
意識が飛びかけ、激痛に苛まれる。腹に突き立った牙がいくつもの臓器を破壊し、激痛と喪失の感触を伝えてくる。だが、致命傷は避けた。後は──反撃を。そんな考えが瓦解していく。
思い、振るおうとした氷の剣は、歪な形になっていて、剣とも呼べない塊に成り果てていた。血が染みつき、肥大化した塊は、到底剣等と呼べる代物ではなくなっていて、魔法の効果を思い出して歯を食いしばる。
『血染め増幅』、ワタシの装備魔法は自然崩壊してしまうが、血を塗りたくればその分大きく強くなる。だけど、それはしっかりと剣として使っていなければ、形が歪に成長してしまう。
視界を埋め尽くす血の雨、モンスターに咥えられている状況。
いや、むしろもう死に体だ。武器さえあれば、そう思い苦労して生み出した装備魔法。
辺り一面血の雨が降り注ぐこの場では、ワタシの装備魔法は歪な成長を遂げ、剣と呼べない代物と成り果ててしまった。もう魔力は無くて、新しい剣を生み出す所か、再度
次の瞬間、腹に突き立っていた牙が抜けた。むしろ強化種の方から此方を解放したらしい。天井付近で解放され、床に叩き付けられる。運が良いのか、また血肉のカーペットの上。腹に開いた穴から血が溢れ出る。手にした血氷の塊と化した装備魔法は手放さなかったが、もう動けない。
どうすればいい?
魔法? 魔力が無い。
武器? 血氷の塊を振り回すなんて出来ない。
素手で足掻く? 立ち上れない。
体力は底を突きかけ。負傷度合は致命傷、応急処置しないと数分後には死ぬ。
装備魔法を握りしめる。天井付近を悠々と飛ぶ強化種は、他の個体を意図して食い潰し始める。時折此方をちらりと流し見てはほくそ笑む様な表情を浮かべる。
より強い個体になって、一瞬で潰すつもりなのか。悪趣味にも程がある。
とは言え猶予を与えてくれたのは行幸か。足掻く方法も思いつかない状況だけれど──あった。
一つだけ、あった。とっておきの切り札──なんて都合の良いモノじゃない。
効果もわからない、
運良く装備魔法の氷の塊は手放していない。今も尚、床に広がる血を吸って歪に肥大化して、持ち上げる事も出来なくなってしまった氷の塊。
詠唱文は確か────
「『愛おしき者────望むは一つ。 ────砕け逝く我が身に一筋の涙を』
アレックス君の暴走を止めるアルスフェア君大変そう。
もう彼は死んでも治らない病気なんだと思う。