生命の唄~Beast Roar~ 作:一本歯下駄
『大丈夫か恵比寿』
『全然? それとなんか【ミューズ・ファミリア】の方で事件があったっぽいけどどうしたんだい』
『……キーラ・カルネイロが攫われて、主神のウーラニアーが
『……あぁ、ナイアルか? ついに尻尾を出してくれたのかな』
『どうだろうね。とりあえず【ガネーシャ・ファミリア】が【ナイアル・ファミリア】の本拠には乗り込むみたいだよ』
『へぇ、それは楽しみだ。彼はきっと数多くの罪を背負っているだろうからね。今までは上手く逃げられてしまっていたけど、彼が捕まればより皆が笑顔になれる』
『……恵比寿が皆の笑顔を望んでいるのはわかるんだけど、その胡散臭い笑みじゃ誰も信じないよ』
『カッツェは信じてくれるだろう?』
『……まあね。それなりの付き合いもあるしな』
ダンジョン十八階層。
持ち込んだ数少ない酒類を惜しげも無く全ての団員に振る舞い、残っていた食糧を全て使い切る勢いで料理を作り、今回の遠征の成功を祝う宴。
成功を祝う宴にしては、喜びの声を上げる者は少ない。それでも酒を片手に宴を盛り上げようとする団員も多い。割合としては2割程が沈んだ表情を浮かべ、4割が無言で食事をとり、残りが酒を片手に騒ぐ。
そんな団員達の前で笑みを零し、雰囲気を盛り上げようとしている団長達を遠目に見つつ。カエデ・ハバリはアリソンの横で目の前に置かれた肉を見て眉を顰めていた。
こんがりと焼き色のついた、血の滴る様な新鮮な肉。普段なら迷わず掴み取って齧りつく様な
普段ならおいしそうと迷わず飛びつくはずのその肉を見ていると、血と肉と骨の欠片の散らばる地獄の様なあの光景を思い出してしまう。食欲は消え失せ、アリソンが齧っていた野菜スティックをほんの少しかじる程度しか食事もとれず。他の団員と違って年齢を理由に酒類は禁止されているカエデは、酒精に酔いしれて気分を上げる事も出来ない。
ぼんやりと嫌いなニンジンのスティックを齧り、口の中に広がった
「カエデちゃん、それ食べないなら貰いますけど……大丈夫ですか? 顔色悪いですけど」
「……大丈夫です。気にしないでください」
陰鬱とした雰囲気を吹き飛ばす様に、野菜ではなく肉に手を伸ばして、途中で手を引っ込める。それを見ていたドワーフの青年が『食わんのか』と皿に取り分けて差し出してくるが、首を横に振った。
「すいません。食欲が無いので……」
「そうか」
「本当に大丈夫ですか? 何ならもうテントに戻っても良いですけど」
アリソンの言葉により陰鬱な気分が胸いっぱいに広がり、深々と溜息が零れ落ちた。
カエデが休むテントは
今日まで仮死状態から復帰し、つい数時間前に目覚めたカエデは。他の
唯一、ベートとは顔を合わせる事があったが、ベートは『雑魚に構うから死にかけるんだ、今度からは無視しとけ』と言い、睨みつけてきた。
あの時の行動に関して、間違えたと言う積りはないが。正解であったかと言えば口を噤むほかない。
団長であるフィンは『カエデのおかげで彼は救われた。気にする事じゃない』と言ってくれたが、それでも『ああしておけば』と思う事は多い。
その上で最もカエデを憂鬱にさせる情報。ベートの不在である。
ベートは【ロキ・ファミリア】内に於いて敏捷の高さが団長に次いで早い。ガレスやリヴェリアを抜いて、団長に届きうるとまで言われるほどに敏捷に長けているベートは、その敏捷を買われて一足先に【ロキ・ファミリア】の本拠『黄昏の館』までひとっ走りして神ロキに今回の遠征での報告を行う。
この宴の終わりと同時に出発し、往復で5時間程。ベートが不在となる。
その間、カエデは
【ハデス・ファミリア】に対する警戒もあるから、テントの外で眠るのは許可出来ない、と。
テントに向かうのも憂鬱で、我儘だと分かっていても、行きたくない。
野菜のみで、空腹が紛らわされる程度に食事をしてから、深々と溜息を零す。人が死んだ。トラブルが起きた。ワタシの所為かもしれない。白き禍憑き。あの
陰鬱な雰囲気を吹き飛ばす様な美味しい食事であるはずの新鮮な肉類は、カエデにとって地獄を彩る赤色を思い起こさせるだけで気分を盛り上げてくれることは無い。
それでも、時間と言うのは残酷だ。ワタシが思い悩んでいても、止まってくれないのだから。
フィンに再度懇願しにいき、同じ返答を受け取り沈んだ気分で辿り着いたテント。中に誰も居ない事に安堵して、これからやってくるのだと気分がより沈む。
他の
とは言え、支給品であるその大剣は不備等何処にもありはしない。何せ
そう時間もかからずに研ぎ終え、刃をランタンの光に翳して確認してから鞘に納める。
鞘に刃が納まった直後、外から中に入ってくる気配を感じ取り腰が浮いた。膝に乗せていた砥石が転げ落ち、からんと音を立てた所で入口を見れば、
恐る恐ると言った様子で入って来て、此方と視線がかち合う。真っ直ぐ見つめ返せば、気まずそうに視線を逸らされた。茶髪に鳶色の瞳、口元に八重歯の覗くケルトと呼ばれた
腰を落としていた木箱から立ち上がり、足元に転がった砥石を拾い上げて手早く手入れ道具を片付けて木箱を壁にして隠れる様に毛布を取り出して被る。本当なら来る前に終わらせておきたかったが、間に合わなかった。
感じる視線から尻尾を隠す様に、毛布に包まる。禍憑きだとか、言いたい事があるなら好きなだけ言えば良い。耳を塞いで、何も聞こえない様に祈りつつ。眠ろうとする。
どうせ、眠る事なんて出来ないだろう。けれども我慢するのも今日で最後だ。今日を乗り越えれば一人部屋に戻れる。静かで、寂しいけれど、あの部屋なら雑音も無く眠れる。
そう自身に言い聞かせて眠ろうとする。そうしているのに────彼らは声をかけてきた。
「なぁ、聞こえるか? 寝てーないよな?」
静かにして欲しい。耳を塞いで、縮こまる。ベートさんが居れば絶対に声もかけてこないのに。なんで声をかけてくるのか。
「えぇと、おーい。ハバリさん? あのー……」
「無視されてね?」
「あんたなんかしたんじゃない?」
無視しよう。何を言われても。ワタシには関係無い。ワタシは禍憑きじゃない。どれだけ希っても、誰かを不幸に出来る様な力なんて持ってない。そのはずなのに。
「……なぁ、少し話を」
「無理に話す必要無いんじゃね……?」
「いや、でもよ。あの時の事謝りてえし。助けて貰った以上はさ」
「ケルト、ほんとに何もしてない訳?」
耳を塞いでいても聞こえるやり取り。謝ると言う言葉に、ほんの少しだけ、興味を持った。何のことだろう。
ワタシに、話かけようとする
「なぁ、そのままでも良いから聞いてくれよ。あの時、四十一階層で危ない所を助けてくれた時、お前に酷い事言って悪かった。すまん……。助けてくれてありがとよ」
いつの間にか、耳を塞ぐのをやめて、毛布に包まったまま話を聞いていた。謝られた?
「ケルト、酷い事ってなんだ。何もしてないって言ってたろお前」
「いや、あの時は仕方なかったんだよ」
「で、何言ったの?」
「禍憑きに助けられる筋合いはないとか……」
酷い事? 禍憑きと言った事が? わからない。何を考えているのかがわからない。毛布の外でのやり取りに困惑を重ねていく。
「はぁ? ケルト、そんな事言ったのか」
「いや、仕方ないだろ。こいつ無茶しようとしてたし」
「だからって禍憑きは無いでしょ」
「うっ……だから悪かったって謝ってるだろ……」
ワタシが、謝られてる? 禍憑きと言われた事を? 何で? 疑問が芽生えた。毛布から、ほんの少しだけ隙間を作り周りを見る。ケルトと呼ばれた
「ケルトお前は馬鹿だな」
「うっうるせえな。無茶するコイツが悪いんだろうが」
「逆ギレ? 男として恥ずかしく無い訳?」
二人が、ケルトに詰め寄り、怒鳴り合っている。喧嘩している、と言う雰囲気では無く。ケルトが一方的に言い寄られている。何が起きているのかわからずに毛布から、顔を覗かせて口を開いた。怒られるだろうか?
「あの──
「あっ」「おう」「ぁー」
三人の視線が一瞬で集まり、思わず首を竦め毛布に顔を隠す。驚いた表情が印象的で、どうすればいいのかわからなかった。
「ちょ、隠れなくて良いって。話したい事がー」
「おいおい、待て待て、詰め寄ったって
「落ち着きなさいよ。全くケルトは相変わらず考えなしなんだからさ……だからベートさんに怒られるんだって」
「お前だって同じだろ、と言うか。ハバリ、少しだけ話をさせてくれ。
脅える? 怖い? 誰が? 誰を? ワタシが、彼らを? 脅える? 怖がってる?
彼らの言葉に困惑と疑問が膨れ上がって、『丹田の呼氣』が切れて呼吸が乱れているのを自覚し、呼吸を整える。ゆっくりと呼吸を体全体に染み渡らせて、落ち着いてきた所でもう一度、毛布から顔を覗かせた。
「……何ですか」
「あー、その。ごめん。この通り、謝る。四十一階層で禍憑きとか、罵って悪かった」
深々と頭を下げるケルトの姿、脳天が見えた。毛布の隙間から覗いた景色に、一瞬だけ理解が及ばない光景に思考が止まる。彼は、なんで頭を下げているのだろうか。
「俺が横から口出しするのも良くないが、赦してやってくれないか。こいつも悪気があった訳じゃないしな」
「言った事は悪い事だけど、貴女がやった無茶も相当だし。それを止める為だったしね。と言うか大丈夫、顔色悪いけど……?」
他の二人の
そうだ、彼らの言葉はワンコさんの言葉に良く似ている。雰囲気が、まるで此方を気遣う様な、そんな雰囲気。
思わず、毛布を退けて姿を晒す。常に奇異の視線を向けられてきた、白毛の身を晒して彼らの前に立つ。頭を下げたままのケルトを見下ろして、他の二人を見る。
無言のまま、彼らは何も言わずに此方を見ていた。ワタシもまた、彼らと無言で視線を交わす。
脅えてた。その言葉は真実だろう。ワタシは彼らに脅えていた。だって、今までずっとそうだったから。
言葉が通じない。何を話しても、どれだけ友好的な態度で接しようとも、
「なんで、謝るんですか」
「なんでって……そりゃ、心にも無い事を言ったし」
心にも無い事? 禍憑きと言った事が?
「……ワタシが、怖くないんですか」
「怖い? お前が? 笑わせんなよ、お前みたいなチビに誰が脅え──痛ぇっ!? ちょっ、蹴るな蹴るなっ! 俺が悪かったって」
他の二人が、ケルトを無言で蹴り始める。
「…………ワタシの事を───どう思っているんですか?」
そんな質問。今まで、その返答は決まり切ってると
だから、彼らの言葉が信じられなかった。
「そりゃ──同じファミリアの仲間だな」
仲間。その言葉は、どれほど望んだだろうか。同じ村に住まう彼らに、否定され続け、唯一ヒヅチとワンコさんが肯定してくれるだけの言葉。ベートさんが、強くなったら認めてやると言われた言葉。
あっさりと、ケルトの口から放たれた言葉。
「嘘ですよね」
「え?」
「そんなの、嘘。だって────貴方達は……」
同じ席に同席した金髪の美女を意識しつつも、
「なぁ、君は何が目的で僕達の所に?」
【ナイアル・ファミリア】はまともなファミリアでは無い。邪神であるナイアルラトホテプ、別名ニャルラトホテプを主神としたファミリアである。同じ席に同席したナイアルが、いつも通り紫色のパジャマにナイトキャップと言うふざけた格好をしている事に違和感を感じない程には、アルスフェアと言う少年はこのファミリアに
このファミリアの団員は、皆
「カエデを救う為じゃが」
真っ直ぐと、揺らぐ事無く告げられた言葉に、安堵の吐息を零す。彼女が狂っている訳ではないと一安心し、それからナイアルの方に視線を向けた。
「それで、僕は何をすればいい?」
「えぇ、まず────彼女を
飛び出そうになった『何を言ってるんだ君は』と言う言葉を飲み込み。それからヒヅチ・ハバリの方を見た。
椅子に腰かける彼女の姿は、一本の大樹の様にも、刺々しい棘を持ちながらも美しく咲き誇る花の様にも、見ただけで切断されそうな程に鋭い刃の様にも見える。その姿に揺らぎはなく、その目の透き通る色合いにも、刃を彷彿とさせる姿の中にも、狂気を示す色は見受けられない。
だが目の前の主神はこう言った
「はあ? 何処からどう見ても正気にしか見えない彼女を正気に戻すって?」
「はい。ヒヅチ・ハバリ、貴女に聞きたい事があります」
「何じゃ?」
「
ナイアルの口元に浮かぶ、浮かぶと言うより内側からぬるりと這い出てくる様な薄気味悪い笑みに、背筋が泡立つ。彼の嗤い方は精神に良くない影響を齎す。それを知るからこそ視線を逸らしてヒヅチ・ハバリの美しい横顔に視線をやったアルスフェアは、次の瞬間に顔をテーブルに叩き付けた。
「まず
常人に見えたあんたが狂人だったからだよ。そんな言葉が飛び出るはずだった自身の口を全身全霊をかけて塞ぐ。狂人に対し『あんたは狂人だ』なんて言った所で詮無い事だからだ。
「何でもないよ」
まずカエデを殺す。救う為の手段の一つ目に、救う相手を殺すなんて言える奴が世界にどれだけいる? 狂人確定である。よもや狂気の欠片も見受けられない彼女が
いや、それを予測した邪神が目の前に居たのだった。
「ナイアル」
「わかっていますよ。見ての通り、彼女は常人に見えるでしょうが、
意気揚揚と話をし始める邪神の言葉を半分聞き流しながら、アルスフェアはヒヅチ・ハバリの方に視線を向ける。彼女は一切揺るぎなく、前を見つめている。其処にどんな景色が映っているのか、引き締められた口元に浮かぶ表情は、真剣そのもの。傍から見れば真面目そうなその端整な横顔は、けれども先程のやり取りを終えてみれば薄気味悪さを感じるモノがある。
「と言う訳で、彼女を正気に戻す為に──【
「はぁ? 招いた?」
ナイアルと言う主神は、突飛な行動を起こす事が多い。【ロキ・ファミリア】の狂人、アレックス・ガートルをファミリアに勧誘したり。これまで主戦力であった
ともかく、ナイアルの行動は読めないし意味がわからない。いや、意味を理解した時、自分の正気が削り切れて狂人になってしまうのは間違いないだろう。
「はい、どうぞ。と言いたい所ですが彼女は縛り上げて隣の部屋で寝ていますので、アル。お願いします。ヒヅチは、少し其方の部屋で休んでいてください」
「わかった、待っていればいいのじゃな」
「縛ってあるねぇ、って縛ってあるっ!? 彼女は【ミューズ・ファミリア】の団員だぞっ!? そんな事したらどうなると思っているんだっ!」
【
「あぁ、主神には許可をとりました。だから平気ですよ」
「許可……?」
「はい、
アルスフェアが頭を抱えて唸る。ヒヅチ・ハバリは言われた通り、目の前で人攫いの話題が出ているのに顔色一つ変えずに凛とした姿のまま、別の部屋に行ってしまった。動じない姿は常人に見えるが、よくよく考えれば動じる所か話題にも出さずに触れない辺り、完全に
察しがついたアルスフェア。ナイアルは神々をも狂わせる
今回の事が知れ渡る事があれば、【ナイアル・ファミリア】に明日は無い。いや、常々やっている事を考えれば今の時点でも
「わかった、連れてくる……どうして僕がこんな目に」
隣の部屋、ナイアルの示した部屋の扉を開けてみれば目隠しに轡を噛まされ、手足を椅子に固定されたキーラ・カルネイロの姿がある。二つ名の通り、声を使っての攻防を得意とする彼女に、口を使わせない様に轡をするのはわかるが、目隠しまで必要だったのかと眉を顰めつつも、縄を解かぬ様に椅子ごと彼女を運ぶ。
自身が人攫いにあう経験と言うのは初めての事である。そも
数時間前、今頃深層に居るであろう妹を想いつつも【イシュタル・ファミリア】のカエル女を撃退した直後に、自分が
主神であるウーラニアーは非常に落ち着いた女神だと記憶していたのだが、目が淀み、よく分らぬ言葉を呟きながら時折悲鳴を零して楽器や楽譜なんかを投げ散らかしている。意味がわからなかった。
目を見開いて驚いて硬直する自分に、ウーラニアーが気付くと同時に飛びついてきた。
今すぐここから出て行って。逃げて、あの人の元へ行け。絶対に行くな。狂うな、狂わされる。逃げて。エラトーなら平気。メルポメネーはダメ。クレイオーに声をかけて。絶対に行っちゃダメ。出て行け。動くな。
訳の分からない言葉の羅列。理解が及ばずに彼女の肩を掴んで落ち着かせようとした。それから──言葉が聞こえた気がする。
普段から
人とは思えぬ囁き。悲鳴が轟き、それが自分の声だと自覚した時にはもう遅い。気が付けば自分は縛られて椅子に固定されていた。
どれぐらいの時間、固定されていたか曖昧だが、空腹具合からそう大した時間が経過していないのはわかる。ただ、自分を攫う人間が居たのには驚きだ。
顔の半分が抉れ、片腕と片足を失った女。それも
そう思いながらも椅子に大人しく座る。丁重にも、自身のステイタスが
自身を攫った何者かはどうやら主神にも影響を及ぼせると言う事だけを理解し、轡をかみ切る力も無く内心の罵倒をぶつける。私が何をしたと言うのか平穏に暮らす我等を脅かす者共め。心の中で怒りを煮詰め、恨みを溜める。この轡が解かれた瞬間に、言葉を以て攫った相手を呪い殺す為に。
その時は、割と早くやってきた。心の中で煮詰まった恨み辛みを意識しつつ、唐突に取り払われた目隠しと轡。視界が唐突な眩しさに眩み、目を細めていれば、見えてきたのは埃っぽい木製テーブル。その上に乗せられたこれ見よがしな水晶髑髏。四角錐型の石、のこぎり、ノミ、針、ナイフ。自身がしばりつけられているのもまた木製。
そして灰色の犬人の少年の姿。同情的な視線を向けてくる彼を睨み、直ぐにその人物が誰なのか気付いて口を開いた。
「お前は、アルスフェアか。確か最近
「……よく知ってるね。そう言う君は【
同情的な視線を向ける彼が敵では無いと理解し、同時に敵対ファミリアの団員であるとも理解した。
「私の主神にあんな事をしたんだ。絶対に許さないぞ」
恨み節。相手に硬直を与える技、のはずだがアルスフェアはその邪声を聞いても眉一つ動かさない。邪声耐性持ちだろう。
「アル、話はその辺で良いでしょう。さて、自己紹介からはじめましょうか。私はナイアルラトホテプ。這い寄る混沌とも呼ばれていますね」
目の前にぬるりと、気色の悪い動きで出て来たのは紫色のパジャマに、ナイトキャップと言うふざけた格好をした美丈夫。その目を見て──在りし日を思い出す。
「お前は……」
「お久振りです。キーラ・カルネイロ」
「久しぶり……?」
ああ、貴女は覚えていませんか。そう続ける彼。何処かで見た事がある目だ。自分はコイツを知っている。
「何処で会った。私はお前を知らないぞ」
「そりゃあ、私が貴方を一方的に知っているだけですから。見ていて楽しかったですよ」
楽しかった? 一体何を言っているのだコイツは。少なくとも自分は彼を知らない。その目は何処かで見た事がある目だが、断言できる。こいつとは会った事が無い。
「えぇ、貴女はとても頑張った。まさか狂気を払う術を手に入れる程に。貴女の妹────ペコラ・カルネイロとは何度か会った事がありますからねぇ」
「ペコラと……待て、お前、それは何時の事だ」
「そうですね。丁度────貴女のファミリアが壊滅して、彼女が正気を取り戻した後辺りでしょうか?」
正気を取り戻した? ペコラが? だが、あの頃ペコラは、妹は何度も狂っては戻ってを繰り返していた。何度も、何度も。狂う度に傍に寄り沿った。大丈夫だと笑顔を浮かべてくれた次の日に、泣き叫んで自分の腕を斬り落とそうとしたりしていた。妹に。
コイツの目は、その時の妹に良く似ていた。
『お姉ちゃん、腕が無くて困っているのなら。
笑顔と共に、差し出された腕。血に塗れた部屋。妹が、ペコラが自身の腕をナイフで抉り取って、私の為に差し出そうとしていたあの光景。あの時の妹の目と、目の前の邪神の目が重なった。
嗚呼、コイツか。何度も、何度も妹を狂わせた犯人は。大丈夫だと微笑んでくれたのに、次の日には狂った様に泣いたり、叫んだり、腕を斬り落とそうとしたりした妹を、狂わせていたのは。コイツか。
「お前だったのか……」
「はい?」
「お前がペコラを、私の妹を狂わせていたのかっ!!」
目の前の邪神は、顎に手を当て、うぅんと唸る。
なんでもない様に、彼は呟く。
「別に狂わせる積りなんて無かったんですがねぇ」
誰が、どの口でそんな事を言うのか。
「私はただ、
ホオヅキで遊ぶ? 何を言っているのだ。
「彼女は面白く踊ってくれたんですが。途中で逃げてしまったんですよねえ。後少しで
何を、言っているんだ。
「ああ、そうですね。認めましょう。
利用した? 私のファミリアを?
あの頃、まだ自分も妹も幼く、もう直ぐ産まれてくる弟か妹の為に
自分が居たファミリアは平和そのものだった。【ソーマ・ファミリア】に対する憎悪や嫉妬も無く、しいて言うなれば少し平和ボケしてると言われる程に、お人好しな者達が集まったファミリアだった。
困り事があれば、直ぐに手助けしてしまう様な家族達。治療費が足りないと嘆く人がいれば、その費用を肩代わりしてしまうぐらいには、騙されやすいお人好し共のファミリア。
変だった。おかしかった。優しくて、お人好しな両親が、何故【ソーマ・ファミリア】の本拠に乗り込んで、そこに居た団員を殺してしまったのか。不思議でならなかった。きっと、何かの勘違いなのだとずっと思っていた。
「貴女の居たファミリア。丁度
助言。背筋がゾワリと泡立つ感覚がする。
「酒造系ファミリア。【ソーマ・ファミリア】と同じ酒造系のファミリアだった貴女の所が、適任だったんですよ。丁度
売上が落ちていた。事実だった。
あの頃、主神は特に気にしていなかったし、ファミリアの団員内で誰も気にしていなかったが、ファミリア総出で作っていたお酒が売れなくなっていた。原因は──【ソーマ・ファミリア】の台頭。
彼のファミリアを作る酒が、とても出来が良く。自分たちの物とは比べ物にならないぐらい美味いと評判になっていた。その影響か、売り上げが少し落ち込んだ。だが、あれに関して言えばあの頃の主神は問題ないと太鼓判を押していた。
何故なら、客層が違うから。
自分達が売りこんでいた酒は、安酒だった。大量に作って、大量に売る。殆どの冒険者が一度は飲んだ事のある、安酒。誰しも酒と言えばとりあえずこれだろうと手に取るぐらいには、有名だった。
対して【ソーマ・ファミリア】の作る酒は高級酒だった。普通の冒険者には手が出せない様な、高価な酒。それでも一度飲めば目が眩むほどに美味い酒。
安酒と高級酒、当たり前だが客層が違うのだから客の取り合いなんぞにはならない。
それなのに、何故かあの頃自分のファミリアは、【ソーマ・ファミリア】に妨害工作を行っていた。何故そんな事をするのか、幼心から疑問を覚えていた。最初の頃、主神は笑顔で『問題ない、いずれ元に戻る。ソーマの酒が美味いのなんざ天界に居た頃から知ってるからな』なんて言っていた。
なのに、気が付けば『ソーマ赦すまじ』と表情を歪めていた。
気が付けば、両親が団員を率いて【ソーマ・ファミリア】の団員を殺していた。報復にやってきたホオヅキの泣き顔は今でも忘れる事は無い。
『どうして、なんで、皆を殺したのか。やめてって、もう何もしないでって、お願いしたのに。忠告したのに、
あぁ、なるほど。全ての元凶はコイツか。コイツの所為で、両親は、あの頃の平和そのものだったファミリアの皆を狂わせたのは。
それも、ペコラが狂わされたのは
腹の内側を食い破る勢いで増す憎悪。目の前の邪神を見上げる。
「殺してやる」
「おぉ怖い。だから言っているでしょう? 私は
よし、殺そう。コイツだけは、何をしてでも、殺してやる。絶対に。
「殺す、お前だけは絶対に、何をしたとしても。殺す。覚えていろ」
にたりと、ぬめる様な笑みを浮かべたコイツは、愉しげに嗤った。
「それは
カエデちゃんは今までが今までだからね。
まぁ、邪神だしね?
発端としては『あの子素質あるねぇ』とホオヅキに目を着けたナイアルが、複数のファミリアを狂わせつつホオヅキの居る【ソーマ・ファミリア】に吹っ掛けて、ホオヅキ自身にも『先に貴女が始末しておけばこうはならなかったんでしょうねぇ』と囁いて狂わせ。
その後は【ハデス・ファミリア】を中心にファミリア連合を組んで【ソーマ・ファミリア】に
腹いせにホオヅキの被害者である