「律ちゃんてさ、高野君に優しいよね。」
木佐さんが、散らかった高野君の机を片づけている俺にそう言って笑った。
だってさ、何だか怒ってドッカンって机の上のモノひっくり返して飛び出して行っちゃったしね。このままにしておけないでしょ。
「そうですか?普通でしょ?木佐さんが散らかしても片づけますよ。」
「そう?いきなり抱きついても気にしないし、ごはん食べさせてっていったら食べさせちゃうでしょ?」
あれ?そっち?
「この間の花見の会、木佐さん俺のおごりで日本酒山ほどのんだでしょ?それに俺に抱きつくなんて、そんなことするのは高野君ぐらいだし、他の人と比べられないでしょ?」
この部署の、高野君以外のメンバーの中では一番年下の編集長の俺は、威厳とかいうものの持ち合わせはない。
世間の評判では俺はやり手と言われているけど、たまたまその時にこの編集長に俺が運よくなっただけのことと思っている。
そう、皆に助けられながらエメラルドを丸川の売上上位雑誌にさせてもらっているのだ。
そんな中でヤンチャで俺様な高野君は俺の後輩で部下で・・・。実は恋人だ。
もともと本が好きで図書室で出会った俺たちは高校生の時に付き合い始めた。
俺が高校三年生で彼が一年生の春だった。
そんな二人だから当然の流れでそれそれ別の出版社に勤めていたのだけど、お互い忙しい職種で、特に漫画編集だった彼の仕事が軌道に乗り始めた頃からすれ違い気味となり、それに切れた彼が先に転職していた俺の後を追って丸川に転職してきたのだ。
少年誌の編集をしていた彼がまさか少女漫画に来るとは思っていなかったから当初はうろたえたけど、今ではそれも普通になってきていた。
一応は会社では秘密の仲だから節度のある態度で接しているつもりだ。
だってストッパーなんて何重にかけてもかけすぎなんてないでしょ。可愛い恋人が同じ職場だなんてね。
「えー、じゃあさ、俺が抱きついてもヨシヨシしてくれんの?」
「もちろんですよ。でも木佐さんみたいに可愛い人に抱きつかれたらまたサファイアにネタにされちゃいますよ。」
エメラルドの最年長者にして奇跡の童顔を持つ木佐さんが、木佐さんほどの童顔ではないけど同類の俺を揶揄いたがっているのは分かるけど、こればかりは洒落にならない。
「高野君だって同じじゃん?」
木佐さんは尚も追撃の手を緩めようとしない。でもそんな手には乗りませんよ。
「高野君は分かってやってるから、一種の確信犯ですね。騒がれるのを楽しんでますし、俺はちょっとだけそれに乗って一緒に遊んであげているだけですよ。
それはそうと木佐さん、この間のフェアーの企画書ですけどね。」
さてここからはいっぱいいただきましたからご返杯をさせてもらいますよ。
「ふぁ!?」
「まずはこことここのデータですけど、ちょっと古いですね。新しいデータをメールで添付しておきますから再度検証して上げなおしてください。それに目的と時期ですけど先生のコミックスは今回初めてではないのでなぜフェアーをやりたいかの動機付けが薄いです。このあたりの数値をもう少し張り付けてください。時期についてはここでいいと思いますがもう少し何か別のイベントとかぶってないかとか人の流れなどを一応調べておいてくださいね。突っ込まれたときにそこがネックになっても困りますから。
それから、この想定される効果の設定ですけど、こちらも突っ込まれる前にもう少し厚くしておきましょう。最近のアンケートの結果と過去の結果の対比でファンの盛り上がりやニーズの多さを裏付けるデータを数値でも添えてください。それからあとですね、売りたい気持ちはみな一緒ですから木佐さんの個人の感想は申し分ないので、実際にご協力いただけるマリモの方が出してくれているイメージラフ、もう少し形になりますか?すごくかわいいので絶対に押しになると思います。」
にこりと笑って企画書をふぁさりと手渡すと、木佐さんがうえっという顔をした。
でも、必死にメモを取っていた顔の奥に少し照れてるように頬を染めて見えたのは、木佐さんの可愛い人の顔が今頭に浮かんでるからでしょうね。
知ってるよとは言えないけどバレバレですよ。
ふふふと笑うと木佐さんがちょっとだけジロっとこっちを見て早速とばかりに受話器を手に取っていた。
どこにかけるやら。まあ言わずもがなですけどね。
こういう企画書はおそらくダメ出しを何度か食らうだろう。
こちらが完璧に作ったつもりでもやっぱり細かい所を突っ込まれる。その時に追撃できる情報は多いに越したことがない。やる気と企画に対する自信があればどんな壁だって砕くことができるはずだ。だって会社の中に本当の敵などいないのだから。
アドバイスはいくらでもできる。でも実行するのは各担当だから俺は最後には頑張れとしか言えない。
その他の雑事や矢面に立つことぐらいはする。なにより今エメラルドは売れている。それが一番の武器なのだから。
ね、頑張れ~♪
▽
昼を過ぎた頃、「だだいま帰りました。」と高野君が帰って来た。
「もうあいつらは締め切りを守るっていう意識がDNAから欠如してやがるんだ!」
遠くから聞こえて来ていた足音も荒々しかったけど部署内でも早速荒ぶる態度でドスンと椅子に座った。
髪の毛をガシガシとかき乱して憮然としているのがおかしくてかわいい。
「先生たちだって頑張ってるんでしょ?たまには褒めてあげればいいのに。」
俺がクスクスと笑って言うと高野君は眉間の皺をさらに深くした。
「じゃありっちゃんも俺をほめろよ。」
え?りっちゃんってなんだよ。木佐さんの真似してるの?もうこいつは・・・。
「いつもほめてるじゃないですか?」
さすがにりっちゃん呼びは不愉快なのでそっぽを向いてそういうと
「いーや褒めてない!」
と高野君は妙にはきはきとした声で断言した。
「あーあ。始まった。」
木佐さんも羽鳥さんも美濃さんまでもがニヤニヤ笑う。
「褒めてあげますよ。進行係さんがきちんと発破をかけて、みんなの原稿が締め切り通りに入稿できたらね。」
わざと少し難しそうな課題を目の前につる下げると高野君が「絶対だからな!約束だから!」と、息を荒くしてガッツポーズをしたのだった。
まあ、個人がどんなに頑張ってもどうにもならないことは『人対人』の対応だ。
一般社会では精神論だけでは物事がうまくいかないケースも多いけど、ここエメラルドではそれで押し切れる場合もあるからね・・・。
フウっと鼻から大きく息を吐いてその背を見ていると
「小野寺さん、覚悟しておいた方がいいですよ。」
と、珍しく羽鳥さんが月形に目を細めて意味ありげに笑っていた。
まあ最年少でも編集の腕はぴか一の高野君だから今に編集長の座も彼に持ってかれるんだろうな。
そんな風に思ってみてると俺もおかしくなって、羽鳥さんと一緒に笑ったのだった。
▽
夕方になって副編集長の羽鳥さんが「ちょっといいですか?」と俺の横に来て言った。
「はい、羽鳥さんなんですか?」
「吉川先生の次回の作品で出てくるエピソードについてなんですけど・・・。」
「エピソード?」
「ええ、付き合っている恋人が自分を避けてるってところです。理由はいろいろなごたごたでってことですけど、主人公は誤解したまままま別れるって感じです。」
「ああ、ドキドキしますね。どうなるんだろう。二人はもうだめなの?って感じで・・・。」
「吉川先生は当初の設定とは違えて今回一旦別れさせようかとも迷い始めているようで、俺も少し困惑しています。」
ああ、そうだね。あの話には俺も泣きたくなった。昔を思い出してしまって・・・。
それは昔高野君がまだ嵯峨君だった時のことだ・・・。
あれは夏休みに入って少しした頃、高野君は夏休み初日からうちに連泊していたのだけど突然ご両親に呼ばれて一旦家に帰って戻って来た時のことだった。
前置きも説明もなく、両親が離婚したから香川に引っ越しをすることになったと俺に言ったんだ。
「香川?」
俺は突然のことに困惑してしまって・・・、そもそも香川県ってあの香川県だよね?東京からどれぐらい離れているの?そんなことばかりが脳裏に浮かんで実際には何の現実味も感じられなかった。
「そ、う・・・。」
俺は言葉を失って平常心を亡くしていた。
「急だね。寂しくなるな・・・。」
言葉は感情を上滑りして、少ない過去のテンプレートを社交辞令のように口から漏らした。それは高野君に言ったのではなく、高野君のご両親に対しての言葉のつもりだった。
だけどみるみるうちに高野君は顔色を失い、俺は自分が言葉を間違えたのだと悟り、説明をしようと思った時にはすでに遅かった。
彼は身体をワナワナと震わせて俺を思い切り突き飛ばし部屋を勢いよく出て行ってしまったのだ。
慌てて追いかけようとするも突き飛ばされた拍子に積み上げた本の下敷きになって、本の海におぼれかけてしまって這い出すのに時間を喰って、やっとの思いで外に出た時にはすっかり彼の姿を見失ってしまった。
まさか香川県にって、なんで。
転校するってこと?
受験生じゃないか。
こんな時期になんでそんなことになってるんだ。
両親は何を考えているんだ。
当時の嵯峨君である高野君が、家族とうまく行っていないことは何となく分かっていた。
直接的な愚痴は言わなかったけど、家に居てもつまらない、だれも待ってなど居ないといつもさみしさを紛らせるように俺の傍にいた。
心配と不安が広がる。まさか俺にも捨てられたと思ってないだろうな・・・。
手放すわけないじゃないか、こんなに大事に思ってるのに・・・。
しかし高野君は電話を掛けても出ないどころか、電話は電源が入ってないと告げ、家に行っても誰もいない。
もしかすると居留守なのかもしれないと思わなくもなかったけど、夜になっても電気もつかない家にはやはり本当に不在なのだろうと、迷いはあったが他を探すことにした。
ぐるぐると自分の態度を後悔しながらさまようように高野君を探し回るけど、夜遅くなってもどこにも居なくて、電話は相変わらずコールさえしないしメールもラインも同じく反応がない。
もしかしてと自宅に戻ってみても来た形跡はないし、万が一何か早まったことを考えていたらと思うと眠ることもできなかった。
彼の行く場所の当ても思い当たらず、いつまでもぐるぐると行動範囲内の公園やコンビニと彼の家と自宅を何度も往復する俺はその時は疲労で朦朧としていていろいろな判断ができない状況だったようにも思える。
炎天下で暑くて倒れていやしないか?
どこかにこもっていたら熱中症で苦しんでいるのではないか?
おなかが空いていないか?
ちゃんと屋根のあるところにいるのかそんなことばかり考えてしまって気持ちがどんどん落ちて行く。
三日目の夕刻、その日何度目かの高野君の家の門扉のところに来て、そこに手を掛けて中をうかがっていると彼は前触れもなくふらりと戻って来たのだ。
無事だったのかとホッとして慌てて駆け寄ると彼はびっくりしたような目で俺を見て「どうしたの?」とつぶやいた。
どうしたってなに?
俺を突き飛ばして居なくなってずっと電話にも出なくて家にも帰ってなくて心配したにきまってるだろう?
そう言いたかったけど喉がカラカラで瞬間的には声が出なかった。
それでも存在を確かめるように掴んだ彼の服の襟の奥に赤い痣があるのが見えた。
手がフルフルと震えた。
それって、キスマークだよね?
言いたい言葉が喉からは相変わらず出ない。
急にカッと顔が熱くなって襟首をさらに強く掴むと高野君は自分のなにに俺が反応したのか悟ったようでハッと手をクビに当てた。
「どこに行ってたの!」
それは自分の声とは思えないほど野太く低い声だった。
「これは違う!しようと思ったけどいざとなったら出来なかった!」
高野君の言葉にさらに脳の中の温度が上がる。
「しようと思った?!」
何かを思うより早く手が動いた。
思い切り自分の手も痛むほど強く高野君の類を叩いた。
一回、二回、手で頭ごと庇おうとする高野君の腕の上からまた何度も何度も叩き続けた。
「身体の裏切りより心の裏切りの方が赦せない!君はまた俺を裏切ったんだ!」
その言葉にハッとしたように引いたままの身体を高野君が震わせる。
「リツごめん! リツ!」
「赦さない!!」
涙がバタバタと飛び散るのが分かった。叩いた手を止めても襟を掴んだ左手は大きく彼の身体を揺さぶり続けていた。
高野君が隙を見て俺の身体をその大きな身体で覆うように抱きしめた。それに対して俺は「離せ!」と払おうとしたのだけどがっつりと抱え込まれて動けない。
「君はまた俺を裏切った。もう猶予なんて与えない!実刑判決しかない。」
俺は声が震えるのを止められなかった。なにをどうしたらいいのかもこれからのことも 何もかも。
「だから終身刑だ。もう君は俺の傍で一生俺に囚われて暮らすんだ!どこに行くことも赦さない。一生!」
「次に同じ過ちを繰り返したら殺す!殺してしまうから!」
「死刑!?」
「そう!」
「分かった・・・。」
もはや俺の声は叫びに近いものだったと思う。自分でも細かくは何を言っていたのか実ははっきりとは覚えていない。
あとから高野君に恐ろしかったと言われて聞いたことだけが記憶を上塗りしているだけなんだ。
そして俺は、そのままひどい脱水の熱中症で意識を失って、次に目覚めたときは病院だった・・・。
目が覚めた後のことはまあ、色々とあったけど別に嫌なことは起こらなかった。
俺たちが今一緒にいることがその証拠だ。
あの日のことを考えると今でも胸が苦しくなる。
高野君はネットカフェでうだうだとしていたら女性にナンパをされたと言っていた。
抱きつかれ首にキスをされて、このまま溺れてもいいかと思ったのだそうだ。
だけどど、妙にふにゃふにゃとやわらかい身体に触れたときに急に気持ち悪くなって女性を振りほどいてそこを出てきたのだと言った。
俺には、それが本当のことかどうかを調べることも知る術もない。
ただ、高野君は一瞬それもいいかもしれないと思った自分が馬鹿だったと後悔し続けている。
彼には前科があったから本当に赦してもらえないと思ったようだった。
赦してなどいないよ。いまだにね。
あの後いっそ俺も女性と寝てやろうかと思ったけどお互いを傷つけあう行為の果てに幸せが訪れることはない。
第一女性に対して失礼だしね。
きっと・・・、俺たちが少しの傷を抱えながらも寄り添っていることに何らかの意味があるのだろうと思っている。
お互いに優しくなれるのだ。
でもさ、だから、少女漫画ぐらいは幸せな恋をしてもらいたいって思うんだよね。
現実も甘々だけどね。
▽
「リツお帰り。」
編集長会議が長引いて終電にやっと乗れたようなヘロヘロの帰宅状況で家に帰りつくと高野君が憮然とした表情でそれでも玄関で俺を出迎えてくれた。
「せっかく作った料理が冷めた。」
不機嫌の理由はそれか。
「ふふ、ありがとう。今日はなに?」
「肉じやがと鰆の西京焼き。アサリの味噌汁。」
「美味しそう。」
「風呂?メシ?」
「ん・・・。お風呂先かな?いい?」
「別に・・・。」
今日もいい一日だったね。うん。
高野君が口をへの字にしたまま俺の服をペリペリと脱がして、姫抱っこでお風呂場に運ぼうとする。
ちょっとまって、それってまずくない?おいしいごはんにたどり着けない系じゃないの?
理性を総動員して押しとどめる俺と押せ押せの高野君の攻防はあっという間に決着がついて、
そして、
俺の夕ご飯は朝ご飯になったのだった。
▽
「りっちやんまた武藤先生のネーム見て泣いてるの?」
木佐さんが俺をからかうようにそう言う。
「だって、だって・・・。これすごくいいじやないですか。武藤先生は天才です。」
タオルを片手にべソベソとネームを読んでいる俺はきっと他から見たら奇異であろう。
「この二人・・・。わかれたときはどうしようかと思ったけど、すれ違いながらとうとう再開しましたね・・・。」
俺は漫画のことはよく分からない。
編集長になって3年目になるけど、もともと小野寺にいたときは文芸だった。
御曹司とか呼ばれて立派な先生の担当しかさせてもらえなくて、少しふて腐っているところに同じ御曹司仲間のイサカさんが修行に来いよと丸川に誘ってくれた。
無名の宇佐美先生を発掘して、一から育てたというイサカさんは俺の憧れだ。
一も二もなく転職したところ、経験のないコトしろと少女マンガの編集長としてここに放り込まれたのだった。
マンガ自体は読まないわけではない。
だって高野君がジャプンとかずっと買ってて、あれがいいこれがいいと読め読めって勧めるんだ。
だから多少漫画とは何かということは知ってはいた。
でも少女マンガは畑が違いすぎだ。
ワインだって左岸と右岸ではあんなに味が違うのに・・・。
少しだけはじめはじたばたとあがいたのだけどそもそもの年季も足りないし素地も違う。
そこで俺は早々にマンガのノウハウを学ぶことは諦めて、俺がおもしろいと思うものだけをよしとすることにしたのだ。
漫画を世に出したかったら俺を感動させてねといつも作家のみんなに言っている。
編集のプロは、エメラルドのみんながいるからいいんだ。
全員がプロになる必要はない。
俺は俺の好きなものを世に出すために働けばいい。
▽
「小野寺さん。吉川先生のネームが届きました。」
羽鳥さんが俺の机の横に立ち、書類を手渡してそう言った。
でも、なんとなく顔つきが暗く物言いたげだ。
「どうしました?」
そう聞くけど羽鳥さんはそれについてはなにも言わず「とりあえずみてください。」とだけ言って席に戻ってしまった。
少し(かなり?)変な感じがして、それでもネームをパラパラとみると・・・。
これ・・・。
「なんで!?」
俺が叫ぶと羽鳥さんがやっばりという顔した。俺の好みじやないことを知っていたからさっきあんな微妙な顔をしたのだ。
慌てて俺が受話器を手に取ると、皆下をむいて仕事をしてる (ふりを)くせに耳がダンボになっているのが俺にも分かった。
「先生なんで!?なんでなの?」
電話の先の吉川先生が、俺があれこれ詰め寄るも頑として流れを変えようとしない。
「だってせっかくここまで来たのに、可笑しいでしよ?」
先生はこの先の展開を説明してくれたけどやっばり納得できない。
ここは今回の流れの山になるはずだった。なのにこのすとんと落とされるというかかわされる感はなに!?
ずっと先生と平行線の話をし続けるうちにだんだんと腹が立ってきた俺は・・・。
「先生の馬鹿!」
と思わず叫んで受話器をガツンと置いてしまった。
しかし次の瞬間、急に気持ちが全視界型にもどってハッとした。
「小野寺さん、いくらなんでも『馬鹿』はまずいんじやない?」
美濃さんがいつもの素敵な笑顔を崩さずそう言う。
う、美濃さん、自覚しています・・・。
口が渋柿でも食べたかのようにゆがむ・・・。
ヤッパリこれはまずい・・・。
「ははは、羽鳥さん。同行してもらえますか?」
つい言葉がつまってまともに単語を話せなくなっている。
「はい。」
羽鳥さんはいつものごとくクールに返事をした。
「お茶菓子は・・・、どこのが今の先生のトレンドでしようか・・・?」
「マル屋のどらやきだと思います・・・。」
俺は上着をもう一度ギュっと着なおして羽鳥さんと吉川先生の家に向かったのだった。
あーあ、失敗しちゃったな・・・。
そんな日もあるさ。
ね・・・。
▽
「あ、お疲れ様です。」
俺が挨拶したのはジャプンの編集長の桐嶋さんだ。
すらりとした長身で少しウエーブのかかった髪の毛はパーマではなく自前なのだそうだ。なんとも見目の麗しい殿方たちなんだろう。
丸川の出版は本当に美形が多いな・・・。
ジャプンは高野君がずっと買って読んでいたせいで俺はよく知っていた。
特にさすらいの料理人ザ・漢は毎回わくわくして読んでいる。
桐嶋さんはその伊集院先生の担当でもあるのだそうだ。
「小野寺君はまた目が赤いけど泣いたの?」
桐嶋さんにはいつもこうやってばれて呆れられてしまう。
自画自賛、自分たちが作った漫画で毎回毎回よく泣けるなとため息までつかれる始末だ。
でも俺はエメラルドのマンガに感動したりして泣いてしまうことを少しも恥ずかしいとは思っていない。
「だって家の作家さんみんなすごいんですよ。もう感動しない人の気が知れません。」
俺がうれしそうにそう言うと 「小野寺君でもさすがにジャプンでは泣かないでしょ?」と桐嶋さんが言った。
確かにジャプンは少女マンガじやないから感動はあるけどむしろドキドキハラハラの方が大きいと思う。男の子向けはきっと恋愛ものであっても女の子向けのモノとは違うのだろう。
「泣くよりは一緒に戦っちやいますね。」
俺が本気でそういうと
「え?」
と桐島さんがややおどけてそう言うので
「漢が大立ち回りをすると技を試したくなって相手に回し蹴りをしたこともありますよ。」と昔を思い出して顔がニマニマと緩んでしまった。
「それは護身術とかか?」
「まあ、そんなもんです。」
「さすが御曹司だな。」
と言ってから桐嶋さんがあ、しまったという顔を一瞬した。
「悪い。」
短い謝罪に
「気にしないでください。俺が御曹司で恵まれてるのは事実なんで。」
と答えた。そんな言葉には慣れている。それは単体では単なる言葉だ。前後についてくる侮蔑の修飾語が曲者なのだ。
「ほう、吹っ切れてるんだな。」
「ええ、その環境では確かにいい思いさせてもらってますから。でも大変なこともそれなりにあるんですよ。」
「まあそうだろうな。」
「でも、俺は楽させてもらってるから他のメンバーにも、別のところで楽してもらいたいと思ってます。」
そう、小野寺の会社のこと、両親のこと、結婚とか未来の跡継ぎのこととかを思うと時々鬱々としてしまうけど、俺の未来は高野君と添い遂げるってそれだけは決定している。そのためには途中の色々なことを解決して行かなきゃ目的の結果を得られないことも承知の上だ。
でもあれこれ思っていても始まらない。決定事項はいつまでも揺るがないのだから。
丸川に来ていろいろな人と知り合えて仕事のスキルも格段に向上した。
楽しい時間を楽しい仲間と素敵な恋人と送る事って、
実はとてもすごい奇跡だと知っているから、
今日も精いっぱい泣いて笑ってやっていこうと思えるのだよね。
おしまい