「だめですね。落としましょう。」
目の前の童顔で甘い顔の編集長は
「だって、本条先生は今月色々あって…、」
「色々あったのは承知しています。あの時点で多少仕事が遅れてしまうことも了解しました。でもそれが最終締め切りに間に合わなかったということとは別です。高野君に判断をゆだねていましたが、私の判断ミスだったと思います。」
「だからあと少し…。」
「あと少しのまま三日過ぎました。」
「だから、本当にあと少し。」
ふう…。
編集長は目を瞑って短く息を吐くとグッと身体をひねって受話器に手をかけた。
「私から本条先生には連絡をします。」
「い!いや!俺からする!」
上げた受話器を奪うように掴んで、一度大きく息を吐いてかからソラで打てる数字をプッシュした。
先生に今月は間に合わないことを告げると本条先生は絶句して、しばらく間を開けてから「すみませんでした…。」と蚊の泣くような声で言った。
語尾が震えていておそらく泣いているのだろうと感じる。俺も受話器を持ったまま立ち尽くしていると横から編集長が受話器を取り、「本条先生、今回の事は不可抗力でした。先生が頑張って頂いたのは十分わかっています。少しゆっくりされてから来月号にいつものパワーあふれる原稿をお待ちしております。」と続けた。
情けない…、
作家にフォローの言葉も用意できず電話するなんてサイテーだ。
「ええ、高野は先生の一番のファンなので気持ちは先生と同じですよ、また彼も寄らせていただくと思いますのでよろしくお願いいたします。」
カチャンと小さい音がして受話器が置かれても俺はその場を動くことができなかった。
椅子に座っていた編集長がキシリと立ち上がる音がしてすぐ近くに影が落ちる。横に来ている気配に自分は又慰められうのだろうかとやり切れない気持ちが湧いた瞬間、パシリっと頬に小さな痛みが走った。
ハッとして見ると眉間に皺が寄った厳しい顔がこちらを睨んでいた。
「作家と一緒に落ち込んでどうするんですか!?あなたは何なんですか?作家と編集は走者と伴走者です。ペース配分をしながらより良い走路を模索してゴールへと導かねばいけないのに何で一緒に走って途中でヘタってるんですか!?」
「だって…、」
だって…、今回先生は自分の身内の事でいっぱいいっぱいだった。
それは、ずっと作家活動を応援してくれていた旦那さんから
「君は漫画があるからいいだろ?だから僕を一番に必要だと言ってくれる人の所に行くことを許して欲しい。」
と、突然離婚を切り出されたということだった。
会社勤めをしている旦那さんは特別イケメンでもないかわりに、とても優しそうな人で、学生時代からの付き合いで結婚して、趣味半分みたいに描いていた漫画が売れて、それまで専業主婦だった先生が家の事もままならなくなっても文句も言わず家事の一切を請け負ってくれていた。
昼夜のない仕事に会社員の旦那さんを巻き込みたくないと言って外に部屋を借りてからも、頻繁に仕事場に差し入れやらねぎらいやらで来てくれていたから、俺も変わらず応援してくれていたのだと、
思っていた。
きっと先生も…。
「浮気相手にね、子どもができたんですって…。」
相手の人は旦那さんの会社にバイトに来ていた大学生で、あちらのご両親には結婚するという報告を済ませてあり、あとは先生と離婚するだけの状況だった。
先生だけが旦那さんの裏切りを何も知らずに「相手の子が買った差し入れをありがとうって受け取ってアシスタントさんたちと食べてたのよ。この頃センスいいねなんて言ってね。」と言った。
「異性としての愛があの人にあったかと問われると困るの。家族だったし…。でも裏切りは赦せないから離婚届けは一度破ってやったんだけど、だんだんむなしくなって、こんなことでぐるぐるしてちゃいけないって、結局別れることにしたのよ。条件も何にも無しでね。」
先生は苦笑していたけどやっぱり納得はしていないようだった。
「離婚してからの方が色々考えてしまって、一生漫画だけ描いて生活していけるのか?とか、漫画描いてなかったらどうなってたのかな?とか…、もう恋愛なんてきっとしないから一生一人なのねとか…。ぐるぐるしてしまって、ごめんなさい。」
俺は先生の気持ちに共感することはできなかったのに、なぜか同じ不安に浸ってしまった。
俺は婚姻という制度に縛れることのない相手と恋愛をしている。いや…。縛られることのないではなく、縛りあうことはできないが正解かな…。
リツと俺は婚姻という制度でつながる事はできない。なぜなら男同士だから。
それこそ法をカサに別れないとごねることなどできない関係なんだ。
リツが俺をいらないと言ったら、それを受け入れるしかない…。先生の不安とは違っていても、同じように自分の足で立っていくしかないのかもしれないという不安に沈んでしまったのだ。
でもリツは違う。資産家の御曹司で才能もある、容姿もぴか一で、元々俺が好きになったから好きになってくれただけで、きっと女性を愛すこともできるのだろう。
俺には言わないけど後継ぎ問題であれこれ言われているのも噂に聞こえる。
「今日はもう後の事はやっておくので高野君は帰ってください。足でまといです。」
恋人で編集長のリツが目も合わせられずにいる俺にぴしゃりと言い放って、落ちた原稿の穴埋めのために部署を去って行った。
自分のメンタルが弱いのは自覚している。落ち込むとどん底まで落ちないと俺の気持ちは済まないらしく、今までもそれで何度も失敗しているから。
その度に俺を引き上げてくれたのはリツだった。繰り返し繰り返しリツは俺を引き上げてくれるから俺は今ここにこうしていられる。
担当している作家の原稿が落ちるのを見るのは初めてではない。リツはそのあたりはきっぱりしていて、道中はあり得ないほど丁寧に飴と鞭を使い分けて伴走するけど、最後だめだとなったらそこは譲らない。
ネームやプロットでも同じで、自分の好きなものでなければだめだよと柔らかく笑うけど、それは裏返せば自分の好きな物しか認めないということだ。
そのラインに妥協はなく、だめなものはいつだってだめなのだ。
だから信頼もするけど恐怖もある。
もし俺がリツにとってだめとなったらきっぱり切られるのではないかという不安だ。
俺に対するデッドラインはどこにあるんだろう…。
リツ、お願いだ。俺を手放さないで…。
▽
「高野さんに愚痴いっぱい言っちゃってごめんなさいね…。」
リツに追っ払われてから先生の仕事場に行くと、先生は開口一番で俺にこんな風に謝ってくれた。だけど俺はそれを聞いて余計に申し訳なさが湧いた。
自分の漫画に対する気持ちを見失っていた先生に対して俺が甘い考えで引きずり回していたことを、今更ながらに自覚されたからだった。
連載の盛り上がり最高潮の最中だったから、休載はあり得ないと先生を激励しつつ叱咤を続けた。
結果原稿は落ちた。
早いうちに手を打っていれば落とすという目立つ形での撤退は無く、ぎりぎりで落ちた原稿は冊子の中での差し替えも間に合わず、読者に丸見えだ。
読者をがっかりさせるだろう。そして先生にも余計に罪悪感を与える結果になった。
最悪だ…。
「こちらこそすみません、こんなこともできなくて編集者失格です…。」
「ううん、本当にごめんなさい。」
しかし先生の言葉は思っていたよりしっかりしていた。
「?どうされたんですか?何だかちょっと…、」
「吹っ切れてたように見える?」
「は…い…。」
「実際には全然なんだけど、それでもやるべきことの自覚ができた感じかしら。」
明るい顔色というわけではないけど、先生の顔から陰りが消えた気がした。決意とか確信とかいう程の強いものではないけど覆っていた曇りが晴れていた。
そう、気持ちの根っこの根っこにある灯みたいな、何だかわからないけどとにかく大丈夫になった、みたいな感じだ。
「原稿落としておいて何?って感じなんだけどもう迷わないわ。これからもよろしくお願いいたします。」
10歳も年下の俺に先生は深々とお辞儀をしてそう言った。
▽
「高野まだ居たのか?今日はもうみんな帰ったから帰っていいぞ。」
編集部に戻ると副編集長の羽鳥さんが資料を片づけながらそう言った。
「先生の所に…。」
「ああ、きちんとした先生だったからかなり落ち込んでいたそうだけど、何とかなりそうだってな。」
「え?羽鳥さんご存知で?」
「お前が絶対に先生の所に行ったに違いないって言ってさ、小野寺さんが先生に電話して結構きつい事言ってたからな。」
「え!?」
「先生、今更育成してもらいたいとか思ってませんよね。うちの若い編集、立派に育ててくださいね。ってさ、怖かった…、先生もああ見えてプライドの高い人だからしゃんとしただろ?」
羽鳥さんが資料の束を持ったまま遠い目をしたので、あながちそれが誇張ではなかったと分かった。
「いつだって小野寺さんか…。」
「お前にはきついかもしれないけどこれが現実だ。」
「…。」
俺達の本当の関係を部署のみんなは知らない。だけど俺が後輩としてリツを追ってきて、追い抜いてやると息巻いていることは知れ渡っている。
そして今はまだ、それは単なる俺の戯言の域を出ないことも。
羽鳥さんを手伝って色校を仕舞ったり不要なものをシュレッダーしたりしていると昼になった。
「まだいたの?」
ひょいっと顔を覗かせたのはにこやかな顔の編集長だった。
おそらく続かない。