恋する商人   作:ささみ紗々

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蕎麦屋の娘は

ドタドタドタドタ……後ろから物凄い数の足音。すっかり暗くなった江戸の街に、迷惑極まりないとは思わないのか。

「ちっ」

舌打ちをしたのは、くのいちである時雨(しぐれ)。現在屋根の上。

 

彼女は綺麗に伸びた黒髪を後ろで一つに束ね、白ベースの浴衣を短くカットしたものを身につけている。袖や首元には赤い縁取りをしてあって、可愛らしい。しかし表情は相反するように、なんとも険しい。美しい顔の上では、今は眉間にシワを寄せ、歯を食いしばって後方を眺めている。もとが台無しである。

シュバ!効果音を付けるとしたらこんな音だろうというくらいの俊敏な動きで、時雨は立ち上がった。

瓦を蹴り、屋根の上を次から次へと移動する。その様子を、通りを歩いていた若き商人、桔梗(ききょう)が見ていた。

 

 

ここは出雲阿国。現在でいうところの島根県。商業の発達した大通りの一角に、有名な蕎麦屋があった。名前は和処(わどころ)。意味はそのままである。

 

その向かいに、店をやっている若者が住んでいた。「万事屋 桔梗」と掲げた看板は少しばかり傾いていて、古い店だと感じられる。

さて、その店の中には昨夜の商人がいて、どうも何かに悩んでいる様子だった。

「はぁぁぁ……」

ため息をつく様子からは負のオーラが流れ出ている。どうりで今日は一人も客がいないわけだ。

店主の名は桔梗といった。店の名前は自分の名から取ってつけたものである。わかりやすい。

 

頬杖をついて、桔梗は外を眺める。客が来ないからため息をついているのではない。確かになにかに悩んでいるのだ。

桔梗の視線の先には、先に話した蕎麦屋があった。中から出てきたのは蕎麦屋の娘である。緩めに結った黒髪をなびかせて、上品に歩く。お使いでも頼まれたのだろう、彼女は小袋を持っていた。

桔梗の目は彼女を追う。─そう、恋煩いだ。

 

「今日こそは、想いを伝えよう」

桔梗は心の中でそんなことを思っていた。しかし、それももう今日で10日目。なかなか心が決まらない桔梗だった。だが、今日は違った。

 

ふらりふらりと店を出る桔梗。追う先はもちろん彼女である。

実は彼女、ここら辺では有名なべっぴんさん。今年で15となる。その美しさに求婚者が絶えないのだった。

少し進むと彼女が見えてきた。桔梗は追いつこうとする。桔梗が足を速めたその時、角から来たガタイの大きな男性2人に、彼女がぶつかってしまったのを見た。男は文句を言っているようで、桔梗は「助けなければ」と思った。その、次の瞬間のことだった。桔梗は驚いて、固まってしまった。

 

スッ……素早い動きで彼女は男達の背後に周り、背中を一突きする。驚いた男はバランスを崩して倒れそうになり、ふらついた足を彼女が華麗にすくい上げる。

「「うげっっ」」

嗚咽を漏らして倒れた男ふたりを尻目に、顔を上げて彼女は歩いていく。

数歩離れた場所で見ていた桔梗は……いや、その場にいた多くの人が目を疑った。

 

蕎麦屋の娘は、名を時雨と言った。

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