数字表記を統一。
ご報告大変感謝致します。
「――――――――さん!」
「え?」
気がつくと、煙草はやっぱりフィルターだけになっていて、それに私は全く気付いていなかった。間抜けな声を出した私の唇からは、それが溢れるように雨の勝手口に落ちた。滴る雨音に紛れて、その音は聞こえなかった。……運良く火傷をしていなかったのはいい。
それで、どうしていたっけ?
……行動を思い出していこう。
まず、私は本を読もうと決意したのだった。それを選ぶに際して、「こころ」とか「人間失格」、それと「金閣寺」みたいな長編は外したんだった。本当に夜が明けてしまうから。立ちっぱなしで休憩もなしにそんなことしてたら次の日に響くなんてもんじゃない。集中力がどうかしている、ってよく言われるけれど本当にそう思う。
それで軽く読めるものを探していて、梶井の作品群に思い当たったわけだ。夜に読むにもいいだろう、なんて思って。それがいけなかった。
梶井の作品集は言い換えれば”短編集”なのだ。集めれば長編一本くらいにはなってしまうのだ。それじゃ意味がない。朝になる。一方、私は呼びかけられる声に気付かず、いやたった今気付いて読書を強制停止したわけだ。
ちょうど読んでいたのは……”ある崖下の感情”。何を言いたいのか、あと少しで分かるような、分からないような、そんな作品。近代文学によくある難解さで、ちょっと解釈に戸惑いながら読んでいたっけ。
……それにしても頭がクラクラする。まるで寝起きのような感覚で。
それで、思わず上げた視線の先に居たのは――――――――女の子、だった。
黒髪が長くて、ボサボサしていて、今は雨でペタペタしている、そんな女の子。前髪も目が見えないくらい伸びていて、正直……不気味だと思った。服も真っ黒で、水分を吸ってテラテラと僅かに光を照り返している。
「……あの、なんですか」
なんですか、じゃないだろう。自分でも思ったんだけれど、私の名前を、それも芸名を知っているってことは私のファンとかそういう人のはずだ。それで話しかけてくれたんだろうと思う。危ない危ない。夜が明けるところだったから。
それで
「あ―――――」
「――――さん、わ、私、わた、あ、あなたが、す、好きなななんです」
「あー、その、うん、ありがとうございます」
言われるこっちは照れくさいけど、言ってるそっちは照れくさくもないみたい。おずおずとして吃り気味なその声はローテンションだったけれど、下手にハイテンションに叫ばれるよりもこう、アツいものを感じる。そういうのは好き。まぁ、こういうキャラだから言っちゃ悪いけれど暗い系の人達にもウケが良いみたいでそういうファンが出来てくるのかもしれない。実際はとんだおっちょこちょいのスットコドッコイだから、実態を知らせたら幻滅されるだろうけれど。
で、だ。
どうして今ごろこんなところに、こんな子が?
……年の頃は、多分私より少し下。二十も回っていない頃だと思う。つまり高校生くらいだろう。出歩いて良い時間じゃない。良い子はとっととお家に帰るべきだ。でも、帰れないのなら?つまり一緒に雨宿りかな、と思って、
「もうライブ終わって随分経ってるけれど。あなたも雨宿り?」
私はクールキャラだから、フランクなようで突き放すトーン。そう、こういうところで徹底しないとキャラが壊れちゃう。さっきの反応は無かったことにしたい。キャラじゃないから。
それを言うと、彼女は突然笑いだした。
「きしし、しっ、しぃ」
変な笑い方だな、と思う間もなく、
「わた、わたし、あなたを、さ、さが、してたんです、ずっと、ずっずっと、お、終わってから、ずっと」
ものすごい吃り口調で、それを言った。
探していた?何故?でも、確かにそうしていたんだろう。その体に濡れていないところなんて無い。前髪が重く垂れ下がっているのだって、その証拠だ。時雨に打たれて濡れ鼠。服がこんなになるまで探し回っていたんだろう。
けれど、本当に何故?
「どうして」
私は、そう返す。それしかなかった。
困惑している。だって、そこまで探される義理はない。ライブが終わった直後に駆け寄ってくるとかならそりゃあ別に構わない。出待ちも……出待ち、いや、私は一番最後に出たから出待ちするにも行方不明か。それでもウチはフレンドリーな方だから楽屋に遊びに来てもらっても別にいいんだけれど。……代わりに渡しのおっちょこちょいを晒すことになるから、アレなんだけれど。
そう思っていると、
「だ、だだ、だって、あな、あなた、と、ふ、ふたりきり、に、なりたか、ったから、ら!ほか、のひ、人が居ないところで、あい、会いたかったから!」
吃りながら、逆上のようなトーンでそう言う。詰め寄りながら。
これって、あー、うーん、そうか、そういうことか。
この娘、重度の私のストーカーなわけだ。探すよ。そりゃ探してこうするよ。
ところで私がドジなのはもう明らかなのだけれど、本当にドジなのだ。芸能活動が危なくなるくらいにドジなのだ。注意力が散漫過ぎるから。気付かない。色々なことに。不幸なくらいに。
例えば。
街を歩くとしよう。
最近は歩きスマホが社会問題として取り沙汰される世の中だけれど、私もその問題児の一人なのだ。それで何を見ているかってこれがまた読書なわけで。それでなんとなく歩けてはいるんだけれど、フラフラと変なところに入っていってしまう。
人気も街灯もない路地裏やら、鄙びた飲み屋街の小道だとか。危ないったらありゃしない。特に女の独り歩きとくれば。私は電子書籍を読むのに忙しいからどこに歩いているのかなんてのは別にどうでもよくって、いやどうでもよくないんだけれど、ともかく変なところに歩いていってしまっても気にならないのだ。多分、曲がれるところは全部曲がって行ってるんじゃないかと思う。でないと甲府行ったときなんか、あんな変な飲み屋街に迷い込んだりしない。ソープランドだってあったし女の私にはとっても場違いだった。居心地の悪さどころじゃない。まるで私が飢えたレズビアンみたいじゃない。……そもそもソープランドが女も受け入れてくれるかどうかすらわからないんだけれど。
それで問題は、不埒な輩というのがついてくることだ。どうやら彼らは私が普段どういう格好してるかとか、どう歩くかとか、そういうのを全部把握してるらしくって、今じゃ家と本性以外の全てが筒抜けみたいな感じだと思う。……本当にそういうわけじゃないとは思うけれど。でないと私の人権がない。だっていうのにストーカーは皆私目当て。文学少女でメンタルがちょっとヘラってそう、チョロそう、ユルそう、みたいな方程式で追いかけてくるのかもしれない。でも私は処女だし、貞操観念もバッチリだ。古式ゆかしい軍人の家系に生まれたから、育ちはいいのだ。育ちだけは。育った結果は……お察し物かもしれないのだけれど。加えて私の文学少女キャラから”弱そう”とか連想して襲えそう、とも思うのかも。それにしたって期待はずれだと思う。私は飽き性だしほとんど何事も続かなかったけれど、経験した武術の数だけなら武芸百般を名乗れるはずなのだ。ふふん。まぁ百般なだけで一意専心とは行かないのが情けない。だから暴力はやめよう。多分私のほうが強いのだから。……別に他のメンバーの方がちょろいってことじゃないけど。気付いて追っ払ってくれたり、行方不明になる私を探して魔の手に掛かる前に引っ張っていく、そんな頼れる安全装置なんだから。
さて、ストーカー。
それは全て”彼ら”だった。一人残らず男。そんなに性的に魅力があるのかなーと自分自身問いかけることもあったんだけれど、多分やっぱり”弱そう”だから食いついたんだろう。でもこの子は別。女の子なのだ。だから完全にノーマーク。この子がどこから来たのかも私は知ったことじゃないんだけれど、メンバーはきっと気付いていない。例えここ最近のライブに全て出てきていたとしても、だ。女が女をストーキングする。流石にメンバーも今までの傾向のせいか想像の埒外になってしまって、この子という危険については私に何も言わなかったのだ。もしかすると、よく見る顔、とかそれだけでも記憶に残っていたりするのかもしれないのに。でも、女の子だから安全だと思ったのだろう。仕方がない。
それにしてもこの子は非常に熱烈だ。なにせ、探し回った挙句にライブも終わって久しいライブハウスの勝手口なんてところを探すんだから。私がもしタクシー代をケチらない、雨を厭わない、なんてことがあったら全て無駄足なのだから。チェックイン済みのホテルに戻って今頃は寝てるところだっていうのに。奇跡のように巡り合わせた、この子の熱意そのものには感服する。ストーキングされる側が感心してどうする、って話だけど。
えっと、とりあえずどうしよう。この子に私がすべきことってなんだろう。
まず暴力、ダメだ。穏便に済ませるべき。出来ることならば、ここから逃げ出さなくては。
今すぐにも、逃げ出さなくては。
運が尽きてストーカーと巡り合わせになってしまったこの現状から。
それを防いでくれていたメンバーやマネージャー達に感謝しなくちゃいけないなぁ、とぼんやりと考えているのだけれど、これはニコチンのせいかな、それとも集中が解けたあとの寝起きのような感覚のせいかな。
今ひとつ、私の危機感が目覚めない。
でも、ストーカーだけれどファンなのだ。しかも女の子だから、襲われる危険は……そんなにはないはず。
だから、
「えっと、その……私に会って、どうするつもりだったの」
「――――――――ください」
……聞き取れなかった。でも、吃りは、淀みは無かった。
「何を――――――――」
「死んでください」
「え?」
聞こえないふりをしたかったその言葉は、
「しんでください」
私は彼女から目をそらす。右へ。路地裏の終わりへ。人通りが少なくても、決してゼロではないところへ。
逃げ出さなくては。
今すぐに、本当に、逃げ出さなくては。
そして、彼女を一瞥する。
左手に、包丁が握られているのを認める。
それでようやく私の危機感は沸騰した。心臓が跳ねる。
夜を写し込んだ銀色は、ネイビーカラー。星のない夜、月の無い夜だから漆黒に染まっていた。それは殺意の色。
漆黒の殺意。
左利きなのか……と考える私は、沸騰した危機感と一緒に余裕まで抱いている。ここまで来て逃げられると思っている、その自惚れなのかもしれない。
でも左に持っているってことは、右に逃げてもすぐに刃が追いついてしまうかもしれない。
ここで私は一つの決断を下す。正当防衛。防衛する。
この包丁を、何とかしてこの子の手から離させなくては。
そもそも雨宿りなんてしなければよかったのに、次善の策、それどころか最悪の策に至ってしまった。私って本当に運がない。補填してくれていた人も今は居ない。
深呼吸。
そして、私は右肩に掛けていたスティックケースを肩から外す。勢い良く左に体を傾けて、振り回すように。慣性に任せてケースは宙に留まって、右手に収まった。すると紐を掴んでそのまま、振り回す。その子の左肩を殴打する。思い切り。
これは防衛、正当なる理由を持った暴力なんだ。いけない、と言った自分をすぐに覆す自分が情けないけれど、そうも言っていられなくなったのだから。
ケースはすんなりとその子にヒット。
「あぅ」
腕が衝撃で痺れて、包丁を取り落とす。カランカランと音が鳴る。これで一安心だ。
逃げよう。今すぐにここから逃げ出さなくては。
それで二歩か三歩かを走ったところで、
「のっ、おうぇ!?」
見事に転んだ。
……油断した!ここに雨水で滑るのとカバンの重みで重心が崩れて!
そんなこと分かってたなら滑っても転ばないのに!目の前の地面と足元の感覚からして、枯れ葉が落ちていたみたいで、それに足を取られた。時雨の降る夜に、あたり一面の落ち葉。……こんな雨の日に掃除する人なんている訳もないけれど!おのれ! としか言いようがない。
すぐに立ち上がってまた走り出そうとするけれど、その間にも彼女は包丁を拾い上げて私に駆け寄る。
「は、はぁ、はぁ、はぁ、し、死んで、死んで、く、ください」
彼女は小走りで、でも滑らない。私よりも頭は冷えているらしくって、それは行為と裏腹で意味がわからなかった。足の踏み場を選べるだけの余裕が、彼女にはある。もしかして雨に打たれて頭が冷えて集中力が上がっているのかもしれない。でも雨に打たれてもまだ殺意の萎えないことだってヤバい。……本当に、殺されてしまう。
逃げなくては。
今すぐにここから逃げ出さなくては。
私の得意分野、瞬発力で先手を打てたのはいいのに、それでも走り始めた彼女から逃れるには、ころんだというハンデが大きすぎた。追い付かれまいと這いずるように路地裏を走る。パンパンのカバンが邪魔で、でも下ろしているヒマなんてなくって、
「ああああああああ――――――――!」
「う、わっ!?」
叫び声に合わせて、彼女が大きく踏み込んでくる。左手を突き出して乗り出すように。それを私はなんとかノールックで避ける。間一髪で。……裂帛の気合で突き出された殺意から逃れた私は、
「お、わっ!」
また転び、そして尻もちをついた。前のめりならともかく、這って逃げることも叶わない姿勢にされる。
……今度は止水栓の上。そこにも落ち葉が乗っていた。なんて運がない。なんてドジ。なんて間抜け。
救いようがない。助かりようもない。
……もう、ダメだ。追い付かれて、相手は今度こそ万全で、もう私は詰みにハマった。
「し、し、しん、しんで、くだ、ください」
「……いや!」
体を捻って足を突き出してキック。でも、今度ばかりは凶器を取り落とさせるには至らない。足元を狙って蹴っても、彼女は揺らがない。まるで木の根を蹴りつけているようで無意味。痛みも感じていないみたいに、私に覆いかぶさるように、両手で包丁を持って振り下ろそうとしている。
そんな中、私はまた集中状態に入っていくのを感じていた。理由はわかってる。死にたくないから。でも、死ぬ前の走馬灯を見るような、スローモーションで全てが流れていく。私だけが低速の世界にいる。これは、なんだろう、死ぬ間際だからなんだろうか。達人が落ちる状態、ゾーンに入っているみたいな感じに、いきなり意識が落とされていく。
ダメだ、死ぬ。死にたくない。死にたくないよ。まだ、嫌だ。殺されたくない。
死にたくない、その一心で体が動いていく。不思議と、体が何かを知っているみたい。
包丁をいなして――――――――
そして、包丁を私が持っていて――――――――
●
「え?」
気が付いたときには、全ては終わっていた。
殺したのは、私の方だった。目の前には崩れ落ちた彼女。私への刺客が倒れている。
手が、体が、彼女の生暖かい血を浴びて、それで目が醒めた。いずれ冷めていく体が、いやみなくらい現実的で、それで、私は私がなにをしでかしたのかを理解して、拒んだ。
人殺し。
人殺し。
人殺しに、なってしまった。
そんなものになりたくなんてなかったのに、なってしまった。
それに耐えられなかったから、私はもう一度正気を手放した。
夜が明けて、私と彼女を紫色の朝日が映し出すまで。誰とも知れぬ人の悲鳴が私を貫くまで。
そうして、私は助けを求め始めた。
自分を探して。
人殺しじゃない、そんな自分。
でも、ここにいるのは人殺しのロッカーで、アイドルで、私が探すそれはどこにもなかった。
存在しない自分を探して、私は、意識がさまよい始めるのを感じていた。