女提督は金剛だけを愛しすぎてる。改   作:黒灰

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分割して投稿します。


a month & 7days despair・改-1

 

 座り込んで、意識だけが朦朧としている私を引きずりあげたのは、男の人の腕だった。後ろから腕を掴んで、私を立たせる。そして、手錠を私の両手に掛けた。

 

 かちゃり、と音が鳴った。

 

 拍子抜けするようなその音色は、私を目覚めさせた。

 

「―――――――ひっ」

 

 パニックが襲ってくる。まただ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。もう嫌だ。

 

 呼吸が浅くなって、深く吸えなくて、口をパクパクさせながら、空気を必死で食んでいる魚のようになる。

 

 ――――――――ほとんど現行犯ですね。

 ――――――――まぁな、経緯は署で聞けばいい。

 

 そんな一言二言が、まるで耳鳴りのように聞こえてくる。私は、背中を押されて歩くことを促される。

 そして、倒れた。いや、転んだ。それで、一人で立てなくて二人がかりで抱えられて私はパトカーに積載された。真ん中の席。警官と警官に挟まれた、逃げ場のない場所に。

 私は、なにをつぶやいているんだろう。

 

 ――――――――いやだ。

 

 嫌。

 そう、嫌だ。

 

 何が?

 

 まるで、私は、私じゃないみたいになって、あの子を刺し殺した。

 私は、どこへ行ったの?

 あの時、私はどこにいたの?

 じゃあ、刺した私は、何?

 

 嫌だ。

 それを、私だと思いたくない。

 私が、私じゃなくなった。

 

 呼吸が更に浅くなる。深く吸おうとして、吸い込んで、今度は吐き出せない。まるで詰まったように、少しずつ、切れ切れの呼吸しか出来ない。はちきれそうな肺が痛みを訴えて、それに古くなった空気が嫌だと体が悲鳴を上げる。

 私は、目の前が真っ暗になって、意識を失った。

 闇に包まれる眠りと違って、それは奈落への落下死の感覚だった。

 

 

 ●

 

 

「起きなさい」

 

 その言葉と一緒に揺すられて、私は目を覚ました。

 右手も左手も、手錠が掛かっていて、そのことは私を絶望させた。

 これは夢じゃなくて、現実なんだと。

 

 さっきまでの全ては悪夢で、私はホテルのベッドにいつの間にか入って寝こけていた、そういうことだったらと。

 全てはそうなるはずだったのに、私はそうできなかった。

 出来ない。私には、何かおかしなものがある。私の制御できない何かがある。

 そうじゃなくちゃ説明できない。私が私をコントロールできないそのわけが。

 うまくいかないのは、なにかのせい、なにかのせい、そうでなくちゃいけない。

 

 違う、私がうまくいかないのは私のせい。私がすべていけないんだ。

 

「私が、刺しました」

 

 違う。

 

「私が刺しました」

 

 違う。

 

「たすけて」

 

 何を、言っているんだろう。よくわからない。

 

「……ほら、立って」

 

 虚ろな気持ちのままで、私は車の外に引きずり出されて、歩かされた。

 

 

 ●

 

 手荷物は全部預かられた。というより、奪われたのかもしれない。あのパンパンのカバンと、あの子を殴ったスティックケースが。私が今持っているのは着の身着のまま、服だけ。

 

 取調室は二人の警官が同席した。一人は聞き手と書記として、もうひとりは……言わずもがな、私が暴れた時用に要るんだろうと思う。

 あはは、可笑しい。多分、私じゃない私は、あの子を刺した私は、きっとこの二人なんて伸してしまうんだろうけれど。でもそんなつもりはない。だって、そんなつもりで刺したわけじゃないはずだから。

 でも、いや、どうして私は、刺したんだろう。

 

 分からない。

 死にたくないから?多分そうだろうと思う。

 そうじゃなくちゃ体は動かない。こんなとんでもないことをしでかしてしまった今、死ぬのと殺すのとでどっちがいいんだろう。私は、殺したくて殺したんじゃないんだから。死にたくなくて、殺した。殺されたなら、死んでしまうから。多分、死んだほうがマシだった。

 

「まず名前は」

 

 質問が始まった。

 

 

「――――、――――です」

 

 本名を答える。

 

「職業は」

「ミュージシャン、です」

「ふぅむ」

 

「何故あそこに居ましたか」

「晩に、ライブがあって」

「それで」

「私だけ片付けに手間取って、マスターにも手伝ってもらって、それで、全部終わったら時雨が降っていて、雨が上がるまで雨宿りしようと思って、それで、あそこに」

 

「被害者とはどういう関係ですか」

 

 被害者。

 被害者。その言葉は、私にとってあまりに重い言葉。あの子は被害者。そう、私が殺したから。私じゃない私が殺したのだとしても。私が、刺したのだから。

 

「彼女とは、初対面です」

「なぜ初対面である人を」

「彼女に、――――――――刺されそうになって」

 

「凶器はあなたのものではないと?」

「私のものではありません」

「ふむ」

 

「刺されそうになったから奪って刺した、それで状況は合っていますか」

 

 それは、そうだ。

 だから、私は答えることしか出来ない。

 

「はい」

 

 そう。肯定。それ以外の何物でもない。

 

「記憶は、曖昧ですけれど」

「曖昧?」

「気がついたら、もう、ああなってて」

 

 まるで他人事。

 

「ふむ」

 

 聞く警察の人も他人事。だって、当事者じゃないんだから。誰もあの夜に居なかった。私とあの子だけ。そして、全てを知っているあの子はこの世になく、そして全てを知っているべき私は、こんなにもおぼろげで。

 

「刺されそうになるまでの状況は?」

「はい」

 

 そう一息置いて、私はありのまま起こったことを話した。

 何にしたって、取り留めのない、ただの夜のことなのに。

 一瞬で、異常な夜に変わった、あの瞬間のことを。

 

「私、雨宿りをしてました」

「雨宿り?」

「ライブハウスを出るのが遅くなって。片付けに手間取ったんです。どうしても、片付けられなくて、それでマスターの手も借りました。楽屋から私のものが何も出てこなくなるまで。それで……メンバー達に置いていかれて、マスターと私と二人だけで。出た頃にはもう雨が降ってました。時雨だろうって、秋の通り雨だろうって、思って、それで傘が無かったから、――――いや、マスターがくれるって言ってくれたんですけれど、それは遠慮したんです――――――」

「それで、雨宿りを?」

「はい、そうです。―――――読書でもすれば、そのうちに雨も上がると思って。スマホに沢山電子書籍を入れてて、それを読んでいればあっという間だって。そう思って、ずっとライブハウスの勝手口の屋根を借りてました」

「そこで、被害者が現れたと?」

「はい、気がついたら、もうそこに、彼女が居て。私の名前を呼ぶんです。―――――さん、って。それでやっと集中から抜け出して、抜け出せて、煙草もフィルターだけになってて。ああ、私、煙草吸いで、それで」

「続けて」

「はい……それで、気がついたらもうあの子が目の前にいて、濡れ鼠で」

「場所に傘は無かったから、何も持たずに?」

「はい、傘もささずに……」

「ふむ。それで、名前を呼ばれてようやく本に没頭することから抜け出して、どうしましたか」

「その子も雨宿りかと思って、私のことを知っているから、ファンだと思って、でも、おかしいなって思いながらですけれど、聞きました」

 

 そう、聞いた。聞いたら、あの子は、

 

「突然、笑いだして」

「笑いだした?」

「私を探してた、私に会いたかったって、二人きりで、会いたかったって……」

 

「続けて」

「それで、会ってどうするつもりだったのかって聞いたんです」

「聞いたら」

「死んで下さい、――――――――そう言われました」

 

 それからのことは、目が覚めたように鮮明に思い出せる。白昼夢のように、その情景が思い浮かぶ。

 

「それから、包丁に気付いて」

「どうしましたか」

「自衛のために、スティックケースで、左腕を殴って、それで、包丁は取り落としてくれたからそのまま逃げようとして、転んで、追い付かれて、包丁を避けて、それでまた転んで、蹴って抵抗して、それで、殺されると思って、気がついたら」

 

 気がついたら。

 

「刺していたのは、私でした」

「ふむ」

 

「それからどうしましたか?」

「何も……」

 

 何もできなくなって、いや、何もせずに、ただ私は座り込んでいた。

 

「座り込んで、朝まで、それで、悲鳴が聞こえて、ここに連れてこられて、今、こうしていて」

「これが事の経緯だと」

 

 それ以外は、もう何もない。

 

「以上で経緯の説明は終わりですか」

「はい」

 

「ボディチェックをさせてもらいます」

「ボディチェック……」

 

「女性の者を呼びますから、その転んだ痕を記録します」

「……はい」

 

 

 ●

 

 

「服を脱いで下さい。転んだ回数は二回と聞いています。それと照合するために、傷跡を記録することになりますので」

「……はい」

 

 

 下穿きを脱いで、膝と、それとお尻の写真が撮られた。

 見せてもらった。

 

 青く腫れ上がっていて、確実に私が転んでいたことは保証された。けれど、それはただただ惨めなだけで、私がまるで品定めされているみたいで、モノ扱いみたいで。恥ずかしかった。情けなかった。

 

 ●

 

 そして私が吐き出せる情報が全て吐き出された後は、留置所で勾留された。煙草も、スマートフォンも、何も私の手元にない。あるのは着の身着のまま。連絡も取れず。留置所の一室が私の世界のすべてになった。孤独、寂寞、静寂、全てがそこにあって、それ以外は何もない。時間の流れさえ、まるで無いみたいな。

 

 永遠とも思える時間が、スローモーションで進んでいく。ゆっくりと。ゆっくりと。真綿で首を締められるような、絶望感の中で。絶望の中で頭はフル回転して、けれど空転している。意識の中に、呼吸という行為がリストアップされる。思考するということの外側にあるべきもののはずの生理的現象すらが、無意識から這い出て来て、息をすることすらも疲れている。落ち着かない。居心地は悪い。だって、留置所なのだから。罪人を閉じ込める場所で、その居心地がいいわけがない。

 

 思考の空転は止まらない。もう、頭の中が一つのことにかかりきりで、何も働かない。

 

 死にたい。

 

 死にたい。

 死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。

 

 私は、死にたくて仕方がなかった。けれど、それは矛盾している。死にたくなるくらいなら、死んでおけば良かったことだから。なんで、私は反撃してしまったんだろう。意味は分かる。けれど、そう出来た理由が分からない。体は、勝手に動いていた。死にたくないから、体が動いた。それがわからないほどに、私は考え浅くはなかった。けれど、でも、だったら、だったらなんで、私は死にたいと思ってしまったんだろう。思ってしまっているんだろう。

 

 呆然と、”死にたい”の思考を私は眺めている。現実感が、半端過ぎる。まるで、知っていて悪夢を見ているような、そんな。

 

 ふと気がつくと、もう二日が経っていた。

 

 

 ●

 

 

 檻の中から出されると、身だしなみの時間が貰えた。検察庁に連れて行かれることになって。

 十五分という短い時間の風呂の時間が与えられた。本当なら風呂にも入れてもらえないはずだけれど、私は女だから、という理由だけでそれが与えられたらしい。けれど、十五分じゃ何も洗えない。

 カラスの行水とはよく言ったもので、シャンプーしてその髪を濯ぐだけで全ては終わってしまった。出の悪いシャワーに浸りながら、私はまだ悪夢の中にいる気分だった。目はこんなに覚めているはずなのに、どこかどうしても現実感がなくて、まるであのことは私がやったことじゃないみたいで。

 

 風呂から上がると、ブローの時間なんて与えられない。ギシギシの濡れた髪のまま服を着直して私は留置所の外に出された。パトカーに乗るまでの僅かな時間、この世の空気を吸い込んで、それっきり。

 娑婆の空気は確かに旨かった。

 そして、またパトカーの狭い車内に閉じ込められて、揺られて、私は検察庁に着いた。

 

 

 ●

 

 

 検察官の人は、男だった。

 その人に、またあの夜のことを話した。

 

 また、白昼夢にいるような気分だった。

 

「……防衛の正当性に、疑義があります」

 

 そういう言葉で、その場で私の留置所戻しが確定した。

 

 

 ●

 

 

 留置所に戻ると、面会者がやって来た。名乗るには、事務所付きの弁護士らしかった。こうして勾留されている現状をどうにかしようと動いていたらしい。

 

「絶対にすぐ出られるようにしてみせます」

 

 その言葉には、勇気づけられるよりも滑稽な気分になった。

 なんとなく、私は出られないと思っていたから。悪夢の中から。

 

 ●

 

 

 留置所での生活がまた始まった。

 ボロボロになった本が貸し出されて、私はそれに読み耽った。看守に山盛りの本を要求して、そしてあっという間に読み干して。

 

 そのうち、また私は外に出されて、今度は地方裁判所に連れて行かれた。

 沢山の書類を携えた裁判官と対面で話をして、それで、やっぱり私の言うことは同じで、あの夜のことで。

 そして言われたことは、

 

「――――――――防衛の正当性、それが争点になるでしょうね」

 

 結局、それだった。

 

 

 ●

 

 また留置所に戻る。本を読む。飲み干すように。文章に酔うように。

 

 それを何度か繰り返していたら、私は保釈された。

 

 両親が、保釈金を払ったんだそうだ。

 莫大な金額だった、と。

 事務所付きとはまた別の弁護士が来て、出る時に教えてくれた。

 けれど、出てしまうと、もう逃げられない。なんとなくそう感じた。娑婆の空気は、冷たくて、喉が灼けるように乾いていて、そして、もう自由の味はしなかった。

 

 両親は金を払っただけ。会いには来てくれなかった。私自身、合わす顔がなかったからそれでいいと思った。けれども、それでも、一抹の寂しさが脳裏を過ぎった。情けない。

 

 それで私は、しばらくは私の味方になった弁護士の家でしばらくの時間を過ごすことになった。

 

 ●

 

 裁判までの一ヶ月、私はひたすらに本を読んでいた。弁護人が所蔵する本は、粗方。六法全書から何まで、法に関する書籍は腐るほどあったから。でも、それを読むのは私がそれを身に着けよう、と思っているからじゃない。本だから。ただただ、本を読むために。それに溺れていくために。

 

 

 ●

 

 気がつくと、一ヶ月はあっという間だった。

 

 弁護人が持っていた本が尽きたから、返ってきたスマートフォンで電子書籍を読んでいて、尽きないほどのパブリックドメインを読んで、読んで、読んで、飲み干すように読んで、それで。

 私のあてがわれた部屋は書斎で、でもそこはどんどん散らかっていった。私の心の、脳の中みたいにとっ散らかって、手の施しようが無いほどに。けれど、世話役として雇われた女の人が毎日地道に片付けていった。

 

 弁護人には、私のことを話した。あの夜のこと、そして、私が抱えるもののこと。あれやこれやを、口軽く話してしまった。精神科の通院歴もあるってことを。診断まで付いているってことまで。

 病院の名前、そして、その時の疾患名。

 

 パニック障害。

 私が抱える、”ドグラ・マグラ”の呪い。

 

 けれど、私はそれを武器にしたくなかった。言い訳にしたくなかった。恥ずかしいから。惨めだから。情けないから。だから、言わないで。そう頼んだ。

 弁護人は、空々しく頷いた。

 

 

 ●

 

 裁判の日取りは恙なく決まり、私はその日に弁護人の車で連れて行かれた。マスコミは、裁判所の前に車が停まった瞬間殺到してきた。そして、私をまるで見世物みたいに見詰めてきた。

 

 裁判所に入るまでの少しの徒歩。マスコミはひたすらに、ただひたすらに五月蝿かった。フラッシュは眩しくて、目が眩む程で。

 

 ただ、私の惨めさが透けて見えるようだった。

 

 

 ●

 

 

 裁判は厳かに始まる。被告席から眺めると、傍聴席には見知った顔が一杯居た。今は会いたくなかったバンドメンバーが勢揃いしていて、事務所の偉い人も居て、でも、お父さんとお母さんは居なかった。

 

 私が眺め終わって一息吐いたところで、裁判官が入室。

 皆で揃って一礼。

 それが裁判の開始を告げた。

 

 木槌の音は聞こえない。フィクションの中だけで奏でられる、絶望の調。それは存在しなかった。

 それをこうして現実感の無いままに、私は受け入れる。

 

「被告人」

 

 それを示す言葉は、たったひとつ。

 私の事。少なくとも、この法廷の中では。

 

「はい」

 

 そうして、被告席から立ち上がる。

 

 薬は沢山飲んできた。飲み過ぎなくらいに飲んできた。だから、なんだか、意識が虚ろなはずなのに。

 どうしても、目が覚めてきてしまう。

 ひりつくような感覚。乾いた感覚。砂漠にいるみたいな感覚。

 茫漠とした心情の中で、太陽のない砂漠で、私は凍えていた。体が、震える。

 

「まずは氏名を」

 

 これから、私が私であることを証明する。そのための証言。被告人が本人であると確かめる、その儀式。

 

「――――、―――――です」

「本籍地を」

「本籍は……分かりません」

「……記録では横浜市、―――――とありますが」

「はい、多分、実家がそこなので、合っていると思います」

「住所は」

「渋谷区、――――――、です」

「生年月日は」

「……1993年、3月24日生まれ、22歳です」

「職業を」

「……ミュージシャン、です」

 

 私が絞り出すように自分を証明すると、裁判官は一度口を噤んで、それから、

 

「本人と確認致しました。では、起訴状を読み上げさせていただきます」

 

 起訴状。私の罪のサマリー。

 

「被告人―――――、――――――は、―――月―――日、深夜に―――――、―――――さんに大して防衛を行い、結果的に殺害しました。これに異論はありますか。被告人」

「……あり、ません」

 

 ない。あるわけがない。殺した。私が、私が殺したんじゃなきゃ、私以外が殺した。私の中の私以外がいて、それが殺したとしても、その体は私のもので、その意思は私の中から生み出されたもので。

 

「では検察、冒頭陳述を」

「はい」

 

 見覚えのある顔の、検察官。私を取り調べた検察官。

 彼の唇が震えることなく、私の罪を詳らかにする。

 

「私も被告人に聴取を行っておりますが、その上で述べさせて頂きます」

 

 そう前置いて、

 

「――――――――被告人は閉店後のライブハウスの裏で雨宿りをしている途中、被害者と鉢合わせし、被害者から包丁で殺害されそうになり、それに対する防衛として鈍器を振り回しました。その後、二回ほど足が滑り転倒し、その後――――――――」

 

 その後。そう、私が覚えていないこと。

 覚えていないことの後のこと。

 

「凶器となった包丁を奪い取り、被害者に致命傷を与え、殺害しました」

 

 その通り。

 何も飾られていない、混じりっけなしの真実で事実。

 それに、

 

「検察官」

「はい」

 

 裁判官が、指摘する。

 

「凶器を奪ってから殺害までの過程がありませんね」

「はい。本人は記憶に無いとのことですので」

「では、検察官。あなたの見解を」

「はい――――――――」

 

 背筋をより一層伸ばした彼は、囁くように一つのビジョンを話した。

 

「凶器を奪い取り、殺害した。その過程ですが――――――――」

 

 過程なんて、ない。私が覚えているのは結果だけ。でも、

 

「防衛の際に鈍器を振り回したことは明白です。後に立証いたします。その鈍器を振り回したことによって、何が起きたかが問題なのです」

 

 勿体ぶるように、いや、でも確かに説明しなくちゃいけないんだろう。彼のビジョンを描くためには。

 だから、黙って聞いた。

 

「鈍器によって殴られ、凶器を取り落とした」

 

 正解。

 

「その落ちた凶器を拾って刺殺した。転ぶことは、それ以降でも可能です」

 

 違う。

 

「そう考えるのが自然でしょう」

 

 違う。それだけは、それだけは、違う。だって、私は、転んで、転んで。逃げ惑っていて。

 

「であるからして。――――――過剰防衛、あるいは殺人による罪が問われるべきではないかと思われます」

「ふむ」

 

 裁判官が、重々しく頷く。私はそれを聞いて、何も言えなかった。口が、こわばる。喉はヒューヒューと細い呼吸音を鳴らし始めた。

 

「過剰防衛、その結果として殺害した後、転んだとしても不思議ではないと?」

「順番は前後しますが、別に不思議ではありません。現場は足元が特段悪く、滑りやすい状態にあったのは事実です。刺殺の後、その場を逃げ出そうとして”たまたま”二度転んだとしても不思議はありません」

「ふむ」

 

 違う。違う。違う。私は、確かに転んだ。刺し殺してしまう、その事実が起きる前に。

 でも、それでも不思議はない。順番は、もう重要じゃない。私は、刺してしまったという事実が、それだけが重要みたいで。

 でも、そんなことを言う勇気、それどころか、何かを口に出す力が、私にはない。

 

「冒頭陳述は以上で終わったものとして宜しいですか」

「ええ、はい。以上となります」

「では立証して下さい」

「畏まりました」

 

 そして、私の為したことの証明が行われる。

 

「まず凶器ですが、指紋は数人のものが混在していました。被害者の遺族―――――母親にあたる人物、そして被害者自身、加えて被告人。その三人のものが認められました。また遺族からの聞き取りでこれが被害者の一家で日常的に使われていた調理器具の一つであることも判明しています。これを根拠に、被告人が行った行為が”防衛”であることは間違いないと認めましょう。それが”過剰”であるか、”正当”であるか、それを当裁判の争点と位置づけております」

 

 検察官が淀みなくデータを読み上げ、そして意見を述べる。私は、一ヶ月前に聞いたことそのままに裁判が進もうとしている、それがわかっただけ。でも、

 

「加えて被害者の遺体ですが、被告人が供述したように打撲痕が見受けられました。左の二の腕に一箇所、それに両足です。左の二の腕は当時被告が携行していたスティックケースで殴られたものであると傷跡から分かります。また、両足のものについても転倒後に抵抗した、という証言と一致しています。確かに生前付けられたものであることは司法解剖の結果から確実です。ですが、この両足の打撲痕は被告人が被害者を転ばせた可能性も示唆している、と思われます」

「凶器を奪い、転ばせてかつ刺殺した、と?」

「その可能性も存在します」

 

 違う。

 違う。そんな、でも、ありえないことじゃない。だって、やろうと思えば、出来ないことはない。

 

 けれど、

 

「被害者が転んだという証拠はありますか」

「いえ、傷としては残っておりません」

「そうですか」

 

 裁判官は疑問点を指摘する。そう、それが仕事だから。でも、決して誰の味方でもない。この場の私の味方ではない。ただ、彼は追求された真実に、審判を与えるだけだから。

 

「証人はいらっしゃいますか」

「二人、召喚しております。第一発見者、それとと被告人を拘束した巡査の二人です」

「結構」

 

 

 ●

 

 

 呼ばれた人は、顔も知らぬ年老いた女の人だった。けれど、声は聞き覚えがある気がした。

 

「私は……現場と言えば宜しいんでしょうか?あの路地の表で小料理屋を商ってるものでして」

 

 そう、第一発見者だから。

 路地をたまたま、いや必然的に覗き込んでしまった、表通りの料理屋の女主人だった。

 

「いつごろ、目撃しましたか」

「あれは朝の……7時くらいでしょうか?」

「具体的な時間は?――――――――検察側」

 

 裁判官が検察官に話題を投げる。すると、検察官は淀みなく、

 

「証人、すぐに通報しましたか?」

「はい、もう、すぐに」

「では通報時間を目撃時間とほぼ同一と考えます。記録では、午前7時12分となっております」

「よろしい。――――――――証人、続けて下さい」

 

 裁判官が検察官から視線を外して、証人の女主人に戻す。

 目を少し見開くと、

 

「朝に表を掃除するものですから、それでついでに店の裏にあたりますあの路地も掃除しておこうと思いまして、それで、そこの方ともう一人がおられまして」

「そのもう一人が被害者だったと?」

「はい、その、包丁が刺さってましたし、路地が血だらけだったものですから、悲鳴が出まして、それからすぐにお巡りさんに通報いたしまして」

「被告人の、当時の様子はどうでしたか?」

「ええ、その、大人しくしておられましたね」

「大人しくとは?」

「座り込んで、ぼうっとしておられました」

「ふむ」

 

 重々しく頷く裁判官。

 

「通報後はどうしましたか」

「はい、その、もう一度その現場を見に行きましたが、やっぱりそこのお方は大人しくしておられました」

「ところで、実際に事件が起きた時間帯、あなたはどうしていましたか?」

「もう夜中でしたので、店の上の住まいで寝ておったと思います。雨も酷い晩でしたから、何も聞こえませんでしたねぇ」

「そうですか。結構です。ありがとうございました」

「はぁ。ではこれでお暇させて頂きますので」

 

 証言内容は、中身があるのかないのか、判然としなかった。私を有利にも、不利にもしない。

 

 ●

 

 次に呼び出されたのは、私に手錠を掛けたお巡りさんだった。刑事じゃなくて、巡査。ビシっと着付けられた制服が、それを物語っていた。

 

「証人。逮捕当時の被告人の状態についてお願いします」

 

 検察官がそう言うと、巡査は一礼して話を始めた。

 

「はっ。被告人の逮捕当時の様子ですが、先程の証人のものと変わらず、無抵抗でした。些か動揺は見られましたが、抵抗などは一切ありませんでした」

「動揺が見られたということですが、具体的にはどのような様子でしたか」

 

 検察官が話を促す。

 

「はっ。手錠を掛けた瞬間に体が揺り動きまして」

「その他には」

「”私が刺しました”という言葉と、”助けて”という言葉が印象に残っております。その後はパトカーで移送しましたが、その途中でも暴れだすことはなく、至って捜査には協力的でした。呆然としていた状態でしたが。その後の取り調べも同伴して見ておりましたが、受け答えははっきりしており、供述にも特段虚実の内容と分かるものはなく、ボディチェックにも協力的でした。正気を失っていた様子はなく、いえ、事件発生当初はどうかは不明ですが、少なくとも逮捕から勾留までの期間、そのような言行は見られませんでした」

「以上ですか」

「はっ。以上です」

 

 右手を上げて敬礼し、加えて一礼。すると検察官が退出を促して、彼は出ていった。

 

 私が正直者だって、それが分かるだけだった。

 私が、正気だって、ずっと正気だったって、それも付け加えて。

 だったら、あの時の私はどうしていたっていうの。

 

 

 ●

 

 

 弁護側の立証が始まった。

 私を無罪にするための弁論。

 弁護人は、私が頼れる最後の人。でも、でも、でも。

 私はこの人を信用しきれていない。きっと助けてくれる、なんて甘い考えは無い。けれど、こんな私をどう弁護するっていうんだ。

 

「被告人は、事件当初心神喪失状態にあったと考えられます」

 

 そう。心神喪失。でなくちゃ、私はあんなことをするんだろうか。

 だから、弁護人が私の代わりに言い訳をつらつらと述べていくのを見るのは、仕方のないことだと思っていた。

 

「その根拠は?」

「まず、被害者と被告人の関係から、一方的に殺意を向けられたことは間違いがありません。被告人と被害者は全くの初対面です。被告人の職業からして一方的に知られることはあっても、逆に被告人が被害者を一方的に知っていることは有り得ません。ですから、これは錯乱したファンによる殺人未遂、そしてそれに対する正当防衛であると、弁護側は位置づけております」

 

 正当防衛。

 人が人を殺す、都合のいい言い訳。

 言い訳がましい人殺し。そのレッテルが貼られる。

 殺されそうになったら、殺してもいい。そんな、空々しい言い訳。

 それを引っ提げて娑婆に戻る。

 

「今までの証言で被告人は心神喪失状態にはなかった、とされていますが、事件発生当時はそうではなくなっていた、と根拠を何か示せますか」

 

 ない。そんなもの、ない。私の正気を今までの皆が担保している。それを覆せる言葉なんて、ない。

 

「はい。――――――――被告人は、現在に至るまで精神科に通院しており」

 

 ――――――――待ってよ。

 

「パニック障害を患っております」

 

 俯いたまま見ていた私は、顔を上げて、弁護人を見る。彼が右手で持っているのは、診断書。

 多分、その写し。

 私に内緒で、そんなものを手に入れていた。

 私のお願いも聞かずに、そんなことを言い訳に使った。

 

 やめて。

 やめて。

 やめて。

 

「……めて」

 

 こわばった唇が、言葉を絞り出す。

 

「やめて」

 

 言わないでって、言ったのに。

 なんで。

 言ったの。

 暴かないで。曝さないで。

 これじゃあ、私がただの頭のおかしいヒス女だ。

 そんな、構ってちゃんみたいな、言い訳がましい病気で、言い訳がましく罪を逃れようとしているだなんて、言わないで。

 

「やめてよ」

 

 言葉はもう取り返しがつかない。

 

「被告人、落ち着きなさい」

 

 落ち着けない。

 脳内が、ぐるぐると回っている。目眩がする。

 心臓が破裂しそうな――――――――今、破裂した。

 

 空打ちのような拍動が、虚しく胸を叩く。それが耳鳴りに変わると、胸が痛くなって、私は掻き毟る、右手で。左手は被告席の椅子の端を握り締めて。

 いつの間にか、息は上がっていて、いくら息をしても足りなくて、空気の中で溺れているみたいで。

 体が、上下する。跳ねるように、まるで投げ出された魚みたいに。

 

 痛い。

 胃が痛い。肺が痛い。お腹が痛い。体中が、空気に貫かれているみたいに。

 

「やめてよ」

 

 死んじゃう。

 死んじゃう。死ぬ。死ぬ。死んでしまう。私、死ぬ。

 死ねばいいのに、死ぬことは、でも、怖い。怖い。怖い。怖い。体が、全身がそれを訴えて、全てがこわばる。

 

「やめてよ――――――――!」

 

 私は、そう叫んで、おかしくなった。

 

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