裁判は、私が狂ったことで停まってしまった。
”やめてよ”、そう絶叫して私が痙攣を始めると、急遽私は法廷から担ぎ出された。二人がかりで、体の両側から肩を貸されて。
そうして法廷の外に出ると、傍聴席のざわめきが遠く聞こえた。
「歩けます」
私がそう呟くと、肩を貸してくれた人達は私から離れた。
「お手洗い、どこですか」
また呟くと、方向を示される。私は、その方向に向かってよろよろと歩いていった。
後ろから、その二人が着いてきた。
●
トイレに着くと、私は洗面台にポケットの中身を放り出す。
薬。
薬が必要。
ポケットを探るのももどかしくて、思わず裏返した。
中から飛び出たのは、煙草の空箱、百円ライター、家の鍵、それに、あった。薬のシート。
それを破っては口の中に放り込んで、シート一枚分がなくなると、私は水道の栓を捻った。震える両手で水を溜めては口に運んで、溶けてダマになりそうな薬を飲み干していく。
水を飲んだら、吐き気がした。
「う」
催しそうになるのを必死で抑えて、背筋の丸くなった体を反らした。
右手で口を抑えて、天を仰いで。左手は胸を掻き毟っていた。
「ん――――――――!」
吐いちゃダメだ。吐いちゃダメだ。吐いたら、薬が無駄になる。
その一心でせり上がってきたものをもう一度飲み下す。
鼻がツンとなる感覚、鼓膜が引っ張られる感覚があるけれど、それにも耐えて。
「う、う、んぐ」
……なんとか飲み干した。
後は溶けて、体中が倦怠感に支配されるのを待つだけ。洗面台に突っ伏したまま、私は息を整えようとする。少しの安心を得て落ち着いたから。そして私は顔を上げ、洗面台に据え付けられた鏡を見る。
その中には、
「……だれなの、これ」
あまりに酷い顔で、言葉にすることも出来ないほどの顔色で。
ガサついた肌は涙でテラテラと鈍く光って。
鏡の中の私は、私の知ってる私じゃなかった。
「あは、ははは、はは……」
カラカラと、乾いた笑い。
私は、どこに来てしまったんだろう。私はどこに行ってしまったんだろう。
ここにいるのは偽物の私。だって、こんなにも鏡が出来損ないなんだ。
はは。
●
一時間位が経って薬が回ると、私はまた覚めている夢の中に居た。
地に足の着いた感覚を失って、ようやく私は歩けるようになったから。座っていられるようになったから。
でも、分かる。
法廷に入った瞬間の、視線の色が。
好奇の色。哀れみの色。蔑みの色。
まるで青色の蓋付きの虫かごでじっとしている気分。
人間の偽物が、私というヒトガタの偽物が見物されている。
なんて、惨め。
でもどうでもいい。
全てがどうでもいい。
――――――――ご覧のように、被告人はパニック障害を患っております。これがパフォーマンスだと誰が言えるでしょうか。彼女を襲ったものは殺意や病魔であり、そして今回は私の言葉でしたが。ですがこれでおわかりになったでしょう。心神喪失状態とはどういうことか。これが彼女の心神喪失状態です。
――――――――二人がかりで担ぎ出されるような状態で、人が殺せるものですか?
――――――――今回はこういう発作が起きた、前回は体が動く状態の発作が起きた、そういう不安定な病であることは考えられないでしょうか?
――――――――結構です。被告人は確かに精神を病んでいる。それ故に心神喪失状態に陥りやすい。それはよく分かりました。
どうでもいい。
全てが、もう、どうでもいい。
――――――――検察は現在の被告人の状態を鑑みた上でも、やはり過剰防衛であったと主張致します。有罪であると主張致します。懲役二年、執行猶予三年が妥当であるかと。
求刑が行われた。
執行猶予付き。けれど、有罪には変わりない。娑婆の中で、息苦しい、惨めなままにいるだけだ。自由はない。かごの外で、鎖に繋がれている、そういうことだ。
でも、もう、どうでもいい。
●
判決はその場では降りなかった。
少々難しい裁判になっているらしくて、でも、私にはもう全てがどうでもいい。
死にたいから。
頭の中が、死にたいという言葉でぐるぐると回っている。
私は生きすぎた。この一ヶ月と少しが、全てが無駄だった。無駄にしたかった。
人間を失格になったような、そういう気持ちで。
でも、私は人殺しで、ヒトデナシで、それならもう、屠殺されたかった。
死刑、もう、私がそれを望んでいた。打ち首獄門、それでもいい。その場で殺してほしかった。
もう、命から逃げたかった。
正当防衛。
過剰防衛。
殺人に変わりないそれは、私にとってはもうどっちでもいい。
法廷を後にする。
弁護人に促されて、そそくさと逃げるように。
開いたドアをくぐり抜けた瞬間、閉まっていくそれを越えてやってくる紛糾の声の数々。
ざわめきながら、声は少しずつ、少しずつ遠くなっていった。
見物人が騒ぎながら帰るのと同じ。私という見世物が仕舞われたから、皆も帰っていく。それだけのこと。
自分を見世物にして生きてきたけれど、こんなにも惨めなのは始めてだった。
でも、もうなにもかもがどうでもいい。
私は裁判所を出た瞬間またマスコミに囲まれて、今度は世間の目を愉しませることになる。
うるさいフラッシュ、眩いインタビュアー、そして、一人影の中に沈んだ私。
弁護人、それと付添の人間が私を覆い隠すように歩いて行く。私の歩調に合わせながら。のろまな私の歩みに引きずられながら。
永遠とも思える時間、車に乗るまでのほんのひと時。
それが終わると、私は車の後部座席で頭を抱えて、髪の毛を抜き始めた。毟るように、手櫛のような指の形を引っ掛けては毟るように。
ろくに身だしなみもしていなかったから、髪はごわついていて、すぐにぷちり、ぷちりと切れていった。まるで箒の毛先みたいに、使い捨ての毛並みみたいに。
●
随分な遠回りをして弁護人の家に戻ったあと、彼と話をした。
彼はこれで勝てる、だなんて笑っていた。けれど、私はそれを信用している、していない、どころじゃなくて、そもそも裁判そのものがどうでもよくなったのだから。
そして私は自分の部屋に帰されることになった。パンパンのカバンを抱えて。住所は法廷で言うことになってしまったけれど、マスコミに垂れ込まれていなければ、私の家のほうが安全だったから。それに、私は独りになりたいと言ったから。
独りにすることで何をするのか、だなんて弁護人は考えていなかった。だって、弁護人はこの法廷を勝つことしか考えていないし、私への同情票を稼ぐいいパフォーマンスだとしか思っていない。目を見れば分かる。この人は、私を同じ人間だと思っているとは思えない。
私は使い捨てマスクで顔を隠しながら、電車で渋谷にある私の家に帰ることになった。
人の視線は、怖かった。けれど特急の自由席は人でごった返していて座れなくて、けれど私を見ている人なんて誰も居ないと確信したから、それで少しだけ安心した。ここでは私は独りの人間でいられたから。
特急を降りると、在来線に乗る。山手線はそれこそ人混みを詰め合わせたゴミ箱みたいで、私はそこにも居場所を見つけられた。私は、このまま見世物になることもなく、誰でもないただの誰かであればいい。そうなれる。都会はどこまでも冷酷で無関心で、人が人でなくなる所。それでいい。私は一人のモブでいい。
夜の渋谷はいつもどおりの喧騒に包まれていて、駅から十分歩いたところにある古びた賃貸マンションまで、私は帰った。
一ヶ月半振りの私の城は、少しすえた匂いがしていた。
ああ、何かが腐っているのかな。
冷蔵庫を何となく開けると、酷い色、私の顔色みたいな細切れ肉が、トレイの中でドドメ色のドリップの中に沈んでいた。
部屋の電気を点けて、私はゴミ屋敷の中からゴミ袋を探す。モノの定位置が無い部屋の中で、それを探すことは酷く苦労した。
そしてベッドの隣でビニール袋に入っていた新品のゴミ袋を見つけると、私は目に映ったゴミをその中に放り込み始める。服以外のもの、煙草の空き箱、朽ちたような台拭き、ティッシュ、そしてカップラーメンの殻。それらを纏めて拾い集めて、ゴミ袋の中に捨てていく。そして最後に冷蔵庫の腐った肉を入れると、私はその口を縛って放置した。
外に出たくない。窓も開けたくない。カーテンも開けたくない。煙草もないけど、買いに行きたくない。
それで私がすることはただ一つ、読書だった。
カバンをひっくり返してもう一度部屋を散らかすと、その中からなんとか充電ケーブルを見つけ出して、それを延長コードの先の差込口に乱暴に挿しこむ。そしてUSB端子はスマートフォンへと。
それで私はなんとなく、三島由紀夫の”金閣寺”を読み始めた。
吃りの彼女。吃りの彼。それを重ね合わせて思い出したのかもしれない。
もう、なにもかもがどうでも良かったから、私は何かに溺れていくことに躊躇がなかった。
●
読み終わった。
夜はもう更けていて、気がつくと都会の喧騒は静まっていた。夜のない街の、それでも発生するエアポケットのような時間。シンとした都会に不似合いなお時間に、私は目を覚ました。裏腹に脳内が火照って仕方がない。
”生きよう”
その言葉が、私の前に立ちはだかる。
吃りの彼は、金閣寺を燃やして生きようと決意した。けれど、私にはそれが理解できない。だったら、彼女は、吃りの彼女は私を殺したら生きようと決意できたのかな。
わからなくって、私は懐かしい傷跡を眺める。
左手首の、いびつに塞がった肉の部分。
切りたいな、と思った。
台所で包丁を探して、そして、切った。
噴き出す血。傷口の懐かしい痛み。麻薬のように私を歪めていく。ああ、なんだ、薬なんて必要なかった。こうして私は手首を切っていれば、それで良かった。
「あはは」
笑いすら漏れてくる。晴れやかで、そして、ペンキ色の青空のよう。
あはは、楽しい。今度は、何を読もう。私は楽しいから、見世物だから、自分を見世物にして書いた小説がいい。そうだ、”人間失格”があった。太宰の自伝的小説とも呼ばれるそれは、つまるところ太宰が自分自身で自分を飾り立てた小説だ。そうだ、それがいい。それを読もう。
●
読み終わった。
外は、暮れていた。信号機の音、車の音、人の音、パチンコ屋のけたたましい音、全てが混ざり合って、遠鳴りのように聞こえてきていた。
「あはは」
何やってるんだろう、私。私は、何をしているんだろう。人間、失格。そう、人間失格だ。人を殺して、自分で自分を傷つけて、それで得た幸福感に浸って、そのまま娯楽に興じている。活字中毒の私は、結局のところアルコールに耽溺することと大して変わりのない病人で、あははは、バカだなあ。
私、いい子。いい子のはず。けれど、葉三君もいい子。そして彼は人間失格。それなら、私も人間失格。でも、違う。彼は、人殺しはしなかった。そうなら、私はきっと、多分、この言葉がお似合いなんだと思う。
ヒトデナシ。
小説のタイトルには使えない、なんてことのない五文字。
インパクトの割には文学的でもなんでもない、ただの誹りの言葉。けれど、私にはそれが一番適切だ。
ヒトデナシ。
失格ですら無い。そもそも大前提からひっくり返っている。
ヒトデナシ。
「あはは、あ……あー」
アーと泣く姿は、まるで夢野久作の小説の中の登場人物。狂人の泣き喚く声。私は狂人だ。いや、ヒトデナシだ、狂ったヒトデナシは、つまり、なんなんだろう。でも、どうでもよくなってきたな。
そう思って私は、また台所に立って、血のこびりついたシンクの上に、もう一度血の雫を垂らした。
切った。手首を、切り刻んだ。
痛い。けれど、気持ちいい。私の頭が冷えていく。急激に、私の世界が冷たくなっていく。そのまま力が抜けていくのに任せて、私は台所で座り込んだ。床に、血が滴っていく。とうとうと、とくとくと。私の鼓動に合わせて。
「あは、あはは、あははは」
私、笑っている。笑えている。笑える。だって馬鹿げてる。
ケタケタと笑い続けて、気がついたら私は眠くなっていた。ああ、もう随分寝ていないし、確かに眠くもなるかな。
寝よう。寝て、そのまま。
そのまま、どうするっていうの。
答えは出ないまま、私は睡魔に呑まれていった。
●
目が醒めると、まず視界に映ったのは眩い白。私の知らない白い天井が、そこには広がっていた。電気は煌々と光り輝いて、私の目をまず眩ませた。
私は自宅とは似ても似つかぬ清潔なベッドに横たえられていた。
左手首はイカした包帯でキツめに塞がれていて、その手前側、腕と二の腕の付け根の血管に、針が刺さっていた。点滴。少し視線を横にやると、透明な雫がシリンダーの中で滴り続けていた。一定のペースを守って。隣で心電図が、尖った線を描き出している。胸や右手首に、何かが貼りついているのが分かるから、それが心電図というキャンパスに私のバイタルを映し出している。
私は、なにをしていたんだろう。
そうして、私は自分がしでかしたことを思い出す。
あれは、逃避だ。
自分の命から逃げ出そうとしたんだ。
活字に酔うだけじゃ足りなくて、それで痛みを注いでみて、それが血を失うことになって、それで私は失血による虚脱、徹夜が祟ってあのまま寝こけたのだ。多分、放っておけば死んだだろう。でもそうじゃない。誰かが私を放っておかなかったから、私はここに生きてある。望まぬ命だとしても。
私は、自由な右手で顔を覆う。そして、情けないことに泣き出してしまった。
「あ、あ、あ……」
なんで泣いているんだろう。
逃げられなかった自分に?それとも――――――――逃げようとした自分に?
そのどちらもだと思う。でも、私は、それでも逃げたかったんだ。
引きつけを起こすような泣き方で、それを機械たる心電図は私の命の健在を冷酷に示す。
ピッ。
ピッ。
どこまでも冷徹で澄んだ音。これが私の命。
止まればいいのに。
そう思った。
●
私が意識を取り戻す、いや、眠りから覚めると、しばらくして看護師が私に状況を説明しに来た。
弁護人が私が電話に出ないことに業を煮やして北関東くんだりからわざわざ渋谷まで出向いてきたのだそうだ。そして、鍵が開けっ放しなドアを開けて、その中のゴミ屋敷でタコになっている私を見つけて、床にこびり着いた血に気付いて、それで救急車を呼んだのだそうだ。
なんて模範的なんだろう。そして、なんて迷惑なんだろう。
あと少しで、あと少しで死ねたっていうのに。
ほんのあと少し。私は部屋に鍵をかけることすらしなかったから、それが生死を分けた。
私は人知れず、消えていけたはずだったのに。腐って、醜く膨れ上がって、風化して、九相図の最後の骨になるまでを体現できたはずなのに。
けれど、そんなもの、私の逃げにすぎない。
そう、逃げた。逃げたんだ。私は、逃げて、逃げて、逃げて、そして逃げ切れることもなかった。
命から逃げた。
それが露見した。
自殺未遂なんて、要はそういうことなんだ。命から逃げそこねて、惨めに生きているってことだ。
看護婦の説明に、私はまた泣き出した。
「あー、あー……」
狂人のような泣き声で、私は力なく喚いた。
何もかも夢ならばいいのに、私の目の前が全て悪夢だったらいいのに。なのに、どうして現実なんだ。
覚めることのない悪夢は、現実と同じで、そして、現実とは醒めない悪夢なんだと、私は打ちのめされて。
どうしてこうなってしまったんだろう。
どうして死のうなんて思ってしまったんだろう。
どうしてあの時生きたいと願ってしまったんだろう。
全ては取り返しがつかない。
私は、現実から逃げたい自分も嫌いだった。
そして看護師が去った後、私は点滴のチューブを掴んで手繰り寄せる。
カラカラ、と笑い声のように乾いた車輪の音がして、点滴スタンドが私に寄る。
そうすれば長さは十分だった。
私は左腕に刺さった点滴を引き抜いて、そして、チューブで首を縛った。
強く。強く。力の限り、首を縛った。血管が塞がれて、意識が落ちようとする。力も抜けようとする。でも、それでも力を込めて、首を締め付けた。そのうち、息は息にならなくなって、脳裏が赤色に染まっていって
●
心電図が狂った動きを示した。それはナースステーションに筒抜けで、看護師はすぐに駆けつけてきた。
脳に急に酸素が回っていく感覚に酔いながら、私はまた自分が嫌いになった。
そしてしばらくすると、医者が来て、私に注射を打った。するとすぐになんだかウトウトと眠くなって、私は寝こけて
●
次に気がつくと、身動き一つ出来なかった。私は、ベッドに縛られていた。黒い革のベルトが四肢をガッチリと固定していて、私に出来ることは身じろぎそのものだけだった。
扱いは、もはや気狂いへのそれだった。
もう、本も読めない。
私は何にも酔うことが出来なくなって、結局出来ることは妄想することだった。
私は、逃げ口を探しては、そこに駆け込んでいく、それだけになっていた。
そんな私が、私は嫌いだった。
嫌いな自分になっていくことが、嫌だった。
●
そうだ、全ては夢なんだ。
私は今頃、雨に濡れながら北関東のうらぶれた町並みを歩いていて、そして事務所が押さえたビジネスホテルの一室に向かっているところなんだ。そんな、雨の冷たさが見せている幻覚がこれなんだ。そう、幻覚。私は幻覚を見ている。いつもの妄想だ。妄想が、ただ切れ目を失っているだけで、私はきっと雨の中を歩いている。そして、幾人の人ともすれ違うだろう。その中に、私と同じように傘も持たずに走る女の子が居て、それがきっと、夢の中で死んだあの子なんだろう。あはは、おかしい。おかしなことだと思う。だって、見ず知らずの女の子を殺す夢だなんて、なんて趣味が悪いんだろう。近代文学にもない、サプライズなイベント。ああ、夢。なんてひどい夢。ははは、あはは。あはは。ははは。
夢なら、
たすけて
●
「たすけて」
「たすけて」
「だれか」
「たすけて」
●
夜。
ベッドに縛り付けられて、そしてただ”たすけて”と言い続ける私を見かねて、弁護人はこう言った。
「貴女のご家族が、御見舞にいらっしゃいました」
そう、重々しく言った。
来てしまった。
一番会いたくなくて、一番会いたかった、私の家族。
つまり、お父さんと、お母さん。
お姉ちゃん達は来れないから。海軍の極秘任務中だから、戻ってなんて来れない。もしかして、私がこうなっていることも知らないのかもしれない。
そして、弁護人がドアに手を掛けると、私の両親がそこに現れた。
最後に会ったのはいつだろう。下姉ちゃんの軍学校卒業以来だから、もう二年も会ってなかったことになる。
背広と立派な白髪頭のお父さん、黒髪の綺麗なお母さん、二人共、健在だったけれど、心労も透けて見えた。顔はやつれていて、ひどい顔色だった。
私は、
「たすけて」
それしか言うことが出来なくて、
「しにたい」
そして、もう一言が言えてもそれで、
「……」
お父さんは、息を詰まらせて俯いた。そして、スマートフォンを取り出して、どこかに電話を始めた。
「……いいか?」
電話の向こうの誰かに、そう問いかける。
「……ああ、もう、これしかあるまい」
私は耳が良いから分かったけれど、電話口の向こうは女の人だ。僅かな音だけれど、それが分かった。
そしてお父さんは、私の目の前に通話画面を一度見せると、耳元に電話を持っていく。
画面には、上姉ちゃんの名前が映っていた。夜に掛けてくるなんて、全くいつもどおりの上姉ちゃんだと思った。それが、私のより深い本音を引き出させた。
『久しぶり』
声色はいつしかに聞いたころと変わらぬまま、けれど、どこか厳しい音色に感じられた。
「上姉ちゃん……」
『うん。――――――――簡潔に話すよ。死にたい?』
「死んでもいい、私が、私でなくなりたい」
『うん』
「死にたい、死なせて、もう、いや」
間を取ると、上姉ちゃんは一息吐いて、
『死にたいなら、こっちに来な』
「死なせて……」
『いいんだね』
「人間じゃなくなりたい、死にたい……」
『分かった』
上姉ちゃんはそれだけ言うと、
『お父さんに代わって』
そうして、私との会話を終わらせた。
「お父さん、お姉ちゃんが……」
「ああ」
重々しくそう言うと、お父さんは電話を自分の耳元に持っていく。
「私だ。――――――――ああ、頼む」
それだけ言うと、通話を終わらせて、お父さんは部屋から出ていった。
●
それから三十分が経つと、白衣を着た集団が入ってきた。多分、医者。その集まり。そして、機材が運び込まれる。私にとっては謎の機械。ボンベらしき何かが付いた、何か。
そしてその機械から伸びるパイプの先には、マスクらしき何か。医師らしき誰かが私の口元にそれを寄せる。いや、少し乱暴に装着させる。すると、機械はすぐに動き出して、
うごき、だして、
ねむく、なった。
これは、たぶん、麻酔。
●
私は麻酔を掛けられた。