その朝は、重苦しかった。
「……おはよう。」
「……おはようごぜーます。」
寝起きからテキパキと動く、彼女が居ないから。
「……はい、歯磨き粉。」
「……ありがとうごぜーます。」
明るい笑顔を振りまいた、彼女が居ないから。
「……何、食べたい?」
「……お腹、減ってやがらねーです。」
朝ご飯を作る、彼女が居ないから。
「……昼寝しよっか。」
「……眠く、ねーです。」
きらりが、居ないから。
「……はぁ。」
小さい溜息が漏れ出る。
眠気が無いのは私も同じだ。
そもそも一睡もしちゃいない。
きっと仁奈も同じなのだろう。
目元に浮かぶ黒が、それを如実に物語る。
もう一度布団に入って、夢の中に逃げてしまいたい。
そう思っても、ちっとも眠れる気がしなかった。
「……ねえ、仁奈。」
地に足をつけるために必要な錘が、全て抜け落ちてしまったようだった。
私も仁奈も、不安定に宙を浮いていた。
気味の悪いものが背中を駆け上がるような不快感。
それが、ずっと私達を責め立てていた。
「もし。……もしだよ?
もし仁奈のママが、仁奈のことを好きじゃなかったら。
……仁奈は、それでもママと一緒に居たい?」
本能がひどく錘を欲した。
背中に貼り付いたものを剥がし取りたかった。
早く。一刻も早く。
自分がどれだけ非道なことを口走っているか。
その判別をつかなくさせるほど、それは私を弱らせた。
「ずっと一緒に暮らそうよ。
きらりと杏と、3人でさ。」
震えている私の声は、段々と早口になっていった。
漏れ出してしまった弱音。仁奈に届いてほしくなかった。
よく分からない、聞き取れなかった独り言。
そんなものとして聞き流してほしかった。
「きらりにごめんなさいしたら、きっと許してくれる。
そしたら、3人で暮らそうよ。」
そんなことを思うなら、止めてしまえばいい。
分かっていても、止まってはくれなかった。
流れ始めてしまった水をせき止めるだけの力は。
その水圧に打ち勝つだけの力は。
たったの一晩で、根こそぎ奪われた。
「……いっかいだけ。思ったことがあるですよ。」
仁奈はぽつりと呟いた。
聞き流してはくれなかった。
それを認識した瞬間、良心が私を串刺しにする。
「きらりおねーさんが、ママだったらいいのにな、って。
パパが居るって、杏おねーさんみたいなのかな、って。」
その表情を伺うことはできなかった。
仁奈の方を向くなんてできなかった。
私はただ、床を見つめ続ける。
「きらりおねーさんは仁奈を、抱きしめてくれやがりました。
杏おねーさんは仁奈を、撫でてくれやがりました。
キグルミじゃなくて。ウサギさんじゃなくて。仁奈を。
……仁奈を。」
私が行おうとしたのは、仁奈の母親を純粋な悪に仕立て上げること。
きらりはまだ、仁奈の母親に関して何も知らない。
だから、きらりが遭遇した人物は本当にただの誘拐犯で。
その脅威から仁奈を守った、ということにすれば。
仁奈も感謝している、ということにすれば。
きらりが起こした行動に、正当性を与えることができる。
「嬉しかったですよ。あったかかったです。」
自分はその場において最も適切な行動をしたのだと。
仁奈はきらりにではなく、見知らぬ誘拐犯に怯えていたのだと。
説得を重ねれば、そう錯覚させることができる。
「でも、違ったんでごぜーます。
きらりおねーさんは、きらりおねーさんで。
杏おねーさんは、杏おねーさんです。
ママじゃねーです。パパじゃ、ねーんです。」
更に、虐待の加害者である仁奈の母親から、仁奈を遠ざけるためとして。
3人で暮らすことが、できるかもしれない。
仁奈は寂しい思いをせず、きらりは元の状態に戻る。
仁奈の母親さえ、諦めれば。
「仁奈のママは、ママしかいねーんです。
……ママは仁奈を怒るです。痛いことだってしやがります。」
だが。仁奈の母親と仁奈の関係性を正すとしたら。
きらりはやがて、仁奈の母親の姿を見るだろう。
あの日見た、誘拐犯だと思い込んだ人物の姿を見るだろう。
その場合、きらりの行動は正しかったという体で彼女を説得することは出来ない。
「でも、ママは、ママしかいねーんです。」
仮に一時的に回復したとしても、それは真実を知るまでのごく短い間だ。
確かに仁奈は、きらりに恐怖した。それが事実だ。
真実を隠さないならば、いずれ事実にも気付かれる。
きらりを回復させ、仁奈を助けるために状況を説明した段階で、再びきらりは傷を負う。
「……ごめん。」
母親に代わりなんて居ない。
そんなことは、私自身よく知っているはずだった。
母親のことを、簡単に諦められるのならば。
愛してくれないからと切り捨てて、振り返らずにいられるのなら。
ボロボロになったぬいぐるみを、いつまでも持ち続けちゃいない。
仁奈の母親を切り捨てることは、できない。
そんな安直な、分かりやすい最短ルートは選べない。
その先にあるのは、決して幸せなどではない。
何度考えてみても、方法なんて1つも思い浮かばない。
方法なんて、1つも無いのかもしれない。
でも。それでも。
頼れる人が居ないから。
きらりが、居ないから。
私が、何とかしなきゃいけないんだ。
その日、仁奈は一度も笑わなかった。
夜遅く、いつもならとっくに寝息を立てている時間になっても。
仁奈は黙って、俯いていた。
「夜分遅くに、失礼致しましてー。」
仁奈がようやく寝静まった頃。
柔らかくとも凛とした、よく通る声だった。