市原仁奈の寵愛法   作:maron5650

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16.双葉杏

明かりは1つとして無く、月の光だけが辺りを照らす。

レッスン場の真ん中。鏡の前に立つ。

目を閉じて、私は大きく息を吸った。

 

今日の夕方。

プロデューサーから連絡を受けるまで、きらりはここに居た。

ここで、何かを考えていた。

ここで、何かを見ていたんだ。

 

溜め込んだ息を吐き出し、ゆっくりと目蓋を開ける。

ぬいぐるみを持つ少女が居た。

うさぎを両手で抱え込み、涙目になって震えてる。

小さい少女がそこに居た。

何もかもを失った、かつての少女がそこに居た。

 

「……どうしよう。」

 

情けない格好だね。

何がそんなに怖いのさ。

 

「きらりが、壊れちゃう。

お母さんとおんなじになっちゃうよ。」

 

させないよ。

そんなの、絶対にさせない。

 

「私にできるわけないよ。

方法すら分からないくせに。

絶対に失敗しちゃいけないことを、失敗したくせに。」

 

そうだね。

私はこっぴどく失敗した。

お母さんに、嫌われた。

 

「ほら。できるわけないんだよ。」

 

でもね。

頑張ろうって決めたんだ。

 

「頑張っても、報われないよ。」

 

それでも、頑張ろうって決めたんだ。

約束したんだ。

2人で頑張ろうって、そう決めたんだ。

 

「褒めてなんてくれないよ。」

 

教えてもらったんだ。

褒めてもらうだけが全部じゃないって。

嫌われてもいいって、思えることがあるって。

理屈より計算より、心が大事なことだってあるって。

 

「嫌われてもいいなんて、あるわけない。

嫌われたら、何の意味もない。」

 

そう思う? ……そりゃ、思うよね。

 

「お母さんのために頑張って、きっとお母さんは楽ができた。

でも、嫌われちゃった。

それで私は、諦めたじゃんか。」

 

褒められるためだけに頑張ったから。

それ以外のことなんて、考えてすらなかったから。

 

「きらりがもし助かっても、きらりに嫌われたら意味がない。

きらりに笑ってもらえないなら、そんなの意味がない。

そんなやり方できらりを助けても、私に何の意味もない。」

 

それでもいいんだ。

きらりが私に笑ってくれなくても。

それでもいいって、本気で思えるんだ。

 

「嘘。」

 

嘘じゃない。

言ったでしょ? 教えてもらったんだよ。

それにね。言ってくれた言葉があるんだ。

 

「……そんなの、ただの励ましだよ。

本気で言ってるわけない。」

 

そうかもしれない。

でも、それでもいいんだ。

きらりは絶対、私を嫌いになんてならないって。

そう言ってくれただけでいいんだ。

それで、十分なんだよ。

 

「嘘。……嘘、嘘!

じゃあ私は、私はなんなのさ!

私はただの失敗だったっていうの!?

これ以上私を否定しないでよ!!」

 

否定なんてしない。

 

「私を捨てないでよ!

私を置いて行かないでよ!!

私を忘れちゃわないでよ!!!」

 

置いてなんて行かないよ。

捨てるなんてしない。

忘れるなんて、できるわけない。

ただ、今だけ。

今だけ、少しだけでいいから。

強がらせてほしいんだ。

 

「……きらりを、助けるために?」

 

きらりを、助けるために。

 

「……変わったね。」

 

みんなのおかげだよ。

 

「……分かった。待ってる。

待ってるから、迎えに来てね。」

 

うん。迎えに行くよ。

 

「きらりを、助けてあげて。

私には、できないから。だから……頼んだよ。」

 

うん。必ず。

 

 

 

月夜に1人。

手元に、フェルトの感覚。

 

「……ありがとう。」

 

うさぎを、ぎゅっと抱きしめた。

 

 

 

翌朝。

 

「ねえ、仁奈。」

 

きらりは帰ってこなかった。

 

「このぬいぐるみ、預かっててくれないかな。」

 

プロデューサーから連絡が来た。

 

「うん。……別に、要らなくなった訳じゃないよ。」

 

きらりが辞表を出したと言っていた。

 

「きらりを迎えに行ってくるから。」

 

ただ一言だけを返し、通話を切った。

 

「それまで、持っていてほしいんだ。」

 

大丈夫。任せて。

 

 

 

 

 

ピンポーン。

軽快な音が響く。

 

ピン……ポーン。

長押ししたりしてみる。

 

ピンポンピンポーン。

今度は連打。

 

「……。」

 

全く反応がないのを確認して、インターホンに当てた手をドアノブへと移動させる。

それは私の予想通り、ガチャリと拒絶の音を立てた。

 

「……ま、そうだよね。」

 

ポケットから針金を取り出し、鍵穴に差し込む。

流石に学習机ほど粗末ではないが、ここも古いアパートだ。

鍵の構造もそれだけ古く、単純だ。

 

カチリ、と小気味よい衝撃が針金を通して手に伝わる。

目を閉じて、深呼吸。

意を決して、私はドアを開けた。

 

 

 

そこにはきらりが居た。

床に座って、下を向いていた。

ドアが閉まる音に、ビクッ、と肩を震わせて。

ゆっくりと、こちらに顔を向ける。

 

きらりの横顔は、いつもとは違っている気がした。

それがよく見えるようになればなるほど、それは少しずつ。

そして、私にちゃんと向き直った時には。

確信に、変わっていた。

 

「……諸星きらり、です。」

 

無表情を顔に貼り付けたまま、きらりが呟く。

きらりは、私の知るきらりではなくなっていた。

 

髪は黒に染まり。

毛先のカールは無く、まっすぐに伸び。

爪はネイルされておらず、短く切りそろえられていて。

フリルやアクセサリーの1つも見当たらない、寒色系の落ち着いた服を身に纏い。

声色は、前よりずっと低く。

口調も、以前の特徴を完全に捨て去っていた。

 

「……双葉杏です。」

 

これが、彼女がずっと隠していた内面。

これが、彼女のキグルミの中にあったもの。

これが、彼女が見られたくなかった姿。

 

これが、彼女の持つ兎。

 

ならば。この言葉が相応しい。

私はうさぎを置いてきた。

彼女は兎そのものだ。

それならば。

以前と異なる2人ならば。

互いに知り得ぬ2人ならば。

その2人が出会ったのならば。

この言葉から始めよう。

 

 

 

 

 

「「はじめまして。」」

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