明かりは1つとして無く、月の光だけが辺りを照らす。
レッスン場の真ん中。鏡の前に立つ。
目を閉じて、私は大きく息を吸った。
今日の夕方。
プロデューサーから連絡を受けるまで、きらりはここに居た。
ここで、何かを考えていた。
ここで、何かを見ていたんだ。
溜め込んだ息を吐き出し、ゆっくりと目蓋を開ける。
ぬいぐるみを持つ少女が居た。
うさぎを両手で抱え込み、涙目になって震えてる。
小さい少女がそこに居た。
何もかもを失った、かつての少女がそこに居た。
「……どうしよう。」
情けない格好だね。
何がそんなに怖いのさ。
「きらりが、壊れちゃう。
お母さんとおんなじになっちゃうよ。」
させないよ。
そんなの、絶対にさせない。
「私にできるわけないよ。
方法すら分からないくせに。
絶対に失敗しちゃいけないことを、失敗したくせに。」
そうだね。
私はこっぴどく失敗した。
お母さんに、嫌われた。
「ほら。できるわけないんだよ。」
でもね。
頑張ろうって決めたんだ。
「頑張っても、報われないよ。」
それでも、頑張ろうって決めたんだ。
約束したんだ。
2人で頑張ろうって、そう決めたんだ。
「褒めてなんてくれないよ。」
教えてもらったんだ。
褒めてもらうだけが全部じゃないって。
嫌われてもいいって、思えることがあるって。
理屈より計算より、心が大事なことだってあるって。
「嫌われてもいいなんて、あるわけない。
嫌われたら、何の意味もない。」
そう思う? ……そりゃ、思うよね。
「お母さんのために頑張って、きっとお母さんは楽ができた。
でも、嫌われちゃった。
それで私は、諦めたじゃんか。」
褒められるためだけに頑張ったから。
それ以外のことなんて、考えてすらなかったから。
「きらりがもし助かっても、きらりに嫌われたら意味がない。
きらりに笑ってもらえないなら、そんなの意味がない。
そんなやり方できらりを助けても、私に何の意味もない。」
それでもいいんだ。
きらりが私に笑ってくれなくても。
それでもいいって、本気で思えるんだ。
「嘘。」
嘘じゃない。
言ったでしょ? 教えてもらったんだよ。
それにね。言ってくれた言葉があるんだ。
「……そんなの、ただの励ましだよ。
本気で言ってるわけない。」
そうかもしれない。
でも、それでもいいんだ。
きらりは絶対、私を嫌いになんてならないって。
そう言ってくれただけでいいんだ。
それで、十分なんだよ。
「嘘。……嘘、嘘!
じゃあ私は、私はなんなのさ!
私はただの失敗だったっていうの!?
これ以上私を否定しないでよ!!」
否定なんてしない。
「私を捨てないでよ!
私を置いて行かないでよ!!
私を忘れちゃわないでよ!!!」
置いてなんて行かないよ。
捨てるなんてしない。
忘れるなんて、できるわけない。
ただ、今だけ。
今だけ、少しだけでいいから。
強がらせてほしいんだ。
「……きらりを、助けるために?」
きらりを、助けるために。
「……変わったね。」
みんなのおかげだよ。
「……分かった。待ってる。
待ってるから、迎えに来てね。」
うん。迎えに行くよ。
「きらりを、助けてあげて。
私には、できないから。だから……頼んだよ。」
うん。必ず。
月夜に1人。
手元に、フェルトの感覚。
「……ありがとう。」
うさぎを、ぎゅっと抱きしめた。
翌朝。
「ねえ、仁奈。」
きらりは帰ってこなかった。
「このぬいぐるみ、預かっててくれないかな。」
プロデューサーから連絡が来た。
「うん。……別に、要らなくなった訳じゃないよ。」
きらりが辞表を出したと言っていた。
「きらりを迎えに行ってくるから。」
ただ一言だけを返し、通話を切った。
「それまで、持っていてほしいんだ。」
大丈夫。任せて。
ピンポーン。
軽快な音が響く。
ピン……ポーン。
長押ししたりしてみる。
ピンポンピンポーン。
今度は連打。
「……。」
全く反応がないのを確認して、インターホンに当てた手をドアノブへと移動させる。
それは私の予想通り、ガチャリと拒絶の音を立てた。
「……ま、そうだよね。」
ポケットから針金を取り出し、鍵穴に差し込む。
流石に学習机ほど粗末ではないが、ここも古いアパートだ。
鍵の構造もそれだけ古く、単純だ。
カチリ、と小気味よい衝撃が針金を通して手に伝わる。
目を閉じて、深呼吸。
意を決して、私はドアを開けた。
そこにはきらりが居た。
床に座って、下を向いていた。
ドアが閉まる音に、ビクッ、と肩を震わせて。
ゆっくりと、こちらに顔を向ける。
きらりの横顔は、いつもとは違っている気がした。
それがよく見えるようになればなるほど、それは少しずつ。
そして、私にちゃんと向き直った時には。
確信に、変わっていた。
「……諸星きらり、です。」
無表情を顔に貼り付けたまま、きらりが呟く。
きらりは、私の知るきらりではなくなっていた。
髪は黒に染まり。
毛先のカールは無く、まっすぐに伸び。
爪はネイルされておらず、短く切りそろえられていて。
フリルやアクセサリーの1つも見当たらない、寒色系の落ち着いた服を身に纏い。
声色は、前よりずっと低く。
口調も、以前の特徴を完全に捨て去っていた。
「……双葉杏です。」
これが、彼女がずっと隠していた内面。
これが、彼女のキグルミの中にあったもの。
これが、彼女が見られたくなかった姿。
これが、彼女の持つ兎。
ならば。この言葉が相応しい。
私はうさぎを置いてきた。
彼女は兎そのものだ。
それならば。
以前と異なる2人ならば。
互いに知り得ぬ2人ならば。
その2人が出会ったのならば。
この言葉から始めよう。
「「はじめまして。」」