「料理、か……。」
きらりチョイスのフリフリなエプロンを身に纏い、私は台所に立っている。
正確には、台所の床に置かれた台の上に。
ちらりと隣に視線を向けると、仁奈が目をキラキラと輝かせていた。
事の起こりは十数分前。
いつものように昼寝から目を覚ますと、珍しいことにきらりの姿が無かった。
机の上には彼女の書き置きと、その重しとして飴が1つ残されていて。
用事があって夜まで帰らないから今日の昼は外食もしくは出前で済ませて欲しい、とのことだった。
「……また、飴。」
私に頼み事をする時にきらりは、まだ、飴を渡してくる。
もう、飴に頼らなくてもよくなった。
きらりを迎えに空港に行ったとき、私はそう伝えた。
きっと、喜んでくれると思っていた。
いや、事実、きらりは喜んでくれた。
お祝いと称して、私の好物を作ってくれた。
だが、それだけではなかった。
彼女の表情にあったのは、喜びだけではなかった。
それが何なのか、私には分からなかった。
それを表現するに相応しい言葉が、私の貯蔵庫には見当たらなかった。
それから時折、きらりはその表情をするようになった。
決して混ざらないはずの水と油が、しかし1つになってしまったような。
波が押し寄せると同時に引いていくような。
月の隣に太陽が居るような。
そして、私が飴を要らないと言うと、決まってその顔をするのだ。
その顔をしたきらりを見るのはなんだか好きじゃなくて、飴は渡されるまま貰うことにしている。
いつものように、飴をポケットの中に入れる。
私と一緒に寝ていた仁奈をそっと起こし、書き置きの内容を告げた。
外食というのは子供にとって、中々に訪れないビックイベントだ。
小学生の頃、テストで良い点を取ったご褒美にと、両親にファミレスに連れて行ってもらったのを思い出す。
いつでも好きな時に1人で行けてしまう年齢になると、その有難みは次第に薄れていってしまったが。
このサプライズに、きっと仁奈は喜ぶだろう。
「……杏おねーさんは、料理、しやがらねーですか?」
しかし。
私が続けて「何が食べたい?」と尋ねると、仁奈は予想に反して、悲しげな表情を浮かべた。
「え、いや、出来ないことはないと思うけど……。」
昔は毎日家族分の食事を作っていたが、こっちに来てからは一度も自分で用意していない。
というか、この家の台所で一度でも料理を作り終えた覚えが無い。
「私が作るより、出来合いのやつの方がずっと美味しいと思うよ?」
だから、思ったことを素直に口にする。
仁奈は、弱々しくかぶりを振った。
その姿は、テストで悪い点を取ってしまったような。
誤って物を壊してしまったような。
そんな、後ろめたいことを告白するかのようだった。
「宅配のピザも。お店のカレーも。食べたことはありやがります。
……食べたですよ。いっぱい。」
家に帰っても、誰も居ない。
そう言っていたのを覚えている。
親が家に居ないのなら、当然、ご飯も無い。
仁奈の表情を見て、そんな当たり前のことにやっと思考が至る。
「みんな、美味しかったです。でも……
それでも、ママが作ってくれたおにぎりの方がうまかったです。」
どれだけ繰り返したのだろう。
私が今、何の抵抗もなく行おうとしたことを。
机の上に残された紙切れを握りしめて、誰も居ない家の鍵を閉めることを。
どれだけ、繰り返さざるを得なかったのだろう。
「仕事に行く前に、作ってくれたおにぎり。
具なんてはいっちゃいねーです。
ただ、お米を握っただけでやがります。
手間も金も、かけちゃいねーです。
外で食べるやつのほうが、ずっとうめーはずです。」
何ら特別ではなかったのだ。
この子にとって、外食をすることは。
普遍的な日常の、ほんの一部でしかなかったのだ。
「……なのに、うまかったんでごぜーます。
おにぎりの方が、ずっとずっと、うまかったんでごぜーます。」
きらりと出会った頃を思い出す。
私がまだ、アイドルではなかった頃のこと。
きらりが食材を持ってきて、手作り料理を振舞ってくれた時のことを。
「クラスのみんな、ファミレスに行ったのを嬉しそうに話すです。
みんな、それを聞いて羨ましそうにしやがります。
いいな、って。すごい、って。
……なんで、仁奈はちっとも、羨ましいと思わねーんですか?」
嬉しかった。
美味しかった。
暖かかった。
泣いてしまいそうだった。
「……うさぎさんなら、知ってるでごぜーますか?」
忘れていた。
あれだけ私を救った特別は、いつの間にか日常になっていた。
それほどに私は、幸せになっていた。
きらりのおかげで、幸せに慣れていた。
その幸せを前提に、話を進めていたのだ。
「それとも仁奈は、やっぱり、おかしいでやがりますか?」
私がこの子に見出したのは、独りぼっちの私だったのに。
『……ウサギさん、ウサギさん。』
私はうさぎのぬいぐるみを顔の前に持ってくる。
フェルトを口に押し当て、声色を変化させる。
初めて会った日のように。
『ごめんなさい。うさぎはあなたを、困らせてしまいました。』
うさぎはウサギに語りかける。
今の私ではなく、あの頃の私として。
『少し、うさぎの気持ちを忘れてしまっていました。』
独りぼっちで。
『でも、ちゃんと思い出しました。』
寂しくて。
『ウサギさんは、おかしくなんかないです。』
暗くて。
『うさぎも、ウサギさんと同じです。』
怖くて。
『だから。』
私はうさぎを顔から離す。
今にも泣いてしまいそうに震えている仁奈の目を、まっすぐに見つめる。
「……仁奈。」
ずっと、誰かを待っていたから。
当たり前をくれる誰かを。
幸せを日常にしてくれる誰かを、待っていたから。
「何が食べたい?」
今の私が、その誰かになれるのなら。
「……よし。」
目の前の食材を、猫の形にした手で押さえる。
感覚は、身体が覚えていてくれた。
随分と前。
一度、料理をしようとしたことを思い出す。
きらりのために、料理を作ろうとして。
何も作れず、自己嫌悪に沈んだ日のことを。
包丁を食材の上に。
目を閉じて、深呼吸。
きらりが残した飴は、食べていない。
大丈夫。空港に迎えにだって行けたんだ。
だからきっと、大丈夫。
そっと瞼を開き、ゆっくりと右手を引く。
とん。包丁の刃が、まな板に触れる。
……手の震えは、無かった。
とん、とん、とん。
2人だけの家に、リズミカルに音が響く。
そう言えば、この音を聞いているのが好きだったなぁ。
10年以上も前のことを思い出して、何だか笑ってしまう。
オムライスが出来るまで、あと、もう少し。