仁奈もきらりも、共に寝静まった真夜中。
私は毛布の中で、小型のノートパソコンを起動した。
仁奈と接することは、私の中のあまり良い気のしない記憶を呼び起こす。
それは仕方のないことだと割り切ってはいる。
だからこそ引き取った、とも言える。
年月は問題を解決こそしなかったが、それに慣れさせることはやってのけた。
今更私の昔のことで、感情を高ぶらせることは無い。
だが。
仁奈の姿を見てどう思うかは、別の話だ。
仁奈がこれまで受けた仕打ちを垣間見る度に、私の記憶の類似している部分が照合される。
その結果、その時仁奈がどう思っていたか。
どんな気持ちでいたのか。
それを推測することは、私にとっては容易なことで。
どうしようもなく、腹が立つ。
私のことは別にいい。
私の問題は、私に原因があったから。
双葉杏がおよそ年相応の反応を見せなかったせいで、事態は発生してしまったのだから。
しかし、市原仁奈は違う。
市原仁奈は私とは違う。
仁奈は何もしていない。
仁奈は何も間違ったことをしていない。
その仁奈が何故、私と同じ仕打ちを受けなければならない。
ああ、腹が立つ。
仁奈の母親に腹が立つ。
理不尽だ。
あまりにも理不尽だ。
何故あの子を愛さない。
仁奈は愛されるに足る存在だろう。
何故あの子を見捨てておける。
仁奈はまだ1人じゃ何も出来ないのに。
何故あの子を閉じ込めた。
キグルミなんかに閉じ込めた。
愛されなかった確かな証拠に、市原仁奈を閉じ込めた。
キーボードを乱雑に叩く。
文字が画面上に広がっていく。
それは仁奈の発言を纏めたものだった。
それは仁奈の身体的特徴を綴ったものだった。
市原仁奈が被害を受けた、虐待の記録だった。
仁奈が受けた扱いが、医学心理学的に子供にどのような影響を及ぼすとされているか。
法的に虐待と認められた行為の中に、仁奈も受けているものが入っているか。
平均的な同年代の子供と比べて、仁奈がどれだけ逸脱しているか。
それらを1つ1つ。論理性を欠かないように、感情を混ぜ込まないように。
慎重に、慎重に書き連ねていく。
これはただの八つ当たりだ。
誰にぶつけることも叶わない激情の捌け口だ。
これを完成させたところで、何がどうなるわけでもない。
それでも、こうしてでもいなければ。
思わず振り上げた拳を、どこにでもいいから叩きつけなければ。
私は理性を保てそうになかった。
布団の中で、カタカタと音が反響する。
ふと、私が立てた以外の生活音が聞こえたような気がして。
私は反射的に手を止め、画面を消した。
これを見て、良い気分になる人は誰もいないから。
注意深く耳をそばだてる。
きらりの静かな寝息が1つ。
それに隠れるように、もう1つの、何か。
特定にまでは至らないが、人が寝ているときに発する音以外のものがあった。
「……仁奈?」
きらりでないのなら、もう1人しか残されていない。
布団から顔を出した私が小さく尋ねると、仁奈の布団はびくりと震えた。
「……すー、すー。」
そして、仁奈は寝息を発し始める。
……と、私が勘違いするのを期待しているのであろう、狸寝入りを始めた。
「……。」
仁奈に気付かれないように、そっと布団から抜け出す。
そのまま音を立てずに仁奈の布団の前まで移動すると、仁奈に包まっている毛布を一気に持ち上げた。
「…………仁奈。」
きらりの言葉が反芻される。
仁奈が泣いているところを見たことがない。
彼女は不安げにそう言っていた。
当然のことだった。
私達がそれを目にするはずがなかった。
「ち……ちげーでごぜーます、これ、は、」
仁奈は、それを隠していたのだから。
誰の目にも触れないように、声を殺していたのだから。
「仁奈、泣いてなんか、ねー、です。
だい、じょーぶ、で、」
仁奈はぐしぐしと目元をこする。
その目が赤いのは、単に寝付けていないからではなかった。
「……仁奈。」
私が仁奈の名を呟くと、再びびくりと肩が震える。
……これは、まさか。
そういう、ことなのか。
「大丈夫だよ。」
顔を見せまいとする仁奈の両腕を掴み、少しだけ力を入れる。
大した抵抗もなく、それらは引き剥がされた。
涙でぐちゃぐちゃになった、怯えきった顔。
決してしてはいけないことをしてしまった。
仁奈の表情は、そう泣き叫んでいた。
「怒ったりなんか、しない。」
掴んだ両腕を引き寄せる。
仁奈は身体に力も入れず、私の胸にぽすりと入る。
私はそのまま、仁奈の頭に手を触れる。
これ以上怯えてしまわないように、そっと髪を撫でた。
「私やきらりの前では、泣いたっていいからさ。」
私は仁奈を抱きしめる。
ずっと、ずっと。
いつかきらりが、私にしてくれたように。
それがどれだけ暖かかったか、思い出すように。
「声を出して泣いたって、誰も責めやしないから。」
拭った涙が、再び溢れ出す。
人肌のものが布から染み出して、私の身体に触れるのを感じた。
「……だから、泣いたっていいんだよ。」
仁奈は、泣き続けた。
私の服を力いっぱい掴んで、顔を思い切り押し付けて。
今まで貯め続けてきたものを、全部流しきるように。
泣いて泣いて、泣き続けて。
涙も声も気力も、その全てが枯れ果ててしまうまで、泣いた。
「……落ち着いた?」
座布団の上にちょこんと座る仁奈に、電子レンジで温めたミルクを差し出した。
「……はいです。」
仁奈は目を真っ赤にしたまま、両手でそっと受け取る。
カーテンから光が漏れている。
今から寝直すにしては、空はあまりにも朝だった。
「今日はこのまま起きて、きらりをびっくりさせようか。」
私が意地悪そうな笑みを浮かべて提案すると、仁奈はやっと笑ってくれた。
じゃあ、きらりが起きるまでお話でもしよう。
私の言葉に、仁奈はマグカップを傾けながら頷いた。
「……事務所に連れてこられたとき。
家からタクシーに乗ったって言ってたけど、どんな景色が見えた?」
「あんまり覚えてねーです……踏切がカンカンうるさかったですよ。」
踏切。あの事務所の周辺には1つしか無い。
「タクシーの料金は、いくらくらいだった?」
「んー……数字は百の位まででごぜーました。」
そこまで長い距離を走ってはいない。
「……仁奈、お友達をお家に誘っちゃいけねーって、言われてるです……。」
仁奈が申し訳なさそうに下を向く。
流石にバレるか。
「ただの雑談だよ。大体、なんで行くのさ。仁奈はウチにいるのに。」
私がパッと思いついた適当な嘘をつくと、仁奈はなるほど確かにといった顔をした。
どうやら、誤魔化せたみたいだ。
「じゃあ、特にここは見せちゃダメ、って言われてる所とかは?」
「ママの机の引き出しは、絶対に開けちゃダメでごぜーます。」
その言い方から、仁奈の友人だけでなく、仁奈本人も開けてはならないものだと推測する。
「へー、何が入ってるんだろーね。」
大して関心もなさそうなフリをして、私は眠そうにあくびを1つ。
それを見た仁奈が、ムッとして私を咎めた。
「まだ寝ちゃダメでごぜーます、きらりおねーさんをびっくりさせるですよ?」
ごめんごめん、と頭を撫でる。
仁奈が嬉しそうに成すがままにされていると、きらりの布団がもぞもぞと動いて。
私達の姿を見て、「にょわーっ!? なんでぇー!?」と、本当に期待通りの反応をしてくれるものだから。
ドッキリ大成功、と、ハイタッチしながら2人で笑い合った。
ああ。本当に、腹が立つ。