「桐乃、もう準備はいいのか?」
「うん。もうだいたい終わった」
既に深夜と言っていい時間に、俺は妹の部屋を訪れていた。この時間に来るように言われていたのだ。
桐乃は明日、海外に発つ。準備というのはそのことだ。
モデルとして本格的に働きたいんだそうだ。
今度はちょくちょく帰ってくるつもりだと本人も言っているし、陸上のときのようなことにはならないだろうとは思うが。
「それで?話ってなんだ?」
「ん……。ちょっとね……」
言葉を濁す桐乃。
実を言うとなんの話なのかは見当がついている。だから桐乃が話しにくいだろうことも分かっていた。
正直、この予想は外れていて欲しかったのだが、この分だと覚悟を決めておくべきだろう。
「あのさ、『しすしす』クリアした?」
「ああ、結構面白かった。おまえのオススメなだけはあったな」
「でしょ?へへ……」
まるで自分が誉められたかのように喜ぶ桐乃。ホントにあのゲームが好きなんだな。
『しすしす』だけじゃない。他のゲームも、アニメも、陸上も、仕事も、友達も。桐乃の好きははいつだって全力だ。
いきなり『しすしす』の話を振ってきたのだって、べつにはぐらかそうとしたわけじゃない。
何しろ、自分が出ていく前にクリアしておけと、わざわざ命令してきたくらいだ。その意味も今なら分かる。
以前、アメリカで一緒にプレイしたとき、俺がりんこを攻略すると言ったら、桐乃はあわててそれを止めた。
あのときは意味が分からなかったが、実際にりんこルートを遊んでみてその理由が分かった。
りんこは、桐乃に驚くほどよく似ていた。
素直になれず生意気を言ってしまうところとか。
信頼のあまり無茶なワガママを言ってしまうところとか。
好きなことに全力でまっすぐなところとか。
桐乃はきっと、りんこに自分を重ねていたのだろう。
ならば、その自覚があって『しすしす』を俺に託した意味は――――
「あのさ、これから言うこと、冗談とかじゃないから」
桐乃はそう前置きすると、目を閉じ、息を大きく吸って整える。そして、俺の目をまっすぐに見つめて口を開いた。
「――――あなたが、好きです」
桐乃の好きは、いつだって全力で、まっすぐで、妥協がない。
だから、言わずにはいられなかったのだろう。俺の答えが分かっていても。
「わたしと、付き合ってください」
桐乃の好きは、いつだって全力で、まっすぐで。
だから、俺もまっすぐ応えなければならない。桐乃を傷つけると分かっていても。
「――ありがとう。でも俺には、他に好きなやつがいる。だから、おまえとは付き合えない」
「――――うん」
桐乃は、落ち着いていた。
言いたいことを言って、すっきりした感じだ。
――――少なくとも表面上は。
「ありがと。ちゃんとふってくれて」
が、それも長くは持たない。
「『妹だから付き合えない』って言わないで、くれっ……、て……!」
桐乃の細い肩が跳ね、声がひきつる。
「ーー!」
俺は思わず手を伸ばしかけたが、それより早く、桐乃の方から飛び込んできた。
桐乃は俺の服をきつく掴み、しがみつく形で俺の胸に顔を埋めてしまった。
俺はなにも出来ず、されるがままに固まっていた。
「『お兄ちゃん』、あのね」
「……桐乃?」
「あたし、好きな人がいたの」
「……」
「今日、その人に、思い切って告白したんだけど、へへ……。ふられちゃった」
……ああ、そうか。
「だから、おねがい。ちょっとだけ、泣かせて?」
今の桐乃は、失恋の痛みを兄に慰めてもらおうとしている、ただの妹だ。
だから俺は、なにも言わずに、兄として、妹として、桐乃を抱き締めた。
「あたしさ、小さいころからその人のこと好きだったの」
桐乃は顔を見せない。
「いろいろあって、一度その人のこと嫌いになったんだけどさ、またいろいろあって助けてもらったんだ」
だけど泣いている。確かめるまでもない。
「すごく嬉しかった。大好きだった人が帰ってきてくれたって、そう思った」
だってこんなにも震えている。こんなにも声が濡れている。
「でも違ったんだよね。あたしが待っていた人なんて、そもそも初めから居なかったんだ」
俺にはなにも出来ない。桐乃を泣かせているのは、他ならぬ俺なのだから。
「それが分かったとき、気付いちゃった。それでもその人が好きだって」
それでもどうにかしてやりたいと思うのは、ただの欺瞞だろうか。
「あたしは、同じ人を、二回好きになっちゃったんだ」
「……おまえをふるようなもったいない真似するバカヤローは、俺がぶっ飛ばしといてやるよ」
「……ホント?」
「当たり前だ。俺の可愛い妹泣かせやがって。何様だっての」
本当、何様のつもりなのだろう。
「うん……。じゃあ、約束ね」
「おう、まかせろ」
そう、精一杯おどけてみせる。
桐乃は泣き腫らした顔で、それでも笑ってくれた。
その夜、俺と桐乃は同じベッドで一緒に寝た。
言っとくが本当にただ寝ただけだぞ。妙な想像するなよ。
桐乃が『今日、一緒に寝ていい?』なんて、それこそ妹ゲーのヒロインみたいなことを言ってきたのだ。断れるはずもない。どうせシスコンだよ俺は。
俺たちは並んで転がりながらいろんな話をした。
これまでのこと。
これからのこと。
趣味のこと。
仕事のこと。
友達のこと。
どのくらいの時間が経ったころか。桐乃はいつの間にか寝息を立てていた。
なんの疑問も持っていない、安心しきった寝顔。
それはまるで、兄に甘える妹そのものだったよ。
――――チュンチュン。
早朝。
俺は玄関前で桐乃を見送っていた。
俺は空港まで行くと言ったのだが、桐乃にいらないと断られた。いわく、それだとホントにお別れみたいじゃん、だそうだ。
「無理……すんなよ。いつでも帰ってきていいんだからな!」
「わかってるって」
「身体に気をつけろよ。毎週電話しろよ」
「はいはい」
これだからシスコンは……と、小さくぼやく。
「大丈夫。もしものときは、助けに来てくれるんでしょ?」
「当たり前だ」
「…………うん」
桐乃は目を閉じる。何かを噛みしめるように。
「……あたしさ、あんたの妹で、よかった」
そして、俺を見つめてそう、言ってくれた。
「……あんたは?」
「……ばかやろう」
そんなの決まってる。
「俺もだ」
始まりは俺が『メルルin妹と恋しよっ♪』を拾ったことだった。
「二年間、おまえの人生相談に振り回されてきた」
それから何度も桐乃を助けて、助けられて、こいつのことをたくさん知ることになった。
「ムカつくことばっかだったけどな」
冗談じゃないと、もう二度とやるものかと思ったのも、一度や二度じゃない。それでも。
「悪くなかったよ」
おまえのおかげで新しい友達ができた。おまえのおかげで新しい世界を知ることができた。
「バカな連中とバカなことやって……おまえとは喧嘩ばっかして……俺までオタクの仲間になっちまって」
おまえと……仲良くなることができた。
「むちゃくちゃ楽しかった」
「そっか」
「おまえの兄貴でよかった」
「そっか」
だから、おまえにはむちゃくちゃ感謝してる。
「……なに泣いてんの?」
いつの間にか、視界が滲んでいた。
「別に、ずっと会えないわけじゃないのに」
「うるせぇ……」
おまえだって、人のこと言えないだろうが……。
「あのさ、ひとつ約束してくれる?」
「おう、なんだ?」
桐乃は涙に濡れた目で、俺を真っ直ぐ見つめ、言ってくる。
「あの娘のこと、絶対幸せにすること。あんたも、絶対幸せになること」
「二つじゃねーか」
「うっさい。細かいこと言うな。約束するの?しないの?」
そんなの答えなんか決まってる。
「約束する。俺は、あいつと二人で幸せになる」
「……うん」
桐乃は、俺の答えに満足したようにうなずき、次いで、にやりと歯を剥いて笑う。
「――っし、言質取った。約束破ったら蹴り潰すから」
「何をっ!?」
思わず前屈みになる。
桐乃はそんな俺見て「ひひっ」といたずらっぽく笑う。
「それじゃ、行ってきます、兄貴」
そうして、桐乃は旅立っていった。
「行ってきます、か」
――――じゃあね、兄貴――――
一年前、アメリカに行くときは、桐乃はたしかそう言ったのだ。
『じゃあね』と『行ってきます』
たったそれだけの違いが、俺を妙に安心させていた。
さて、ぼやぼやしていられない。
あいつが帰ってきたときに笑われないようにしておかなきゃならないからな。
とりあえず、約束のひとつはこの場で果たしてしまおう。殴りあいのケンカなんかしたことないが、蹴り潰されるのはゴメンだしな。
俺は拳を固く握り、自分の頬に思い切り打ち付けた。