ポケットモンスター異聞録   作:奈良 青波

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 紫水晶の瞳と青玉の眼

    Ⅰ

 

 何処までも日の光が行き渡る雲一つない青空が目に眩しい。青の種類の中で天色(あまいろ)と言う名の色があるが、正しくその突き抜けた明るい青が世界を天から抱いている。

 そんな気分も晴々となる午前十時を回った頃、整然とした街並みの石畳を少女がポニーテールもピョコピョコと揺らし、活力に満ちて歩く。

 活動的な丈のミニスカートに肩掛けカバン。カバンには六芒星に似た形や、円形の中に走る閃光を象った形やらの作りの良いピンバッジが三つ光り。この三つのピンバッジはポケモンジムを三ヶ所突破した証であり、この少女が一端のポケモントレーナーである事を示す。

「ンニャル、ニャァル」

「ダメよ、ニャルマーちゃん。今日は診察の日でしょ」

 渋面し切りの猫ポケモン、うにゃうにゃ身動(みじろ)ぐニャルマーを抱えて歩く少女、カンナは手持ちの再診の為にポケモンセンターへと向かっている。

 ニャルマーをモンスターボールに入れて行けば良いものをとはカンナ自身も思うが、一週間前にそうしてセンター併設病院から行って帰ってからが大変だった。診察が嫌だったのか何なのか、カンナと目も合わせない、呼んでも来ない所か返事もせずで、三日は不貞腐れて居たのに閉口するしかなかったのだ。

 ポケモンセンターへと歩く道すがら、今の内からニャルマーを抱っこしつつ撫でくり、機嫌を取って置こうというのがカンナの策である。

 往き交う人々の中、そうして策を講じつつ街路を行くカンナは交差点に立つ信号の赤色点灯の指示通りに足を止めた。

 止めた、と同時に赤信号で歩行者達が留まるこの交差点のちょっとした異常に気付く。何か、自分以外の周囲が浮き足立っている様な気がするのだ。

 (いぶか)しく目線を左右に動かす。周囲の人々の視線は同じ方向に集まっているのが分かる。カンナもそちら、左斜め前へと目をやる、と……。

「……ニャアン?」

 どうした? とでも言いたげなニャルマーの鳴き声に、はたとカンナは自分を取り戻した。

「あ、あぁ、ゴメンゴメン、ニャルマーちゃん」

 抱いていたニャルマーを揺すり、それでもカンナの視線は目をやった方にある。

 カンナの目には、類い稀なと形容するしか無い可憐な立ち姿が映されていた。

 腰まで掛かるサラリとした藤色の髪は花の香りを風に乗せ、クラシカルな学生鞄を背負い、リボンのタイを結んだ女学生と言った姿は何とも華奢で、それを更に輝かせる愛らしく円らな紫水晶(アメジスト)の瞳は周囲を特に気に掛けるでもなく、真っ直ぐに歩行者用信号へと向けられている。

 この時、カンナの脳裏に走るものは、こうだ。

 うわっひゃあぁぁぁ~、メッチャクッチャ可愛い~!! 顔、小さっ! 目も大っきくてキッレーイ! うっわ、うぅぅわ、ウェスト細ぉぉい!! 脚だってスラーッと、もう、もう、……凄く、綺麗!!

 元気ハツラツ、十代前半の少女らしい感想一杯で大変結構な事である。

 と、信号待ちで留まっていた人々が動き出す。信号が変わったのだが、カンナは未だボーッと、横断歩道を渡り始めた自分と似た背格好の可憐な姿に釘付けで。

「ニャルッ!」

 そんなカンナに抱かれていたニャルマーが、ほら、青信号だぞ! とでも主張する様に前足でカンナの鼻をブニッと容赦無く潰した。

「んぁっ!? ちょっ、何すんのよぉ!」

「ニャルニャルッ」

 知らないっと外方(そっぽ)を向くニャルマーとカンナが、トレーナーとポケモンとの麗しい絆を結んだ仲を道行く人々に大々的に見せ付けようとした時。くすくす笑う微かな声がカンナの耳に届いた。

「ご免なさい。あんまり仲良くしてるから、あたしも楽しくなっちゃって」

 交差点の人々を一様に見蕩(みと)れさせていた存在がカンナの方へと振り返り、藤色の髪を揺らして話し掛けて来たのである。

 

    Ⅱ

 

「そう、センターの病院で診てもらう為に……」

「一週間前に装置で回復してもらってから変わりは無いんだけどね。診察してくれた先生が、念の為にって」

 カンナのポケモンセンターへの道行きに同行者が加わった。似た背格好同士、親しく言葉を交わすのは難しくなかった様で。

 渡良瀬 準(わたらせ じゅん)と名乗った可憐な同行者もセンターに何らかの目的があるらしく。休憩施設を兼ねるカフェや、ポケモントレーナーにとっての必需品であるポケモン捕獲器具のモンスターボール等を販売しているフレンドリィショップも併設している場所である為、一口にセンターに行くとしても目的は多岐に渡る。もしも準がカフェスタッフやショップ店員をしていたなら、客は引きも切らずと言った様相となるだろう。何となしに、カンナは準がセンターでアルバイトをしているのだろうと胸中で納得したのだった。

 そんなカンナの納得を余所に、準は睫毛も長い目をカンナとニャルマー交互にやりつつ、唇には微笑みを絶さず歩く。

「これで目に異常無しって病院の先生に言ってもらえれば、次のジム挑戦の為にトレーニングを再開出来るから、ゴキゲン取りながらでも行かなくちゃ」

 ゆっくり抱き揺らされ、赤ん坊にするのと同じくあやされているニャルマーの表情は仏頂面である。

「ふぅん? でも、このコがご機嫌斜めなのは、病院が嫌ってだけじゃ無いみたいだけど」

「そうなのかな? ニャルマーちゃんも、言葉を喋ってくれれば良いんだけど……」

 口を尖らせ、人語で意思疏通を図れぬ存在と日々を暮らす者達の、ある意味切実な願いである文句の一つをカンナは垂れた。

「でね……、準ちゃん。その時準ちゃんもセンターに居たかも知れないけど、一週間前に診てもらった先生! 女医さんなんだけど、スッゴかったの!」

 診察で思い出したのか、話題を切り替えたカンナの顔は何やら得意顔で。

「女医さん? カンナちゃん、ニャルマーちゃんを女医さんに診てもらったの?」

「そう。その女医さん、ニャルマーちゃんを装置で回復してもらって、さぁ帰ろうって時に怒鳴り込んで来たガラの悪ぅーい男とポケモンバトルして、もぉ、一方的に叩きのめしちゃったの!! 準ちゃん、あの騒ぎは知ってた!?」

「し、知らなかった、かな。あの、た、叩きのめしちゃった、の……?」

 聞き返した準の視線は、カンナから見て右上へと行っている。心なしか、瞬きも多い。

「そのガラ悪男もね、腹立つんだけど! 手持ちのポケモンが弱いなんて事無くって、レベル70もあるって言ってたワルビアル、あ、ワニみたいなポケモンね。そのワルビアルを先生の手持ちの相似体類で、黒ずくめのポケモンが一撃で倒しちゃって!」

 歩きながら捲し立てるカンナの顔は、ツヤツヤと得意顔なままである。一端とは言え、卵の殻を引っ付けたトレーナーが心に残るポケモンバトルを目にした興奮からのものだろう。反対に、ニャルマーはそんな様子のトレーナーに呆れている風だが。

「ま、まぁ、そんなレベル70以上ってヤツに、ムカ付いたからってバトルを最初に仕掛けたのは、まだバッジ三つ目の私なんだけどね」

 ジムバッジ三つ目のトレーナーの実力と言えば、レベル30までのポケモン達を率いられる程度。結果として、とんでもない無謀をカンナは働こうとしたのだ。

 その無謀なバトルを仕掛けたカンナの表情と声であるが、陽気に捲し立てて居た先程と比べ消沈の気が有り有りと分かるので、反省はしているらしい。

 トレーナー同士のポケモンバトルは日常茶飯事とは言え、自分の昂った感情のままにポケモンを戦わせるトレーナーの性質は良いか悪いかと言えば……。

 ジムを巡るに代表するポケモンを伴っての旅は、ただ手持ちのポケモンを闇雲に強くするだけでは無い。その辺りを未熟な駆け出しトレーナーに教導するのは主にジムを率いるリーダー達が担うのだが。

 カンナの言う黒()くめの相似体類、先週に出会った新城 直衛の言葉は、少女の透き通った柔らかな心を波立たせるには十分だったらしい。

 そんな自身のトレーナーを見るニャルマーの顔は、僅か苦々しいものがある。

「あ、あと、その時のバトルで先生が言ってたんだけど、何か、要請って言ってたかな? ガラ悪男を何とかしてくれって頼まれて待ってもいたみたい。高レベルの……、ポケモンリーグを勝ち上がったトレーナーって、警察とかポケモンセンターとかに仕事を依頼されるって、本当だったんだなーって。私、それも初めて見て、ビックリしたの!」

 今度は興味津々と言った調子だ。すれ違う街路を行く人々も、くるくる表情が変わる元気な少女と、見目麗しいもう一人に視線が誘われる。

「ふふっ、一定以上の強さ、練度のパーティがいるなら、街の行政機関が仕事を任せたくなるのは当然だもの。カンナちゃんが見たレベル70のポケモンを使うトレーナー相手とかになると、ジムリーダーがレベル制限無しの鍛えた手持ちで対処しちゃうのが一番手っ取り早くて、多い事なんだけどね」

「え、あ、そうなの!?」

「うん。ジムの中って、リーダー以外に何人か門下のトレーナーさんが居るでしょ? その人達も一定の人選はあるけど、街に野生ポケモンが必要以上に入らない様にって、ジュンサーさん達警察官の人と一緒に出たりしてるのも、小さな事だけど、その一つよ」

「じゃあ、私が通ってたトレーナーズスクールの優秀な先輩達が見回りに出てる所は何回か見たんだけど、もしかして、それもそう言う事だったのかなぁ?」

「その地域の事情にもよるけど、多分そうだと思うわ」

 花咲くかの微笑みと共に、準が首肯する。健全な青少年達が幸福感を覚えてしまう仕草だった。

「本気のジムリーダーさんや、ニャルマーちゃんを診てる女医さんとかのレベルになると、地域全体で暴れる野生のポケモンや、国を跨いで悪い事なんかしてる人達を何とかする為の依頼が地域規模、ううん、国家や国際連盟から出される事もあったりするの」

 準の言う国際連盟とは、このポケモンと人間が共生する世界に於いて存在する全ての国々が、ある要因に抗する事を主目的とし結成された組織である。

 この組織は、その主目的を果たす事のみならず、社会生活の安寧を掲げ、国家の垣根を超えて安全保障、経済、社会、研究等の国際協力活動を行っている。

 また、連盟の恩恵を一番実感して受けているのは誰であろう、数多居るポケモントレーナー達と、その手持ち達だ。何せ、ポケモンセンターでトレーナー達の手持ちポケモンに麻痺や火傷を始めとした状態異常の治療、体力回復が無料で施されるのは連盟の各国への勧告に因るものなのだ。

 他にも、トレーナー昇格認定施設の面も有するポケモンジム、ポケモン達に関するイロハのイから、より細分化し穿った内容をも学べるトレーナーズスクールの運営も連盟が大きく影響を及ぼしている。

 カンナにとって「コクサイレンメイ」とは、トレーナーズスクールで(にら)めっこした教科書に記されたテストに出て来る単語の一つだったが、準の鈴を転がす声での話に出て来た事で、ちょっとばかり現実味を帯びた。

「それにしても、さー……。何か、準ちゃん、色々詳しいね? 何で?」

 ここで臆面も無く、キョトンとした風で相手に問えるのがカンナの肝の太さなのか、少女らしい無邪気さの表れなのか。

「えっと、それはね。ポケモンセンターに着いたら、教えるからっ。ねっ?」

 何か準にとって都合でも悪かったのか、カンナの問いを濁して返すと、それまで並んで歩いていた足を準は一歩、遅らせる。

 あれ? 何か嫌な事でも聞いちゃったのかな? と、カンナは準へのモヤモヤとしたものを小さく感じるも。

「ウニャウ、ニャールッ」

「あぁっ、もう! 良いコにしててよニャルマーちゃんっ」

 またも身動ぐニャルマーに手を焼かされると、モヤモヤも霧散してしまった。

「その調子なら、十中八九目に異常無しって診断されそうね?」

「なら、トレーニングをギッチリやってもらうんだからぁ!」

 コロコロと朗らかな笑い声を二人は上げ、ポケモンセンターへと弾ける様な快活さを振り撒き、歩いて行く。

 快晴の下、街路を行き交う人々と緑豊かな街路樹へ爽やかな風が吹き付ける。人々の平和な営みを想起させる街並み。道沿いの雑貨店やブティックには、黄色い声を上げてショッピングを楽しむ客の姿がちらほら。実に穏やかな時が流れている。カンナと準の二人の姿は、明るく賑やかな街中に良く似合っていた。

 そんな二人から一定の距離を置き、会社の外回りだろうか、スーツを着た平凡を絵に描いた様な男も二人と進行方向を同じくしている。目的地も同じなのだろうか。

 カンナと相対しつつ、準の紫水晶の瞳は、その視界端に僅か、極々僅か、平凡なスーツの男を捕らえる……。

 それが、その男の瓦解の始まりだった。

 

    Ⅲ

 

 ラルトスと言う、小さく、相似体類の様に人間に酷似はしていないが、人間の幼児にも似たポケットモンスターが存在している。

 頭に赤い角状の受容器官を持ち、その受容器官で人や動物、ポケモンの感情、思考を捕捉し、温かな感情を受け取った場合には自身も明るく相手に応じ、悪意や敵意の場合には物陰に隠れると言った、並外れて感情に対し敏感な生態のポケモンだ。

 ラルトスがポケモンの特権であり、特長である急激形態変性、(すなわ)ち進化を経ると、ラルトスと同じく人間に親近感を抱かせる姿であるキルリア、サーナイト、エルレイドへとなる。これらのポケモンは起源とするラルトスと同じく顕著なサイキック能力を有し、雄のみが進化するエルレイドは、肘部分を刀剣の如くに伸長させ、しなやかな持ち前の肉体で勇敢に戦う。

 このポケモンの分類、種類が多種千万の様相を見せる世界。人間と姿形が殆ど変わらない相似体類の中に、ラルトスの遺伝因子を内包するもの、ラルトスの末裔(すえ)とも言えるものも存在する。

 

 午前の眩しい光を受けたポケモンセンター。人間とポケモン達の大きな入院病棟を後ろに控えた回復施設を目的地として来た二人は、左右を木立に挟まれた舗道を抜けて、相も変わらず利用者で賑わう受付エントランスを奥に見渡す、玄関であるガラスの自動ドアを前にしていた。

 未だにカンナに抱かれたニャルマーは、往生際悪く、うにゃかうにゃかと猫ポケモンらしく身動ぎ、診察への抗議をボディランゲージで示していた所で。

「カンナちゃんっ、新城先生をここに呼んで来てっ! お願いっ!」

「おわっ、とぉっ!?」

 準がカンナの背後から左肩を突き飛ばし、左右にスライドして開く自動ドアの奥へと押し込んだ。その反動で、ニャルマーがカンナに抱かれていた腕から弾かれた様に飛び出すと、軽やかに準の隣に着地する。

「準ちゃんっ、ちょっ、どう言うっ!」

 準は距離を取って後ろを着いて来ていた平凡なスーツの男の顔をキッと()め付け、素早く腕を一振りする。と、虹色の輝きを含んだ水晶かと見紛う巨大な円形の力場が、盾の様に準とニャルマー、そしてセンターの玄関前に展開された。

 この瞬間、センターの玄関自動ドアのセンサーはポケモンの技が起こす空気流動を異常として感知。緊急事態としてドアをロックし、連鎖して警報アラームが消魂(けたたま)しくセンター全域に鳴り響く。

 無情にも外は見透せども開かれぬ強化ガラスの自動ドアが、外の準とニャルマー、センター内のカンナを隔て。

 玄関奥のエントランスでは、利用者達が何事かと騒ぎ始め、受付を務めるジョーイ達は迅速に警備員の手配と緊急時の対応へと切り替わっている。

「あれって……、光の、壁?」

 アラームがわんわんと響く中、自動ドアの内側でカンナが呆然と呟く。

 準が腕の一振りで作り出したものは、光の壁と呼ばれるサイキックパワーを操る事を得意とするポケモンの技の一つ。ポケモン達が繰り出す、内に備える器官や超常現象を元にした激しい炎や、猛烈な冷気等の攻撃への緩衝壁を作り出したのだ。

 目を見開き、驚愕しているのはスーツの男。だが、その後の行動は機敏だった。スーツの懐に右手を突っ込み、奇術師がボールの手技を披露すると同じく指の間に四つ、縮小されたままのモンスターボールを取り出し、光の壁へと放る。

「行け犬共! 全員、炎の牙だ!!」

 放られた空中で元の大きさに戻ったボールから、閃光と共に出現したのは不気味な白骨を身に纏い、(ねじ)れた角を生やした黒犬が四頭。

 ヘルガーと呼ばれる地獄の名を冠したポケモンであった。成人男性の胸程もある大きさの身体に、獰猛が過ぎる気性を剥き出しにして準とニャルマーへと走り来る。開き切った顎門(あぎと)から黒煙と燃え盛る炎が吹き出し、指示された技の名そのもの、炎の牙を突き立てんとしているのだ。

 準の脳裏に冷たいものが滲む。

 あのヘルガー達からは炎の牙では無く、違う技、火炎放射が来ると思った。光の壁では接触攻撃の炎の牙からのダメージは半減出来ない。自分は良い。けれど、今、隣には練度の低いニャルマーが居る。進化を経たポケモンの牙に掛かっては一溜まりも無い!

 背後の自動ドアへと振り向く。

 一気に目の前が開けた心地となった。待ち侘びた自身のトレーナーが、そこに居たのだ。

 ガラスの自動ドアを隔て、白衣の裾を翻す様にして準の元へと駆け寄った恵は戦局を一瞬で把握するや、右手人差し指で玄関の天井を示し、一気に振り下ろした。

 それを受け、自信と確信に満ちて奮い立った準は、両膝を一旦落とし、サイキックパワーを足元から噴き出させて垂直に高く飛び上がる。

 隣に居たニャルマーは風圧に転がされそうになりながらも、大きなアーモンド形の両目をギュッと細めて準を見上げ。

 空中で身体を(ひね)り、自らを生身のミサイルと化した可憐な相似体類は、襲い来るヘルガー四頭へと狙いを付けて一気に降下した。

 ヘルガー達の悲鳴と苦悶がニャルマーの耳を打つ。準が着地した箇所は舗装の石畳やタイルが砕かれ飛び散り、陥没からの長蛇の(ひび)が走っている。吹っ飛ばされたヘルガーの身体が、彼方此方で地に弾み落ちた。そうして戦意も意識も失ったであろう様を見て、自動ドア内側のカンナは。

「な、な、何なの、何、あれ」

「パトリオットミサイルキック。準だけが使える技だよ。……やはりヘルガーのトレーナーは逃げた、か」

 カンナの疑問に端的過ぎて答えになった様な、なっていない様な応えを無表情のままにした恵の視線は、自動ドア外側の戦況へと注がれたままで。

 その目元が、す、と細まる。

 選りにも選って、センター玄関の方へと一番近く叩き付けられた一頭のヘルガーが、両目に執念を燃え上がらせて起き上がったのだ。口から、また炎と黒煙が上がる。

 足らなかった! 準が瓦礫と化した地を蹴り、体力を僅かに残したヘルガーへと駆け出そうとした、その時。

「ニャアアルッ!!」

 絶叫にも似た鳴き声と共に、ニャルマーの長い長い尻尾が自動ドアのガラスを強か鞭打った。

 それは恐怖の叫びでも無く、当惑からの発声でも無かった。

 指示を寄越せと叫んだのだ。

 それを受け、息を飲み、ニャルマーのトレーナーは。

「ね、こ騙しぃぃ!!」

 センターに鳴り響くアラームにも、障壁にも思えるガラスの自動ドアにも負けぬ様にと大声を上げ。与えるダメージは少なくとも、必ず先制してのける攻撃の指示を下す。

 執念に燃えるヘルガーの眼前に灰色の何かが認識されたとほぼ同時、ニャルマーの全身全霊が込められた爪痕がヘルガーの鼻面に深々と刻まれ。とうとう執念の灯火は消え去り、今度こそ完全に体力を失い、ヘルガーは倒れ伏したのであった。

「……やったぁぁ、ニャルマーぢゃああぁぁん」

 へにゃへにゃとカンナはセンター玄関内でへたり込む。ニャルマーの診察の心算でポケモンセンターに来たなら、予想もしなかった事が次から次へと起きたのだ。身体の力が抜けるのも当然だろう。

 ふわりと、カンナの頭を撫でる手が。ポニーテールを揺らしてカンナが手の主を見れば、先輩トレーナーでもある恵が柔らかく微笑んでいた。

 ポケモンセンター敷地内で起きたバトルの決着が付いた為か、アラームも鳴り止み、緊急事態判断でロックされていた玄関の自動ドアが左右に開かれる。それぞれのトレーナーの元へ、手持ちポケモン達が駆け寄り来て。

「ニャールゥゥ」

 ニャルマーはカンナのへたり込んだ膝に両前足を乗せ、さぁ撫でて誉めろと言わんばかりに顎を反らし突き出して両目を閉じている。長い長い尻尾は、くるくると新体操のリボンの様に螺旋を描いて得意気を露にしていて。しかし、カンナは進化を経た強力なポケモンを倒したニャルマーを撫でず、ひしと抱き締めた。

「すごかったよぉぉ……」

 カンナの目には涙が滲んで。腕の中のニャルマーはと言えば、溜め息を一つ吐くとゴロゴロ喉を鳴らしながら、プニプニ肉球の前足で涙を拭ってやった。

「カンナちゃんの手持ちなんだから、あの程度当然でしょ。泣くと後で恥ずかしいわよ? って、言ってるわ。ニャルマーちゃん、カンナちゃんの事が大好きなのね」

「……はぇぇ?」

「兎も角立ちなさい。座り込んでいて良い場所では無いからね」

 腰を抜かし気味のカンナに手を伸ばし、ゆっくり立たせた恵はセンターエントランスの椅子へと誘う。

 入れ替わりにセンター職員と警備員、ジョーイ達が倒れたヘルガー達の方へとバタバタ走り行く。あの場所はポケモンバトルの為に身体を張る者達の鉄火場から、救護と急行して来るジュンサー達の事件捜査現場となるのだ。

 

    Ⅳ

 

 建物外とは言え、突然の尋常では無いポケモン達の交戦が起きたポケモンセンターのエントランスは騒然としていた。ジョーイ達と警備員達が利用者に対して手慣れたものとばかりに対応をしている事から、潮が引く様に利用者達の騒ぎも収まるだろう。ポケモンセンターのジョーイや警備員を務めるには、ポケモン達が起こす不意の騒ぎに一々と揺るがず対応出来る事も必須なのだ。

 その騒ぎから距離を置いたエントランスの待ち合いスペースの端。長椅子に座り、白湯のカップを掌に包んで人心地付いたカンナが先ず気になったものはと言うと、無表情な恵と、その白衣の左腕にしっかりと両腕を巻き付けて上機嫌な準だった。

「えーっ、と……、聞きたい事は沢山あって。髪の色から多分人間じゃないって思ってたんだけど。準ちゃんは、新城先生の手持ちなのね?」

 カンナの言う髪の色での判断は、人間と相似体類との簡単な判別方法の一つである。人間は基本として黒、栗、赤、金、白の髪色を持つが、ポケモンである相似体類の場合、実に千差万別の髪色を見せる。勿論、人間が染髪して様々な髪色にしている事もあるが、準の美しい髪質で藤色のロングヘアとなると、カンナが人間では無いと当たりを付けるのも不思議では無い。

「そう。あたし、渡良瀬 準は、新城 恵先生のポケモンですっ。本当はもっと普通に、こんな事無く自己紹介したかったんだけどね?」

 どうやら、それが要因の一つで警報解除やロックされた自動ドアの解放がなされた様だった。こんな場所で、さも当然とばかりに恵の腕に抱き付いている所から、このセンターにも通い慣れてもいるらしい。

 絶え間無い笑顔の準にカンナは目も眩む心持ちではあるが、立て直して問いを重ねる。

「じゃあ、次なんだけど。何でポケモンセンターの玄関前で、あんな事になったの? ポケモンバトルなら、トレーナーが最初から居て、トレーナーが指示してするものだと思うけど……」

 カンナの問いは至極真っ当なものであり、幾つかの疑問を詰めたものでもあった。

 この溌剌(はつらつ)さが売りの少女の頭の中は不可解の三文字が白い濃霧の姿をとって占領している。自分も大切なニャルマーも巻き込まれたのだ。目の前の二人に霧をすっかり晴らして貰いたいと思うのは無理からぬ事である。隣に座ったニャルマーまでもが怪訝(けげん)な様子だ。

「それについては、私から説明しよう。後々に準もジュンサー達から聞き取りがあるので、それまで、な」

 準の藤色の髪を一撫でした恵が答える。

「先ずは、カンナ。現在も多数存在する人間の小さな子供にも似た、ラルトスと言う種のポケモンは知っているかな?」

「はい。エスパー系の力を使うポケモンで、物凄く人の気持ちに敏感なんですよね」

「よろしい。トレーナーズスクールのテストでは十分な解答だ。そのラルトスが進化をして行くと、キルリア、サーナイト、エルレイドとなる。これらのポケモン達の特長として、人の考えがパッと分かったり、未来を予知出来たりする」

「……はい。スクールの教科書にも、そう書いてありました、けど」

 だから何? と、口を衝いて出そうになった言葉をカンナは飲む。

 す、と、恵が無表情なまま、左腕に抱き付いたままの準へと視線を移し。

「この相似体類である準は、ラルトスの遠い遠い子孫なのだよ。準、ヘルガーのトレーナーとされる逃亡した人物の考えた事か、先の事が何かしら分かって、センターの前で戦闘となったのだろう?」

 準は静かに、ゆっくりと首肯し。

「そうです。あたしがカンナちゃんと一緒に歩いていて、ポケモンセンター近くまで来た時にヘルガーのトレーナー、スーツを着てた男の考えがフッと分かって。あの男、センターの入院患者さん達が居る病棟とか、ここのエントランスホールとかで、ヘルガー達の炎を使って酷い事をしようとしてたみたい。何とかしなくちゃと思って。カンナちゃん、ニャルマーちゃん、ビックリさせて本当にごめんなさい」

 準の喋る内容に、カンナは言葉も無かった。

 ポケモン達を悪用する人物や団体に付いて、ニュースやそれこそ教科書で色々と見聞きして来た。とは言え、まさか自分にそれが振り掛かるとは。

 思考が停止する中、準に深々と頭を下げられ、一拍。はたと気付き慌ててカンナは両手を胸の前で振り振りとし。

「や、いやいや! 助けてもらったって事だよね? 準ちゃん謝らないでっ。それに、ヘルガーの炎を使ってって事は、新城先生、センターも病院も、とんでもなく……」

「そうだな。事実、ヘルガー四頭を所持していた人物が居た。そして、準の言う通りとなっていたなら、ヘルガーの炎は体内を巡る毒素を燃やしたものである為に、異常な火傷、毒ガスと言える煙に因る目と呼吸器へのダメージ、牙や爪での傷の被害もあっただろう」

 恵の語った予測にもカンナは青褪め、身体を強張らせた。

「準とヘルガーが対峙していた時、自動ドア越しの空間の色からすると光の壁を張ったのだろう? 一般の善良なセンター利用者だったなら、突然目の前で光の壁を張られたからとしても困惑するしか無い様に思う。攻撃に転ずる事が異様だ。準の察知した事が全て間違いだったとは、私は言い切れない」

 既に起きた事と、状況と、恵の語る推測が、準の察知した事が的中していていた可能性を強めて行く様で。恵の抑揚の無い声も冷え冷えとした空気を加速させるが、カンナが大きく安堵の溜め息を吐き。

「本ッ当ーに、準ちゃんが居てくれて良かったぁ。新城先生の言ってる事を聞いてると、準ちゃんがラルトスの力を持ってたからこそ、皆が助かったんだもんね。有難う、準ちゃん」

 ニャルマーの背を撫でつつ、カンナは礼を口にした。

「ううん。あたしがもっと上手くやれてたら、ニャルマーちゃんが自動ドアの外に出ちゃう事も無かったと思うし。あたしはあたしって思ってるけど、男の子としては……、ちょっとね」

「……ん?」

 カンナの頭の中をまたも不可解の三文字が占領する。

「男の子? 男の子って、何の話?」

 キョトンとしたカンナを見て、恵が態とらしく視線を動かし、半眼で自身の傍らに立つ準を見詰める。と、薄紅色の唇からチロリと舌を出しつつ、含羞(はみか)みの笑顔を向けて来た。人々の心を撃ち抜き蕩かす笑顔には、恵の白く長い人差し指がツンと準の額を突く事で応えられ。

「カンナ。準の姿形はこうだが、性別は男性だ。ラルトスの雄のみが進化出来る、格闘が得意なエルレイドの血が強く発現してもいる。パトリオットミサイルキックを見ただろう?」

「……ニャルゥ」

 一緒に話を聞いていたニャルマーは目の瞳孔が真ん丸に開き、一声上げた後に呆然となってしまった。

「こら、カンナ。そんなに短いスカートで、はしたない」

 カンナはと言えば、座っていたエントランスの長椅子からズリ落ち、恵に小言を貰う程度には大股を開いてしまって準に支えられる始末。小刻みに引き()った笑いまで口から漏らしている。

 何とか長椅子に座り直し、カンナが両方の膝頭をくっ付けた所で、カッチリとした警察の制服に身を包んだジュンサー二人と、神妙な面持ちのジョーイ一人が、恵達三人と一匹の方へと歩み来た。玄関前交戦跡の現場保存処置もぼちぼち終わったのだろう。

「お話し中の所、失礼します。新城 恵先生ですね。所有のポケモン、相似体類である渡良瀬 準さんなのですが、お聞きしたい事がありますので、よろしいでしょうか?」

「えぇ、どうぞ。準、行っておいで」

「はい。っと、ご免なさい。ちょっとだけ待って貰えますか?」

 ジュンサー達に会釈すると、準はカンナとニャルマーへと向き直り。

「カンナちゃん、ニャルマーちゃんの事なんだけど」

「えっ、あっ、うん。ニャルマーちゃんが、どうかした?」

 思いも掛けず、ニャルマーの事と前置きされて何を言われるのかとカンナは身構える。

「センターまで歩いている時、何でニャルマーちゃんがジタバタしてたのかの理由よ。診察も、眼に薬を入れられるかも知れなくて嫌って言うのもあるんだけど。先週のワルビアルの事で、色々と複雑だったみたい。ワルビアルの、柄が悪いって言ってたトレーナーに後先考えず突っ掛かって行ったカンナちゃんにも怒っているし、レベル差を目の当たりにして、もっと強くなりたいしで」

 カンナは隣に座るニャルマーへ、ソロリソロリと視線を向けて見るとニャルマーは実に渋い顔、人間で言えば眉間に皺を寄せ、フンスと鼻息を一つ。そんな表情で、いつの間にか準と見詰めあっている。

「うん……。中でも一番の理由は、黒い服の……、あぁ、新城さんがカンナちゃんに言った事みたいね。トレーナー教育としては正しいかも知れないんだけど、自分とワルビアルのレベル差を盾にされたみたいにして、カンナちゃんの向こう見ずさを注意されたのが、一番、悔しかったんですって」

「ニャールゥゥ……」

 肯定の一声の様だ。ただ、その一声は苛立たしさと、悔しさで、一杯だった。

 手持ちとなってバトルの場に出されたポケモン達は、相手がどんなに強大な存在であっても、自分が一撃で倒れると分かり切って居ても、立ち向かって行く者が多い傾向がある。カンナのニャルマーも、その例に漏れずのポケモンらしい。証左として、進化を経て生物的力量の差が有るヘルガーを前にして、指示を寄越せと自身のトレーナーに叫ぶ程だ。そんな気性の者が、自分の弱さも理由にトレーナーが諌められたなら。カンナの肩掛けバックのボールの中で、どれだけ口惜しかっただろうか。

「でも、レベル50以上だったヘルガーを相手に、レベル30間近のニャルマーちゃんが一撃入れて倒しちゃったんだから、ちょっとは気が晴れたんじゃない?」

「……ニャルウッ!」

 同じく肯定の一声。しかし、ニャルマーの目元口元は、悪戯っ子の笑みが確りとあった。

 何とも荒唐無稽なやり取りと光景である。

 準とニャルマーのやり取りは言葉を介してのものでは無い。それでいて、意思疏通が取れ過ぎている様にも見える。更に準の口にした言葉は、先週のカンナとニャルマーに盗聴器でも付けて会話内容の一切を記憶でもしていないと出て来ない内容だ。

「準ちゃん。もしかしなくても、ニャルマーちゃんの考えてる事を?」

「えぇ、そうよ。先週に色々有って、気持ちの整理が付かなかったからイライラして、ジタバタしちゃったのね。でも、大分スッキリ出来たみたい」

 この一連の流れを見ていたジュンサー達は、合点が行ったと言う顔で恵に話掛ける。

「成程、感応力を持ったポケモンでしたか。テレパスの精度も高い様ですね。脈絡も無く騒ぎを起こす子ではないと、ジョーイさん達が口々に言っていましたが……。良い子ですね」

「有難う御座います。さて、準、カンナ。そろそろ良いだろう?」

「あっ、済みませんっ。トレーナーさん、行って来ます。カンナちゃん、また会いましょうね」

「うんっ、また!」

 言葉が尽きないだろう似た背格好の二人の邂逅は、今日の所はここで終わった。ジュンサー二人に連れられ、センター玄関へと歩く準を見送りつつ、未だ夢心地にも似てぼぅっとしているカンナに抑揚の無い声が冷や水の如く掛けられる。

「カンナ。君はニャルマーの再診の為に来たのではないかな?」

「は、はい! そうでしたぁっ!」

 長椅子から勢い良く、ポニーテールも飛び上がらせてカンナは立ち上がる。

「直に回復も診察も再開する。早く受付を済ませておきなさい」

「ニャルウー……」

「ニャルマーちゃん。嫌でも診て貰わなきゃ、ジムのバトルに出られないんだってば。受付に行って来ますっ!」

 診察が心底嫌なのだろう、髭も尻尾もヘンニャリと下がったニャルマーを抱え、パタパタと受付カウンターのジョーイ達の元へと行くカンナ。

 溌剌として受付のジョーイに話掛ける少女の姿を横目に見た後、白衣の裾を捌き、携帯獣外来の診察室へと踵を返す恵。

 眼前に誰一人居なくなった、白く、無機質で整然としたポケモンセンターの廊下をヒールの音も冷たく立てて歩く女医の表情は、血の気が余り感じられない白い肌に隈も相まって、他人を寄せ付けないものに変わっていた。

 準が居たからこそ、ヘルガーを使っての破壊活動が防がれた、だと?

 感応力を持ったポケモンが居合わせて、ヘルガーのトレーナーと推察される人物の計画が破綻した?

「出来過ぎている……」

 内心に巡る今日の変事に対する見解が、恵の紅い唇から独り言ちとして零れた。声音は、まるで深夜に降り来る雪の様で。

 ……それもこれも、先週のワルビアル達と、今日のヘルガー四頭のデータと、逃走した者の喋る口が揃ってから、か。

 そんな思考が閃いた彼女の両の目は、冷然とした光が湛えられていた……。

 

    Ⅴ

 

 焼け付く肺臓。限界まで脈動する心臓。遮二無二全力で走っている為に衝撃が内臓を揺さ振り、横隔膜が引き下げられて脇腹が酷く痛む。

 全身が休息を訴えるも、バイク用ウェアで汗みどろに脇目も振らず二車線道路の歩道を走る男には関係無かった。

 本来だったならポケモンセンター、及び入院患者病棟でヘルガー達を使い恐慌を引き起こしていただろう男は、準がセンター玄関を塞ぐ様に張った光の壁を見るや、センターと病棟内部襲撃は失敗と悟り、ヘルガー達を足止めに利用して逃走へと行動を移していた。

 センター近隣の路地影でスーツから素早くバイク用ジャケットとパンツに着替え、前夜から配置していた長距離走行の為と走行風を整流するカウルを備えるツアラーバイクに跨がり、ジュンサー達が運転するパトロールカーと何台もすれ違いつつ、何食わぬ顔と挙動で街を脱出する事に成功。

 この時点では破綻は無かった。街から街を繋ぐ郊外の道路を順調にバイクで走行している途中。すれ違う対向車線の流れが多少(まば)らとなった辺りで、バイクが突然失速し、そのまま停車せざるを得なくなってから、男の命運は転がり落ち始めたのだ。

 前夜の時点では、バイクには入念なメンテナンスが施され、故障など無い様にしていたのだが。

 葉を繁らせた大きな街路樹が等間隔に植えられている道路脇に、男はバイクを寄せて駐車させる。忌々しいとばかりにバイクグローブを車体に投げ付け、ヘルメットを乱暴に座席に置くと、平凡と評される顔には滝の様に汗が流れて。それは、紛れも無い冷や汗であった。

 この時、男の全身には黒衣の死神に狙いを定められた悪寒が走っている。

 青天の下、街路樹が落とす木漏れ日の中。僅かな逡巡(しゅんじゅん)の後に、彼は郊外の住宅地を目指して歩道を走り出す。住宅地で都合の良いバイクなり、自動車なりを奪って逃走を続ける事を選んだのだ。

 走る、走る、走る。

 暫く走行した後、バイクが故障する仕掛けがされていたなら。そもそもポケモンセンター、センター併設病棟襲撃が成されない様に仕組まれていたとしたなら。

 諸々の思考が、男の神経を更に昂らせる。

 それに今はバイクを降りた生身なのだ。ヘルガーの他にポケモンが入ったボールは、今は無い。この辺りで生息する野性ポケモンは低レベルとは言え、道路脇の茂みだのからポケモンが飛び出して来ないとも限らない。

 早く、早く、逃走の足を手に入れなければ。住宅地で住人と遭遇したなら命を害してでも、この悪寒を振り(ほど)かねば。

 街を繋ぐ動脈である大きな二車線道路から住宅地へと向かう一車線道路へと男は左方向に曲がり、周囲に走行する車両が途切れた、その時。死神が彼の襟首を無慈悲に掴んだ。

「目標人体。左、十一時方向。出力低減、電磁波、撃てっ」

 走る男の身体に、本来だったなら人体には致命傷となる電撃が浴びせられた。

 ぐらりと、男は体勢を保てず崩れながらも何が起こったのかと、身体ごと振り向かせて周りを見回せば。

 歩道の向こう、草叢(くさむら)から視界に入れた限り、黒尽くめの何者かが自分へと恐ろしい速度で近寄り来ている。

 新城 恵の手持ち、黒のインバネスコートを着た新城 直衛であった。

 電撃を浴びた男の身体は、最早麻痺し切って毛程も自らの意思で動かす事は叶わず。そのまま道路へと倒れ伏すかと思いきや。

「十二時方向、蜘蛛の巣、撃てぇっ」

 至近距離まで肉薄した黒衣の相似体類のインバネスコートから、粘ついた白い糸状の物が放射され、麻痺した男の全身に絡み付くと、男が次に認識出来たのは、郊外の道路、そこを走る自動車、トラック、バイク、そして野性ポケモン達が身を潜めている草叢を天として仰ぐ視界だった。

 上下逆しま、簀巻きにされて疑似的無重力状態の男は叫びも上げられず、脳内は恐怖と混乱の感情から強烈な乱打を受け。

 勿論、男に空中浮遊を体験させているのは言わずもがな。

 男を簀巻きにした糸状の物を左手に掴み、垂直に、街路樹や道路の信号機を遥か足下に跳躍した直衛に引っ張り上げられ、空中で左手首を返された為に人の身では滅多に味わえない感覚を強いられたのだ。

 そして、日の光に白刃が閃く。

 男が穿いている厳ついバイクブーツの足首部分、両のアキレス腱が断ち斬られた。直ぐ様、またもインバネスコートから糸状の物が、男の患部目掛けて放射される。血を吹き出させない為だ。

 重力が相似体類の凄まじい跳躍力から二人の自由を奪い返し、地表へと引き戻そうとしている最中、直衛は煽り吹き付ける猛風を受けつつ身体を捻り、中空から街路樹を目掛けて落下して行く。その手には、男の簀巻きも戦利品の如くに掴まれて有る。

 整然と並ぶ街路樹の中で特にこんもりと茂った背の高い樹が、黒衣の影と、その手荷物に突っ込まれる被害に遭った。何をどう身体を動かしたものか、影の主は細い枝葉で傷付く事も無く平然と太い枝に足を掛けている。その金壷眼がやる視線は、郊外の道路、行き交う車の流れへと鋭く投げられてあり。

 流れを見計らったのか、またも黒い影が街路樹の枝葉から弧を描き、高く飛ぶ。ふわりと、音も無く飛翔する様は荷物を伴いながらも幽鬼に似て。それが大量の食料品か生活用品だかを積み込んでいるであろう、10tトラックの鈍く銀色に光る荷台の上に乗り移った。トラックの走行風圧にも小揺るぎもしない。

 簀巻きにされた戦利品、もとい、ポケモンセンターで破壊活動に勤しもうとしていた男は、直衛の足元で疾うに意識を手放し辛い現実から逃亡していた。夢現(ゆめうつつ)の中でバイクを爽快に走らせているかも知れないが、覚めた時が一切の希望を捨てる時とも思える。トラックは、白衣のトレーナーが喋る口を待つ街へとスピードを上げて向かっているのだ。

 直衛が荷台の上で匍匐前進体勢、うつ伏せとなる。(おもむろ)に、自身の腰部をインバネスコートの上から(ねぎら)う様に一撫ですると。

「良くやってくれた」

 受ける凄まじい風圧の中、口にした言葉なぞ誰の耳にも届く筈は無いが、何者かに向けられてかの言葉が直衛の口から発せられた。

 極めて微細に、強風に煽られてでは無く、インバネスコートのケープが内側から蠢く。何者かが労いを受け取ったのだろうか。

 強大な野分の真っ只中を行くかと錯覚する、冷たい荷台の上。直衛は戦利品の簀巻きへと視線をやり。

 十中八九、喋る口を塞ぎたい者が居る。

 喉を振るわせる事無く、口内でのみ呟いた直衛は改めて視線をトラックの進行方向へと直す。

 その表情。荒削りな凶相には、管制された狂気が明確に滲み始めていた。

 

 この後、戦利品となった男は白い糸の簀巻きから解かれ、自らの破壊活動の舞台となる筈だったポケモンセンター併設病院のER、救急救命室へと運び込まれ、当然入院となり。

 そんな凶事は露知らずのカンナと手持ちのニャルマーはと言えば、ニャルマーは診察を嫌々ながらも受け、無事に結膜炎完治の診断が下り。カンナは四つ目のバッジ取得の為に、手持ち達と忙しなくも希望に満ちたトレーニングの日々を送る事となった。

 

    了

 

.

 




 登場人物紹介

 渡良瀬 準 (原作、出典元 はぴねす! はぴねす!りらっくすより、渡良瀬 準)

【挿絵表示】


 恵の手持ちポケモンの一体であり、相似体類の中でも素晴らしく可憐で麗しい姿を誇る、ラルトスの末裔。
 彼の身体と性意識は男性であるが、嗜好として異性装(トランスヴェスタイト)をしている。
 可愛らしいものが大好きで、心を開いた相手に対して抱き付いたり、キスをしたりと行動も女性らしい。
 自身のトレーナーが勤務するポケモンセンターでは、ジョーイ達や警備員、スタッフ、利用者達にも愛嬌を振り撒き人気を博している。
 作中でセンターに向かった理由は、トレーナーさんを迎えに行きつつ、フレンドリーショップのファンシーグッズを眺める為だった。エモンガちゃん、ニャスパーちゃん、あぁあん! 可っ愛いぃ~~っ!!
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