小鳥のさえずりすら聞こえない本当に無音の朝。
こんな異常な世界でも時間は変わらずに流れている。
李が目を覚ますと近くに流川の顔があった。
「よく寝てたみたいだな。」
「もう朝ですか……。」
「まぁ、陽が出ることはないんだけどな。それよりもほら終わったぞ。」
「え?」
手渡された紙の束には李の求めていた情報がぎっしりと書かれていた。
このためにわざわざ危険を冒してまで常夜に来たのだ。
ずっと求めていたもの。
けれど、望んでいたはずのものなのに受け取りたくない。
「これでお別れだ。」
そう、それは“さよなら”を告げるもの。
受け取ることはすなわち別れを意味する。
「あの、私……こっちで暮らすことにします。」
だから、李は苦し紛れの言葉を吐く。
今にもほどけてしまいそうなつながりの糸を繋ぎ止めるような。
「それは無理だ。この宿だって今日の昼には出て行かなきゃならない。」
「別に私はどんなところでも眠れます。毛布がほしいなんて贅沢は言いません
から、地面でも何でも大丈夫です。」
「馬鹿言うな。俺が何のために早く書き上げたと思ってんだよ。静初をさっさ
とこっから帰すためだ。」
そう、流川が最初から言っていたことだ。
流川の考えも変わっているとどこか期待していたのだが、流川の言葉は出会っ
たときから一貫している。
「ですが私は……!」
「静初。」
「っ……。」
「俺たちが会ったのだってただの偶然、一緒に話したのだって長い人生の中で
のほんの一瞬だ。基本普通に生きてれば関わることのない世界だ。今後それこ
そ来ることなんてないだろうし、いっそ悪い夢だったとでも思ってさ。」
「それはできません!」
そんな言い方、結局忘れろと言っているのだ。
自分の考えを変えるような沢山の言葉も。
忘れていた笑みを思い出させてくれた優しい気遣いも。
……初めて感じた不思議な気持ちも。
全てを無かったことにしろと言っている。
「それは……できません……。」
嫌だった。
この世界を忘れても、流川を忘れることだけはしたくなかった。
「ありがとな……俺も少しの間だったけど静初と話して楽しかった。だからこ
そ、こんなところに残ってほしくない。」
「…………はい。」
「そんな顔すんな。俺も近々ここを出るかもしれない。静初の話でかなり興味
も湧いたしな。だから、もしかすると会うことがあるかもしれないな。」
「そうなんですか?」
「ああ、静初もあんま危険なことばっかり頑張るなよ。」
「心配のしすぎです。」
「安全なとこまでは送るからな。」
「すみません。」
そう言って、また昨日のように流川の後についていく。
けれど、その足取りはただ重かった。
「じゃ、ここで本当にさよならだ。」
来るのは分かっていた、その瞬間が。
歩き出したそのときから。
それが今なのだと思い知らされる。
「あの、やっぱり……」
「それじゃ……ほら。」
李の言葉をさえぎるようにそう言って差し出される手。
「別れの握手だ。」
「……はい。」
李も手を伸ばし、ぎゅっと握る。
手が触れている、ただそれだけで温かさを感じる。
まるでつないだところから流川の優しさが流れ込んでくるようだった。
「これからは元の世界で精一杯生きろ。」
「なんですか、急に。」
「お前は危ないことをしすぎだ。」
ほんの数秒の握手が終わる。
離してしまった手にはひどく虚無感だけが残っていた。
「じゃあな。」
「あ……」
李が言葉を返す前に流川は消えるようにいなくなってしまった。
きっといつまでも踏ん切りがつかなかったと思うから。
本当にどれだけの実力を隠し持っているのだろう。
その使い方もどこまでもらしかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
―あの日から数日
李はいまだに暗殺者として、日々を生きていた。
あの仕事に関しては流川のおかげで大成功。
信頼も名誉も落とすことなく、組織の中での地位を確立する結果となった。
しかし、決定的に変わったことがある。
今まで何も考えずに遂行できていた任務の数々が不意に何かおかしなことのよ
うに思ってしまうのだ。
それは出会った男の優しさにあてられたのか。
そういえば仕事はほどほどになんてことも言われた気がする。
とにかく李はこの仕事に価値を見出せなくなっていた。
『次の仕事は九鬼帝の暗殺だ。前回のように思わしい成果を期待しているよ。』
そして、与えられたのがこの仕事だ。
常夜の任務といい、今回のものといい危険度は最高レベル。
出来すぎる者は味方からも警戒されるのだ。
成功すれば僥倖、失敗しても始末の手間が省ける。
明らかに捨て駒のような扱い。
だが、任務の内容に文句を言えるはずもない。
元より仕事を選り好みできるような生温い世界ではないのだ。
当然拒否すれば抹殺されるのみ。
だから今回の任務は李にとってちょうどよかった。
今のまま殺しを延々と続けていても、もう満たされはしない。
他の形での幸せを知ってしまった……教えられたから。
このままでいるくらいなら、せめてこの気持ちを胸に抱えたまま終わりたい。
九鬼といえば強さは有名、そこが自分の死に場所だと。
………
……
…
「なかなかの実力者ではありましたが……」
九鬼帝の移動中、現れた刺客・李静初がクラウディオの前に倒れていた。
そこらの暗殺者にしては相当な実力を持っていた。
だが、どこか冷静さを欠いているような印象があった。
捨て身とでも言えばいいのか……
「惜しい人材でしたね。」
我武者羅な相手に手加減はできない。
少しの油断が主の危険に繋がるからだ。
そのときだった。
突然得体の知れない力が爆発したかと思うと……。
ぼろぼろになった李の体の傷がみるみる回復していく。
「なっ……」
それに一番驚いていたのは李だった。
自分で行使したことではない。
しかし中から紛れもなく溢れ出てくる力。
そこで気づいた。
あのときの握手で感じた不思議な感覚。
そして、そのときに言われた不可解な言葉。
―“精一杯生きろ”
全てがつながった。
常夜から離れたここでも流川に守ってもらったのだ。
また助けられた。
「面白い能力ですね。」
それがクラウディオの目に留まった。
「実力も十分ですし……、どうでしょう?ここは取引でも。」
どの道こんな状況は予測していなかった。
せっかくもらったこの命。
李は生きる道を決めた。