燕は平蜘蛛のスーツに身を包み、前方の建物を見据えていた。
あの世界の九鬼の本部である。
(私は失敗した……)
九鬼紋白から受けた依頼。
川神百代の討伐……武神を試合で負かせてほしいという無理難題。
普通に考えれば不可能だが、だからこそ達成すれば家名が上がる。
そうすれば家を出ていった母親も帰ってくる、そう願って。
けれど、結果は失敗。
川神百代を倒すことは出来なかった。
相手のことを調べ上げて、完璧な作戦を用意して、確実に成功するはずだった。
予定外の失敗は色々な原因が重なったとは思う。
それでもやはり、全ては一人の少年の存在によって……。
「海斗クン……」
燕は海斗が大会に参加した理由がいまいち分かっていなかった。
何より戦いを好む性格ではないし、優勝賞品に貪欲なわけでもない。
けれど、エキシビションマッチで気づいてしまった。
海斗はあの最後の戦いで勝利など目指していなかった。
おそらく海斗を知る者には百代や燕が傷つかないようにしているくらいには見
えているのだろう。
確かにそれももっともだ。
だが、燕だけはもう一つの理由も気づくことができる。
燕は百代を倒すために友達となって近づき、稽古という形で最強の敵の戦闘デ
ータを集めていった。
それを活用して勝利を収めるのは決して正々堂々とは言えない。
世間一般から見れば、卑怯というものだ。
だから、海斗は燕を勝たせるわけにはいかなかった。
燕が百代やファミリーの仲間たちから恨みを買わないようにするために。
結局、過程で何をしようが勝利という結末さえなければ、悪者の烙印は押され
ない。
そもそもは自分たちのチームが優勝し、燕と百代が戦うこと自体をなくそうと
していたのだろう。
軽いおせっかいなんかじゃない。
燕自身が嫌われる覚悟も背負っていることを見越したうえで対処したのだ。
“止めたりしようなんて思わない”なんて言っておきながら……。
陰で誰よりも心配してくれていた。
そっけないふりしながら誰よりも見てくれていて。
告白を断っておきながら誰よりも気遣ってくれていて。
「…………っ」
どうせなら完全に邪魔な存在でいてほしかった。
変に優しいところなんか見せてほしくなかった。
いきなり名前を呼び捨てで呼んでほしくなかった。
さりげなく気に入ったストラップなんてプレゼントしてほしくなかった。
…………私なんかの告白に真剣に向き合ってほしくなかった。
(いつから私はこんな弱くなっちゃたんだろ。)
自分の心も今は他人の物のように制御できない。
乱れきっていて、何もかもがおかしかった。
「だから、今度は絶対に成功させる。」
九鬼本部の中にあるというパンドラメモリ。
世界の機密情報の全てが詰まっているそれを盗み出す。
父親の発明の手助けのために。
家を出ていった母親を呼び戻すために。
そして、海斗にもう一度自分を見てもらうために。
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「静かになったな。」
夜になり見舞いに来ていた一子たちも家に帰った。
さっきまでが嘘のように音もない。
「海斗。」
「……静初、もう面会は終わりのはずだが。」
「ここは九鬼の施設ですから。」
「なるほど。」
「今日はこれを渡しに来ました。頼まれていた松永燕の資料です。」
「おお、もう終わったのか。大会中にこんなの調べさせて悪かったな。」
「造作もありません。」
ぺらぺらとめくり、目を通す。
「やっぱりな……。」
見終えると海斗はベッドから起き上がった。
「今から向かうのですか?」
「……まあな。」
「ですが、私の立場上それを黙認するわけにはいかないのは分かりますよね。」
「しっかり九鬼のメイドってことか。」
「海斗も万全ではありませんし、ここは……っ!」
「ごめんな。」
海斗の手刀で李は倒れてしまう。
止めるということは分かりきっていたことだ。
李の体を持ち上げて、空いたベッドに寝かせてやると海斗は病室を去っていっ
た。
「そういえば言ってませんでしたね。私の特技は死んだふりなんですよ。」
李は気絶していなかった。
海斗がしてくることが分かっていたから、少しポイントをずらせた。
海斗が決めたこと、止めても無駄だ。
「…………海斗は優しすぎます。どうか無事に帰ってきてください。」
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(よし、楽勝っ!)
燕は颯爽と廊下を駆けていた。
事前の入念な調べが活きている。
見張りに気づかれることなく目的の一室へと辿り着いた。
(これがパンドラメモリ……。あとはコピーすれば……)
「やれやれ、誰かと思えば……」
「!?」
気づいたときにはもう逃げ道を塞がれていた。
現れたのはヒュームとクラウディオ。
「まんまとそんなものに釣られてやってきたのがお前とはな。」
「どういうこと?」
「パンドラメモリとは存在しないデータなのです。九鬼家への敵対勢力を炙り
出すデコイにすぎませんから。」
「そんな……!」
「侵入しやすかったろ?甘い甘〜い罠だからな。」
「松永燕様、これより貴方を粛清します。」
「冗談じゃないっ!」
明らかに不利な形勢。
真っ先に逃走を謀ろうとする。
「逃がさんぞ、小娘。」
「く……!」
ヒュームの老人とは思えない速さ。
その蹴りを回避できないことを悟った。
だが……
「……え?」
自分の意思とは関係なく、景色が流れていた。
胸の前で抱えられ、運ばれている……?
その人物はよく知っていた。
「海斗クン……?」
蹴りをかわし、燕を床に下ろす。
「貴様、何故ここに……!」
「……甘い匂いにつられて。」