ヤンデレウィッチーズ   作:きんたろう

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子猫の恋人 (2/2)

「おっきろー!朝だぞー!」

 

 元気な声と、それと一緒に感じる他人の体重。

 反射的に目を開けると、強烈な太陽の光が僕の目を焼いた。

 この時点で僕の脳みそはキャパオーバーで、ほとんど無意識に、寝起き特有のぬぼっとした声を上げ、ブランケットを目深に被り直す。

 

「むーっ。あ!」

 

 そうして、僕が再び眠りに落ちようとしていると、突然右耳に異様な感触を感じる。

 それは、ナメクジが這う様な、くすぐったい感覚で、しかも粘度の高い水音がそのまま聞こえるのだから、たまったものでは無かった。

 

「!?」

「あ、おきた」

 

 結果、僕の脳は速やかに覚醒し、そして体を跳ね起きさせた。

 僕は下手人を探す。案の定それはルッキーニで、チロリと口から舌を覗かせて笑っている。

 どうやら僕は耳を舐めまわされたらしかった。僕は文句を口にするのだが、僕の頭は未だ混乱から抜け出せず、思い切り声が上擦ってしまう。

 

「るるる、ルッキーニ?なに、なに……、何してん?」

「だーってぇ、ミコおきないんだもん」

 

 ルッキーニは悪びれた様子も無く、あっけらかんと言った。

 

「何処でこんなの覚えたの?」

 

 僕はこの基地の情操教育が心配になって、そう質問していた。

 

「えとね、シャーリーがこうすれば皆おきるって……」

 

 ルッキーニは素直に答えてくれたのだが、僕はその内容に頭を抱えた。親指を立て、歯を見せて笑うシャーリーの姿が見えた気がしたのは、気のせいだろうか?

 

「ね、ね。それよりぃ、起きたんだから遊ぼうよ!」

 

 今日は訓練無いんだ~、とルッキーニ。

 僕の返事を待つ事無く、ルッキーニは僕の左手を掴むと、そのまま引っ張っていこうとする。

 まだまだベッドが恋しい僕は抵抗をするのだが、意外なほどルッキーニの力は強く、ずるずると引っ張られていってしまう。

 

「分かった!分かったから!着替えぐらいさせてくれ!」

 

 僕の叫び声は、朝の静かな基地に溶けるように消えていった。

 

 

 

 

「あははは!こっちだよ~ん!」

「まっ、待って……ほんと、待って……」

 

 ルッキーニに連れ出された僕は、滑走路をエリアにして、鬼ごっこに勤しんでいた。

 ……実際の所、ルッキーニが鬼だったのは最初だけで、後は僕がひぃひぃ言いながらルッキーニを追いかけているのが現状であるのだが。

 天気も異様に良く、僕の頭の天辺を焦がす日光も僕の体力を奪う要因だった。

 

「はっ、はぅっ。……もう、むり」

 

 頭が酸欠で朦朧とし、太ももがぱんぱんに張って、足ももう言う事を聞かない。僕はとうとう膝をついて、その場に大の字で寝転んだ。

 

「……」

 

 そのまま呼吸を整えながら、空を見上げると、視界いっぱいに空の青が広がった。

 僕はなんとなしに、昨日シャーリーに言われたことを思い出していた。

 “難しく考えすぎるな”“妹は、絶対見つかる”

 雲一つ見つからない空。こんなにも晴れた空を見ていると、本当にそんな気がしてくるから不思議だ。

 ……もっと気楽でいいのかな?

 

「ミコ、つかれちゃった?」

 

 そんな声が投げられて、僕は上体を起こした。

 いつの間にか傍に居たルッキーニが、少し心配そうに僕を見ている。

 

「……ルッキーニ、ちょっとこっちおいで」

 

 僕はルッキーニを手招きする。ルッキーニは頭の上に“?”の文字を浮かべたが、特に訝しがることも無く、さらに僕の傍に寄ってくる。

 僕は、ルッキーニが射程内に入った所で素早く捕まえると、そのまま膝の上に乗せた。

 

「うにゃ!?」

「あっはっは!つかまえたぞルッキーニ!」

 

 僕は高らかにそう言うと、左手でルッキーニの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。

 ルッキーニは一言「ずるーい」と言ったが、されるがままになっている。そんなルッキーニを猫っぽく感じた僕は、撫でる場所を喉元に変えてみる。

 すると、ルッキーニは気持ちよさそうに目を細め、僕の手を自身の顔に押し付ける様にしてくる。

 本当にゴロゴロと猫が鳴く音が聞こえて来そうな、そんな様子に気が良くなった僕は、ルッキーニを抱えあげて立ち上がると、そのままルッキーニを肩車した。

 

「わー、たっかーい!」

 

 うまくバランスを取る事に成功した僕は、一歩、二歩と歩いてみる。

 ルッキーニは、普段と違った視点に驚いたようで、目を輝かせて、

 

「ミコ、ミコ!今度は向こう行ってみて!」

 

 と、嬉しそうに言った。

 僕はルッキーニが指さした方向に向かって走り始める。

 僕の肩の上ではしゃぐルッキーニを見ていると、“気楽”に生きるのも悪くない、とそんな風に思えた。

 勿論、リスの事を忘れた訳じゃ無い。けれど、分からない先の事を悪く考えて、それで目の前の事も見られなくなってしまうぐらいなら。

 そういう意味での“気楽”なら、上手く飲み込める気がした。

 

「ねぇミコ?」

 

 基地を半周程した頃、ルッキーニが僕の頭を触って、僕を止めさせた。

 

「どうした?」

 

 ルッキーニはその体を前に屈めて、顔を僕と向かい合わせた。ルッキーニの髪が重力に従って垂れ下がり、顔と顔との距離がとても近いのもあって、僕はルッキーニの顔からいつもと違う不思議な雰囲気を感じていた。

 

「ミコの事、お兄ちゃんって呼んでいい?」

 

 ドクリ、と僕の心臓が脈打った。

 ルッキーニが僕の事を兄と呼ぶ。それは衝撃だった。

 勿論、嫌じゃ無い。むしろ、嬉しくさえ思う。だけど、それが問題だった。

 

「……どうして?」

 

 僕はまた、リスの事を忘れてしまうと言う恐怖を思い出して、反射的に否定の言葉を吐きそうになった。それをなんとか寸での所で飲み込んで、代わりに理由を問うた。

 

「私にお兄ちゃんがいたら、ミコが良かったなぁって思って……ダメ?」

 

 ルッキーニは最後、その大きな目を潤ませて、懇願する様に問うてくる。無意識なのか、耳と尻尾がルッキーニから生えてきて、その尻尾が僕の首を撫でた。

 天然なのか、僕はそんなルッキーニの様子に僅かな色気を感じて、狼狽えた。

 ルッキーニは尚も僕を見つめてくる。僕は視線を逸らすことも出来ずにいて、その光景は傍から見ればとても奇妙な物に映っただろう。

 僕の妹はリスただ一人だ。もしルッキーニの言う事を受け入れて、それを違えてしまえば、何か不吉な事になって、僕はもうリスに会えないんじゃないか。

 そんな漠然とした不安が、僕の頭を蝕んでいた。

 

「……っ」

 

 僕はかぶりを振った。

 ダメだ。こんなじゃダメなのだ。さっき僕は、もっと“気楽”であろうって思っていたじゃないか。

 これじゃ、今までと変わらない。また僕がうじうじしているせいで、シャーリーに心配掛けたり、ルッキーニが悲しい顔をするなんて、あっちゃいけない。いつまでも、臆病な甘えん坊ではいけないのだ。

 

「いいとも、勿論!」

 

 僕は努めて明るく、その言葉を絞り出した。

 それを聞いたルッキーニは、光が弾けたみたいな笑顔になって、

 

「やったぁ!おにぃちゃんだーい好き!」

 

 と言った。

 

――お兄ちゃん!大好き!

 

 一瞬、眼に映った幻の光景を、僕は“無視”した。

 僕は照れ隠しに、大げさにルッキーニを背負い直すと、またのんびりと歩き始める。

 

「ふーんふふ~ん」

 

 先程まで普通に喋れていたのに、今は何故だかルッキーニに掛ける言葉が見つからず、暫く黙っていた。そんな僕に気付いた様子もなく、ルッキーニは鼻歌を歌い始めたり、僕の髪の毛を弄り回したりと終始上機嫌だった。

 時折、

 

「お兄ちゃん?」

 

 と僕を呼んでは、僕がなんだと返すと、

 

「呼んでみただけ!えへへ~」

 

 などと言うのだ。

 僕は背中の辺りがむず痒くなってきて、ルッキーニの足を素っ気無く叩くと、姿勢を落としてルッキーニを下ろそうとする。

 そうすると、まだ満足していなかった様子のルッキーニは、ぶうぶうと文句を垂れた。

 

「えぇー、もう終わりぃ?」

 

 終わり、と僕が言うと、うじゅー、と鳴き声を上げるルッキーニ。

 暫くむぅと唸って動かない様子のルッキーニだったが、突然「あ、そうだ!」と声を上げ、僕の背から飛び降りた。

 

「お昼寝!秘密基地に行って、お昼寝しよぅ!」

 

 そう来たか。しかし、昼寝と言うのにはまだ時間は早いし、さっき起こされて、ようやく眠気が取れたと言う所でまた寝ると言うのも、少し勿体ない気がする。それに、起こされた人物にまたすぐ寝ようと言われて、癪に感じている部分も、無きにしも非ずだった。

 そんな風に僕が渋っていると、直ぐにそれを察したらしいルッキーニは「いいでしょ?ねぇー」と子供の様に――実際子供だが――駄々をこね始めた。

 僕はそんな状態のルッキーニを見て、ため息を一つ吐くと、「ちょっとだけだぞ」と言った。

 

「やたー!」

 

 ルッキーニはそれを聞いて目を輝かせ、歓声を上げた。

 尻尾がぴんと立ち、ばんざいをして喜びを表現するルッキーニを見ていると、どうしてか僕まで嬉しい気持ちになっていた。

 今までの所、僕はルッキーニのお願いを断れた試しが無い。ルッキーニを見ているとリスを思い出すから、と言う理由のせいだと思っていたのだが、どうもそれだけでは無さそうだ。

 それに加えて、ルッキーニの方もそれを分かってやっている様な節がある。態度に余裕を感じるし、最近遠慮が無くなって来たのがいい証拠か。

 僕はルッキーニの強かさと言うか、小悪魔的な部分に舌を巻いた。

 ルッキーニは将来きっと“かなり”の女になる。僕はそんな確信を持って、手を引かれるまま、ルッキーニの後を付いて行った。

 

「とうちゃーく!」

 

 ルッキーニに連れられて着いた場所は、隊舎脇の雑木林の一角だった。

 しかし、ルッキーニは“昼寝”と言ったのに、辺りは背の高い木が立ち並ぶだけで、それらしきもの――絨毯とか、小屋とか――が見当たらず、僕は首を傾げた。

 ルッキーニはそんな僕の困惑もお構いなしに、ぴょんと手前の木に張り付くと、するすると器用に登って行った。ルッキーニが木の葉に紛れて見えなくなるのを、僕は唖然として見守る。

 登っておいで、と言う事だろうか。僕は取り敢えず、木の幹に足を引っ掛ける。次いで、枝の付け根に左手を掛け――ここでもう僕は登れなくなってしまった。

 

「むぅ……」

 

 と言うのも、足を引っ掛けた場所が安定しないので、体を上げられず、かと言って、手の力のみで登ると言うのも難しいからだ。

 僕がそうやってまごついていると、がさりと音を立てて、ルッキーニが葉の間から逆さまに体を出した。

 そして、僕を見たルッキーニは「はい!」と言って、僕の前に手を差し出してくる。

 どうやら、この手に掴まれ、と言う事らしい。

 その厚意は有難かった。しかし、ルッキーニの細腕で僕を持ち上げられるのか、と言う不安が、直ぐにその手を掴む事を躊躇わせた。

 

「?」

 

 そんな僕の様子に疑問の表情を浮かべたルッキーニだったが、直後に何かを察したらしく、突然笑顔になって、さらにずいと手を伸ばして来た。

 

「だいじょぶだよ?」

 

 まるで母親が子供を宥める時の様な声色で、ルッキーニは僕に言った。

 僕はそれを聞いて、観念する。手を伸ばすと、ルッキーニの手を掴んだ。

 

「おぉっ?」

 

 ルッキーニの腕は、その小さな手の平からは想像できないほど力強く、しなやかに僕を持ち上げた。

 ……そう言えば、ルッキーニは毎日十何キロもする銃を抱えて飛んでいるのだったな。

 僕は今更ながらそんな事を思い出し、そのままルッキーニの助けを得て木登りに成功する。

 

 木を登った先には、素晴らしい空間が広がっていた。

 葉っぱの緑に囲まれたこの空間は、下から見える事は無いようで、先ほどは見えなかったものが見えた。

 例えば、木の太い枝に掛けられたこの絨毯とか。ルッキーニが持ち込んだのだろう絨毯は、手触りが柔らかく、ふわふわしていて、寝転がればさぞ気持ちが良いだろう。

 上を見ると、葉の間から青い空が見える。そこから日の光が差し込んで来ていて、まだ僅かに残っていた朝露を輝かせていた。

 

「えへへ、いらっしゃ~い」

 

 僕をここに招けた事が嬉しいのだろうか、ルッキーニはこれ以上無いと言う程頬を緩めてそんな事を言った。

 

「ここはとっておきの場所なんだから!」

 

 なるほど、と僕は思う。下からは死角になっている様だし、ここならば、昼寝をしようが何をしようが、それを咎められる事は無いのだろう。

 

「ありがとう、ルッキーニ」

 

 僕はそう言って、木の幹に背を預けると、目を閉じた。

 草や水、太陽の匂い。鳥の鳴き声。ぽかぽかとした気温。時折体を撫でる風。まるでこの空間が総出で僕を昼寝へと誘っている様だった。

 ルッキーニもその雰囲気に当てられた様で、僕にしな垂れかかって来たかと思うと、僕の胸の辺りを枕にする様にうつ伏せになり、直ぐにも寝息を立て始めた。

 

「……」

 

 背中に感じる木の皮の硬さに安心感を得、足を包む毛皮の柔らかさに心を預け、腹の上の体温に思考を溶かしていく。

 すぅ、すぅ、と言うルッキーニの寝息のリズムと共に、一歩一歩意識が体から離れていった。僕は殆ど無意識の内にルッキーニの頭に手を置いていて、その髪の感触を楽しんでいだ。

 心地よい微睡みに身を任せている内、僕はいつの間にか、昼寝と言うには些か深く、眠り込んでいた。

 

 

 

 

 僕が目を覚ましたのは、太陽がかなりその位置を変えてからの事だった。

 寝起きのぼんやりする頭を叱咤して、体をずらし、ルッキーニを起こさない様そっと木を降りる。

 と、そこで僕は驚きの声を上げた。

 

「シャーリー?」

「ん?お、なんだ、ミコも一緒だったのか」

 

 僕達が寝ていた木の下で、タープを敷いたシャーリーが何やら機械弄りをしていたのだ。

 シャーリーはゴーグルを上げ、僕を見ると、手を差し伸べてくる。どうやら木を降りるのを手伝ってくれるらしい。

 

「ほいっ、と」

「ありがとう、シャーリー」

 

 僕はシャーリーに抱かれて地面に降りる。

 

「ルッキーニは?」

「まだぐっすりです。ところで、どうしてこんな所に?」

 

 シャーリーは、下着にシャツを羽織っただけと言う随分ラフな格好だ。見ると、傍の枝に軍服が引っ掛かっている。

 タープの上には、レンチやネジに始まり、僕には用途の分からないものまで、雑多に機械部品が散らばっていた。

 僕はそんな様子を見ても、シャーリーがわざわざここで作業する様な理由を見つける事が出来なかった。ルッキーニが上に居る事は知っている様だけど。

 

「どうして、って。ここは気持ちがいいじゃないか」

 

 シャーリーの返答はとてもシンプルだった。

 それだけ答えると、シャーリーはタープの上の機械たちをざっと隅に寄せ、人がもう一人座れそうな程度のスペースを作った。そして、ぽんぽんとその場所を叩く。

 座れ、と言う事らしい。僕はシャーリーの行動をそう解釈すると、有難くその厚意に甘える事にした。

 

「ミコ、良い事教えてやるよ」

 

 僕が座ると一緒に腰を下ろしたシャーリーが、そんな事を言って来た。

 

「良い事?」

「ああ。今日は日差しがきつくって、暑いだろう?」

 

 はぁ、そうですね、と僕。

 空を見上げると、確かに、僕が眠る前よりも日差しは強くなっているようだった。

 

「今日みたいな日はな、ルッキーニを探すんだ」

「……それはまた、どうして?」

 

 今の僕の顔は、ポカン、とそんな擬音がぴったり合う表情をしている事だろう。そんな僕を見たシャーリーは、にやりと笑って、

 

「この基地じゃ、ここみたいな場所はルッキーニが一番詳しいんだ。ほら、猫みたいなところあるだろ」

 

 僕はなんとなくの納得を得た。

 さっきは意識していなかったが、ここは木の根元でも風通しが良いし、日陰になっていて過ごしやすい。

 成程、ルッキーニが猫みたい、と言うのは、言い得て妙だ。使い魔も猫では無かったっけ?

 ぐぅ、と。そんな事を考えて歩いていた僕の腹の虫が、唐突に鳴き出した。

 

「あ、昼ご飯、喰い損ねたかな……」

 

 太陽の位置や僕の体内時計と相談するに、今の時刻はどう贔屓目をしても、とっくに午後を回っている事だろう。残念ながら、食堂はとっくに閉まっている時間である。

 そう言えば、朝も食べていなかったし、すると今日僕は何も口にしていない事になる。

 

「何だ、腹が減ったのか?」

「ええ、まぁ、はい……」

 

 僕は腹が鳴る音を聞かれた事を恥ずかしく思って、曖昧に返事をした。

 するとシャーリーは、あっはっはと大口を開けて闊達に笑った。

 

「そうかそうか!しようのない奴め!」

 

 明るい語調でそう言ったシャーリーは、傍にあったかばんを手繰り寄せると、中から何やらいい匂いのする箱を取り出した。

 

「おほん!それでは、ここに宮藤謹製のおいしいおいしいお握りが入っています」

 

 欲しい?と、意地悪な笑みを隠そうともせず、シャーリーはそう言った。

 僕は口調に若干の恨めしさを込めて、

 

「まぁ――腹が減っているのも匂いに釣られているのも大変否定しにくくあってしかし明言しかねる所でイエスオアノーと言われた時にイエスと答えるだろう事は可能性として高い事は認める所存です」

「つまり?」

「欲しいです!」

 

 僕明らかにお握りの対価を要求する気のあるシャーリーを警戒して捲し立てるのだけど、結局「欲しい」と言わされてしまう。

 シャーリーからお握りを受け取った僕は、半ば逃避するようにお握りを頬張った。

 僕がお握りを腹に収め、指についた米粒まで食べ終えるのを待ってから、シャーリーは僅かに神妙そうな顔をして、

 

「別に無茶を言うつもりはないよ。そうだな……あ、じゃあ、ミコがルッキーニの事どう思ってるか!聞かせて欲しいな」

「ルッキーニの事?」

 

 僕はオウム返しに問うた。

 

「そうそう!まあ嫌ってんなら、構わないんだけど」

 

 別にその質問に答えるのは吝かではなかったが、どうしてそんな事が気になるのか?僕はその旨をシャーリーに問う。

 

「それはひみつだ!」

 

 堂々と言い放たれてしまう。

 僕は少し、ずるい、と思った。女性にそう言われてしまえば、男としてはそれ以上追及する訳には行かない。

 諦めて、僕は自分の気持ちを話し始める。

 

「不思議な娘だって思いますよ。何故か一緒に居てくれたり、優しくしてくれたり。最初は妹と重なって見えてたんですが」

「最初は?」

「ええ……今じゃあ、自分でも彼女をどう思っているのか」

 

 僕は未だにルッキーニとの明確な“距離感”と言う物を掴めていなかった。

 友人と言うにはまだ近い。兄妹と言うのが一番近い気がするのだが、それでもまだ違和感が残る。僕の方は苗字呼びだし。

 ついさっきの事を思い返すと、最早僕とルッキーニの関係は、よく懐いたペットと飼い主、とまで言えてしまうだろう。

 

「どうしてあの子はあんなに懐いてくれるんですかね?」

 

 僕は語り手の役目を放棄して、シャーリーに質問を投げる。

 僕の質問にシャーリーはうーんと唸ってから、

 

「最初は、年上の世話をするのが楽しくって仕方ないって風だったけど……」

「最初は?」

 

 今度は僕がそのセリフを吐く番だった。

 

「ルッキーニはまだママが恋しいんだ。それと似たようなもんじゃないか?」

「あー……父性を求めてる、って事ですか?」

 

 母性ならシャーリー一人で十分事足りるだろう。間違いなく。

 そんな風に思った僕なのだが、しかし僕の言葉にシャーリーは首肯しない。

 

「きっとそれだけじゃないぞ。なんたってルッキーニは――」

「シャーリー」

 

 シャーリーの言葉を遮る様な声。

 その声に僕とシャーリーは、うお、と驚いた。

 勿論僕が言ったのではない。

 それじゃあ、誰が?

 声がしたのは、僕たちの頭上、さっきまで僕が寝ていた木の上からだった。という事は、ルッキーニの声なのだろう。

 そう思っていると、木の枝葉が揺れ、ルッキーニが降りてきた。

 やっぱり、と思う反面、僕は戸惑いを感じていた。さっきの声は、今思えば間違いなくルッキーニの声だった。

 だと言うのに、どうして“誰の声?”と言う疑問を持ったのか。

 

「なんだ、ルッキーニ。起きてたのか」

「うん!」

 

 ルッキーニの声は、もういつもの調子に戻っていた。

 いつもの調子――そう考えて、はっと気付く。

 さっきのルッキーニの声は、僕がルッキーニと居て、今まで一度も聞いた事が無いような調子だったのだ。

 響くような、いや、押し殺したような。一瞬の激情を抑えて、それでも滲み出てきた感情を含む、そんな声だったのだ。

 じゃあ、ルッキーニは何にそんなに反応したのか?

 

「もぅ、ダメじゃんシャーリー!それはひーみーつー!」

「悪かった、悪かったって。お詫びに後でお菓子あげるからさ!許してくれ、な?」

 

 ルッキーニの声に、朗らかに返すシャーリー。

 どうやら、シャーリーが何かルッキーニの秘密を僕にばらしてしまう所であったらしい。

 しかし、今のルッキーニの怒り方は随分可愛らしい。僕がさっきの声に感じたものは、こんなに大人しいものじゃ無かった。

 

「ほんと!お菓子!?」

「ああほんとさ。この前リーネが作ってた、スターゲイジーパイってのを……どうだ?」

「なにそれ美味しそー!」

 

 シャーリーは何も感じなかったのだろうか。

 そうして僕がシャーリーに視線をやると、丁度シャーリーもこちらを見ていて、目線が絡んだ。

 するとシャーリーは、そのまま僕にぱちりとウインクをした。

 どうやら、さっき僕に話そうとした事は忘れてくれ、と言う意味らしい。

 

「……」

 

 僕は小さく頷く事で了承の意を伝える。

 それと一緒にさっきの疑問も頭から締め出し、僕は二人の会話に交ざる。

 

「星を眺めるパイって、随分かっこいい名前だけど、どんなパイ何だ?」

「それは見てのお楽しみだな……さ!今日のシャーロット機械弄り専門店は閉店だ!ミコ、店じまい手伝ってくれよ」

 

 どっこいせ、と妙な掛け声とともに立ち上がるシャーリー。

 僕はそれに倣うと、片づけを手伝い始める。

 ルッキーニはと言うと、そんな僕達を見て、

 

「ミコとシャーリー、なんか夫婦みたいだね」

 

 そんな事をぼそりと言うのだ。

 全く意識していなかった言葉をぶつけられて、それに僕は慌てに慌てる。

 

「待て待て、誰と誰が夫婦だって!?」

「んーと、シャーリーがマーマで、ミコがパーパ?」

 

 ぐぅ、と変な音が僕の喉から漏れた。

 助けを求めてシャーリーを見るけど、どうしてかシャーリーは照れくさそうにはにかんでいる。

 何だその反応は。

 笑い飛ばしてくれる事を期待していたのに、何だか満更でもなさそうな顔をしているシャーリーを見て、僕はいよいよ自棄になった。

 

「じゃ、ルッキーニは娘だな!」

 

 そう叫んでルッキーニの脇を持ち上げと、そのまま高い高いをする。

 そのままくるくる回ると、ルッキーニはきゃあきゃあと楽しそうに笑った。

 僕もわははと大声で笑うと、そんな様子を見たシャーリーも笑いを零す。

 うん、これじゃ本当に家族みたいだ。

 

 僕は今のこの関係の暖かさに癒しを感じていた。けれど同時に、ここにリスが居ない事に、ぽっかりとした穴の様な感じを見つけて、若干の虚しさも伴っていた。

 

 

 この基地に来てから、4回目の夜が訪れていた。

 僕はもう寝支度を整え、明かりも消してベッドに潜り込んでいたが、目は閉じていなかった。

 気分はクリスマスの夜、サンタの正体を見極めんとする子供と言う所。

 月明かりを見つめ、寝てしまわない様時々自分の頬を抓っていると、窓が僅かにきぃと軋んだ。

 僕はそれに気付くと、一切の不自然な身動きを止め、寝息まで立てて見せる。

 一瞬風が流れ、止まる。窓が開いて、閉まったのだろう。

 すると、みしり、と床が軋む音が、段々と僕の方に近づいて来る。

 その音はとうとう僕の寝るベッドまで到達する。そして、何かがブランケットに触れた感触を得て――

 

「ルッキーニ」

「うにゃ!?」

 

 僕が声を上げると、ルッキーニは飛び上がった。

 案の定、僕の部屋へ侵入したのは、ルッキーニだった。

 

「お、おきてたの?」

「ああ、起きてたぞ」

 

 まだこの基地で過ごした夜は3度しかないが、思い返せばその全部でルッキーニが傍に居る。

 そういう訳で、今夜も来るに違いないと踏んだのだが。

 

「うじゅ、ごめんなさい……」

 

 しゅん、として謝るルッキーニ。

 どうやらルッキーニは、僕が叱る為に待ち構えていたと思っているらしかった。

 しかし僕には別にルッキーニを咎めるつもりは全くなく、むしろ歓迎する心持ちだったので、僕は努めて明るく、

 

「ほら、ルッキーニ」

 

 そう言って、ブランケットを持ち上げて、人一人が入れそうなスペースを作る。

 そんな僕の行動を見たルッキーニは、その大きな目をぱちくりとさせて、疑問を口にする。

 

「怒ってないの?」

 

 勿論、怒ってなどいなかった。ルッキーニの行動は、多分、全部善意から来ていて、しかもとても有難いものだったので、怒る理由など何処にも無いのだ。

 

「怒ってないよ、一緒に寝てくれるんだろ?」

 

 僕がそう言うと、ルッキーニはぱっとその顔に大きな花を咲かせ、僕のベッドに飛び込んできた。僕が拵えた空間に頭から入り、ブランケットの中で体を回して、また頭だけを出すルッキーニ。

 その恰好は、寒い冬にベッドに潜り込む猫そっくりであった。

 僕が左腕を伸ばすと、ルッキーニは自身の頭をそれに乗せたので、腕枕が出来上がる。

 

「髪、解かなくていいの?」

「ん~……解いて、おにいちゃん」

 

 甘えるように言うルッキーニ。喋る息が腕に当たって、くすぐったかった。

 僕は左腕をなんとか曲げて、ルッキーニの髪留めを取る。すると、結われていたルッキーニの髪が重力に従って、水が流れるように垂れた。

 

「なぁ、ルッキーニ……」

「なぁに?」

 

 ルッキーニの口が開かれ、息が漏れる。湿り気を伴ったそれは、まだ小さな、ピンクの唇を僅かに濡らして行く。その開かれた口の中に一瞬、てらりと光る舌を見つけて、それが嫌に艶っぽく映って、僕はドキリとする。

 

「あ、いや……何でもない……」

「もぅ、なにそれー」

 

 ぶー、とルッキーニは唇を尖らせる。

 その様子が子供っぽく、年相応の物だったので、僕はそっと胸を撫で下ろした。

 

「悪かった。もう寝よう」

 

 僕は会話を一方的に打ち切る。

 今晩の僕は、なんだか変だ。ルッキーニから目を離せない。これ以上こうしていれば、どうにか為ってしまいそうだ。

 

「……ね、おにいちゃん」

「……どうした?」

 

 そんな僕の気持ちなど、ルッキーニが知るはずも無く。

 僕は、この会話で最後にして、後は狸寝入りする決意を固める。

 

「もう、悲しくない?」

 

 ところが、ルッキーニの質問は、とても曖昧なものだった。僕はその意味をくみ取る事が出来ず、質問を質問で返す。

 

「えと、何が?」

「知らない。でも、ここに来てずっと悲しそうだったから」

 

 僕は覚えず自分の顔を触っていた。自分の表情の具合など、意識してはいなかったけど、言われてしまう程露骨であった覚えは無かった。

 しかし、そんな事は無い……とは言い切れなかった。そう言えば、シャーリーにも同じような事を言われた記憶がある。

 

「ねぇ、もう、悲しくない?」

 

 ルッキーニは同じ質問を繰り返したが、さっきと違って、その語勢は何処か懇願する様であった。多分、ルッキーニは、僕から「もう悲しくない」と聞きたいのだ。

 そう考えた時、僕の中である事がストンと腑に落ちた。

 それは、ルッキーニのこれまでの行動の理由。どうして僕に構うのか、と言う疑問の答え。

 つまりそれは、多分、僕を元気付けるためで……。

 

「大丈夫。悲しくなんて無いって」

「ほんとう?」

「ああ」

 

 この基地に来てから色んな事があった。そのせいで、正直僕は今の自分の気持ちと言うものを分からないでいる。

 そんな状態ではあったが、僕はルッキーニを安心させるため、口から滑り出すままに言葉を吐き出していた。

 

「うそ。おにいちゃん嘘ついてる。だって、今も悲しそうだよ?」

 

 ルッキーニはそう言うと、僕の頭を両の手で優しく包むようにする。そして、そのまま顔を近づけてきたかと思うと、こつんとお互いのおでこを触れ合わせた。

 僕は慌てた。

 こんなに他人と近づいた事は今までの人生で無かった事だ。頬と額とに感じる熱が、僕の脳を侵していくような、そんな不思議な感覚を僕は味わった。

 とうとうルッキーニはお互いの鼻の頭さえくっつけて、言った。

 

「寂しいなら、わたしがリスの代わりになる。わたしが妹になってあげる。だから……」

 

 僕はルッキーニの瞳を眺める。虹彩が暗闇で広がっているみたいで、そのまま吸い込まれて、落ちてしまいそうな。しかし、その瞳は今、僅かに悲しそうに歪んでいた。

 ――どうして、ルッキーニがそんな顔をするんだ?

 リスの代わり。少し前の僕なら激昂していたただろう言葉。しかし僕の胸を満たしたのは怒りでなく、困惑だった。

 どうして、それだけの理由で他人に優しくできる?どうして、リスの代わりなんて……

 僕がルッキーニにリスの代わりを求めていた、何て事は無い筈だ。僕が、リスを諦めて、それで誰かに癒して欲しくて、代わりを探していた?

――そんな筈、無い!

 

「……ありがとう、嬉しいよ、ルッキーニ」

 

 僕は激流の様に沸き上がった疑問を喉元で飲み込んで、代わりに曖昧な礼の言葉を口に出した。

 そうして、体を捻って、ルッキーニから顔を離す。

 

「あっ……」

 

 すると、ルッキーニの表情がまた歪んで、それに僕の胸は引っ掻かれた。

 けれど、僕はルッキーニの言葉に頷く事は出来なかった。そうすれば、僕がリスの事を諦めてしまっていると、認めてしまう気がしたからで。そうすれば、僕が自分の弱さを認めてしまう事になる気がしたからだ。

 

「……おにいちゃん?」

 

 恐る恐ると言った様子で僕を呼ぶルッキーニ。

 しかし、僕はそれに答えず、寝た振りを決め込む。ルッキーニの息遣い、体温、衣擦れ、それら全部を無視して、意識を泥沼に沈める。

 時折探る様に僕を揺すっていた手もやがて動かなくなり、寝息が聞こえてくる。

 僕はそれを確認すると、こっそりとベッドを出、部屋を抜け出して、談話室のソファに横になった。

 しかし、柔らかい生地に身を任せていても、どうにも気持ちが良くなかった。

 やっと浅い眠りに落ちる事が出来たのも明け方で、僕は起床ラッパに叩き起こされるまで、夢の中の輝く時間を楽しむのだった。

 

 

 走る。廊下をひた走る。

 敷かれた絨毯の感触は普段は心地いいものだったが、走るにはバランスが取りにくく、今ばかりは鬱陶しく感じてしまう。

 吐く息が熱く、動悸が激しい。しかしそれは、今走っている事が原因では無かった。

 “リスが見つかった”

 その知らせが起き抜けの僕に飛び込んできたのだ。

 嬉しさと、不安と、悔しさとがないまぜになって、僕の心で吹き溜まりになっている。それが僕が落ち着けない原因だった。

 

 医務室の扉を蹴り開け――ようとして、思い直し、そっとノブを回す。

 数日前僕が世話になっていた、白い部屋が僕を迎えた。

 部屋の奥、カーテンに仕切られたスペースに、複数の人の気配が蠢いている。

 

「……」

 

 そっとカーテンを引き開ける。

 そこには、二人の医師と、ベッドで眠る少女の姿があった。

 その少女、くすんだ黄金色の髪に、内に露を宿した細いまつ毛、そして今は閉じられている、掘りの深い目。その少女は間違いなくリスだった。

 けれど、白かった肌は焼けてしまっていたし、頬も随分こけていて、その口には呼吸器が取り付けてあった。

 

「……リス?」

 

 僕は自分でも驚くほど小さな声で、リスを呼んでいた。もっと取り乱して、喚き散らしてしまうかも、なんて風に思っていたのに。

 リスの状態は、とても無事と言えるものでは無かった。

 この光景は確かに僕に衝撃を与えているのに、嗚咽の一つも出てこない。僕はこんなに薄情な奴だったのか?……いや、きっと、その衝撃が大きすぎるせいなのだ。きっと。

 ふらふらとリスに近付いて、ゆらりと手を伸ばす。すると、一人の医師に見咎められ、部屋の外に連れ出される。

 

 重度の栄養失調と、日射病などの併発。死ぬ前に見つける事が出来たのも、今生きているのも、奇跡だと。

 それが医師が僕に告げた事実だった。

 

「……おぇっ」

 

 激しい嘔吐感が唐突に僕を襲い、気付けば僕は吐いていた。

 透明な、ねばねばとした胃液だけが、喉がえづく度に込み上げる。無理やりに喉に指を突っ込み、喉の物を全て出してしまうと、それは治まった。ぶらぶらと揺れる右袖が、胃液で汚れてしまっていたが、僕にそれを気にする余裕は無かった。

 医師が心配の声を上げたが、僕は手を持ち上げてそれを制すると、また医務室へ入る。

 水場で口を濯ぐと、吐瀉物の始末を医師に頼んで、今度こそリスの傍に立った。

 左腕でそっとリスの手を握ると、そこに確かな体温を感じて、僕はその手に頬を寄せた。

 

「ごめん、ごめんなさい」

 

 見つけてあげられなくて、ごめんなさい。助けてあげられなくて、ごめんなさい。何もしてやれなくて、ごめんなさい。一人で放り出して、ごめんなさい――許して欲しい。

 僕と言う人間は、事ここに至ってやっと涙を流すことが出来ていた。それに少し安心した僕は、医師にリスの介護を申し出た。

 そうすれば、せめてもの罪滅ぼしになるし、このどうしようもない無力感も、きっとましになる。

 命が消える。

 例えば、点滴の絞りをちょっと捻るだけで、リスは死んでしまう。その儚さが、零れていく命を強く実感させて、僕に何もしないでいる事を許さなかったのだ。

 僕はとうとう、まるで欲しい物を強請って喚く子供の様に、泣いた。

 

 

 ルッキーニは、そんな有様のミコを扉の隙間からそっと見ていた。

 いつの間にかベッドから消えていたミコを探して、やっと見つけたかと思えば、彼は実の妹に縋りついて咽び泣いている。

 ミコの妹、リスが見つかった。それはルッキーニにとっても、とても嬉しい事だった。

 これでもう、ミコは悲しまない。そう、ルッキーニは考えていたからだ。

 

「どうして、泣いてるの?」

 

 ぽそりと、そんな言葉がルッキーニの口から漏れた。

 そうは言うものの、ルッキーニは勿論、誰かが傷つく事が悲しい事だとは理解していたし、実際リスの状態に心を痛めてもいた。

 しかし、ルッキーニの心に生まれたある棘が、そんな思考にさえ干渉し、混乱を引き起こしていた。

 それは詰まる所、嫉妬だった。

 兄と慕う者が、取られる。そんな、おもちゃを独り占めしたがる子供の様な感情。

 

「変だよ……」

 

 その感情が筋違いで、滅茶苦茶なものだと言う事は、ルッキーニ当人も分かっていた。

 しかし、もしリスでなく、わたしが傷ついていたら、ミコはああも取り乱してくれるだろうか?そんな想像がルッキーニの心を掻き乱し、平静ではなくさせていた。

 口から漏れる呼吸が段々と変則的になって、熱く、荒くなっていく。

 

「……っ!」

 

 ミコを見つめている事すら苦痛になって、とうとうルッキーニはその場から駆け出した。目的地がある訳では無い、ただの逃避で、目を瞑ってがむしゃらに足を動かす。

 そんな風に走るものだから、ルッキーニは自分の前方の人影に気付かず、そのままぶつかってしまう。

 

「おわっ、ルッキーニ!?」

 

 わぷ、と。

 ルッキーニの体が柔らかい感触に包まれた。

 

「あ、シャーリー……」

「あ、じゃないって。どうしたんだ?」

 

 走るルッキーニをその胸で受け止めたのは、シャーリーだった。

 廊下で転げた様な姿勢になりながらも、シャーリーは尋常ではない様子のルッキーニを心配し、声を掛ける。

 

「なんっ……何でもないよ!あはは……」

 

 誤魔化す様に言って、はにかみ、そのままシャーリーの胸に顔をうずめるルッキーニ。

 シャーリーはそんなルッキーニの頭に手を置くと、

 

「何でも無い事無いだろう?言ってみな、ルッキーニ」

 

 と言った。

 マーマみたい。シャーリーの言葉を聞いたルッキーニは、故郷の母を思い出し、そんな感想を抱いた。母も、こうやって自分を胸に抱いて、頭を撫でてくれた、と。

 じわり、とルッキーニの目尻から涙が溢れ出す。それを悟られるのを嫌がって、ルッキーニはさらに強くシャーリーを抱きしめた。

 

「……あのね?」

「うん」

 

 姿勢を変えないまま喋るので、声が籠って聞こえた。

 喋る息が直に胸をくすぐるのを、シャーリーは僅かに恥ずかしく感じて、身動ぎをする。

 

「お兄ちゃんが、居なくなっちゃう。お兄ちゃんじゃ、無くなっちゃうの」

「お兄ちゃんって……ミコの事か。ははあ」

 

 ふむ、とシャーリーは考える。

 ミコの妹が見つかった事は、もう聞いている。ならば、その妹との間に何かあったのか、はたまた、単に寂しいだけか。……そもそも、どうしてルッキーニはミコを“お兄ちゃん”と呼んでいるのだろう。ルッキーニは、ミコの妹に成りたかったのか?――それは違う気がする。

 考えを纏めたシャーリーは口を開き、

 

「ルッキーニは、ミコとどうしたいんだ?」

「どう、って」

 

 ルッキーニは鼻声でしゃくり上げながらも、迷わず返事をする。

 

「そんなの、一緒に居たいに決まってるよ……」

 

 そうかそうか、とシャーリー。

 

「昨日、おにいちゃんちょっと怖かったの。怒らせちゃったかも、嫌われちゃったかもしれないの」

 

 きっとそんな事は無い、とシャーリー。

 シャーリーはまだ知らなかった。リスの状態と、ルッキーニの、自身でさえ気付いていない独占欲の強さを。

 

「嫌だ、嫌だよ」

「……」

 

 胸の内の泥を吐き出していくルッキーニ。その様は、まるきり母に泣きつく子供の様だった。

 ――だが、何も悪い事じゃない。

 シャーリーは思う。ルッキーニはまだ12歳なのだ。こうして人間関係に苦しんで、苦悩する様は、微笑ましいぐらいじゃないか。ルッキーニがミコに抱く感情。それはきっと恋だ。庇護対象だった人物に父性を期待し、兄と慕い、恋をする。中々にロマンチックだ。ちょっと羨ましい、とまで。

 ならば、とシャーリーは考える。

 

「別にさ、一緒に居たいってんなら、妹に拘んなくてもいいんじゃないか?」

「……え?」

 

 予想だにしなかった言葉を掛けられ、ぱっと顔を上げ、目をぱちくりさせるルッキーニ。

 

「色々あるだろ?ほら……例えば、恋人、とか」

「こい、びと」

 

 その言葉を口に含み、咀嚼し、ゆっくりと嚥下する。するとそれはルッキーニの血に溶け、体の一部となり、最後に脳に染み渡った。

 

「おにいちゃん、ううん、ミコが。恋人」

 

 ルッキーニは漠然としかその意味を知らない。けれど、自分とミコが、恋人らしい事――手を繋いだり、キスをしたり――をすると想像すると、心臓の辺りが熱くなり、眩暈を起こす様な、そんな陶酔した感覚を得ていた。

 

「ありがとシャーリー!」

 

 ぐしぐしと目尻を拭い、そう言って弾かれたように立ち上がるルッキーニ。

 あっという間にいつも通りになったルッキーニに、シャーリーはその口調に若干の呆れを載せて、

 

「元気になったみたいで良かったよ。ただ、ミコの事も気遣ってやれよー?」

 

 シャーリーの言に、ルッキーニは分かったのか分かっていないのか、「うん!」と返事をする。

 

「今は兄妹の時間だもんね!わたしは、その後!」

「そうだな。……それじゃあ、私は二人を見舞ってくるよ」

 

 シャーリーは立ち上がると、体についた埃を払い、大きく伸びをする。ルッキーニを見ると、まだシャーリーの方を向いてニコニコ笑っていた。

 その真っ直ぐさと言うか、純粋さをシャーリーは羨ましく思った。

 

「……ま、しゃーないか」

「なーに?」

「んにゃ、何でもない」

 

 もうきっと、ミコを支える役目はルッキーニの物だから。

 その言葉はとうとう口から放たれる事は無く、シャーリーの中に消えた。

 

 

 

 

 リスが見つかったのは早朝だったが、ミコにとっては長く、ルッキーニにとってはあっと言う間に時は流れ、夜の時間が訪れていた。

 ルッキーニはミコの元へとその歩を向けていた。その足取りは軽く、ステップを踏んでいる様に見えるほど楽しげだ。

 ミコは結局片時もリスの傍を離れる事は無かった。今もリスが眠るベッドの横に居る事だろう。だからルッキーニが向かう先も、今朝と同じ医務室だ。

 当直の医師が眠る部屋の前をそっと通り過ぎ、医務室の扉を静かに開ける。

 すると、ルッキーニの目に、ベッドに突っ伏して眠るミコの姿が映り込んだ。

 

「あはっ」

 

 そんな声が覚えず口から漏れ、ルッキーニは慌てて口元を抑えた。

 足音に気を付け、そろりと近づいて行く。

 ミコの横に立ったルッキーニは、まず、何も掛けないで寝ているミコにブランケットを被せた。

 そうして、そっとミコの髪を撫でるルッキーニ。その髪は少しべたついていて、シャワーも浴びていないのだろう。

 ミコを仔細に見れば、その顔にはくっきりと涙の痕が残ってしまっているし、手もひび割れてしまっていて、何度も水を汲みかえていたのだろう事が察せた。

 

「あ……」

 

 そして今、ルッキーニが見ている前で、新たにミコの目から一滴雫が零れ、頬を伝い、シーツに染みを作った。

 ルッキーニはその涙の痕を指で拭ってやると、次にその視点をリスへと移す。

 助けたばかりのミコの様に弱々しく、命の息吹を感じる事が出来ず、その傷ついた姿にルッキーニは悲しい気持ちになった。

 ミコと共に眠る様は、眠り姫と呼ぶにはあまりに痛々しく、また、その眠りはあまりに悲しかった。

 ルッキーニは、リスの髪も撫で始める。

 

「ほんとに兄妹なんだね」

 

 その髪の色や感触、目鼻立ち、雰囲気まで似ている事が、二人一緒に見ればすぐに分かった。

 その事を一瞬羨ましく思ったルッキーニは、頭をぶんぶんと振ってその思考を掻き消す。

 

「わたしは、ミコの妹じゃないの」

 

 それは決意の言葉だった。言って、ルッキーニはミコの頬にキスを落とす。

 

「決めたんだ。ミコの、恋人になる」

 

 それは覚悟の言葉だった。言って、ルッキーニはリスの額にキスを落とす。

 

「もう、兄妹の時間は終わり」

 

 だから、ごめんね。

 そう言って、ルッキーニはもう一度リスの額にキスをして――

 

「おやすみなさい。ミコ、リス」

 

 穏やかに告げると、部屋を後にする。

 ぱたりと扉が閉じられた時、ベッドの上のミコの手が、何かに引かれる様にずり落ち、だらりと垂れ下がった。

 

 

 どうして?と自問する。

 僕が無力だったから。――そんな事は分かってる。でも、じゃあ、これは僕のせいなのか?

 そんな事無い、と僕の中のシャーリーの声が聞こえる。

 誰も悪くない、と自分の中の自分が答える。でも、じゃあどうしてこんな事に?決まっていた事なのか?こうなる事は運命だったとでも言うのか?

 そんなふざけた話が有っていいのか?夢だ、全ては夢だ。覚める夢なら覚めてくれ。覚めない悪夢なら消えてくれ!

 どうして、どうしてだ?どうして僕が生きていて――

 ――リスが死んでしまうんだ。

 

 

 冷たくなった手を強く握る。そうすれば僕の熱が伝わって、リスの鼓動も帰ってくる気がするのだ。

 指を解して、絡ませてみる。

 この時、棺に溢れた花々の匂いが僕の鼻をくすぐったが、僕は兎に角リスを見つめ、それ以外の情報を頭から締め出した。

 リスの顔をなぞる。

 冷たい。

 もうこの口が開かれる事は無いし、まして言葉を紡ぐことも無い。瞼も固く閉じられて、そこに僕は死者の放つ恐ろしい雰囲気を感じ取った。

 僕の指にそって、エンバーミングが僅かに崩れてしまう。それに気付いた僕は、それ以上を恐れて手を離してしまった。

 

「お兄さん、そろそろ……」

 

 ミーナ中佐が僕に声を掛ける。

 僕は頷く事でそれに答えると、棺の蓋を閉め、小窓も閉じてしまう。

 

「本当に、火葬で良かったのね?」

 

 最後の確認と言うように、ミーナ中佐が問うてきた。僕はそれに無言で肯定の意を伝える。

 もうここにリスの魂は無い。そんな事分かってる。これからリスの体は焼かれて、骨になる。そしてその骨を抱えて、僕はいつかガリアの土にそれを埋める事が出来る日を待つのだ。

 それが、これからの僕が生きていく理由だ。

 

 涙は昨日で全部流れてしまったらしく、もうこれ限りだと言うのに、僕の顔は醜く歪むだけだった。

 

「ごめん、リス」

 

 僕のその声を合図に、リスだったモノが入った棺が運ばれていく。

 ミーナ中佐は親切な人だった。僕の渡した情報を口実に、リスの通夜と葬儀を基地の負担で行ってくれたのだ。

 僕の周りには、僕が基地で仲良くなった人物も参列してくれていたが、みな気を使っているのか、僕に声を掛けてくる人は居なかった。

 僕にとってもそれは有難かった。何を言われても、上手く答える事が出来ないだろうし。

 もう僕はリスと話すことも、水切りで遊ぶことも、高い高いをすることも、一緒に昼寝をすることも出来ない。そう考えると、僕は僕と言う人間がペンキを塗りたくられて真っ白になっていく様な感覚を味わった。それは、虚無感だった。

 リスの存在は僕の生きる理由だった。それが失われた今、僕は死ぬしかないかもしれない。

 そんな短絡的な思考を許してしまいそうになるぐらいには、僕の精神は参っているらしかった。

 

「……おにいちゃん、大丈夫?」

 

 僕の裾がくいと引かれると共に、そんな声が僕に掛けられる。

 見ると、黒い服を着たルッキーニが上目遣いに僕を見ていた。

 大丈夫、と答えるのは簡単だった。けれど、僕はそれだけの声を出すのさえ億劫で、代わりにしゃがみ込んでルッキーニの頭を撫でた。

 すると、ルッキーニは顔をくしゃりと歪めると、僕に飛びついてぐずぐずと泣き始めたので、僕は慌てた。

 

「おい、おい。何で泣くんだよ」

「だって、だってぇ……」

 

 僕はルッキーニの背中をさすり上げるが、それでも泣き止む気配が無く、僕は始末に困ってただおろおろしていた。

 

 

 

 

 

「もう行っちまうのか?」

 

 片手で四苦八苦しながら車両に荷物を積み込み、いよいよ発進である、と言う所で、まるでこの基地に来た時の様に、シャーリーが僕の背後から声を掛けてきた。

 

「ええ、もうここに居る意味もありませんから」

 

 葬式も恙なく終えた今、とうとうこの基地に居る理由も無くなったのだ。

 そいつは残念、とお道化る様に言うシャーリー。

 

「私のソードフィッシュに一回くらい乗っけてやりたかったんだけどな」

「勘弁して下さい。貴女の運転の荒さは評判になってるらしいじゃないですか」

「おいおい、そりゃ風評被害って奴だ!」

 

 ハハハハ、と笑い合う。シャーリーの調子はいつも通りで、そんな様子に僕はなんとなく安心感を得るのだった。

 リスの死は、ウィッチ隊にも暗い陰を落としていたと聞いていたが、この調子なら問題は無いかもしれない。

 リスが居なくなってから、もう3日が経っていた。短いようで長かった3日だった。僕が基地に来た日数を足しても、ようやく一週間と言う所だろう。

 たった一週間。されど一週間。僕を構成するもの全部が変わった一週間だった。

 

「ルッキーニには、別れは言ったのか?」

「あー……」

 

 まだだった。

 僕は結局、ルッキーニとの距離感の線引きと言うものを出来ていなかった。下手をすると、僕がルッキーニに依存してしまいそうで怖かったのだ。それはリスの代わりを求めると言うより、パートナーとしての役割を求めての物で、12歳の少女にそんな感情を向けているなんて事は、率直に言って恥ずべき事だろう。

 故に、別れを告げる事も後に後にとしていたら、もう出発である。

 

「何だ、まだだったのか」

「ええ、ちょっと……」

 

 僕は返答に窮して、答えあぐねた。

 別に意地悪と言う訳でも、嫌だと言う訳でも無いのに、行く気が出ないのだ。それをうまく言葉にする事が出来ないし、そもそも、それを口にする気が無かった。

 僕は作業を続ける事で、誤魔化したことを誤魔化した。

 

「なぁ……お前、もしかして、死のうなんて――」

「え?」

「あ……いや、何でもない」

 

 珍しくぼそぼそと喋るシャーリーだったが、その内容は聞こえていた。

 僕は聞こえなかった振りをすることで言葉を遮るのだった。

 ――死ぬ、か。

 考えなかった訳じゃ無い。むしろ、リスが冷たくなって直ぐは、僕は重石を用意したり、頑丈なロープを用意したりと大いに取り乱していた。

 けれど、幸か不幸か、その全ての試みは失敗に終わっていた。ロープはいつのまにかずたずたに千切れていたし、重石はどろどろに融けてしまっていたからだ。

 多分、ルッキーニの仕業だろう。

 死ぬ事は無かった。そして、死ぬ気力も、生きる気力も失った僕と言う抜け殻が一つ残ったのだ。

 

「あー、これは宮藤に聞いた話なんだけど」

 

 宮藤。その名前は確か、僕とリスを治療してくれたウィッチの名だったか。

 

「生まれ変わりっつってな。死んだ人間はその親しかった人の兄妹とか、子供に生まれてくるらしいんだ」

 

 シャーリーは自身の頭をぐしゃぐしゃと掻いて、喋り難そうに喋る。

 

「つまりだな、何を言いたいかって言うと……」

 

 なんとなく、僕はこの後の流れを察して、一歩後退った。

 そうして出来たたった数十センチの距離は、しかし端的に僕の拒絶の意を示していた。

 

「……っ」

 

 シャーリーが息を呑み、酷く傷ついた表情を作った。

 その表情に、僕は一瞬胸の内をガスバーナーで炙られる様な痛みを感じたが、次の瞬間にはその痛みさえ霧散していた。

 いつか僕が望んだ、傷つかない心。いつの間にやら手に入れていたそれは、僕が想像していた程素晴らしい物では無かった。

 

「それじゃ、そろそろ失礼します」

 

 荷物を積み終えた僕は、車のバックドアを閉じ、運転席に乗り込むと、エンジンを掛ける。

 車には片手でも運転が行えるよう、ハンドルにグリップを装着するなど、いくつかの改造が施してあった。

 シートから体に僅かな振動が伝わってくる。

 

「……」

 

 緩やかに車を進ませる。どうせ駅に着けば返却する物だし、のんびり行くとする。

 ちらり、とミラーを見ると、まだシャーリーがじっとこちらを見ていて、その有様が何処か侘しそうな物だったので、僕は別れの挨拶代わりに窓から手を振った。

 一瞬手放し運転になってしまって、直後ガタリと車が揺れたので、慌てて立て直す。

 そうして、ふぅ、とため息を吐く僕に、シャーリーの大声が届いた。

 

「ミコーっ!いつでもまた会いに来てくれよー!!」

 

 ミラーには、手をラッパの形にして前のめりに叫ぶシャーリーが映っていた。

 

「あと!いつまで敬語なんだよ!この野郎ー!!」

 

 やがてその姿も見えなくなると、僕はもう一度ため息を吐いて、シートに深く体を預けた。

 段々と潮の匂いが遠ざかり、代わりに冷たい露の匂いや緑の植物の匂いが僕の鼻をくすぐった。

 森が近付いているのだ。

 慣れない運転に早くも疲れを感じていた僕は、その匂いに釣られて路肩に車を止め、肺いっぱいに深呼吸をした。

 そのまま車から出ると、今度はさっきは感じなかった腐った木や苔、土の匂いが強烈に僕の鼻を侵し、僕は思わず咽ていた。

 

「まったく、もうちょっと歓迎してくれても……」

 

 そんな愚痴が零れる。

 車に寄りかかって水筒を開け、一息に呷ると匂いは多少ましになっていた。

 しかし、それでも僕の鼻は刺激臭に疲れを感じていたし、周りを飛び回る虫が段々と鬱陶しくなり、しまいには木々の間を抜けていく風の音さえ不快に思って、僕はすぐに車に戻った。

 そうして僕が座席に座った、その時だ。

 

「ミーコっ」

 

 そんな声と一緒に、僕の視界の左右から腕が伸びて来て、僕の目を覆ったのだ。

 この時僕の卑小な肝玉は縮み上がり、驚きで息さえ出来ず、叫び出す事が無かったのは僥倖と言う他なかった。

 

「だーれだ?」

 

 しかし、直後に続いたその声は、激しく暴れ、脈打っていた心臓を一気に冷えさせた。

 

「……リス?」

「ぶっぶー!」

 

 僕が神に祈る様に絞り出した願いは、しかしあっさりと否定されてしまう。

 それと同時に目隠しは解かれたので、僕は下手人の正体を直ぐに知る事になる。

 

「ルッキーニ……」

 

 何でいるんだ。そう続けようとして、しかしそれより先にルッキーニが、

 

「フランカ!」

「え?」

「フランカって呼んで!ね、いいでしょ?」

 

 僕は戸惑った。

 どうしてここに居るのかとか、突然なんだとかの疑問が僕の頭をぐるぐる渦巻いて、言葉にならない。

 そうしている間に、ルッキーニは後部座席から身を躍らせ、止める間もなく僕の膝の上に収まった。しかも、向かい合う形で。

 

「ね、お願い」

「あ、ああ」

 

 僕は取り敢えずの肯定の返事をしていた。

 しかし、ルッキーニはまるで女性が恋人からキスされるのを待つみたいに、僕の両肩に手を置いてじっと僕を見つめるだけで、何も言わないのだ。

 僕は一瞬の思考の後、ルッキーニが求めている物に気付いて、

 

「ふ、フランカ?」

「うん!なぁに?」

 

 そう言うとルッキーニは笑ったが、対照的に僕はこの状況に不気味さを感じ始めて、ひくついた笑いを顔に張り付けた。

 

「どうして、ここに居るんだ?」

「えー?だぁってミコ、私に何も言わずに行っちゃうんだもん」

「う、そ、それは悪かったよ」

 

 でも、だからってずっと車の後部座席に隠れていたのか?もっと他にやりようが無かったのだろうか。

 

「んー……お願い聞いてくれるならっ、許してあげる!」

「分かったよ。何でも言ってみな」

 

 この時僕の思考は、どうやってルッキーニを基地に返すかに向けられていて、自分が相当な事を安請け合いしようとしている事に気付いていなかった。

 

「何でも!?じゃあね、じゃあね、これからも、私に会いに来て欲しいな」

「ああ、分かった」

 

 とは言うものの、これからの自分の未来も分からないのに、そんな事が確約できる筈が無かった。

 だと言うのにあっさりと嘘を吐けてしまったのは、僕の中にもうここに来る事は無いだろうと言う確信があって、この嘘が咎められる事は無いだろうと言う打算があったからだ。

 

「約束だよ?」

「ああ」

「来てくれなかったら、私が行くからね?」

「うん」

 

 訪ねる理由が無いのだ。情報料として貰えるはずだった給金も葬儀代で消えてしまったし、仕事も無いと来れば、軍事施設においそれと足を踏み入れる訳にもいかない。

 そんな機微をルッキーニに分かって貰おうとも思わないので、この場は適当に逃れるしかないだろう。

 恋人でも居れば、話は別なんだろうけど。

 

「やった!それじゃあね、もう一つ!目、瞑って?」

 

 言われた通りに目を閉じる。

 すると、視界が閉じられた事で、他の五感が研ぎ澄まされ、さっきまで意識していなかったあらゆる事が脳に情報として送られてくる。

 例えば、匂い。不快な腐臭はいつの間にか消え失せて、今はお互いの息や汗の匂いが車内に満ちている。例えば、触覚。狭い空間に無理やりに体を詰めているせいで、お互いの体が強く押し付けられて、なんだか恥ずかしい。肩に感じる手の力も、腹に感じる温かさも、太ももに掛かる体重も、唇に感じる柔らかさも――

 あれ、唇?

 僕は目を開けた。

 

「――!?」

 

 僕の顔とゼロ距離に、ルッキーニの顔があった。

 唇が触れ合っていて、キスをしているのだと、直後に理解する。

 だと言うのにルッキーニの目は開かれていて、その虹彩の模様まで見て取れる。

 ほとんど反射的に、僕はルッキーニを引き剥がそうとしていた。

 

「ぁ、ダメ」

 

 その試みは、途中ルッキーニの力が急に強くなり、逆に僕が抑え付けられてしまうことで失敗に終わる。

 しかも、口が合わさったままで喋られたものだから、ルッキーニの息が僕の肺にまで届いて、その退廃的な体感に危うく失神しそうになる。

 そこで僕は初めて自分が息を止めていたらしい事に気付いて、慌てて鼻呼吸を始めた。

 キスはまだ続いている。

 どころか、最初はただの唇合わせであったのに、段々と唇を唇で食んで来たり、鼻も一緒にくっつけたりと変化が付いて、上手くなっている。

 

「んー!」

 

 僕はルッキーニの背中をタップして“やめろ”と意思表示するのだが、伝わらないのか、止める気が無いのか、ルッキーニはお構いなしだ。

 今の僕なら顔で目玉焼きが焼けるに違いない。そう思える程顔が熱くなっている。変な脂汗も止まらない。

 状況はもう全く僕の理解の範疇の外だった。

 そして恐ろしい事に、次第にこのキスが嫌で無くなってくるのだ。今お前は魔法に掛かっている、そう言われれば信じただろう。

 やがて、僕は抵抗を諦めた。

 

「――」

 

 それが嬉しかったのか、受け入れられたと思ったのか、ルッキーニの抱擁が一層きつくなる。

 そして、ぬるり、と。

 ざらざらした、けれど粘度を持ち、そして熱い物。それが僕の唇を掻き分け、口内に押し入って来た。

 それはたどたどしく歯をなぞり、さらに奥へと進もうとする。

 僕はそのあまりの感触に、それを噛んでしまわない様堪えるのに労苦を尽くした。

 そして、それを押し出すため、自分の舌をそれに突き出す。それと舌が触れ合う。すると、それは今までの勢いとは打って変わって、驚いたかのように震えると、一度引っ込んでしまった。

 

「……?」

 

 数秒後、それはまたやって来たが、その様子はおっかなびっくりと言った風で、不覚にも、それを僕は“可愛い”と思ってしまう。

 再び僕はそれを舌で突く。するとそれは小さく震えて、手前へと逃げていく。また僕がそれを追いかける。いたちごっこの様なそれは、とうとう僕の舌がルッキーニの側へ行こうとした時、ルッキーニが唇を離すことで終わりを迎えた。

 

「ん、は……」

 

 僕はルッキーニの顔を見つめる。細い唾液の橋が僕とルッキーニの口に出来ていた。

 ルッキーニの頬は上気していて、息も荒い。途中まで見せていた余裕の様なものは、責められるのに弱いのか、消えてしまっていた。

 

「ちゅう、しちゃったね」

 

 そんな事を言うルッキーニだったが、僕がその顔を穴をあけんとするかの様に見つめると、今更恥ずかしそうに目を伏せて、頬を染め、視線を逸らした。

 

「あっ――」

 

 そんなルッキーニを見た瞬間、僕は心に薪をくべられた様な、激しい感情を持った。それは燃え上がり、弾け、雪崩のように理性を打ち壊すと、僕を支配した。

 恋。

 それは紛れもなく、恋の感情だった。

 今僕は、この小さな女の子に恋をしたのだ!

 

「――フランカ」

「んう、なぁに?」

「好きだ」

 

 大した考えも無く、その意味を考える事も無く、口走っていた。

 僕の言葉を聞いたルッキーニは、ぱっと顔を上げると、その八重歯がくっきり見えるほど大きく笑って、

 

「うん、私も!」

 

 その返事は、僕の心を喜びで満たし、幸せを呼び起こした。

 その慶福は今までの卑屈な思考を吹き飛ばし、塗り変えていった。

 

「また会いに来るよ、絶対」

「うんっ!もう恋人だもんね!」

 

 恋人。12歳の少女と。

 僕はその字面の恐ろしさに身震いしたが、しかしはにかむルッキーニへの愛しさがそれを上回って、僕に覚悟を促した。

 

「ミコの悲しい事も怖い事も、全部私がどかーんってしちゃうから!」

 

 手を大きく広げて爆発を表現するルッキーニ。

 

「だからね、もう私をリスと間違えちゃ、だめだよ」

「もうしないよ」

「ずっと、私だけの傍にいてね?」

「うん」

 

 段々と、僕の意識がルッキーニでいっぱいになっていく。それは、リスを失って真っ白になった僕に、絵の具を塗りたくられる様であった。しかし全く不快ではないので、僕は自分の心変わりに驚くばかりだった。

 

「ミコ、だ~い好き!」

 

 そう言うと、ルッキーニは自分の頭をぐりぐりと僕の胸に押し付けてくる。そんな様を見ても、僕はとうとうリスを思い出さなかった。

 僕はゆっくりとルッキーニの頭を撫でると、ツインテールの片方を持ち上げて、そこにキスをした。

 

 僕らはずっと、ルッキーニを探しに来たシャーリー達に見つかるまで、そうしていたのだった。

 

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