その世界には、初めから始まりなんてものはありませんでした。
無限の過去から、そこは純粋な闇だったのです。
どこまでも、どこまでも、どこまで行っても、ほんの僅かの
混じり気のない、真の闇。
乱れなき澄んだ空間。
長い長いあいだ、そこは無と静寂の世界でした。
ところがあるとき、そんな世界に変化が起こりました。
一体どこから現れたのでしょう、それまでとは全く異質な闇がやってきて、初めから存在していた闇へ重なったのです。
そのうち、次から次へと新たな闇が現れては重なり続け、闇は次第に密度を増し、元の闇より暗く、元の黒より
──おーい、戻っておいでよーう・・・
遠くから、誰かの声がする。
知っている声のようだが、誰のものなのか、どうしても思い出せない。
私はその呼びかけに応えようとするが、まるで何か強い力で喉を締めつけられているように、全く声が出せない。
そのとき漸く私は、自分が何も見えない闇の中を、ゆらりゆらりと漂っていることに気がついた。
墨やインクの黒などではない。
もっと濃密な、鉛のように重い闇。
一体、ここはどこだろう?
試しに手足を動かしてみる。
ヌメリ。
不快な肌触りがした。
周りの闇が、身体にドロッと纏わりついてきた。
匂いも味もしないが、腐った油のような感触で、得体の知れない生き物に全身を舐めまわされているようで、吐き気を催すほど気持ちが悪い。
そしてそいつらは、ただの“物体”でもないらしく、人間とは異質ではあるが、知性、感情、意識、などといったものを持っているようだ。
何というか、“想い”の波のようなものが、私の精神を直に刺激するのだ。
何百万、何千万、もしかしたら、それを遥かに大きく越えるかも知れない数の、どす黒い意識の集合体。
どこにも逃げ場を与えられず、長い時間をかけて、ひたすら蓄積され続けられてきた悪意の澱。
悲鳴をあげようとしたが、闇の圧力に抑えられて、うめき声さえ出てこない。
だから必死にもがく。
この身を取り巻く不快なモノから、一刻も早く逃れようと。
しかし、闇は
そして、そんな疲労感はやがて、重い倦怠感となり、次第に深まってきた絶望感は、諦観のようなものに変わっていき、自分と、自分を
──ねえ、何してるの?
──早く帰って来いよーう・・・
おそらくこの闇の外からだろう。
再びあの声がする。
誰のものか判らないが、馴染み深い声。
心なしか、切実な悲壮感が伝わってくる。
しかし、私にはもう、それに応える気力は残っていない。
うるさいなあ、もう、ほっといてくれ。
もう、そっとしておいてくれ。
私は疲れた。
このまま、静かにさせて欲しい…
すると、闇の底の方から、今までとは別の声が聞こえてきた。
どこか楽しそうな、遊びにでも誘うような声が。
(そうだよ、僕らの仲間になりなよ)
(私たちの世界にいらっしゃい)
(そうすれば、楽になれるから)
キャハハ、という感じの囀り声も混じっている。
ああ、それもいいかな。
そう思った途端、闇に変化が起こった。
それまで、ただどんよりとしていた闇に流れが生まれた。
私の身体も流されて行く。
私は、それに身を任せた。
このまま闇に身を委ねれば、そのうち私の身体は闇に溶け込み、闇と同化し、果ては闇そのものへと成ってゆくのだろう。
それでもいい。
ああ、それでもいい。
もう、どうにでもなれ。
私はもう疲れた、疲れ果てたんだ。
もう、いい・・・
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
!
いいのか?
本当にいいのか!?
突然、私の中に僅かに残っていた何かが爆ぜた。
まるで、消えかかった炎が一瞬燃え上がるように。
私は、カッと眼を開いた。
(どうしたの?)
(早くおいでよ)
相変わらず闇の底から誘いの声がするが、私はそれを振り切り、今まで以上にもがいた。
最後の力を振り絞って足掻いた。
すると、闇の向こうに、一点の光が見えてきた。
──おーい、こっちだよーう・・・
私にとって懐かしさを感じさせるあの声が、その光の方から聞こえてくる。
真摯な訴え。
必死の呼びかけ。
私は本能的に、そちらに向かって泳ぐように手足を動かした。
闇の底からの誘いの声に逆らって光へ向かって進むことに、私がどれだけ気力と体力を要したか……如何なる文句を用いれば、それを伝えることができるのだろう?
苦しい。
少しでも気を抜いたら、たちまち闇へ引き戻されてしまいそうだ。
しかし、それでも私は何故か、その誘惑に耐えて進まなければならないという使命感に駆られていた。
夜空に一つ輝く、針の先ほどの星のようだった光の点は、やがて満月ほどの大きさになり、人の頭ほどになり、とうとう身を包むほどの光のトンネルになった。
近づくにつれて、その光からは、ほんのりと温もりが漂ってくる。
相変わらず、闇の底から誘いの声は続いていたが、もう迷いはなかった。
私は目の前に開いた、光のトンネルの中へと突き進んで行った。
──お帰りなさい…
初めは、小さな小さな光の点でした。
長い長い時間が経ってから、そこへ、どこからか、ほかの光の点が引き寄せられてきて、重なりました。
そのうち、次から次へと新しい光が重なってゆき、やがては熱く燃えたぎる炎の塊となってゆきました。
《「闇ヲ漂フ…」おわり》