その夜、僕は家族の目を盗んで家を出た。
初夏とはいえ、やはり宵の空気は冷える。
自分にはやや長すぎる丈の綿入れ
病身の体を
どうしても“それ”を見たかったから。
「まだ消えねえのか、あの“ほうき星”は?」
「ああ。気味悪いったら、ありゃしねえ」
あの星が出るようになってから、僕の寝ている部屋にまでも、そんな世間話の声はよく届いてきた。
「知ってっか? あれが一番近くまで来るとき、この地上の空気が持ってかれっちまう、ってえ話だとよ」
「オレの聞いた話じゃあ、あの尾っぽから毒を撒き散らしているらしいぜ」
「ここんとこ、良くねえことが続くのも、きっとあれのせいヨ」
迷信深い村の年寄りたちは、ほうき星を不吉なものだと決めつけている。
我が家でも、空が薄暗くなってくると、
「これこれ。ほうき星が出とるのじゃから、空を見てはいかんよ」
と、婆ちゃんが素速い動きで家中の雨戸を閉めてしまう。
でも、僕は知っている。あれは塵や氷の塊が太陽に反射して光って見えるだけだって。そう本に書いてあったんだから。
ほとんど学校にも行けず、外で遊ぶこともできず、ずっと床に臥せっていた僕にとっての一番の楽しみは、親や親戚のにいちゃんのお譲りの本を読むことだった。
本は良い。布団の中にいても、遠い未来や見知らぬ密林の奥地、地球の外にだって連れて行ってくれる。
気の遠くなるような昔のことから、最新の発見、発明のことまで教えてくれる。
新しい医術についても。
元来、我が家は、両親とも健康長寿な家系だ。親戚は、風邪など一度もひいたこともないような、百歳を越えてもピンピンしている爺ちゃん婆ちゃんだらけだ。
そんな血筋の子なのに、何故か僕は病弱に生まれてしまった。成人できるかどうかさえも怪しいと、大人たちが僕について話しているのを聞いてしまったことがある。
家族は、僕を大切にしてくれるし、贅沢なものでなければ、欲しいものは大抵与えてくれる。
ただ、一人で外に出ることだけは許してくれなかった。
そのほうき星が、数十年ぶりに地球に近づいてくるのを知ったとき、僕はもう決めていた。
ほうき星を見よう。
我が家の夜は早い。
家族が寝静まった頃、綿入れ半纏を着込んで、僕はそっと家を抜け出した。
民家の明かりも
お化けや妖怪の話は好きだけど、その実在を僕は信じてはいない。
それでも、自分の足下さえも見づらい暗闇は、何かが潜んで居そうだと思わせる。やはり、闇は人間にとって本能的に怖いものなのだ。
時おり立っている街灯は、古い為か光が弱いうえに、不規則に点滅したりして、かえって不安感を煽る。
「わっ!」
草に足をとられて転んでしまった。
ちょっと涙目になりながら起きあがる。
膝に擦り傷ができた。ヒリヒリする。
大丈夫、大したことない。
僕は涙を拭って、再び歩き始めた。
田んぼの畦道を渡り、もうじき林道を抜ける辺りで、古木に寄りかかって、しばらく息を整えた。そしてまた進む。
やがて視界が開けた。目的地の高台に到着したのだ。空を見るのには何の障害もない場所だ。
顔を上げた僕は「おや?」となった。
そこには、もう既に先客がいたからだ。
会ったことのない、一人のお爺さんだった。
小さな村とはいえ、ほとんど家を出ない僕だから、外で知らない人に会うこと自体は、別段、不思議がることではないのだけれど、迷信深いこの村の年寄りならば、今頃は家に閉じこもってそうなものだ。
それなのに、わざわざこうして星の見えやすい場所まで足を運ぶ酔狂な老人がいるなんて、まことに奇妙なことだった。
そのお爺さんは、どこか垢抜けた服装をしていた。しかも、意外と似合っている。この村の若者だって、こんなに洗練された格好はしていない。
頭には品の良いソフト帽。杖はついていたが、背筋もそれほど曲がっておらず、
「こんばんは」
若干警戒しつつも、とりあえず僕は、その老人に挨拶してみた。
「おお、来たね」
老人は、なんとも面妖な返答をしてきた。まるで、僕がここへ来るのを知っていたかのような口ぶりだ。
僕の中の警戒心が強まる。
しかし一方では、この謎の人物に対する好奇心も、沸々と湧き上がっていた。
「こっちへおいで。星を観るのに、ここは正にベストスポットだ」
結局、好奇心の方が勝った。
彼の言葉の中に、耳慣れない語句が含まれているのが気になる。
僕はそのまま彼の側まで寄っていった。
「そうだ、その前に傷の手当てをしなくちゃね」
「え?」
老人の、あまりにも意外すぎる発言に僕は固まる。
「君、ここに来るまでに転んだのだろう?」
「どうしてそれを…」
「ちょっとごめんよ」
僕が身を引く間もなく、老人は身をかがめて、僕の着ていた半纏の裾をはだけると、持っていた水筒(それもまた、見たこともない形状だった)の水で、先ほどこしらえた膝の擦り傷を洗ってくれた。
「つっ…!」
傷口に水がしみたが、彼はそれに構わず、
「足は大切にしなければね。尤も、君が大人になってから……」
半分独り言のように呟きながら、上着の
その間、僕は改めて、老人の顔をじっくり観察していた。そうしているうちに、僕は何故だか、この人のことをよく知っているような気がしてきた。
どうも赤の他人とは思えない。
「さて、これでよし」
「…あ、ありがとうございます」
「では、一緒に天体観測をしようかね」
傷の応急処置を終えたお爺さんは、そう云いながら立ち上がる。
「あの…」
僕は恐る恐る、お爺さんに話しかけてみた。
「お爺さんは、ほうき星が怖くないんですか?」
「怖くはないね」
優しい笑みを浮かべながら応えてくれる。
あ、やっぱりどこかで見た顔だ。
誰だろう? うちの親戚にいただろうか。
「あれは氷や塵の塊にガスが混じっていて、それが太陽に近づくと尾をひいたように見えるんだ」
これは驚きだった。僕の周りの老人で、ほうき星について、それだけ知っている人はいなかった。
「詳しいんですね」
「君だって、そのくらいは知っているのだろう?」
「はい、まあ…」
この人は何故、
「お爺さんは、前にもほうき星を見たことがあるのですか?」
「あるよ」
老人は飄然と応える。
「つい昨日も“別な場所”で観た。けれども、これだけはっきりと観たのは随分と昔のことだ。“私のいたところ”では、これ程あの
なんだか謎のような言い回しだ。
「あの、それって、どういう…?」
「まあ、いいじゃないか。せっかくの世紀の天体ショーだ。じっくりと堪能しようではないか」
お爺さんはそう云うと、視線を再び空へ戻した。その先では、神話の英雄や幻獣たちの間を、薄い尾を引いた光の球が浮かんでいる。
何千万里もの旅をして還ってきたほうき星。
「綺麗だなあ、こんなにまで綺麗なものだったのかね。空気が澄んで、余計な明かりがないからなんだろうな……」
また独り言なのだろうか、感慨深げにそう呟いている。
それを見ていて、僕は少し胸が苦しくなってきた。そして、少々突っ張ったような言葉が口から出てしまう。
「お爺さんは良いですね。こうして、このほうき星を、また見ることができたのだから」
「君だって、観られるかも知れないよ」
「僕は無理です。ただでさえ、このほうき星は周期が長い上に、僕は生まれつき体が弱くて、長生きできないらしいですから」
「いやいや、そう決めつけるものではないよ」
お爺さんは、何か確信を持っているかのように僕を
「確かに君も、これからの人生は苦労するだろうが、未来は何がどうなるか判らないからね。どんな状況も、いずれは過ぎる。最悪と思えた物事でも、過ぎてしまえば、自分はまだ恵まれた方だったと考えられるようになることだってあるさ、きっとね。
ただ、身体だけは大切にしなさいよ。今夜みたいな無茶はなるべく控えるようにね。そうすれば君も、またあの彗星を観ることかできるかも知れないよ」
僕の頭の上に、お爺さんの手が乗せられた。暖かくて、柔らかい手だった。
「さて、そろそろ戻らねば。これ以上はルール違反になってしまう。君も良いところで帰りなさい。そうしないと、風邪をひいてしまうからね」
頭の上の手が除けられ、
「では、ごきげんよう」
と、僕に背を向けて歩きかけたが、ふと立ち止まり、
「おお、そうだ」
何か思い出したように呟き、こちらを振り返った。
「君はもう、ヴェルヌの『月世界旅行』は読んでいたかな?」
「
「おお、そうだった。確か涙香で読んだのだったな、懐かしいな。君は、あんな大砲で月の世界へ行くような話は好きだね?」
「好きです」
「近いうちに、ああいう技術に幻滅させられるようなことがあるだろうが、どうか失望しないで待っていてごらん。今からあと
お爺さんは、そんな不思議なことを云うと、にっこりと笑う。
「では、今度こそ、ごきげんよう」
そして、被っていたソフト帽を一瞬持ち上げて挨拶すると、高台を降りる道を歩いていった。
老人の動きはしっかりしたものだったが、よく見ると、やや
その姿が闇に溶け込むまで見送っていた僕は、ふと我に返り、「あのお爺さんは、一体いくつなんだろう、どこから来たのだろう」などと、ちょっと変なことを考えていた。
空には、ほうき星が明るく光っていた。
《「ほうき星」おわり》