【河童】
(かっぱ)
古来から日本各地に伝わる伝承上の生き物。
地方によってその伝承の内容は異なるが、大まかな形態や性質の共通点として、
◦頭に皿、背中に甲羅、四肢の指に水掻きを持つ。
◦水中に潜む。
◦時には人を襲ったり、相撲を挑んだりする。
◦河童に尻子玉を抜かれると腑抜けになる。
◦頭の皿が乾くと弱くなる。
◦
などがある。
地域によって様々な呼び名があり、本来は別種の存在である「ひょうすべ」「水虎」、さらには沖縄の「キムジナー」などと同一視されることもある。
(『寝武多先生のインチキ奇譚学』より)
♢
閉め切られた車窓から見える景色が、緑の山ばかりとなってから、もう随分になる。
目的の駅が近づくと、斜め向こうの席にいた着物姿の女性乗客が、茜色の風呂敷包みを持って降りる支度を始めた。
(こんな田舎でも、降りる人がいるのだな)
そういう僕も、横に置いてあった自分の荷物を手に取る。
やがて、煤けた窓の向こうに、見慣れた村が見えてきた。
汽車は僕らを降ろすとすぐに、真っ黒い煙をもくもくと吐き出しながら去って行く。
車内から解放され駅から出た僕は、蝉の
しばらく歩くと、やがて右手にひとつの池が見えてきた。水不足対策に造られた人工の池で、正直、見た目はあまり綺麗ではない。
幼い頃の僕には、まるで湖のように見えたその池だが、何度かこの土地を訪れる度に、少しずつ小さくなっていくように感じる。
特に今日は水がかなり抜かれ、実際に更に小さくなっていて、所々、泥やらゴミやらが露出しており、池というよりも沼といった様相だ。
それでも、小さい頃から見てきた風景だから愛着もあり、毎回ここを通るときには自然と目が向く。
鬱蒼とした木々に囲まれた、ちょっと陰気な溜め池。やかましく鳴く蝉の声。
そんないつもの光景の中に、突然、異物が飛び込んできた。
「ウギャァーッ!」
そんな叫び声だった。
獣の声? いや、人の声か?
その、喉の奥から絞り出したような声に驚いたのか、周囲の蝉たちが一瞬静まる。
叫び声の聞こえてきた方を見ると、池のほとり…というか、今は水が少ないので、池から少し離れた場所に、小さな小屋が一軒建っている。今まで特に気にしたこともないボロ小屋なのだけど、どうやらこの声はそこから聞こえてくるようだ。
激しく怒っているのか、苦しんでいるのか。沼の底から涌いてきたみたいな、おぞましい声色なのだが、その一方で、何かを訴える響きもこもっているような、そんな悲鳴だった。
叫び声は、一分か二分ほどするとおさまった。そして辺りには、鳴りを潜めていた蝉の合唱が、先ほどと同じようにやかましく響いていた。
僕は気を取り直して、止めていた歩みを再開した。この池を過ぎれば、目的の家はもうすぐだ。
先ほどの溜め池を、道や茂みを挟んで若干見おろす位置に、その親戚の家はあった。
その家には、一人のちょっと病弱な男の子がいる。何となく僕の弟分のような関係の子で、本が好きなので、たまにこうして、僕の読み終わった本を持って遊びに来るようにしている。
今日その子は、僕の来訪を知ると、わざわざ玄関まで来て出迎えてくれた。心なしか顔色も良い。このところ、会う度に元気になってきているように見える。
彼の家族から、少し丁寧すぎるもてなしを受け、夕飯とお風呂をいただいた後、あてがわれた部屋の蚊帳の中で、弟分(なんだか妙な呼び方だけれど、事情があって実名を出せないので、この呼び方とさせていただきます)と、本や活動写真の話をした。
あまり家から出られないその子は、特に活動写真の話などは、目を輝かせて興味津々に聞いてくれた。そんな彼を見て、いずれ活動も、本みたいにポケットに入れて持ってこられるようになれば良いのにな、と思った。
そのうち夜も更け、彼は
真っ暗闇の室内に、隣室からはあいつの寝息、外からは虫や蛙の声が聞こえてくる。昼間の蝉とは違って、どこか儚げな虫の声。僕の住んでいる町では、徐々に聞けなくなってきているその声を耳にしながら、だんだんと眠りにつこうとしていたときだった。
ペチャッ、ペチャッ、ペチャッ……。
初めは気のせいかと思った。外のどこかから、水っぽい音が響いてきたのだ。
ペチャッ、ペチャッ……。
しかし、気のせいではなかった。音は次第にはっきりしてくる。耳をぞばだててみると、それは何かの足音のようで、どんどんこちらへ近づいてきて、やがて僕の寝ている部屋の前で止まった。
そして、
タン、タン……。
僕の横で閉まっている、掃き出し窓の雨戸を遠慮がちに叩く音がした。
状況が状況なだけに、ちょっとビクッとする。あまり、お化けとか怪談の類は信じない方だけれど、泥棒だとか、強盗などといった、お化けよりも怖い、人間という現実的なものへの警戒心に体が固まる。
タン、タン。
タン、タン……。
音は、強さは変えずに、しかし執拗に鳴り続ける。
蚊帳から出た僕は念のために、、本や荷物の詰まった鞄を即席の武器として持って窓際まで行き、外に向かって呼びかけてみた。
「誰ですかあ?」
すると、雨戸を叩く音がやみ、続いて、
「開けて、くんちぇ、開けてくんちぇ……」
と、若干かすれたような、弱々しい声が聞こえてきた。それが、なんだか人間の声ではないような気がして、僕の恐怖心が増す。
「こんな時間に、ご用は何ですか?」
「ミズ、ミズ……」
ミズ?
水のことだろうか?
喉でも乾いているのだろうか。
脅すというよりも、切実に懇願しているような声だ。
それにこの声、しわがれてはいるが、よく聞けばどうやら子どものもののようだ。
「ちょっと待ってて」
雨戸の向こうにそう言うと、僕はこの家の台所まで行って、コップに一杯の水を汲んで、雨戸の前に戻った。
そして、相変わらずの不安は感じつつも僕は、
そこには、一人の奇妙ないでたちの“何か”がいた。
ええと、少年……なのだろうか。
年の頃は、いま隣の部屋で寝ているやつと同じか、少し上くらい。全身はがりがりに痩せ細り、髪は乱れ、頭頂部から首の辺りまで、辛うじて顔にだけはかけずに放射状に伸ばしまくっている。
頭から足の先まで水でびっしょり濡れていて、髪からビタビタ滴り落ちている。
極端な猫背で、両手を若干前に出しつつだらんと垂らしていて、その両手の先からも水が滴っている。
そして、申しわけ程度に腰に
そんな奴が、「ケケケ……」と言葉なのかどうか判らない声を発しながら、青い月の光に照らされて僕の目の前に立っていたのである。
はっきりいって、かなり不気味に感じたのだけど、雨戸を開けても、こちらに向かってくるようなことはせず、おとなしく僕のことを待っているようだったので、恐る恐る、持ってきたコップを差し出した。
少年はコップを受け取ると、貪るようにごくごくと水を飲み干し、
「アリ、ガト……」
と、コップを返してきた。
受け取ったコップを見ると、彼の手と口が触れた部分が、何故か泥のような黒いもので汚れていた。
うーん、ちょっとこのコップ、あとで事情を話して弁償させてもらおう。たぶん大丈夫だとは思うけど、念のためにね。
やがて少年は、ひとごこちついたのか、満足そうな顔を見せると、当然、両足を踏ん張るように開き、垂らしていた掌をこちら側に向けて、
「スンモ、スンモ……」
と、なんだかこちらをけしかけるような仕草を見せ始めた。
スンモ?
なんだそれ?
仕草を見た感じだと、一緒に相撲をとれとでも言っているのだろうか?
一体、何故?
疑問だらけで固まっていると、この家を囲む茂みのどこか遠くから、ガサガサッ、ガサガサッと何かが動いているような気配がした。
その途端、少年のようなものはビクッと反応し、何かに怯えるような表情をしたかと思うと、構えを解いて最初の体勢に戻し、こちらに向かって、
「ばい、ばい……」
と、一瞬ひかえめに手を振り、いきなり回れ右すると、茂みの中に飛び込んだ。
そして、しばらくしてから、
バッシャーンッ!
と、大きな水音がしたかと思うと、後には再び、虫や蛙の鳴き声が残された。
しばらく呆然としていると、やがて部屋の襖の戸が開き、隣の部屋から寝ぼけ
「なにやってんの?」
と、呑気な調子で訊いてきた。
僕は、頬を掻き掻きちょっと考えてから、
「いや、なに。寝苦しかったから、雨戸を開けて水を飲んでいたんだけど、うっかりコップを庭に落としちまったんだ」
と、適当ないいわけをして誤魔化した。
弟分は、なんだか呆れたような、どうでも良さそうな顔で「へはっ」と笑うと自分の寝室に引っ込み、やがてまた、静かな寝息をたて始めた。
その次の日、村にはちょっとした騒ぎが起こった。
前の日の夜に、友人と呑んだ帰りの老人が、例の池の近くの道を歩いていると、目の前を小柄な影が、タタタタッ……と通り過ぎて、見えなくなったかと思うと、池の方から、バッシャーンッ! という水音が聞こえてきたというのだ。
老人が、そのことを周りの人々に話しまわると、普段は大した事件の起きない、平和な村の人々にとって、これは野次馬根性を刺激する恰好の出来事だったようで、たちまち騒動となり、地元の新聞や警察が駆けつけるまでに至った。
警察が、老人の言う何かの影が走り去った跡を調べると、小さな粘着性の黒い泥の足跡が転々と、乾いた地面に付着していたという。
地元新聞の記事によると、その足跡は人のものには思えない、などと書かれており、村人たちの間では、「それは河童だろう」という話になり、それを更に新聞が報道し、やがては全国紙からの取材まで訪れるような事態となった。
そんな一連の騒動を横目で見ていた僕の脳裏に浮かぶのは、あの夜、僕の前に現れたあの“何か”のことと、同じ日の日中に、溜め池のほとりにあった小屋の中から聞いた叫び声のことである。
僕が小屋から聞いた声と、その夜に出会った“何か”。そして、老人の見た影と、翌日に見つかった足跡らしきもの。それぞれ関係あるという証拠はない。
僕が夜に出会ったあの“何か”。
あれは本当に何だったのか?
いや、誰だったのか?
僕にはあれは、人間のように見えた。
翌日に見つかった足跡。
人間の足の形ではない、などと言われていたが、僕が出会った少年らしき者は、痛ましい程がりがりに痩せていた。そんな彼の足跡が、普段、飢えることのない生活を送る人々には、人間の足跡には見えなかったのではないか?
これは飽くまでも推測である。
確認しようにも、その先で見たくないものを見てしまうことが怖くて、未だ確かめる勇気はない。そのうち、確かめる手段もなくなるだろう。
この体験は、これまで誰にも話したことはなかった。あの日、隣の部屋で寝ていたあいつにも、僕の体験は話していない。
ただ、最近たまに友人たちと呑んだりした場で、どうしても誰かに話したい衝動に駆られたとき、あるいは、僕があの日のあの村にいたことを何処からか嗅ぎつけてきた物好きな人に訊かれたりしたときには、いつも、わざと冗談に聞こえるような調子でこれだけ言って、後はもう、その件に関しては沈黙するようにしている。
「子どもの頃、河童を見た」
と。
(『沼小僧』終わり)