「一体、何がどうなっているんでしょうね、コレ……」
「さあね。もしかしたら、今の自分は体外離脱した魂で、この紐は何処かにある肉体とつながっているのではないか、とも考えたけれどもね、どうも違うようだ」
センパイはそう云うと、此方の肩を軽くコツンと叩いた。
「ほら、生身の身体だ」
「確かに」
「なら、この紐の先に何があるのだろう? そう思った途端、矢も盾もたまらなくなってね。こうして今、未知の荒野を探索しているというわけさ」
センパイはそう云うと、カカカと笑った。こんなワケの判らない事態になったのにもかかわらず
人と会って話すということを、これほど懐かしく感じるときがくるとは思わなかった。
そして……。
センパイと会ったのを皮切りに、それまでの孤独が嘘のように、次々に知り合いと遭遇した。
学生時代の恩師。
人懐っこい性格だった幼馴染み。
欧州からの留学生なのはずなのに、何故か見事なまでのズーズー弁だった元クラスメイト。
皆、懐かしい顔ぶれだった。
そして、皆が皆、額から白い紐を生やしていた。
──やあ、ひさしぶり。
──元気だった?
──こっちは、ぼちぼち。
いつの間にか、旅は大所帯になっていた。ワイワイ、ガヤガヤと、非常に賑やか。その様は、何かの祭りか、民族大移動か。
そんな中では自然と、自分たちが、どういう経緯でここに至ったかが話題にのぼる。
「寝る前に風呂に入っていたら……」
「部屋を掃除中、座った状態から急に立ち上がったとき……」
「酒を呑んでると急に眠気が襲ってきて……」
どうやら皆、普通の日常生活を送っている最中に一瞬意識を失い、気がつくと自分の額から紐が生えていた、という点では共通しているようだ。
何故、このような事態になったのかを解明しようと話し合ったこともあった。
しかし、話はいつの間にか
みんなして好き勝手に喋りまくり、喋るだけ喋れば、そのうち相手を替えて、また喋る喋る。疲れたり、腹が減ったりしないからノンストップ。不思議と話題は尽きない。
一体、この場に何百人いるのか。
これだけの人数が入り乱れているのに、よく紐が絡まないものだ。
しかし、そんな喧騒も永遠には続かなかった。合流してからずっと、同じ方向へ伸びていた
──あ、次は私だ。
──ついに君もか。
──じゃ、またね。
一人、また一人と、集団から離れていく。中には、紐に逆らってでも皆と一緒にいようとする者もいたが、長続きはしなかった。紐を辿って荒野へ踏み出したときにも沸き起こった「どうしても自分の紐の行き先を追わずにいられない衝動」を抑きれなくなるらしいのだ。
やがて元留学生も、幼馴染みも、恩師も去り、とうとう、いつかと同じように、センパイと自分だけとなってしまった。
「また、私たちだけですね」
「そうだな」
二人きりになると、急に会話が少なくなる。別に気まずくはない。ただ、空っぽで虚しい。
「みんな、どこへ行ってしまったのでしょうね……?」
「判らない。ただ……」
「ただ?」
「ちょっと気になることがある」
「気になることって、どんな?」
「順番だよ」
「順番?」
「人の離れていった順番。みんな、合流したときとは逆の順で去っていったろう。後入れ先出しの形でね。気づかなかった?」
気づかなかった。
そうだっただろうか?
そうだったかも知れない。
あまりにも大勢いたから、はっきりとは断言できないけれど、少なくとも、つい先ほど離脱していった人たちは、確かに初期に合流した顔ぶれだ。
ということは……。
「うん、どうやら順番が来たようだ」
センパイの言葉の通り、ついに、自分とセンパイの紐の分岐点が現れる。
「お別れだね」
「そう…ですね」
二人で握手。旅の仲間の人数が少なくなってからは、誰かと別れる度にこうしている。寂しくはあったけど、悲しくはなかった。そもそも、もう会えないと決まったわけではないのだ。
「じゃ」
「ええ」
センパイが背を向けて離れていく。小さくなっていく背中を見送っていると、自分の額の紐が、急かすように震えた。
「わかった、今行くよ」
一気に人がいなくなり、辺りが無音の世界に戻った寂しさを誤魔化したかったのか、思わず独り言が零れてしまった。名残惜しさを振り切り、紐の向く方向へ歩きだす。
*
そこからはまた、孤独の旅が始まった。
知人、友人、恩人たちと一緒に歩いていた時間と、再び一人になってからの時間。実際には、そのどちらが長いのか。こんな風に全てが一様な世界では判らない。しかし、感覚的には、一人になってからの時間の方が圧倒的に長いように思えた。
自分は何故、こんなことをしているのだろう?
感情が麻痺して、そんな疑問さえも浮かばなくなった頃、
「あれ、ここ、前にも通らなかった?」
辺りの風景に
「妙だな……」
独り言ちながら辺りを見渡す。
無論、こんな変化のない風景なのだから、明確に景色を覚えていたわけではない。
何の目印もない、曇り空の砂漠を歩いているようなものなのだから。
しかし、それでも、やはり今いるこの場所は、初めて見る気がしない。
いや、それもちょっと違うな。
この場所そのものに来たことがある、という感覚ではない。
この場所と似た風景を見た、という感覚でもない。
この感覚は、自分がこの異変に囚われる前に何度も感じたことがある。
今ではもう懐かしく感じる、平穏な日常生活の中で。
「何だっけ、この感じは?」
いくら考えても判らないので、とにかく歩く。心なしか、その歩みも速まる。
そして……。
「あ、家だ!」
遠方に、懐かしい我が家が、荒野の中にポツンと孤立するように佇んでいるのが見えた。
思わず駆け出しそうになり、ハッと思いとどまる。
「待てよ……」
何かが変だ。
何かがおかしい。
一体、何が?
そもそも、何故、我が家に戻って来るのだ?
いや、それだけなら別におかしくない。
こんな、何の目印もない、殺風景な世界だ。歩いている本人にそのつもりはなくても、実は無意識に大きな円軌道を描きながら進んでいて、元の場所に戻って来るなどということは、あり得ない話ではない。
今感じているのは、もっと別なもの。
何というか、生理的にもっと気持ちの悪いものだ。
徐々に近づいてくる、住み慣れたはずの一軒家なのに、全く別の建物に見える。
細部まで、自分の記憶と合致するはずなのに、何かが違う。何が?
そうだ!
逆なのだ!
全てがまるで、鏡に映したかのように反転しているのだ!
これが違和感の正体だった。
違和を感じさせる要因はもう一つある。
この、額から伸びている紐の行き先だ。
この紐は、真っ直ぐ一本、あの反転した我が家へと向かっているのだ。
これもおかしい。
自分は、自分の額から生えている紐を辿って、あの借家を出た。
この紐は、その持ち主、或いは宿主の進行に合わせて長さが縮むか、或いは進行方向に押し出されるかして、一定の
つまり、自分の後方に紐はない。だから、我が家の周囲に紐はないはず。それなのに、自分の額から生えた紐は、あの家に向かって伸びている。まるで家までの道標のように。
これは、一体どういうことだ?
考えていても始まらない。
とにかく行こう。
しかし、やはり怖い。
もう、何が起きても動じないつもりだった。こんな世界だから、もう何でもありだ。例え、目の前に巨大な怪物が現れたとしても、それほど驚かないだろう。
だがこれは想定外すぎる。感情が、今の状況にどう反応すれば良いのか判らずにパニックを起こしている。はっきりしない不安、ぼんやりとした恐怖、そして、それらに負けない好奇心。
やがて、何もかもが反転した以外は、我が家そっくりのボロい一軒家の門に到着し、吸い込まれるように、その中へと足を踏み入れる……。
*
我が家へ帰ったのか、他人の家に訪問しているのか判らない、不思議な感覚。
昔、アパート暮らしだった頃、隣の部屋にお邪魔したとき、水道設備や間取りなどが自分の部屋と逆なのを見たときの変な感覚を思い出す。
紐は上の階へと伸びている。
靴を脱いで、玄関をあがり、廊下を通って階段を昇る。下手に見慣れた景色が反転しているものだから、初めて入る建物以上に勝手が違って非常に歩きづらい。
ようやくのこと、二階に辿り着く。紐は、自分のいつもいる、あの四畳半の扉へと伸びて、そのまま幽霊のように扉をすり抜けて、部屋の中へと伸びている。尤も、全てが逆向きなので、違和感が半端ないのだが。
いつもとは左右反対の位置にある、扉のノブへと手を伸ばし……そこで固まる。
いいのか?
自分の中で、警鐘が鳴る。
果たして、この扉を開けて、いいのか?
何故ためらうのか、自分でも判らない。しかし、今まで自分を動かしてきた衝動が、今更になって鳴りを潜め、代わって自分の中に別な声が聞こえてくる。
『戻れ』と。
『もう、ここまでで結構。戻りなさい』と。
……。
扉の中には、“何か”のいる気配がする。
その“何か”と自分は、出会ってはいけない。
そう、自分の心が告げる。
『戻れ』
……。
……そうだ。ここでやめておこう。
この扉を開けてはいけない。
ようやく、そう腹が決まり、扉のノブから手を離したそのとき……。
ガチャリ。
ドアノブが回り……
扉の向こうの気配が近づき……
扉が開き……
部屋の中から、自分自身が出てきた。
いや、正しくは、全てが反転した自分。
風景とは違って、普段から鏡で見慣れていたから違和感のない“それ”は、
こちらに気づき、驚いて歩みを止めようとしたようだが、その勢いを咄嗟に消せず……。
二人は接触した。
途端に……
バチンッ!!
全てが爆ぜたような気がした。
物凄いエネルギーが爆発した。
辺りに
あとはもう、闇、闇、闇……。
何もない世界。
身体の方は、硬直したように、ピクリとも動かせない。そのうち、自分に身体があるかどうかさえも怪しくなってきたとき………。
何処かから、カッチカッチカッチと規則正しい音が聞こえてきた。
一体、何の音だ?
身体の感覚、それに次いで失われかけた意識が蘇り、音の正体を探る。
そして、ようやくそれが時計の音だと気づいた途端、徐々に意識がはっきりしていき、やがて・・・・・・
《『震エル紐』終》