頭痛で目が覚める。目が覚めたから、頭痛を覚えたのかもしれない。
昨晩の記憶が曖昧だった。普段から通勤は最寄り駅まで自転車で向かっているので、おそらく昨日の夜も同じようにして家まで帰り着いたのだろう。
たしか法律上では自転車も飲酒運転に含まれるとのことだったが、まぁ、事故を起こさない限りわざわざ咎める者もいないだろう。そして俺が、二日酔いによる頭痛に苛まれているとはいえ、こうして無事に自宅で目を覚ましているのだから事故はなかったのだ。
枕元の時計を見ると、時刻はまだ五時を過ぎた程度、早朝だった。毎朝八時には家を出て会社へ向かう生活サイクルを持つ者としては、無駄に早く起きてしまったという感想を抱かざるを得ない。
得意でもない酒を飲んで記憶も曖昧、意識も朦朧として帰宅したのだろう。座布団を毛布として床に寝ていた俺はスーツを着たままだった。俺は朝方無駄に余ってしまった時間を、とりあえずは風呂に入ることで消費しようとする。
寝起きで今から浴槽を洗うのも面倒なのでシャワーで済ませよう。そう思いひとまず服を脱ごうとすると、ポケットから何かが音を立てて落ちた。自転車の鍵だった。
「あぁ……」
屈んで拾うのも億劫。頭を下げると頭痛がひどくなるのだ。
別に今すぐ拾わなければいけないわけじゃあない。家を出る時に拾えばそれでいい。結局は同じ労力、労力とも言えないような「屈んで拾う」という行動をすることになるのに、俺はその場に鍵を放置しようとした。そのせいだろうか、拾うという行為を放棄した俺は、俺の脳は、代わりとばかりに別のことを思いつく。
思いついたと言うよりは、ひらめいたと言った方が正確だったろう。俺は「ポケットに自転車の鍵が入っていた」ということに違和感を覚えたのだ。
普段の俺は帰宅し次第自転車の鍵を玄関の靴箱の上に投げ置く。ポケットに鍵が入っているという状況は、最寄り駅付近の自転車置き場で鍵を抜いた時から、帰宅時に自転車を使う時までの間にしかない。
つまり、帰宅後ポケットに鍵が入っているということは通常無いのである。当然鍵を無くしてしまわないように、そう習慣づけているためなのだが。ただそんな違和感程度、酔っていたからだろうで片づけられてしまう。深く考える必要もない。
……しかしその時の俺には第六感が備わっていたらしい。何かただならぬ、嫌な感じがした。脱ぎ掛けた服を着なおして、玄関のドアを開け自宅アパートの自転車置き場へと向かう。
「うわ……」
これから費やすことを迫られる労力を思うと体から力が抜けていくようだった。もう二度と活力に漲ることはないだろうというほど、軽く絶望と呼べそうな現実がそこにあった。
自転車置き場に俺の自転車はなかった。昨晩の俺はどうやら朦朧とする意識の中、自転車を駅近くに放置し徒歩で帰ってきたらしい。つまり今日の俺は、いつもより早めに家を出て徒歩で駅まで向かわなくてはならないのである。
「あっ」
いや違う。そうだ、違う、今日は出勤する必要がない。そもそも記憶も曖昧、頭痛で冴えないなどと、このような有り様になるとわかっているのに、翌日に仕事を控えた俺が記憶を失うほど酒を飲むわけがない。今日は土曜日、休日なのだ。金曜日の夜に、翌日が休日だからと調子に乗ってしまったのが、昨日の俺だったのだ。
一安心して家の中に戻る。カレンダーを確認してもやはり今日は土曜日。何も気にすることなく一日中寝転がって過ごしていればいい。
仕事から一時的に解放されたかと思うと頭痛も少し良くなってきた気がする。が、意気揚々とシャワーを浴びていると、俺の脳はようやく本格的な活動を開始した。第六感などに頼らず、論理的に物を考えるようになった。
今日明日と寝転がって過ごせばどうなる。週明け月曜日の俺は、やはり早めに家を出て徒歩で駅に向かわなければならない。今日は偶然早朝に目が覚めたが、俺は基本的に朝には強いわけではない。どちらかと言えば弱いくらいだ。早めに家を出るということは、口で言うほど簡単なことではない。
そう、俺はこの後駅まで歩いて向かい、そのまま自転車を回収して帰宅しなければならないのだ。散歩もいいところである。シャワーから無限に落ち続ける水滴の音に混じって、大きなため息を吐かずにはいられなかった。
私服を着て、その他もろもろ身だしなみを整える。と言っても誰に会うわけでもないので、それほど注意してめかしこむこともない。万が一路上で知り合いにばったり会っても平気な程度には、という基準で身だしなみを整えている。
けれど思えば時刻は未だ五時台を出ない。知り合いとやらも休日の朝早くから外に出ようとは思わないだろう。思ったとすれば、それこそ散歩や運動のためだが、知り合いの中にその手の趣味を持った者は思い当たらない。もちろん、俺が把握していることが全てだとは言わないけれど。
ともかく俺は家を出た。帰りは自転車が使えることもあり、時間にすれば往復で三十分とない。何もそこまで気分を沈めることはないのだ。……と、自分を鼓舞して駅へと歩く。
大きな通りに沿って駅へと向かってもいいのだが、そのルートを使うと、異様に変わるのが遅い信号を通過しなければならない。俺はいつも通りの裏道を使うことにする。
大通り側も裏道も上り坂がある。特に裏道の方は急で、その坂を自転車で上るのは骨が折れる。逆に自宅へ向かって帰る時は爽快に走り抜けられるのだが、今日は徒歩なので行きの苦労がなくて良い。
と、向こうから一人の女性が歩いてくる。服装から見るにウォーキング中というわけではないと思われるその女性は、まったくの無表情で、何かに釘付けされているかのように目を動かさずに坂を下りていた。
彼女の顔立ちは美しかった。彼女のような美人はそうそう見ないし、きっとそう多く存在してもいない。よって俺が多少その女性に視線を引き寄せられたことも、情状酌量の余地が大いにあることだろう。
ただ、俺が彼女を見ずにいられなかった理由は、その容姿の端麗さに引かれたばかりではない。彼女の表情の無さと目の動かないことは、何か人間を逸脱しているように見えたのだ。
表情を無くせ、一点のみを見つめ視線を固定しろ。そう言われれば出来ないこともないのだろうが、彼女もまさか演技の練習をしながら歩いているわけでもあるまい。
どこからどう見ても人間なのに、なぜか機械的な物を感じる。美しさとは一線を越えるとそのような感覚を与える物なのだろうか、などと俗な思考にふけっていると、朝から自転車を取りに行かねばならない現状の気分も忘れられる。早起きは三文の得なんて、こんなことを示すために作られた言葉ではないのだろうけど。
おそらく俺はその女性を不自然に見つめていたのと思うのだが、彼女が俺のことを気にする素振りはなかった。それがまた妙に思えて目が離せなくなる。いい加減不審者になってしまうので目を離さなければ、そう考えた時には、視界の隅にトラックがあった。
背筋が冷えた。本能が危機を知らせている。トラックが視界に映るのはおかしい、エンジンの音も聞こえず、間違いなくほんの少し前までトラックのような大型車両どころか、自転車一台さえ通っていないのに。唐突に視界に現れるとは何かおかしい。
ようやく俺は女性から目を離し、視界の隅にあるトラックを見た。見ようとした。視界の隅にあると認識していたその大型車両は、俺が正面向かって見た時にはすぐ近くまで迫っていた。
運転手がいない。
トラックには運転手が乗っていなかった。スローモーションとなってじわりじわりと近づいてくるトラックを視界の中央に収めながら、俺はすぐに異常事態が起こっていることに気づく。
この急な坂道で、サイドブレーキをかけ忘れた馬鹿がいたのだ。それも今日この坂道をトラックが通るのは見ていないから、俺が通りかかるほんの一瞬前に停められたのだろう。まったく不幸だ。不幸の一言では済ませられないほど、笑えないくらいに不幸だ。
死にたくない、とは思わなかった。轢かれれば死ぬだろう、とは思った。俺の目はトラックを見ることをやめ、前を歩く女性を見る。
数秒前と変わらない無表情。感情が存在しないかのような印象を受ける彼女は、背後に迫る質量の塊に気づいていないのだろう。表情だけではなく、彼女がトラックを避ける素振りをまったく見せないから。気づいていないのだ彼女は。
「あぶないっ!」
俺の伸ばした腕が彼女に当たる寸前に、車体が肩へ触れた感覚がした。
世界が回る。天と地の見分けがつかなくなるほどに、無茶苦茶に回る。アスファルトの灰色と黒が混ざったような色、透けるような空の青、近隣住宅の薄いベージュ色をした壁。それらが混ざり合って滅茶苦茶な色になる。
空を見上げる形の態勢で落ち着いた時、とんでもなく大きな物が衝突する音が聞こえた。たしか坂の下には家があったはずなので、素直に気の毒だと思った。
首を回してみるけれど、女性の姿が見当たらない。仰向けに倒れた状態では視野にも限界があるだろうと、俺は当然立ち上がろうとする。
「あ」
足が動かない。俺はそれ以上動こうとすることをやめた。自分の足を見ようとすることも控えた。現状を、現実を知ってしまえば、きっと脳は耐え難い痛みを送ってくる。
すでに段々と、際限なく増していく痛みを感じながら、俺はポケットからスマホを取り出す。なんと幸運なことか、スマホは画面が割れているだけで起動は問題なく可能だった。不幸中の幸いとはこのことだ。
まずは救急車を呼び、あとのことはそれから考えることにしよう。表情に影響してくるほどに増してきた痛みに気づかないふりをしながら、ダイヤル入力画面を表示する。三桁の数字の入力くらい今でも余裕だ。
「お待ちを」
頭上で声がした。間違いなく女性の声だった。俺の助けようとしたあの女性だろう。無事だったようで何より。
「無事でよかった。今、救急車を呼ぶので」
「その必要はありません」
女性が俺を見下ろしている。俺は足をやられたが、彼女は立ち上がって喋れる程度には無事だったようだ。いや本当に良かった。
……いや、おかしい。俺の視界にはまたおかしな物が映っている。それは迫りくるトラックのような危険な物ではないが、奇妙という点では遥かに勝っていた。
女性の首から火花が散っている。よく耳を澄ませば、ばちばちという音も聞こえる。そして目を凝らして見てみれば、彼女の首から飛び出す配線コードのような物が見えた。
サイドブレーキをかけ忘れたトラックのような、考えれば何が起こっているのかわかる物ならまだ良い。わかったところで解決しなくとも、わかるのなら良い。しかし俺は、今度こそ今目の前で何が起こっているのかを理解できなかった。
「必要はない、と言うより、あなたが呼んではならないのです」
女性は屈み、俺に覆いかぶさるようにして顔を近づけてきた。俺の頭の方に立っている彼女の顔は当然逆さまに映る。女性の顔を逆さまに見た記憶はすぐには思い当たらず、また彼女の機械的な無表情と相まって、現状がひどく異常な事態に思える。
「うっ」
首筋に何か針のような物を刺された。彼女は何も持っていなかったはずだが。
「安心してください、少し眠ってもらうだけです。命も、怪我の治療も保証します。もちろん無償で」
再び立ち上がった彼女は、一切俺に興味を示していないような感情の無い顔で何かを言っていた。俺は急激にひどい眠気に襲われ、彼女の言っていることの意味を考えるほどの余裕がなくなっていた。元々痛みと異常な状況とでキャパオーバーではあった。
瞼を閉じる前、最後に、俺は彼女の中指から注射針のような物が生えているのを見た。そうか彼女はロボットだったのだ、それで全てが説明できるぞ。……そう結論を導き出し満足して、俺は眠りに落ちる。二度と目を覚まさないかもしれない、と思考の隅っこにあった。
俺が助けようとした女性はロボットだった。機械的な無表情は、そのまま彼女が機械だったからというだけの理由だった。さらに彼女が首から火花を散らせていたことを考えると、もし彼女が俺と同じ人間だった場合、きっと俺は何も救えていなかったのだ。
……SFモノの読みすぎではないだろうか。まったくその手のジャンルに興味はなかったはずなのに。そこまで考えて俺は、自分がまだ夢の中にいることを悟った。
目を見開き、上体を起こす。飛び起きたと言っても良いくらいの勢いで俺は意識を取り戻した。なぜもう少し穏やかに目覚められなかったのか。その理由は目が覚めた瞬間、本能的にここが自分の知らない場所だと気づいたからだった。
「お目覚めですか」
俺に声をかけたのはあの女性だった。無表情は相変わらずだったが、視線は極々自然に俺の方を向いて、また稀にそらされたりした。
「ここはどこです」
白いシーツのベッドに、白い布団。いつの間にか着替えさせられていた俺は、これもまた白い服を着せられている。病院のベッドに寝かされていたのだろうか、と考えはするがすぐに否定する。
壁も白い。天井の電灯も白い。不自然なほど白に染まった部屋。何より、この部屋には窓がなかった。ここは病院ではない。より正確に言うならば、俺が知っているような機関によって用意された場所ではない。
「お答えできません」
女性は業務的にそう答えた。答えられないような場所、と答えた。
自分が今おかれている状況が、はたして現実の物なのか。俺はいささか自信が持てずにいた。眠りに落ちる前に見た非現実的な光景、今もすぐ傍に立っている女性がロボットの類だと示す光景。そのような物を見せられて眠り、起きてみればこの様だ。頬をつねってみたくなっても仕方がないだろう。
「おれ……私はなぜここに?」
「怪我の治療のためです。足が折れてらっしゃいましたので」
言われて違和感に気づく。確かに俺は坂道を滑り落ちてきたトラックによって、詳細を確認することを放棄したくなるような怪我を足に負った。……そのはずだけれど、俺の足に痛みはまったくない。包帯が巻かれている感覚もなく、そもそも足が折れた時というのはこうして、治療後普通の態勢で眠っていられるものだったか?
嫌な予感を振り払うように身体の上にかけられている布団をはねのける。すると見えた。俺の膝から下には、見慣れない骨格が取り付けられていた。それに肉はなく、機械の骨組みのようだった。
「完全に元に戻すことは不可能な状態でした」
「……そうですか」
義足、それも両足。俺はアスリートではないので、人生を生き甲斐を奪われたような、そんな喪失感や理不尽は感じなかった。感じなかったけれど、甘んじて受け入れられるほど悟ってもいない。
「あなたは無傷だったんですか」
「事故当初は損傷がありましたが、現在は修復済みです。無傷と言って差し支えありません」
「それはよかった」
微笑むつもりが、自分の顔が彼女を妬むように歪んだ。妬んでいたわけではない。後悔しているわけでもない。ただ欲を言えば、八つ当たりをする対象か見返りが欲しいとは思ってしまっていた。
それ以上俺が何も言わないと見ると、女性は口を開いた。
「澤井さま。澤井さまには現状の説明が必要かと考えられます。今から、わたくしが説明しても構いませんでしょうか」
音程を取りながら喋っているかのようだった。彼女の声はずっと前からそうだったが、今になってようやく彼女の声のみに集中できた。縋るべき対象だと脳が判断したのかもしれない。
彼女が当然のように俺の名前を呼んだこともさほど気にならないほど、俺は何かを諦めていた。
「お願いしたい」
「かしこまりました。ではまず初めに、説明の一環として自己紹介をさせていただきます」
そう言うと彼女は、左右合わせて十本の指、その指先すべてから懐中電灯のような光を放ち始めた。
「わたくしは機械、アンドロイドです。正式な名称は長くなってしまうので、単純にアンドロイドから取って「アン」と憶えていただければ支障ありません」
そうだろうな、と思ってしまう自分がいた。あり得ない、と叫ぶ自分もいた。俺は今までの人生で得た価値観を、後者の叫び声を尊重したかった。ここで何も言わずに納得するのは、あまりに短絡的だと考えたから。見たものを見たというだけの理由で信じてしまうことは、盲目的であるはずなのだ。
「信じられない。指先を光らせるくらい、何かのマジック、手品かもしれない。アンドロイドだなんて、あなたはどう見ても人間だ」
どう見てもという言葉は正確でなかった。人間だと信じて彼女を見れば人間に、アンドロイドだと信じて彼女を見ればアンドロイドに、見方によって彼女の正体は俺の中でいくらでも変容する。誰でもそうだろう。
「信じていただけませんか」
「ああ」
「どうすれば信じていただけますか」
「足の裏からジェットでも噴出して空を飛ぶとか」
「それは手品の類ではないと断言できることですか」
「……わかった、わかったよ」
手品かもしれない。そう言ってしまえば、何もかもが手品に見えてしまう。科学を知らぬ者が飛行機を見て「あんな鉄の塊が空を飛ぶなんてトリックがあるに決まっている」と言うようなものだ。トリックと呼べば呼べないこともない原理があるにはあるが、それが何かを否定する理由にはならない。
しかし、なぜ飛行機が飛ぶのかを詳しく知らない人は多くとも、彼女の存在をあっさりと認められる人はいないだろう。飛行機が飛ぶ原理を知らなくても、現代の技術で人間と見分けのつかないアンドロイドを作れるわけがないことは、子どもでも知っていることだ。
「何を言われても、何を見せられても俺は……私はあなたがアンドロイドだと信じられないだろう。それは認めましょう。でも、それはあり得ないからだ。あなたのようなアンドロイドが現代に存在しているなんてことは信じられないんですよ」
彼女がアンドロイドであると認めてしまえば俺は、全ての自然災害は人為的に引き起こされているものだという話も信じる、あるいは真実かもしれないと疑わなければならなくなる。あり得ないことをあり得ないと断言できなければ、夢や絵空事のようなことも否定できなくなってしまう。
あり得ないのだ、何もかもが。しかしだからといって、ここで彼女の言うことを片っ端から否定しても何にもならない。それも事実である。
「信じられないことも無理はありません。信じられないのは、あなたが現代科学に先入観を持っているからでしょう」
「先入観?」
「はい。あなたは夢を語る子どもなのです」
女性の言葉が、理解に努力を要するものとなる。しかし機械的な彼女が、機械を自称する彼女が、詩を歌うとも思えない。いや、思いたくなかった。俺は話の先を促す。
「ボクは将来、パパと同じサラリーマンになるんだ。そう語る子どもが、父親が毎日会社でどのような仕事をしているのか、正しく理解していると思いますか」
「いや」
彼女が例え話にサラリーマンという夢のない職業を持ち出したのは、俺がその職業に就いているからだろう。知っているのだ。名前はもちろん、俺の全てを。
「サラリーマンがなんであるかを知るのはサラリーマンだけです。野球選手になりたいと言う少年も、パティシエになりたいと言う少女も、その職業に就いている人が日々何をしているのかは知らないのです。それは実際になった者のみが知ることなのです」
「つまり、私は科学を何も知らないと?」
「その通りです」
野球選手を見て、血のにじむような努力を想像せずに、自分がスターになることばかりを考える小学生のように。俺は現代の科学とはこういう物だろうと決めている。そして実際の科学とは、俺が考えている物とは違う。彼女が言うには、そういうことらしい。
すると我が国は国民に嘘の技術レベルを伝えていることになるが、そのようなことがあり得るのだろうか。それこそSF物の創作でもあるまいに。
「実際の科学力は、人間と見分けがつかないほどのアンドロイドを製作できるほどのレベルにまで達していると?」
「その通りです」
「信じられないな」
「容易く信じられるものを真実とし、そうでないものを虚構として生きていくことを選択するのであれば。それも澤井さまの自由です」
そう言ってのける彼女の目線はひどく冷たかった。人の情などこもっていないようなその瞳には、実際に感情などこれっぽっちもないのだろう。
「……それで私は、一生この白い部屋の中ですか」
「いいえ、澤井さまが望むのならば、この施設の中を自由に動き回っていただいて構いません。……そうです、わたくしはそのことについて説明を試みたのでした。現在済んだ工程といえば自己紹介程度です」
「あぁ、話を脱線させて申し訳ない。説明の続きを頼めますか」
俺は半ば諦めかかっていた。元通りの生活に戻ることを、現状を理解することを。アンドロイドを自称し、どうやらそれが真実であるらしいことを示す彼女の言うことを信じるか否か。信じようが信じまいが、それをどう受け止めて今後生きていくのか。そして、どうやって外に出るのか。
俺の足を治療した誰かは俺にとって善人なのか悪人なのか。一つ疑いだせば全てを疑わねばならなくなりキリがない。アンドロイドを自称する彼女の話を信じる信じないのではなく、俺はこのまま妥協して流されるままに生きるべきなのではないか、そう思えた。
「まず、この部屋は澤井さまを安静に置いておくための部屋です。この部屋で暮らすも、他の場所へ行くも、全て澤井さまの自由となります」
「他の場所というのはなんなのです」
「様々あります。食堂、娯楽室、中庭。一通りのことができるだけの設備はそろっているはずです」
「中庭があるのですか」
庭があるとは意外だった。窓のないこの部屋を見て俺が抱いた第一印象は「牢」であったからだ。
窓のない部屋から出ることを許されなければ、俺は外界との干渉の一切を絶たれることになる。インターネットがあればその限りではないが、この部屋に連れてこられたからにはそのような物与えられないだろうと考えられる。あとは唯一の出入り口に外から鍵をかけられる仕組みでもあれば、立派な牢の完成だ。
なぜ俺がそのような仕打ちを受けなければならないのか、と思わないこともない。が、今の状況から少しロマン的な考え方をしてみれば俺は、国の機密情報を知ったがゆえに監禁される身ということになる。アンドロイドがアンドロイドであるということを知ったばかりに、この白い部屋に一生閉じ込められるというのも、目の前に立つ女性がアンドロイドだと仮定してしまえば、今さら現実感も何もなく受け入れられる。
が、中庭があるらしい。外界との干渉を絶たれたと考えるには早計だったということになるのだ。
「はい、人間の健やかな生活には外出が欠かせません。よって庭も用意してあります」
「なるほど。……一つ質問をしても?」
「どうぞなんなりと」
「そもそもここは、いったいどういう施設なのです。何のために存在しているのです」
病院ではない。そして監禁するための施設でもない。そうなると、はたしてここの存在意義はどこへ?
俺は一つの可能性を考えていた。人を閉じ込めるのに、わざわざ専用の牢を作る必要はないのかもしれない。誘拐監禁事件の中にはそう少なくもない割合で、犯人の自宅に被害者が監禁されている例があるのではないか。……つまり、ここはアンドロイドを製作するための施設なのではないか、と。
「なんのために、ですか。難しい質問です」
「そんなことはないでしょう」
「いいえ、大変難しい質問です。……わたくしは澤井さまに、澤井さまにとってのこの施設の存在意義を説明すればよろしいのでしょうか? それとも、澤井さま以外にとっての存在意義を説明すればよろしいのでしょうか?」
ピンと来た。直感的に、俺は自分の思い描いた説が正しいことを理解した。
「私以外って、あなたを作った人のことですか」
彼女が静止したように見えた。指先さえ動かないような、まるで凍り付いてしまったかのような静止。人間の反応とは違うが、もしや彼女は今驚いたのではないか。彼女がアンドロイドという機械の類なのだと思えば、マシンが情報処理を行う際のガリガリといった音が聞こえてきそうだった。
そう長い間彼女が動きを止めることはなく、口を閉じている時間は短かった。さすが一般人は知らない水準の科学力なのか、あっという間に彼女は平静を取り戻す。
「勘の良い方ですね。御見それしました」
「それはどうも。質問の答えはイエスと受け取ってよろしいですかね」
「はい。澤井さまにおっしゃる通り、この施設には数人の研究者が滞在しております。しかし彼ら彼女らが居る場所は地下で、ここは地上です。澤井さまと遭遇する人物はいないでしょう」
「なるほど。ちなみにこの施設の地上に私以外の人間はいますか?」
「いいえ、澤井さまお一人のみです」
「……そうですか」
それではやはり何もわからない。食堂、娯楽室、中庭……それらの存在意義はなんなのか。科学者たちが使わないのであれば、いったいなんのために設置された物なのか。まさか俺のために急遽設置されたわけもあるまい。
「澤井さま」
「なんですか」
「わたくし恐れながら、人間と同じと言っても差し支えないほど、人間に酷似していることを自負しております」
それはおかしい、彼女は間違いなく人間ではないのだ。だが彼女のようなアンドロイドの存在を認めるというのも受け入れがたいことだ。しかし、彼女が人間だということを信じるよりは、あらゆる意味でアンドロイドである説の方がよほど飲み込みやすい。
人間そっくりのアンドロイドを作るよりも、人間にアンドロイドらしい機能を埋め込む方が困難だろう。人の体はそこまで丈夫にできていない。
「それはどうですか。俺は指先から光を放ったり注射針を出したりする人間なんて見たことありませんよ。首の皮膚が傷つけば、その下から配線コードのような物と火花が覗く人間も見たことありません」
「そのような部分を隠せば、人間と何も違いはないはずです」
そう言われればその通りなのかもしれないけれど、これも先入観だろうか? 俺には彼女がどうも人間と同じ風には見えない。感情が抜け落ちたかのような表情、不自然なほどにまっすぐ正面を見つめる目、そのような細かい部分が俺の目には機械的に映る。
「……まぁ、じゃあそういうことにしますけど。それでなぜ急に、そのようなことを自負しているとわざわざ伝えてくれたのですか」
「さきほどもお伝えしたように、当施設には他に人がいません。澤井さまが孤独を感じるようでしたら、わたくしがそれをケアしようと考えたためです」
朝は一人で起きて、一人で三食の食事を摂る。読書をするにも一人、映画を見るにも一人、ゲームをするにも一人、庭に出るにも一人。そうして夜になれば、一人で布団をかぶり、次のまた同じ一日へ向かう。
たしかに考えてみれば少々厳しい。気がおかしくなりそうだとまでは言わないが、滅入ることくらいはあるかもしれない。しかし、それを和らげるのが彼女だというのなら、それは無理というものだろう。
「アンとお呼びすればいいのでしたか」
「はい」
「私は自分の住む国が、国民に自国の科学力技術力を正しく伝えていなかったとは思えません。信じられません」
「さようでございますか」
「でもアン、キミは間違いなくアンドロイド、ロボット、機械だ。人間じゃない」
いっさいの反応を示さず、彼女は俺の質問に答えていた時と同じ調子で淡々と言った。
「なるほど、聞いていた通りです。人間とは不思議なものですね」
「どうしてです」
「時に論理的でないことを言う。実に不可思議です」
俺はまさか、ここまで早くに機械から馬鹿にされる時が来るとは思っていなかった。せいぜい数十年後だと思っていた。実際その機会に接してみれば、なんというかこれはもう、笑うことしかできなかった。
望むのなら部屋の外へ。そう言われたので、遠慮なく外へ出させてもらった。義足にはまだ慣れないだろうということで、アンがどこかから持ってきた車椅子に乗っている。電動で動くタイプだった。
「はぁ……」
外へ出てみると、これもまた白一色な壁の廊下が続いていた。ところどころに今俺が出てきた部屋の扉のように見える物があるが、アンの言うことが正しければその部屋の中には誰もいない。長い廊下、複数の部屋に、人っ子一人いないのだ。
「どうなさいましたか」
アンは俺の後ろを歩いてついてきている。完全に背後に立っているわけではなく斜め後ろを陣取ってついてきているので、見上げながら振り向けば彼女の顔が見える。
「本当にここには誰もいないので?」
「誰もいません」
「……また質問をしたい。けれどその前に、私はあなたにどのような口調で話しかけるべきなんでしょうか?」
誰もいない、真っ白な施設に二人きり。まだ廊下へ出たばかりで全容は把握していないけれど、長々と続くその道を見る限り、この施設はかなり大きな規模の物と考えられる。そんな中、アンドロイドと二人きり。
初対面の相手に馴れ馴れしい口をきくつもりはない。俺はそのような人間ではない。そう思っていたけれど、このような場所このような現状ではそれがひどく馬鹿馬鹿しいことのように思える。マナーだ何だと口にする人間はどこにもいないのだ。
そしてアン、彼女はアンドロイドである。年上も年下も、先輩も後輩も上司も部下もない、そもそも種族が違う相手である。彼女に気を遣ったような話し方をするのならば、俺はそれが自分であろうとも「滑稽だ」と笑うだろう。
「澤井さまのお好きなように話しかけていただければ幸いです」
「チンピラみたいな口調でもですか」
「澤井さまがそうしたいのであれば」
まるで召し使いのようだ。科学技術の賜物であるはずの彼女が、技術そのものを隠蔽するためのメイドとして使われるだなんて、そんなことがあるとは思えない。どれだけ飲み込みがたい現実が目の前にあるとしても、人としての考え方は俺も研究者とやらも逸脱してはいないだろう。
もったいなさすぎるのだ、メイドや召し使いにアンドロイドを使うのは。スマートフォンが世に普及したように、精密な人型アンドロイドが当然のように出回る時代が来れば価値観も変わるのだろうが、今の時代の価値観では、アンを召し使いとして俺に仕えさせるのはあまりにもったいなさすぎる。
まさかアンドロイドはすでに量産が可能な領域にまで達している? そう考えたが、はたしてどうだろうか。考えてみれば俺はそもそも、研究者たちがアンドロイドを製作する動機さえも知らないのだ。何もわかるはずがない。
「じゃあ好きなように喋るし、一人称も俺にするけどいい?」
「もちろんです」
耳障りにならない程度の電動音を立てながら、車椅子は廊下の端まで到達した。角を曲がるとまた同じような長い廊下が続いていたが、その途中の壁に今までとは違った扉が設置されているのが確認できた。
その扉はどうやら両開きだと思われる大きさ、形をしている。俺はその扉がどこへ通じる物なのかを確かめるために前進する。車椅子の走るスピードは感情によって加速することなどなかった。
「アン、……って呼び捨てにしているけど、これもいいんだよな」
「はい」
「アンは見た目としては俺と変わらない、どころか年下のように見えるんだけど、アンドロイドに年齢の概念はあるのか?」
見た目が明らかに俺よりも年上だったのなら、相手が人間でなくとも俺は敬語を使っていたかもしれない。なぜ丁寧な口調で喋るのが馬鹿馬鹿しくなるのかと言えば、それは彼女の見た目のためなのだ。
「どの程度の年齢に似せて作るか、という意味での年齢は決まっています。ちなみに老化を再現する技術は未だにありません」
「冗談抜きで永遠の○○歳が作られてしまうわけか」
「そうなりますね」
老化を再現する技術はない。そのような情報を俺に話してもいいのだろうか。俺だって日本国民だ、今まで他の国民と同じように科学技術を隠蔽されてきたのに。
非現実的な響きだが、やはり俺をこの施設へ入れた者たちは、機密の保持のために俺を閉じ込めておくつもりなのかもしれない。どうせ外へ出ない者へどんな情報を教えても同じこと、ということなのかもしれない。
「それで、何歳くらいを想定して作られているの」
「明確な数字は決められていません。今の段階ではあまり見た目にこだわっても仕方ありませんし、大雑把ですよ。……ただまぁ、少なくとも澤井さまの年代よりは下であることは確かですね」
やはりそうだ。俺はもう、とうに二十代も半分を過ぎてしまったが、彼女はまだ十分な若さを残しているように見える。だからこそ感情の感じられない表情が余計に気になってしまうのだが、それがどう問題になるのか俺にはわからない。わからなくても良いことだ。
大きな扉の前につくと、アンは俺がその扉に興味を示していることに気づいていたかのように扉を押し開いた。開かれたドアの先でまず最初に見えた物は、長いテーブルとその上に大量に置かれた箸、フォークやスプーンなどの類だった。
「ここが食堂か」
「はい」
会社の食堂と同じ程度に規模は大きい。数十人は一度に会することができそうな食堂に、俺はここが何のためにあるのかと疑問を抱かざるを得なかった。
「どうしてこうも広いんだ。俺以外にはここには誰もいないのだろう?」
「ゆくゆくは、食堂の利用者も増える予定があるのです」
聞き逃せない情報だった。俺が最初に一人で、以降もこの施設には人が来ると?
しかしアンは俺の孤独をケアするなどと言っていた。絶対に人が来る、と確定しているわけではないらしい。その程度に受け止めておく。
「他に人が来る可能性があるのか。それとも研究者とやらが食べに来るって話か?」
研究者たちが地上の食堂に現れる可能性は低い、というかほぼ無いと思っている。アンはハッキリと「俺と研究者が遭遇することはない」と言ったのだ。嘘を吐くにしても、そのようなタイミングで吐くことはないだろう。意味がない。
「いいえ。わたくしのようなアンドロイドが、いずれは人間と同じ食事を取るという意味です」
「なに」
アンドロイドだと言うのだから、彼女がふとした時に体のどこかからコンセントを取り出し繋いで充電をしていても、多少驚きはしても目を疑うことはない。むしろそれが当然だと思える。アンドロイドが人間と同じく食事をするという方が、見た目はともかく本質的には信じがたい光景になるだろう。
「アンドロイドが人間の食事からエネルギーを得るようになるのか」
「それを目指しております」
「……少し喋りすぎでは? 俺もしかして近いうちに消されるのかな」
人から情報が漏えいすることを防ぐには監禁する他に、そもそも殺してしまうという方法がある。死人に口なしというくらい、それが一番確実で手っ取り早い方法でもあるはずだ。
そう考えれば俺が今生きていることさえ不思議に思えてくる。もしかすると俺がここへ連れてこられた理由は、機密保持のためではないのかもしれない。
「何やら物騒なことをお考えのようですが、わたくしが澤井さまに危害を加えることは絶対にありません。わたくし以外の何者も、絶対に危害を加えません。安心してお過ごしください」
「過ごすというのは、この施設の中で一生ということか」
「残念ながらそうなります。施設の中の澤井さまの自由は保障させていただきますが、この施設自体から抜け出すことは絶対に許可できません。抜け出そうとされた場合は危害を加えないという約束も無効となりますので、その点くれぐれもご注意を」
車椅子で移動する身で魔が差そうはずもない。やはり俺は監禁されているようだった。アンの言う通りここまで自由の保障されている監禁が、はたして監禁と呼べるのかはわからないけれど。
食堂には券売機らしき機会が立っていた。試しに近づいてみると、人を認識したためか券売機の画面が光を放つ。
「ゴ注文ヲオ選ビクダサイ」
アンとは違ってひどく機械的な声で券売機は喋った。喋ったというより、あらかじめ登録されている音声の内の一つを再生したといった感じだ。
「ここで画面にタッチするとどうなる。人がいないのなら、料理人もいないのだろう?」
「ロボットが料理をお出しします。ロボットに料理を作る以外の機能はないので、わたくしのような人型ではありません」
そうだろう。音声を聞いただけで想像がつく。
今は食欲がないので俺は食堂をあとにする。扉はまたアンが開いた。
「中庭というのはどこにあるんだ」
「ご案内します。わたくしが車椅子を押すという手もありますが、いかがいたしましょう」
「うん、じゃあ頼む」
口頭なり地図なりで道を教わりながら自分で進むのでも良いが、わざわざ面倒な道を選ぶほどのプライドが俺にはなかった。また、アンに車椅子の操縦を任せることへの恐怖もなかった。
彼女の言葉には真実味がある。信用しているわけではない。ただ、俺が逃げようとすれば危害を加えることもいとわない、ということには納得できる。状況的に当然そうなってしまうだろうと思える。納得というのはそれを受け入れたという意味ではないが、彼女は自分で言ったことは、責任をもって実行するだろうと確信することはできる。
逃げれば危害を加えるという言葉に嘘がないのなら、おとなしくしていれば危害を加えないという言葉にも、また嘘はないだろう。
「ところで澤井さま。澤井さまは、なぜこの施設へ連れてこられたのか。また、なぜここから出ようとするのであれば危害を加えるなどとわたくしから言われるのか、理解していらっしゃいますか」
食堂まで来た廊下を引き返し、角を曲がって元のただただ長く誰も入っていない部屋を通り過ぎるのみの廊下にまで帰ってきてアンが問うてくる。
「機密保持のためじゃないのか? 俺はアンがアンドロイドだと知ってしまった。国……かどうかはわからないけれど、アンドロイドの存在を知られては困る人たちがいる。だから俺は閉じ込められている」
「その通りです。聡明ですね」
「なぜそんなことを訊いたんだい」
自らの口で語らせることで俺にプレッシャーでも与えようとしたのか。それとも、俺が自分の立場を正確に理解していなければ何か不都合があるのか。
「なぜ自分が今の状況にあるのか。それを理解しているのといないのでは、人間の精神に及ぼすダメージに大きな違いが出ると聞いています。心は理不尽に弱いと」
「なるほど、気を遣ってくれたのか」
「気を遣うと言うほどのことでもありませんが、そのように考えていただいて支障ないです」
彼女、アンの「聞いた」という人間に対する知識というのは、要するにアンを製作した人物らから教え込まれたものなのだろう。教えるというのが人間にするのと同じようなものなのか、プログラミングの類なのかはわからないけれど。
俺の寝ていた部屋を通り過ぎ、長い廊下を突き抜け角を曲がると、今度は正面に外へと続いていそうな大きな扉を発見した。この施設は確かにかなり大きな規模の物だが、構造自体は単純な四角形になっているらしい。
そのまま前進し扉を開くところまで行くと、案の定その先は外だった。……いや、外を模した空間だった。
「一瞬、あっさり外に出たのかとあせったよ」
「さきほども申しましたが、申し訳ないのですが澤井さまを外へ出すことはできません」
地面は芝生で覆われ、大きな樹が一本庭の中心に立っている。太陽の光もさんさんと惜しみなく差している。けれどもその中庭という空間は、周囲を他の場所と変わらぬ白い壁で覆われ、頭上にはガラスの天井が張られていた。
「外出はここで我慢していただくことになります。どうかご理解を」
「あぁ、構わないよ。元々俺はアウトドア派ってわけでもなかったんだ」
一日中PCとテレビの前を行ったり来たり、他に行く場所といえば寝室と風呂とトイレか。というような生活でも特に不満は感じない達なので、休日はよくそのようにして過ごしていた。
もちろん気分転換のような意味で外へ出て遊ぶこともあった。友人と出かけることもあった。が、それを取り上げられれば死んでしまう、気が狂ってしまうというわけではない。ガラス越しとはいえ、日光を浴びさせてもらえるだけありがたい話のように思える。
「あっ、ちょっと待て」
「いかがいたしましたか」
「俺がここに監禁されることはわかった。でもお前、それをどうやって俺以外の人に説明するんだ? 連絡が取れなくなれば俺の親だって心配くらいするだろうし、無断欠勤が続けば会社も同じだ。行方不明という扱いになっているのか?」
どんな機能を持っているのか全く把握できていないアンドロイドを相手に喧嘩を売るつもりはないが、黙って言われるがまま監禁されるつもりだってない。無謀な脱走を試みようとは思わないが、俺だって人間だ。誰かが俺を助けようとしてくれるのならば、俺は全力で助かろうとする。
俺を探そうとする人物がもしかするといるかもしれない。そう考えると、あながちゲームオーバーが決定したというわけでもなさそうだ。
「澤井さまのおっしゃる通り、表向き澤井さまは行方不明者という扱いになっております。警察も捜索するでしょう」
「それを煙に巻ける自信があるのか」
「捜索するフリをするでしょう」
言葉が出なかった。どこかではそんなことだろうと思っていたので絶望したわけではないのだが、なんと言っていいのかがわからなかった。
「わたくしは国の重要機密です。警察は国家権力です。国を裏切る警察はありません」
「……まぁ、そりゃそうか」
「澤井さま、わたくしは澤井さまに決して不自由な思いはさせません。何か要望があればおっしゃってください。できる限りは叶えられるように努力しましょう。ですから、どうか逃げることなどはお考えにならないよう……」
聞いただけなら、いやに良い待遇だ。不自然に良い待遇だ。可能な限り要望を叶えようだなんて、普通に生きていれば誰からも言われることはないセリフだろう。きっとまっとうに働いた結果としてそのようなセリフを聞くことになれば、俺は人生登るところまで登りつめたと確信していただろう。
しかし、このような状況ではそんなセリフもまったく嬉しくない。むしろ嫌気がさす。どんな要望にも答えると言い放つくらいに、俺を逃がすつもりはないということなのだから。
「どうしてそんなに俺は優遇されるんだ。そんなに俺に逃げられては困るのか。キミは、アンは俺の逃走を止められる性能がないのか」
日の差す中庭で、俺は斜め後ろに立つアンの目を見て問うた。
「そうではありません。これは、わたくしを作った人の言葉ですが」
彼女は機械らしく一切の感情を見せない表情で、授かった言葉を正しく俺に伝えた。
「研究者、科学者も人間です。良心があります。できれば血も死体も見たくないのです」
彼女自身が思っていることではない。それくらいのことは顔を見ればわかった。
「……俺も同感だよ。死にたくない」
おとなしくしているよ、と伝えるとアンは俺に礼を言った。表情は相変わらずこれっぽっちも変わらなかった。
残る一つの大部屋である娯楽室に到着した頃、俺は部屋を見てまわる気力を失っていた。けれども、どうやら一生ここから出ることは叶わないように思える状況で、施設内に何が設置されているのかを把握しないわけにはいかなかった。俺の行動は気力だけを理由に決定してしまってはならないのだ。
業務的に部屋を見てまわった。大きなスクリーンに様々な作品群が用意された上映室に、年代問わず数多のゲームソフトが用意されたプレイルーム。図書館のような場所もあり、麻雀やビリヤードなどの玩具も置いてあった。
異様な気合の入りようだ。この施設で最も規模の大きな部屋は間違いなくここだろう。アンの言っていた、俺をここへ閉じ込めた者たちにも良心はあるという言葉を思い出す。しかし良心の一言で片づけるには、いささか俺は手厚くもてなされすぎてはいないだろうか。
「澤井さま」
異様なほどに良い環境を用意してもらっている。そのこと自体は素直に嬉しい、もしくは今後の生活に安心感が得られるのだが……。俺の心が沈んだままであることは、アンにも伝わっているようだった。
「申し訳ありませんでした、澤井さま。もしお休みが必要なようでしたら、一度部屋へ」
「いや、いい。休んだところで何も変わらない。案内を続けてくれ」
なぜ俺の機嫌が悪いのか。なぜアンが謝るのか。その理由はほんの数分前にあった。
中庭を出た後、俺はトイレに行きたくなったのだ。アンにそれを伝えるまで、トイレに行きたくなる程度、取るに足らない日常生活の一環だとしか捉えていなかった。しかしその認識は違った。甘く考えすぎていた。
車椅子で移動するうち、俺は自分の足が両足とも義足になっていることを忘れていたのだ。一人で立ち歩けなくとも問題なく移動できてしまう環境を用意されたが為に、一人では立ち歩くこともできないという不便が何たるかを忘れていたのだ。
食堂で聞いた話、ゆくゆくは複数のアンドロイドこの施設を使うらしい。それらの者たちに羞恥心という機能が搭載されるのか俺は知らないが、おそらくされるのだろうとは推測できた。
トイレの出入り口は細く入り組んだ形に折れ曲がっていた。入り組んだという表現は、車椅子を使う者としての視点から言わせてもらえばの話であって、日本の足で立って歩くことのできる者にとっては取るに足らない曲がり角でしかないのだろう。が、廊下からトイレ内への視線を遮るためのその構造は、結果として車椅子の侵入を阻んだ。
車椅子は思ったよりも横幅があり、また小回りの利く物でもなかった。トイレに行こうと思えば立って歩くしかないのだ。一人でそれが出来ないというのならば、誰かに力を貸してもらわなければならない。……普通そういった介護士の役は、同性の者がするものだろう。
辱めを受けた、というのが最も俺の感情を的確に表す表現なのではなかろうか。感情に乏しいどころか感情の存在すら怪しいアンには、当然のように羞恥心という機能は搭載されていなかったようだったが、だから全てが丸く収まったというわけではない。
「こちらは運動をするための部屋になります。様々な器具が揃えられていますので、スポーツジムなどと似たような場所になっているかと思います。さらには体育館程度の規模のフィールドも用意されていますが」
「アン、今まで紹介してもらった部屋以外にも、娯楽室にはまだ部屋はあるのか」
「いえ、ここが最後になります。映画、ゲーム、本、運動。これら以外に何か必要な物がありますでしょうか。……あ、プールはまだ紹介していませんがきちんと用意してあります」
「そうか……」
プールまであるとは驚きだ。頼めばドーム型の野球場でも作ってくれそうな勢いさえ感じる。もちろん俺はどうやら手厚くもてなされているらしいとはいえ、わがままを聞き入れてもらえる理由のある立場ではないのだが。
しかし、さっそく一つのわがままには付き合ってもらわなければならない。どうやら俺の望む施設がここにはないらしいから。
「アン、新たに設置して欲しい物があるんだけど、そういう要望は言えば通るのか?」
「えぇ、はい。可能な限りは用意させていただきたいと考えております」
「では、リハビリをするための場所を用意してほしい。運動をするためのスペースを削ってもらっても構わないから」
早急に義足を使いこなさなくてはならない。片足が義足の人の話はよく聞くが、両足となるとそうそう聞いたこともないように思える。が、出来る出来ないの話ではなく、出来るようにならなければならないのだ。
「……澤井さま、大変失礼だとは思うのですが、わたくしの意見を申し上げてもよろしいでしょうか」
「ああ」
「澤井さまが不便を感じないよう、わたくしが身の回りのことは全て行うとお約束します。それ自体が不便、不愉快という場合は……。そう、例えば、身体に障がいのある人のためのトイレを設置することくらい」
「アン、違う。そうじゃない」
アンの言おうとすることは最もだった。一人でトイレに行くために義足で歩けるようにリハビリに励むのは、もちろん悪いことではないのだが、いかんせん非効率的すぎる。
しかし俺は何も、トイレに立つためだけに義足に慣れようというのではない。
「車椅子が壊れない保障はない。火事が起こらない保障もなければ、義足に慣れないままで安全に避難できる保障もない。アンだってそう、壊れない保障なんてない。何も保障されていないんだ、歩けるようになっていて損をすることはないだろう」
言うと、アンはまた凍り付くかのように固まり、しばらく動きを止めた。やがて答えが出れば、彼女はそれを言葉にする。
「車椅子なら予備を複数用意いたしましょう。火事に限らず、何か事故や災害が起こった時は必ずお守りすると誓います。澤井さま、あなたが火事からの避難という名目で外へ出ることは許可されていないのですから、そうするほかありません」
「アンが故障した場合は?」
「それは……。……申し訳ありません、わたくしのような人間に酷似したアンドロイドは、現在わたくし一機のみしか存在しておりませんので、代わりはききません。しかし、その場合は多少機能が劣るとはいえ、澤井さまに不便な思いをさせないようなロボットを」
「そんなに俺が歩けるようになってしまっては困るのか」
「いえ、そんなことは決して……」
またアンは動きを止めた。俺は彼女が思考に深く潜り込む時、人間が腕を組んで考え事をする時と同じような理由で、彼女は動きを止めるのだと考えていた。
しかし新たに別の説が浮かぶ。もしや彼女は、研究者たちとやらに通信を送っているのではないだろうか。リハビリのための部屋を作るべきか否か、アンを介して何者かが今思考しているのではないだろうか。
アンがアンドロイドであることを目撃し知ってしまったがために、俺は研究者たちにこの施設へ閉じ込められた。下手をすれば外の世界よりも恵まれた環境を用意されはしたが、どうやら良心を持っているらしい彼ら彼女らがどういった人物なのかは、アンしか知らない。
いったいその者たちは俺をどう見ているのだろうか。本当に良心なんかでこの環境を用意しているのだろうか。俺はもしかして何も知らないのではないか。知っていることといえば、研究者たちと繋がっているアンから伝えられたことだけなのだから
「澤井さま」
「うん?」
「リハビリルーム、ご用意します」
「そうか。ありがとう……と伝えてくれ」
かまをかける……というほどのことでもない。思いつきのような、悪い冗談を言うのとさして変わらないような気で言った。
「ありがとう、ですか。かしこまりました。……やはり澤井さまは聡明ですね」
聡明。それがアンの出す称賛の言葉であったのか、研究者たちの出す皮肉であったのかは、これもまたやはり俺の知ることではないのだった。
リハビリルームは体育館程度の規模と言われていたスペースが使われることになったらしい。言おうと思えばつまりはその場所を改造するのだと言えるわけだが、改造という単語から感じるほど格好の良いことでもないだろう。
工事が行われる間の生活はひどいものだった。俺は義足の不便さを身に染みて覚えた時に「辱め」という言葉を使ったが、あれはまだ序の口であったのだ。それを知ることになったのは工事が始まったばかり、初日の日だったのだが、無論出来ることなら知りたくなどなかった。
澤井さま、工事を行うための人物が数名施設内に入りますが、彼らと澤井さまの接触は一切禁じられております。ゆえに、どうかお許しください。そう言われ、どこかへ移動しようと思えば毎度ご丁寧に目隠しをされ、車椅子の上で指先さえ動かさないようにと命令される生活。当然声を発することも許されない。やはり良心など嘘っぱちだと確信したものだ。
いざリハビリ開始という日が訪れる頃には、すでに俺はあらゆることに慣れてしまっていた。何かを隠し持つ疑いがあるので衣服の着装を禁ずると言われれば、おそらく今の俺なら涼しい顔で命令に従うだろう。
よってリハビリに励む理由のほとんどは「せっかくあるから」「もったいないから」などという情けないものになっている。設置を頼んだからには使わなければならない、という感覚ももちろんあった。良心なら俺の中にある。
「くそっ!」
義足のリハビリとはどのような物なのか、小学校の頃に道徳の教科書か何かでチラと見た記憶があるが、そんな物では何も知らないのと同じ。俺はどちらかといえば楽観主義であったのかそれほど不安は感じていなかったのだが、実際挑戦してみると楽観主義は吹き飛んだ。
そもそもバランスが取れない。肉と骨で構成された、隈なく自分の神経が通っている足という物がどれだけ便利だったか、どれだけ複雑な働きをしていたのかをようやく理解するハメになるくらいだ。
義足と言っても所詮は棒、踏ん張るという概念がない。またしても記憶は小学校の頃に戻り、今度は竹馬を思い出していた。もちろん義足はあれとまったく別物なのだが、竹馬と人間の足どちらが近いかと言われれば、おそらく前者だろう。
そんな感覚が、ああもう俺の足は失われてしまって二度と返ってこないのだなという思いを湧かせる。俺がアスリートだったなら発狂していただろう。
「申し訳ありません澤井さま、わたくし医学的な知識は大して入っていないものでして。おそらく専門の方を呼べるとは思いますが」
「いい、いらない。義足で歩くくらい、気合で出来ないことでもないだろう」
「澤井さま……」
無謀だ。聡明かと思ったが、お前への認識を改めなければならない。……そのような内心が、ぴくりとも動かない彼女の顔から察知できた気がする。彼女の向こう側にいる研究者たちの内心が透けて見えたのか、俺の被害妄想かのどちらかであろう。
支えとなる手すりを握り、ほとんど腕の力だけで立ち上がる。再び自力での歩行に挑むが、バランスが取れないことはもちろん、痛みが耐え難いものになってきた。
義足はあくまで義足、足ではない。元々存在しない物へ体重をかけ、重心を預けていれば、物と自分の体の間、付け根の部分に痛みが生じるのも当然かと思われる。
義足の扱いに慣れていけば痛みの生じない体重、重心のかけ方移動の仕方もわかってくるのだろうが、今の段階ではまったく先が見えない。
リハビリ初日はまったく成果が上がることはなく、せいぜい「義足で歩くことは簡単ではない」という経験を得た程度で終わってしまった。また明日挑むと捨て台詞を吐いて、車椅子に乗り自分の部屋に戻る俺に対して、アンが何かを言うことはなかった。
もうやめておけという否定も、明日も頑張れという肯定も、彼女は俺の行動に対していかなる反応も意見も示さなかった。俺としてはそれが理想のことであったが、あの感情無さ気なアンドロイドは狙ってそうしているわけでもないのだろう。
後日、俺はまた義足での歩行に挑む。アンは少し離れた場所に座りそれを見守るのみ、それ以外には何もしなかった。何も言葉を発さず、動くこともない。
しかし俺が話しかければ、彼女はしっかりとそれに受け答えしてくれる。
「なあ、アン」
「なんでしょうか」
「アンのようなアンドロイドというのは、なんのために作られているんだ」
いつまでたっても上達しない自分への苛立ちと、少しずつだが確実に蓄積される痛みを紛らわすために、俺はアンと会話することを選んだ。
「なぜ作られるか、ですか。……そうですね、少々長くなりますがよろしいですか」
「長い方と気が紛れて助かる。……ただ話が頭に入ってきていなかったりしたら、その時はごめん」
「かまいません、望まれれば何度でもお話しいたします」
気が紛れるとはいえ、話に興味を抱くあまりに紛れすぎたのか、俺はうっかりバランスを崩した転倒した。うっかりしていなくてもバランスを崩すことは茶飯事なのだが、今のは特別間抜けな、なんの成果も伴わない転倒だった。
「うおっ」
これもまた間抜けな声を出し倒れた俺は、それなりに失敗した着地のために結構な痛みに襲われた。
しばらく声を押し殺して痛みに耐えていると、アンが話し始めずに俺に余裕が戻るのを待っていることに気がつく。さすがと言うべきか、人間のような状況把握能力だ。最も人間であれば結構な確率で転倒した俺を助けに近づいてきそうなものだが、そこはやはりアンドロイドだ。心配の「し」の字もない無表情で座っている。
しかし俺は助けてほしいわけではなかったし、心配してほしいわけでもなかった。俺がリハビリに挑むのは、俺が歩けるようになりたいからであって、この問題は俺の中だけのものなのだ。アンが心理的に干渉してこないことはかなり助かっている。誰かのために努力するとか、そのようなことはしたくないから。
俺の中だけの問題と言っても、もちろんアンや研究者から「工事までしたんだから何か恩を返せ」と言われれば何かしら行動で従いたいとは考えている。形として干渉されるのは一向に構わないし、それでしかるべきだと考えている。心理的に放任してもらえればいいのだ。というかそれが、いい歳した大人への当然の対応というものだろう。
ようやく痛みが治まってきたところで立ち上がり、再び歩行の訓練に励む。今度こそ気を紛らわしつつ、なおかつ気が散ることはないように。
「アン、話の続きを頼む」
「はい。まず、なぜアンドロイドが作られるのかという質問に簡潔にお答えします。それは人間があまりに低性能であるためです」
足の付け根に痛みがあるためか、義足では歩くこと自体になれていないためか、自然に視線は下へ下へと向かっていく。首は垂れ下がるようで、視界のほとんどは床と義足に埋められた。
人間はあまりに低性能。義足を見ながらそう言われると、俺には何をもってして「人間の性能」なのかがわからなくなった。義足を使いこなせないのは人間の性能が低いからなのか。甘えるようなことを言うなら、義足の性能が足りないのではないか。もちろん俺は義足に文句を言うつもりなど毛頭ないが、たとえばの話である。
「アンドロイドは性能が高いのか」
「はい。まず人間の低性能たる所以は、感情を持っていることですから」
一歩踏み出す。義足も人間の足も感情など持っていない。人間の感情は脳にあるはずだ。アンの言う人間の性能とは「アンドロイドは核弾頭が直撃しても無傷だから高性能」だとか、そういう話ではないらしい。
「感情が無いと性能が高いのか。というか、どうして感情があると低性能なんだ」
「人間が罪を犯すのは感情のためです。欲望のためとも言えますね。法律というルールを決めたところで、それに従えないのならルールの意味はありません。スポーツであれば悪質なルール違反は即退場ですが、法律に従わなかったとしても、即退場させられる場面は稀です」
「退場っていうのは、死刑のことか?」
「はい」
「それはまぁ、罪の重さとかあるからな。万引きと殺人を同列では語れないだろう」
アンドロイドと話しながらだからというわけではないが、義足で一歩また一歩と床を踏みしめていくと、なんだか自分が足だけロボットになったかのように思えてくる。
と、またしても片足のバランスを崩し体制を崩してしまった。するとアンは機能停止したように話を止める。俺が立ち上がる理由はだんだんと「アンと話すため」にすり替わっていった。
俺が立ち上がったのを確認したアンは口を開く。
「万引きと殺人ではありません。違反、罪です。罪に重さなどないのです。ルール、規則は守られるか否かの二択なのです。人間はそのあたりを勘違いしています」
「それはおかしいだろう。殺人を犯すような人物がもし死刑になれば、全ての人間が「自分の命を脅かす可能性が一つ減った」と考えられるかもしれない。けれど万引き犯を死刑にして、それで誰が安心する、誰が満足する、誰が幸せになるんだ」
「誰が幸せになるか、という話ではないのです。規則は規則、守れない者にはご退場を願う。それが規則というものです。規則とは罰則を与える物ではなく、順ずることのできない者をはじき出すための物なのですよ?」
まるで子どもを諭すかのような口調に俺は少し苛立ちを覚えた。が、それと同時に、それ以上の恐怖を覚えた。アンを作った者たちは、とんでもない物を生み出してしまっているのではないか。研究者とやらは、自分たちが何をしているのか本当に理解しているのか……?
この施設から出ようとすれば「危害を加えない」という誓いは放棄する。アンはそのようなことを言っていたが、なるほど確かにそれも「規則違反を犯した場合の対応」だ。彼女は今の俺が置かれているような状況を、法律で再現することを希望しているというわけか。
「……それで、規則に従えない者を消していってどうなるんだ。選ばれし者たちのみが残った平和な国の完成か?」
「いえ、人間はそれほど残らないでしょう。そこでアンドロイドの出番です」
さらりと恐ろしいことを言う。俺はすっかり自分がリハビリをしていることも忘れて、彼女との会話に集中してしまう。
「法律を守れない人間だって、何もそこまで多くはないだろう」
「どうでしょうか。罰則に追われる法律ならその通りなのでしょうが、例えば違法アップロードや違法ダウンロードはほとんどの場合罰則に至ることがありません。国家権力も暇ではないからですね」
「それでも、違法にアップロードしたりダウンロードしたり、当然盗みや殺人もしない人間は腐るほどいる」
「一度も他人に暴力を振るったことのない者、一度も他人を脅したことのない者、それらの人がどれだけいるでしょうか? いじめという言葉を無くして暴行罪脅迫罪などと言うべきだという意見が出るくらいの世の中ですよ。犯罪とされていない犯罪は多く、罰則の与えられない犯罪は多く、法を犯すことに大人も子どももないのです」
自らが子どもだった時代を思い返す。怒りにまかせて友人を殴り、取っ組み合いの喧嘩になったことがあったはずだった。学生の頃、要領の悪い店員に少し大きな声を出したことがある気もする。大人になってからも、酒に酔い記憶がない時があった。その時に何もしていないと断言することは……。
では仮に、それら全てを暴力などに当てはまる物として見たとする。そうすればたしかに俺も清廉潔白な人間ではない。けれどそんなことを言い出したら喧嘩もできない。それが本当に正しいのか? まさか、そんなことはあり得ないだろう。
「それでも」
「いませんよ。もちろん数字で言えば何百万人といるでしょうけれど、それは割合で言えば大した数字ではありません。たとえ一度も法律に違反したことのない者が一千万人いても、日本人口の一割に満たない程度ですから」
「それの何が悪いんだ。小さな罪を犯した者全てを消し去って、それで何が得られるんだよ」
「人間が罪を犯すのは、法律という規則に違反するのは感情のためです。感情に流される者を排除すれば、感情をコントロールできる優秀な人材のみが残ります。数として足りない部分にはアンドロイドが入ります。考えてもみてください澤井さま、日本の政治について、腐った部分が話題に上らない日がありましたか? 清廉潔白な大人たちが、何も間違いを犯さずに国を動かしていたことがありましたか」
「それはもちろん全員がそうではなかったし、今もそれは変わらない。けれど、腐ったやつらばかりじゃないから、この日本という国はこうして今もやっていけてるんじゃないのか」
「ですから、そういった優秀な者は残ればいいと申しているではありませんか」
彼女の、アンの言うことは、彼女を作った者たちが仕組んだプログラムによるもののはずだ。彼女の言葉は、彼女を作った者の言葉なのだ。もしかすると自力で学習し自分の意見を持つロボなどとうの昔から完成していたのかもしれないが、しかし俺は彼女に意見なんて聞いてはいない。なぜ作られたのか、と問うただけなのだ。研究者たちの言葉以外が、彼女から出てくるわけもない。
凛とした風に俺を見つめ、淡々と話す彼女に自分の意思はないのだろうか。自分の意見はないのだろうか。俺は彼女の言っていることが、どうしても正しいとは思えない。
「それで、優秀な人間が残って、……それで何が幸せなんだ」
「残った人間たちは豊かな生活ができるでしょう。何しろ、優れた者のみが存在する国は、国自体が優れた物になるのですから」
「アンは、お前も本気でそう思っているのか」
俺は彼女の顔を見て堂々と問うことができなかった。そらした目は足元を見つめて、まるで逃げているかのようだ。何から逃げているのかというと、すでに提示されている答えからだろう。彼女が無表情でそれを言葉にするところを、たぶん俺は見たくなかったのだ。
「澤井さま、わたくしがどう思うとか、そういうことはないのです。意見、意思、そのようなものも感情と同じです。それが最も必要ないものなのです」
昨日に比べれば、リハビリをしている時間は短かったと思う。なおかつアンとの会話に集中してしまったせいで、実質的なリハビリの時間は昨日の半分にも満たないかもしれない。
今日はもう疲れた。そう言うと、アンは立ち上がって俺に車椅子を持ってきてくれた。それに腰を下ろすと、アンが部屋まで押して行ってくれる。
低性能な人間を運ぶことに、彼女はなんの感情も抱いていない。彼女の言うところの「優れた存在」には当然アン自身も含まれているはずなのに、そのような優れた者がそうでない人間ための雑用のような仕事をさせられていることに対して、彼女は何の不満も抱かない。なんの感情もなく、与えられた仕事を全うする。
そんな彼女こそが優れた存在なのだ。アンは自分の身で、自分を作った者たちの理屈を証明しようとしているのだ。それが、研究者とやらの望みであるから。
もしもアンが望む通りの世界が訪れれば、そこに残った人間たちはさぞ快適な生活を送れるだろう。今の俺のように、最高の環境を与えられるのだろう。
「アン」
「はい、なんでしょう」
白い壁に、白い明かりが同化する廊下で。
「どうしてアンが作られたのか聞いたのは俺だけど、訊かれたからってそう何でも喋っていいのか? ここから逃がさないと決めているから話してくれるのか」
「その通りです。逃がさないと断言できる根拠として、例えばその義足。……いえ、それはしかるべき時が来ればお話ししましょう」
アンの言う通り、俺がここから逃げ出そうとすることはないだろう。外に出たってここは日本、無能な国民を例外なく抹殺し、アンドロイドを代替にしようとしている国なのだから。俺は革命家になるつもりなどないのだ。
アンの作られた理由を知ってから、いったいどれほどの時間が経ったのだろうか。時計はあらゆる場所に用意されていたが、カレンダーなどの物はどこにも無く、頼めば手に入る物だったのだろうが俺はそうしなかった。
この施設に入れられてから何日が経過したのか、数えようと思い立つには遅すぎる。気づくと中庭に生える大きな木は、その葉の色に徐々に変化を見せ始めていた。それに気づいてから連鎖的に、そういえば日が落ちる時間が早くなっていた気がすると俺は気がつく。
「なあ、アン」
「はい、何でございましょうか」
白く長い廊下を、アンと並んで歩く。二本の足で、完全に自分のものだと言い切ることはできない足で、歩調を合わせながら歩いてくれるアンと並んで歩く。
俺は義足で歩く技術を会得した。まだまだ拙く、杖を手放せば危なっかしいが、それでも確実に車椅子を不要な物とした。やり遂げたと言っていいだろう。
「アンはどうして俺についてくる」
車椅子を使わずとも一人で身動きできるようになった俺に、アンは車椅子を押してくれていた時と何ら変わらずについてくる。いつ何時どこへ向かう時でも、必ず俺の隣を歩き同行してくる。
それ自体は別に構わない、何も困ることはない。しかしトイレの中にまで相変わらずついてくることは異常だと思わざるを得ず、以前の俺なら断固として拒否していただろうとも思う。何より疑問というのは、それが何かしらの問題や支障を引き起こしているか否かに関わらず、ただ淡々と好奇心を刺激するものなのだ。
「わたくしに与えられた仕事は、澤井さまのお世話をさせていただくことです。いつでもどこにいても、内容問わず澤井さまの要望を叶えるためにわたくしは存在しております。もちろん出来ることは可能な範囲になりますが、常に努力は怠らぬよう……」
「嘘だなそれは」
アンが嘘を言っているとは思わない。が、正確な答えを述べているとも思えない。彼女は真実を語ろうとせず、また純粋な嘘を語ろうともしていない。のらりくらりと無難に立ち回ろうとしているアンを「嘘だ」と一言に切り伏せたのは、俺が真実以外で茶を濁されることを望んでいないという意思表示だ。
「嘘は申し上げておりません」
「そうかもしれないが、本当のことを黙っているだろう」
「……ありのままお話しするべきか、少々迷った部分がありました」
アンが娯楽室の扉を開く。そこを目的地としていた俺たちは中へと入り、テレビゲームの置いてある場所へ向かった。
娯楽室の中で移動をするのにそれほどの時間はかからない。いつもプレイしているゲーム機の電源を入れつつ、アンは語り始める。
「わたくしが先ほど申し上げたことは、これも先に言いました通り嘘ではありません。わたくしの仕事は澤井さまのサポート、お役に立つことです」
コントローラーを握り、無言で先を促す。
「しかし、わたくしの仕事はそれだけではありません。もう一つ、わたくしには義務があります」
「それは?」
「澤井さまの監視です」
格闘ゲームの画面が映りだし、慣れた手つきでお互いに対人戦モードからキャラクター選択に入る。
「澤井さまが良からぬ行動を起こしていないかを監視するのもまた、わたくしの役割なのです。生ける……とは言い難いですかね。歩く監視カメラといったところでしょうか」
「俺がどこかで困っていないか確認するために行動を共にしている……という名目で、俺を監視していたわけか」
「その通りでございます」
ゲーム画面はステージ選択画面で停止している。キャラとステージを決めれば戦いが始まることがわかっているので、話が終わるまでお互いにそこからボタンは押さない。
「そうかい。まあ、なんとなく予想はしていたけど」
「申し訳ありません、しかしこれもわたくしの仕事なのです。従わないわけにはいかないのです。謝罪することはできても、監視を中止することはできません」
「それで構わないよ。わがまま言うつもりなんてない」
アンの口から真実が聞けたのなら、俺がそれ以上言うことは何もない。話はこれで終わりだという印にステージ決定ボタンを押す。
「そう言っていただけると大変助かります」
ゲーム画面から目を離せば一瞬で負けてしまうのでアンの方を見ることはなかったが、これまでと変わらない無表情でいるに決まっている。義足での歩行を習得するまでの間にさすがの俺も、彼女の言葉は全て、彼女を作った研究者たちからの伝言、もしくは研究者たちに彼女が言わされている定型文のようなものだと悟っている。
アンが自身の意見を語ることは、自身の言葉を口にすることは一切ない。まったくあり得ない。アンドロイドとはそういう物なのだ。……しかし、俺はそれに嫌悪感を持つことができなくなってきている。
リハビリ中に気を紛らわすための会話をすることは、あれ以降も中止しなかった。そしてある日の話題が彼女の言葉についてだった。
「アンの言うことは全て、アンを作った人たちの言葉なのか」
そう問うた俺に、アンはすらすらと答えを返した。
「確かにわたくしを通して、わたくしを生み出した方々が澤井さまに言葉を伝えることはあります。が、何も彼ら彼女らは、日柄一日わたくしの目を通して得られる映像にくぎ付けになり、澤井さまが何かをおっしゃるごと何かをされるごとに反応して、コミュニケーションを取っているわけではありません。それでは少し優秀なラジコンロボと変わりませんからね」
この施設の地下。出入り口は不明だが確かに存在するらしいその場所で、アンの見たもの聞いたことを常に監視し、必要があればアンの言うべき言葉を監視する者がアンへと伝える。伝えられた通りにアンは喋る。……今までずっとそんなことが行われていたとすれば、それは確かに滑稽だ。
研究者たちからアンへの言葉の伝達に使われる物がキーボードなどではなくマイクの類を想像させられるような、そんな間抜けな現実はないだろう。大した物ではないという意味で使われた「ラジコン」という例えがごもっともだ。
「そうは言うけれど、今まで明らかに研究者たちと連絡を取り合っていることがなかったか。相談していたのか伝達によって生まれてしまうラグだったのかは知らないが、アンが固まったように動かなくなる時があっただろう」
単語を一つ吐くごとに、何かの敵を討つかのように一歩一歩前へ前へと床を踏む。アンとの会話は確実にリハビリへ良い影響を与えていた。
「そのような時は澤井さまのおっしゃる通り、研究者たちと通信をしている時です。しかしわたくしが澤井さまと会話をする時、毎度そのように固まっているわけではないでしょう? わたくしはある程度自分で考え話すことができるのです」
「前にアンには自分の意思などなく、自分の言葉などあり得ないと言っていなかったか」
「わたくしが考えて話すと言いましても、その思考回路は当然わたくしを生み出した人々が作った物です。わたくしがその者たちの意思に反することは絶対にありません」
息を切らしながら一度休憩とばかりに足を止めた俺を見て、アンは付け足すようにして言葉を重ねる。
「作られた思考回路をわたくしの意思と呼ぶとすれば、わたくしにも意思があると言えますね」
「そんなものはアンの意思じゃない。作った者の意思に決まっているじゃないか」
そう言い返して俺は休憩もそこそこに再び足を動かす。
「その通りだとわたくしも考えます。わたくしを生み出した者たちがそう考えます。人間とは生まれた時から見たり聞いたりした様々な物や出来事により人格を形成しますから、わたくしのようなアンドロイドはそれをしないだけです。人間の人間たる所以は、意思が本人のものであると言える理由は、その意思を作り出したものが何であったのか、どれほどの数があるのか、もはや特定のしようがないからなのです」
「……どういう意味だ?」
「アンドロイドの心には勝手な書き込みが禁止されており、人間にはされていないということです」
リハビリを続けることでその日明らかに消耗していた俺は、その瞬間にはアンの言うことが理解できなかった。さっぱりまったくわからなかった。
だがその日の夜眠る時になって、ようやくその意味を理解したのだ。
俺の心や意思は今までの経験で作られている。育つ環境によって人が大きく変わるということは、俺たち人間は「環境」という自分を取り囲む様々なものから影響を受けて、心や意思、人格を形成しているのだ。
いったい俺が今まで見てきた物聞いてきたことのうち、どれがどのくらいの割合で、どのような影響を俺に及ぼしたのかは今さらわかるはずもない。しかしもしも、生まれた時から一歩も外に出ず一生を過ごし、親としか会わず話さず、テレビやネット環境などもない環境で育った人間がいたとしたら。その人間の人格は確実に親が決めるだろう。
普通は誰も、人格の形成を百パーセントコントロールすることなどできない。人間一人がどこで何をして何を感じたか、すべて把握するというのは無理な話だからだ。しかしそれが無理でないとすれば、逆説的に人格の形成をコントロールすることができることになる。
何を見れば何を感じるのか。生まれた時からあらかじめ己の価値観全てを決められた者がいるとすれば、その者は「価値観を決めた者」に操られるだろう。つまりはそれがアンドロイドというわけだが、だとすれば機械である彼女と人間である俺の、精神的な点における決定的な違いとは何なのだろうか。
もしも研究者たちの手によって、彼女の価値観が自由に上書きされる物になったとしたら、彼女は人間と同じ思考や意思を持った、誰に作られた物でもない一つの人格となるのだろうか。
だとすればアンドロイドとは、人間の利用される憐れな存在なのではないだろうか。そう考えたが最後、俺は「アンドロイドのアン」という存在をどう受け止めていいのかわからなくなってしまった。
自分の意思がないことはそんなに悪いことだろうか。そのようなことを考えても何にもならないことは、考えるまでもなくわかっているのに。
「あっ」
KOの二文字が画面中央に突き刺さるように大きく表示される。少し集中力を欠いてしまっていたか、あっさりとゲームで敗北してしまった。
「もう一戦やりますか?」
「当然」
自力で歩けるようになった日から目的を失い暇になってしまった俺は、せっかくあるのだからと娯楽室でアンと遊ぶようになった。それしかすることがないものの、娯楽室で遊ぶしかすることがない……という状況にまったく不満も閉塞感も覚えないほど、娯楽室は充実していた。
もともと自分のプレイしている領域であった格闘ゲームをアンに挑んだが、初日のアンはそれはもう弱かった。コンピューターの最高難易度の方がよほど強いくらいだった。ゲームのための能力は搭載されていないのでと言うアンが言い訳をしているように見えたのは、無駄なプライドを持ってしまったゲーマーの嫌なところかと思う。
が、次の日からアンは別人のように上手くなった。上達の速度が尋常ではなく、三日と経てば今度は俺が勝てなくなっていた。
俺のちっぽけなプライドが一方的な敗北を許すはずもなく、しばらくアンへ挑戦する日々は続いた。が、あまりにも大きな力量の差を実感すると戦意を削がれるのが人間。一週間程度で俺は心が折れた、諦めてしまった。
すると、なんと今度はアンが手加減することを覚えたのだ。久しぶりに勝てた時、明らかに今までよりもアンが下手になっていたと感じた時、俺は喜びなど一切感じずにただ屈辱を受けた。アンの立場からすれば、ではどうすればよいのだと文句を言いたくなることも今となっては重々承知している。
しかしアンの手加減をする技術は向上していく。ゲームの腕前自体驚異的な速度で高まっていったように、手加減の技術も驚異的な速度で高まっていった。最終的に今となっては、アンは「俺がギリギリ勝てるか勝てないか程度」の腕前を装うことを維持している。
これは並大抵のことではない。そのような絶妙なバランスの環境で戦っていれば、俺の腕前だって徐々にとはいえ上がっていく。しかし「俺がギリギリ勝てるか勝てないか程度」というアンの腕前は変わることがない。彼女は俺の腕前に合わせて、自分の手加減の具合を微妙に変化させているのだ。
手加減の上手さとゲーム自体の上手さはおそらく比例すると俺は考えるのだが、そのような化け物レベルにまで上手い者などアン以外にはこの世のどこにも存在しないだろう。そう思えるほど彼女の手加減は、接待は完璧なのだ。
その学習速度や上達速度、そして絶妙な手加減が出来る点。それらを兼ね備えているとはまるで理論上可能なことは全て行え、なおかつ学習能力を持った機械がプレイしているようだ。そう思わせられた時に俺はようやく、初めから機械と対戦していたことを思い出したのだった。
つまり俺はかなり長い間彼女の協力によりゲームにのめりこんでいたのだ。そして、今もそれは大して変わっていない。
「よっし!」
KOの文字が再び映される。しかしそれはさきほど俺の敗北を伝えた文字と同じ物で、まったく代わり映えしないのだがそれでも確かに俺の勝利を伝える二文字だった。
これが一人一画面、計二台のテレビやゲーム機を使い戦うオンラインゲームなら勝者の画面には「win」などの勝利の文字が、敗者の画面には「lose」などの敗北の文字が表示されるのだが、どちらが勝っても「KO」「finish」と表示されるのは一画面を共有して遊ぶ対戦ゲームならではだ。
「澤井さまもだいぶお上手になられましたね」
「前も言ったと思うが、バカにされているようにしか聞こえないからなそれ」
単なるコンピューターと違って、喋って動くのがアンの良い点ではあるのだろうけど。これほど的確に感想を述べてくれる機械も他には存在しないのだろうけど、感情とは難しいものである。
その後もしばらく対戦を続けて、夕方を過ぎた頃には俺の勝率は体感で三割と少しといった程度になった。いつもとほとんど変わらない。
夕飯を食べに食堂へ向かい、食べ終わったら部屋に戻る。俺は孤独に著しく弱いわけではないが強いわけでもないので、一緒に食べないとはいえ隣に座り、会話の相手になってくれるアンの存在はありがたいものだった。
味はどうかとか明日は何をしようかとか、そのような大した意味があるわけでもない会話がありがたいと感じるあたり、おそらく孤独感の緩和と会話の内容には関係がない。
部屋に戻ってからは娯楽室から持ち出してきた本を読んで過ごす。普段は何時まで読書をすると決めることもなく本を読み進め、飽きるなり眠くなるなりすればそのまま眠る流れが習慣となっている。
今日は部屋に戻ってからどれだけの時間が過ぎたか。ちょうどキリよく一冊を読み終えた俺は、眠りにつく前に俺はアンに話しかける。白いベッドの上で布団に潜ったままの俺に対して、アンは直立不動の立ったままで聞く。
「ところでアン」
「はい、なんでございましょう」
「アンが俺の監視をしていることはわかった。だから四六時中俺と行動を共にしていることもわかった。……それで、それはいつまで続くんだ」
「それは決まっておりません」
「俺はそんなに信用がないのか」
アンが俺を信用していないわけではない。彼女には信じるとか信じないとか、そんな感覚はそもそも存在していない。俺を信用していないのは、今もどこかで俺のことを見ている研究者たちなのだ。
そのくらい頭ではわかっている。けれども四六時中俺を監視するカメラが、人の形をして付いてくることは気分のいいことではない。
「信用という言葉で説明できることではありません」
「アンと一緒に行動するのが嫌なわけじゃない。顔も見えない相手に信用してほしいわけでもない。ただ、なんだか今の状況だと、アンが俺を疑って付きまとってきているような感覚を覚えるんだよ。目の前にいる人間に疑いの目を向けられ続けるのは正直いい気分がしない」
「わたくしは人間ではありません」
「見た目が人間ならもうほとんど同じことだろう」
今のアンは、アンドロイドの技術は不完全だ。見た目が人間らしいという部分も、「らしい」というだけで確実ではない。表情はなく、台本を読むように話す姿は、惜しくも人間とは呼び難い。
が、酷似していることも事実である。「らしい」というだけでも俺は、アンを単なる機械だと認識することはできない。もちろん人間だと認識することもできないが、限りなくそれに近いものには思えてしまう。
要するに、目の前にいる人間から疑いの目を向けられ続けられたくはない、という思いはアンが機械だからという理由では解決しないのだ。限りなく人間に近づいている機械である彼女は、限りなく機械から遠のいているのだから。
「……申し訳ありません。黙っておいた方が澤井さまにとっても」
「いやそれはない。さすがに俺だって気づく。アンが言わなければ、いつか俺から聞いていたはずだ」
施設に閉じ込められ社会から隔離されている立場なら、自分が監視されていると気づくことも難しくはない。自分がどういう扱いを受けているのか、どういうものとして見られているのか、嫌でも理解させられるのだから。それにそれを抜きにしても、いつ何時でも行動を共にしようとするアンはやはり不自然だった。
だが、かといって何も知りたくなどなかったと嘆くのかと言われれば、そんなことはあるはずもない。俺は一つの提案をするためにこの話を始めたのだ。
「そこで、だ。一つ提案がある」
「なんでしょうか」
「俺を監視するのは、本当にアンでなければならないのか。施設の要所に監視カメラを設置するだけではいけないのか。見たところ目立った場所にカメラはなかったと思うのだが、どうだろう」
監視の目が人の形をしていなければ何も気分を害する要素はない。アンとは会話を楽しんだり遊び相手になってもらったり、それだけの役目を果たしてもらえばいいじゃないか。良心があると自称する研究者たちにも異論はないはずだ。
機械の形をしたものは機械の役割を。人の形をしたものは、人と同じ役割を果たすべきだ。アンが使用人なのか友達なのかはハッキリしなくても、少なくとも監視役でなければ、ずいぶん通常の人間対人間の関係らしくなるだろう。
監視だとか監禁だとか脱走だとか、そんな非現実感のある単語は必要ない。アンが無償で俺のために動くことがおかしいと言うのなら、俺が何かしらの労働を課せられても一向に構わない。とにかく今は、アンを完全に機械として扱っている今の状況を抜け出したい。
「なるほど。一目たりとも目を離さない監視が本当に必要なのか、という抗議ですね」
「抗議なんて大したことをするつもりはない。けど、アンだってそんなに俺のことを疑わなくたっていいじゃないかと思うんだ。アンに信じるとか疑うとかの感覚がないのはわかるけど、アンにはなくても俺は……」
はたと気づく。アンは俺の話をすでに聞いていなかった。その目はどこか宙を見ているばかりで、何かを見ているとすれば電波などを視認しているのかもしれない。
通信を終えたアンは言った。
「澤井さま。澤井さまの意見に対する結論が決まりました」
「ああ」
「監視カメラの件、早急に用意させていただきます」
素直に驚いた。娯楽類と違って、これは向こうだって欲しければくれてやると言える話ではなかっただろうに。
「やけにすんなり通ったな」
「そうですね。澤井さまの申していた、信用というものではないでしょうか」
他人事のようにアンはそう言った。大した意味もない言葉だったのだろう。
カレンダーも何もない環境では俺がここで過ごして何日経ったのかもわからないが、決して短い時間でなかったのは確かだ。それどころかかなり長かったように思う。これまでの日々で俺は自分を偽ったことなどなかったはずだが、それでも時間の流れは俺を監視する者たちに、顔を合わせたこともない者たちに信用と呼べそうなものを生み出していたらしい。
「さっそく明日から設置に取り掛かります。わたくしが必要以上に澤井さまと行動を共にすることもなくなります」
「必要以上ということは、必要とあればまたゲームには付き合ってくれるんだろうな」
「もちろんです」
目の錯覚か、アンが微笑んだ気がした。
それをきっかけに、心地よい具合に体が重くなっていることに気づき、布団が癒しを具現化した物に見えてきた。窓のない部屋では時刻を示す時計のみが生活リズムの指針になっているが、針がどこを指しているのか確認するまでもない。
「今日はもう寝る」
「はい、おやすみなさいませ」
アンが天井から降り注ぐ明かりを消す。太陽が沈んだかのようにこの部屋は暗くなり、俺は別の世界へ落ちるように眠る。
夢の中でのアンはよく笑う。そんな彼女の中に配線コードが走っているのかなど考えようとも思わなかった。
次の日から監視カメラの設置が始まった。部屋の外ではまた外部の人間が作業をしているらしく、当然俺が外へ出ることは禁止された。そのことについては信用が云々という問題ではないことを俺も理解しているし文句はない。
二日目になると、娯楽室と食堂のカメラは設置が済んだということで、道中目隠しと耳栓を強要されるとはいえ移動が可能になった。ゲームを一日封印された鬱憤を晴らすべく、アンの押す車椅子に乗り娯楽室へと向かう。そうして俺は勝利することの快感よりも先に、敗北することの悔しさを思い出すこととなった。
作業の音などが娯楽室にまで聞こえることはなかった。聞こえるようであれば俺は耳栓などの着用を義務付けられていたのかもしれないが、当然それもない。部屋の外へ出ればいつもとは違う状態が広がっていることがなんとなく信じられなかった。
誰かがこの部屋の外で今も働いている。そう考えはしても何も湧き上がる思いがないことから、俺はすっかり人としてダメになってしまったらしい。画面の中で体力ゲージを削りきられ倒れる俺の操作キャラクターを見るに、ゲーマーとしても「ダメ」とまでは言わないがと言った感じだ。
満足いくまで遊んだあとは食堂に向かう。帰り際に娯楽室の監視カメラをいくつか確認したが、はたして俺が気づいた物で全てだったのかはわからない。
食堂で注文をすることも一日ぶりとなる。部屋から出ることを禁じられていた期間は、何者かが運んできた食事をアンが受け取っていた。アンが部屋の外へ出て物を受け取っている僅かな時間、俺の監視は完全にフリーになっていたわけだが、きっとあそこで少しでも扉を動かしていれば俺の信用はゼロどころかマイナスにまで落ちていたのだろう。もちろんその時はタダでは済まない。
「ゴ注文ヲオ選ビクダサイ」
たった一日しか間はなかったのに、注文システムのいかにもロボットといった風な音声が少し懐かしい。
食堂で夕食をとってみると、昨日は部屋で食べたこともあって寂しさを覚えた。アンは変わらず隣にいるのだけれど、いかんせんこの食堂は広すぎる。ゆくゆくはアンドロイドに食事をさせたいと言っていたが、科学技術の発展とはどれほどの速度で成されるものなのだろうか。
もしかすると俺は、この食堂が賑わう光景を見る前に死ぬのかもしれない。そう考えた時に湧いてくる感情を形容する場合、それは「寂しい」で間違っていないはずだ。
食事を終えた俺はまた車椅子に乗って部屋まで戻される。いつも通りしばらく本を読んでいると、読書中に話しかけてきたことなど一度もなかったアンが例外を起こした。
「澤井さま、少しの間目隠しと耳栓をよろしいでしょうか」
「え?」
「この部屋にもカメラが必要になるそうです」
言われて納得したのでうなずくと、アンに目隠しと耳栓を装着された。
この部屋だって施設の一部だ、監視の目から隔離されることはない。今更言っても仕方がないことだが、もはや俺にプライベート空間の所持は許されないのだ。
「…………」
……いやに長い。何も見えず何も聞こえず。情報が限りなく遮断された時間は、思ったよりも長く続いた。どれくらいの時間この状態でいるのかも、情報の少なさゆえにまったく見当もつかない。ただ短くない、ということだけわかる。そしてその異様な長さは、俺に何か違和感を与えた。それを悪い予感と言うのはネガティブすぎるか。
しばらくして目隠しが外された。俺はその時驚愕のあまりに目を見開いたと思う。
「誰だ!?」
光を取り戻した視界に冴えない中年の男が現れたのだ。真っ先に彼が監視カメラを設置しに来た者である可能性を思い浮かべ、外部の人間と接触してしまったと本能的に察知した。すなわち身の安全が保障されなくなることを察知した。
なぜこんなことが起こった。アンはどこにいる。カメラが設置されるまでの時間、まだ監視の役割を終えていないはずのアンを探して立ち上がろうとすると、目の前の男に止められた。
「待ちなさい」
男は俺が走り出すものと思ってか咄嗟に腕を掴んできた。が、俺にその意思がないことを確認すると、握力を失ったかのようにダラン垂れるような動きで手を離した。
その一方で、立ち上がった俺はアンが部屋にいないことをようやく確認した。三度ほど部屋を見回しても、痕跡一つ見つからない。
「どうしたんだね、急に慌てて」
「お前は誰だ、アンをどこだ!」
感情から自然に出た声は部屋中の空気を震わせ、いつの間にか部屋に侵入していた中年男を明らかに威圧した。
「落ち着きたまえ。澤井くん、これ以上そのような行動を取るなら」
「なに」
澤井と、男は俺の名前を確かに呼んだ。さも当然と言わんばかりに、まるで初対面ではないかのように。
「あんたまさか、研究者か」
おそらく俺は恩人の敵を睨むような目で彼を見た。落ち着いた口調とは裏腹に、男は俺を危険なものとして見ており警戒しているようだった。
「研究者? あぁ、アンドロイドのアンを作った者の一員という意味なら、私はたしかに研究者だが」
ハッとして部屋の四隅を見渡す。天井の隅に、すでに監視カメラの設置は完了していた。俺はそれを見てようやく、何がおかしかったのかに気がついた。
アンが俺を監視する必要がなくなれば、俺が部屋の外をうろついている時のアンはどうしているか。自分も適当に遊び歩くか? 食事でもするか? どこかから通じる道を通って地下へ行き、生みの親である研究者たちと自由時間を過ごすか?
どれもあり得ない。彼女はアンドロイドなのだから。機械が休憩などするものか、疲れなど感じるものか。食物からエネルギーを得る技術が確立されていないから食堂に他のアンドロイドは訪れない、アンが食事をする光景なんて一度も見ていない。地下室へ行くことだって無意味だ。研究者たちと直接会って話して何になる。親との再会を喜ぶ心もなければ、あらゆる報告を通信で済ませられるというのに。
監視カメラは俺のわがままのために取り付けられる物だった。俺がアンという人の形をしたものから疑いの目を向けられ続けることに耐えられないから、機械らしい機械に監視してもらうための物だった。では役目の一部をカメラに譲ったアンはどうする予定だったのか。それは当然、何も考えず何も感じず、俺からお呼びがかかるまで部屋で待機しているはずではないか。
ではアンが常駐しているはずの部屋に、なぜ監視カメラを仕掛けなければならないのか。彼女が律儀に部屋の中での監視をやめていても、俺にはそのオンとオフを見分ける術もないのに。この部屋にカメラを付けると言われた時には、すでに何かが狂っていたのだ。俺の想像から外れていたのだ。
「アンは、アンはどこへ行ったんだ。あんた知ってるだろう!?」
俺は思わず男の肩を揺さぶっていた。嫌な予感なんてものではない、確実にまずい何かが現在進行形で起こっている。俺が他の人間に、ましてや研究者に会うことなどまず無いとアンは言っていたのに。アンが言っていたということはつまり、目の前の男にも俺と顔を合わせるつもりはなかったはずなのに。
「どこへと言われても、改良のため地下室へ行ったがそれが何か?」
「改良? どうして」
「もちろん、アンドロイドをより優れた物とするためだよ」
まぁ座れ、と男がジェスチャーで示す。ここで逆らい、感情に支配された危険人物だと認識されれば俺は始末される。落ち着いていられる状況ではなかったが、それだけは確かなことだったので俺はおとなしくベッドに腰を掛けた。
男は俺の隣に座ることはせず、立ったままの姿勢で演説をするかのように語りだす。この部屋にアン以外の人間がいることがひどく不自然に思えた。そもそもアンは人間ではないのだけれど、それでもアンはこの部屋に馴染んでいた。
「今回の件、澤井くんを不本意にもこの施設へ幽閉しなければならなくなった件だがね。これはアンドロイドの性能次第で回避できたことなのだよ」
「どういう意味だ」
「どこぞの間抜けがサイドブレーキを引き忘れ、その事故に巻き込まれたのが今回の発端だね? そのような事故に巻き込まれるのはいかにも人間らしく、そしてアンドロイドは人間を超越しなければならない。つまりは、あの事故を回避できないようではアンドロイド失格ということだ」
研究者ということは、あれだけ精密に人間を模したアンドロイドを制作したということなのだから、立ち語る彼は俺では足元にも及ばないよほどの天才なのだろう。
しかし見れば見るほど、目の前の中年はそのような男には見えない。小太りで、生え際は後退し、普通に会社で働いていた頃に見た年だけ食った無能なおやじ、というイメージがそのまま当てはまる。
だからというわけではない。それだけが理由ではないが、しかし彼の演説は非常に腹立たしかった。
「失格だと。お前が、お前たちが作ったんじゃないのか。それを失格とは、自分たちに言っていることと変わらないじゃないか」
「その通りだ。だから我々は改良する。成功は失敗から生まれる、なんてよく言うだろう。我々は諦めない」
自分が何に対して腹を立てているのかがわからない。俺は目の前の男含む研究者たちに何か恨みがあるわけではないはずだ。この施設から出ることを許されない程度のこと、その代わりに与えられた環境と比べればむしろ感謝するくらいなのだから。
しかし俺は腹を立てている。俺は、どうしようもなく目の前の男が憎い。
「事故が起こる以前から、ほぼ完ぺきに人間の外見を再現しつつ、全方位三百六十度を視認することのできるカメラの設置は完了していたのだ。だが反射神経が足りなかった。見える情報全てを処理し、そこから最適な判断を下すまでに少々時間を要するあまりに、あのようにして事故に巻き込まれてしまったのだ。様々な機能を詰めるには人間の体は小さすぎる故だな」
付け足して男は、もちろん各パーツの小型化を十分なほどに成しえていない我々の力不足を言い訳するわけではない、と言った。その話に俺はほとんど興味を持てなかった。アンが三百六十度すべての空間を視認していたとして、それが何か重大なこととは思えなかったから。
そんなことよりも問題は、アンが改良とやらに向かってしまったことだ。改良されること自体は構わない、俺が口出しすることではない。そうわかってはいるのだが、彼女がいつ帰ってくるのか知りたいという気持ちは理性よりもはるかに勝っていた。
「……それで、アンはいつ帰ってくる。改良はいつ終わる」
日付で決まっているのなら、いよいよカレンダーの用意を頼む時が来るだろう。未定というのならいくらでも待とう。一から新しく制作するのではなく改良なのだ。そう十年や二十年もかかることはないはずだ。
「何を言っているのかね。もうアンは君の監視を終えたよ」
「……は? おい待て、それはどういう意味だ」
「もう彼女の君へ対する役目は終わったという意味だ。改良が済み次第、また実験として外に出す予定だよ」
外に出す実験。アンと俺が事故に巻き込まれた時のあれは実験中だった。普通の人間と同じように外の世界で暮らせるかが、おそらく実験の内容なのであろう。それくらい出来るようにならなければ、大多数の人類をアンドロイドに置き換えることが叶わないから。
そう、目の前の男は研究者だ。低性能で不要な人間を追放し理想の楽園を作ろうと考える異常者だ。俺が足元にも及ばないほどの天才は、人の風上にも置けない暴君だ。
「ふざけるな!」
立ち上がり彼の胸倉を掴む。わかりやすく驚き竦む様は、さきほどまでの態度と比較していかにも根暗らしい。
「待ちなさい。それ以上はやめておくことを勧める」
「アンを返せ」
「私たちだって悪いと思っているのだよ。だからこれだけの環境を用意して、これからも要望を聞こうと言っているではないか。頼むから暴力や反抗はやめてくれないか。私たちだって血は見たくない」
一切目を合わせずに、震える声で言う彼を恐れろという方が無理な話だ。……けれど俺の頭の中で、彼の物ではない声が響いた。
(逃がさないと断言できる根拠として、例えばその義足。……いえ、それはしかるべき時が来ればお話ししましょう)。
「……なんでだ」
「な、なにかね……?」
「なんでアンは帰ってこない。ゲームに付き合うと言ったのに……」
彼から手を放し、膝から力が抜け崩れ落ちるようにベッドへと座り込む。
「なんでと言われても……。あぁ! そうか、いや済まない。紹介し忘れていた」
一人で何かを納得した彼は一瞬部屋を出て、膝まで届く高さの箱のような形をしたロボットを従え帰ってきた。
自動で動く掃除機を大型化させたようなその機械は、懐いた犬のように彼の足元をついてきている。そしてそれは、食堂の注文システムによく似た音声で喋った。
「コンバンハ、澤井サマ。コレカラ、ヨロシクオ願イシマス」
俺は彼の顔を睨み付けるように見つめたが、彼が自ら説明することはなかった。仕方なく説明を乞う。
「なんだそれは」
「これから君の世話をするロボットだよ。人型に比べれば性能は遥かに劣るが、一人で歩けるようになった君にならこのくらいでも平気なはずだと思ってね。ゲームの相手程度なら問題なく勤まるし、聞いての通りのクオリティだが一応会話もできる。あぁ、それと君とアンのやり取りもデータとして入れてあるから、そのあたりも心配はないはずだよ」
一通り説明し終えると、それで役目は全て果たしたと言わんばかりに男は無言で部屋を出ようとする。
冗談じゃない。俺は身の回りの世話をするロボットが欲しいわけではない。
「おい待て。どういうことだ。どうしてコレがアンの代わりみたいになってる」
「どうしてって、代わりみたいではなく代わりだよ。何か問題が……?」
衝動が「目の前の男を殴れ」と命令している。しかし俺の理性はそれよりも強い。そんなことをしても何にもならないことを理性は知っている。気持ちが晴れることさえないだろうと知っている。
「それじゃあ、くれぐれも妙な行動は起こさないように頼むよ」
まったくわけがわからない、という顔をして研究者の男は今度こそ完全に部屋を出て行った。きっと二度と戻らないのだろう。
「…………」
「澤井サマ、モウオ休ミにナラレマスカ?」
「……あぁ」
箱型のロボットから触手のようにアームが伸び、部屋の明かりを落とすスイッチを押した。
「オヤスミナサイマセ」
「…………おやすみ」
布団に埋もれて、俺は後悔した。泣きたいくらいに後悔したが涙は出なかった。泣くにしては、俺は自分のことを理解しきれていなかったから。理解を要するのに頭を使っていた分、泣くほどの容量が残っていなかったのだろう。
俺は事故に巻き込まれた結果としてここへ来た。足も失った。その代わり働かずに娯楽を貪れる環境を与えられた。……どうして俺は事故に巻き込まれた。坂を滑り落ちてくることが見えていたのに。避けようと思えば避けられたじゃないか。
俺はあの時女性を助けたかった。助けようとしたから巻き込まれた。その女性は実はアンドロイドだった。きっとあの時負った損傷は修理されたのだろう。誰も助けずにまともに轢かれて、めちゃくちゃな状態になっていたとしても可能な限り修復されていたのだろう。俺が彼女を、アンを助けたことで救われたものはほとんど何もなかった。
今はアンと呼べる彼女も、その時は見ず知らずの他人だったのに。どうして俺は赤の他人を助けようとしたのだろう。……それは男の醜い部分で、結局俺は美しい女性を守りたかっただけだった。見栄だったのか、失いたくないと思ったからなのか。自分の物でもないのに、とにかく俺は彼女を助けなければと感覚で動いたのだ。
人を寄せ付けない、人間味のない無表情は美しかった。それが機械であると知ってなお美しく映った。あの時助けようとした理由はたったそれだけ。醜い欲望と大差ない理由だ。
「どうしてこんな、くだらない……」
吐いた言葉は白く柔らかな布団へと吸い込まれて、きっと誰にも伝わらずにこの世から消えた。自分の浅はかさに嫌気が差してこぼれた言葉だった。
俺はなぜアンに監視されることを拒んだのか。人型の物から疑いの目を向けられるのはつらい? 違う。俺は、アンに信用してほしかったのだ。俺はアンのことが好きだった。
彼女に感情がなくても、意思がなくても。彼女が全て、彼女を作った者たちの意思のみで動いていても。発言や行動の全てが、今の今まで目の前にいた冴えない男の意思で形作られていた物だったとしても。低性能だと言って大多数の人間を不要と言い捨てるロボットでも。それでも俺はアンが好きだった。理屈ではなかったのだ。彼女の言う通り人間とは、俺は、低性能で愚かな感情の生き物でしかないのだ。
アンに信用してほしかった。四六時中見張らなくても大丈夫だと示したかった。彼女の心に信用の概念がなくても、心自体がなくても、形だけで構わないから信用されている風に振る舞ってほしかった。
俺はとうにおかしくなっていたのかもしれない。アンドロイドだとか人間だとか、そんな区別はどうでもいいように思える。ただ確かなのは、今部屋にいる箱型の機械は、アンではないということだけ。
見える姿が美しい女性だったから。それだけの理由で機械に好意を抱けるなんて、俺はアンを奪われる今の今まで知らなかった。気づきもしなかった。だから俺からアンを奪った男にも罪はない。想像もしないだろうから。俺の気持ちを知っても理解できないだろうから。
こんな様の人間がいる間は、アンドロイドに人間とまったく同じ「心」が搭載される日はきっと永遠に訪れないだろう。