八尺の大漢、六寸の幼虫
国が倒れ、また新たな国が生ずる。異民族に天誅を下し、意気揚々と復活を果たさんとした後漢は、民の反乱により呆気なく終わりを迎える。龍の眼から眺めればその終わりは短いが、そこで生きていた人間にとっては一生をゆうに凌駕するような長さである。
これは、その激動の時代を生きんとした一人の若者の物語である。
上下厚手の、ゆったりした布で身を固めた男は、何も持っていなかった。齢は二十弱、背丈は六尺前後、虫も潰せないほどの細身であった。男がふと目を下方に転ずれば、そこには緑が広がっていた。目をうろうろと動かしても、どこの地も緑で埋め尽くされていた。
男は久しぶりの休みを得たため、家で日頃の疲れを癒そうと床の上で横になっていた。それがいつの間にか、背で受ける感触が柔らかいものに代わり、次いで草々が眼中に飛び込んできた。
すわ何事ぞ、と思ったが、一人
近代文明の恩恵を享受し続けていた人間が、突如それを失えば、どうなることだろう? 死神との追いかけっこが始まるに決まっている。
それでは、何の心構えもなくこの地に放り出された、着の身着の
男は緑だけでなく、茶色も散らばっている森の中に入り込んでいった。川のせせらぎと鳥の鳴き声が
そんな時、男は足元の石が転がったせいで体の重心を崩してしまい、木に体をぶつけてしまった。そしてすぐに顔をしかめた。果物を潰したような音が聞こえたからである。男が肩に目をやると、そこは青と緑で塗られていた。そして六寸はあるかと思われる幼虫が八の字に体を震わしていた。叩き潰され、横から汁が噴き出ているにも関わらず、原型を留め、地べたでも痙攣を続けていた。
男は叫び声を挙げ、無我夢中で走り出した。転んでもすぐに起き上がり、顔に蜘蛛の巣がついてもその足を止めることはなかった。一刻は走っただろうか。男は疲労困憊していた。体はいつの間にか黒くなっており、所々葉で緑になっていた。男は水を求め、川に向かった。
川に着くと、男は喉の乾きを押し殺してその様子を観察した。水は澄んでいるように見える。川には多くの動物が訪れる。そしてそれらの糞などにより寄生虫が川を流れる。もしここで腹を下しでもしたら、もう生きることは叶わないだろう。水をすくってみると、微かだが半透明の粒が舞っているように見える。光の加減や泡のせいかもしれないが、それが男が水を飲むのを躊躇させた。
そんな時、川の向こうの茂みから誰かの声が聞こえてきた。男はつい叫び出そうと一歩川に足を進めたが、すぐに思いとどまった。不可解な現象がこの身に起こった以上、果たして周りにいるものは本当に安全なのだろうか。先の芋虫も、通常より遙かに大きかったような気がする。
茂みからせわしなく音が鳴っている。それが次第に大きくなっている。男の右足は川の直中にあった。冷たい感触が足に染み入っていた。一歩たりとも動けなかった。
果たして、茂みから出てきたのは、身をぼろ布でまとい、腰に刀剣をつけた三人の男であった。真ん中の男は八尺もある巨漢であった。黒い髭が顔を覆い、目は顔の窪みに埋没していた。
「何だ、てめぇは! こんなとこで何してやがる! お頭、離れてくだせぇ」
お頭と呼ばれた男は、後の二人を牽制して言った。
「いや、待たねえかおめぇら。おい! そんな川でぼーっと突っ立てて寒かねぇか?」
男は声が出なかった。何を言えばいいのかわからなかったからである。ただ腰の刀に目を転じた途端、すぐに首をニ、三回縦に振り出した。現実感はまるでないが、あれはどうみても本物だ。これが夢であれ、現実であれ、相手の機嫌を損ねるのは止めておこう。
「そうか、そうか。そしたら
側にいる二人の男は互いに顔を見合すと、肩をすくめて構えを解いた。お頭と呼ばれた男は、こちらに近づいてきた。男は堪らず声を挙げた。
「すいません、此処はどこなんでしょうか。道に迷ってしまったみたいなのです」
「ここは雒陽から南に三ヶ月程行ったところだ。それより、おめえさん、名前はなんて言う? 俺は張任だ。何を隠そう、泣く子も黙る張任ってのは、俺のことだ」
大男は胸を右手で大きく叩いて言った。
男は言葉に詰まった。雒陽という言葉には覚えがあった。かつての中国王朝で都が置かれた場所である。ということはつまり、自分は途方もない程昔の世界にいることになる。北京でも、南京でも、長安でもない。雒陽。記憶が正しければ、それは漢という王朝の時代だ。
張任の眼が険しくなった。名乗りをしないことで怪しまれているのかもしれない。男は咄嗟に嘘をついた。
「あの、えっと、信じられないかもしれませんが、名前がないんです」
「名前がない? その格好といい、ますます可笑しな奴だな」
張任の指摘は最もであった。男は動揺は見せまいとし、言葉を続けた。
「実は貴族に囲われていたんです……幼少の頃から。それで呼ばれるときも、それやこれと呼ばれていたんです」
最早男は自分で何を言っているのかわからなくなっていた。しかし、張任の方は顔を下に向けて考え込んでいた。
「貴族っちゅうのは、豪族のことかいな。それにしても名前がないのは不便なことやな。わかった、俺が何とかしよう」
「え、何とかって何を? え、ちょっと、あのっ」
二人の男はまたもや肩を竦めてお互いを見ると、踵を返して茂みを掻き分けていった。張任はその後に続くと、男について来い、と言ったきりこちらに背中を見せたのだった。
男が着いたのは、山奥にある集落であった。木の柵を越えれば、そこでは人々が衣服を干したり、薪を割ったりと快活に動き回っていた。張任が近づくや否や、一人の子供が、
「じっちゃんだ! じっちゃんが帰って来たよ!」
と声を張り上げた。じっちゃんじゃねぇ、親分と呼べ、と張任は子供の頭に拳骨を食らわせた。子供は目を細めて笑っていた。その声を聞いた周りの大人たちは手を止め、こちらに近づいてきた。
「お帰りなさい、親分。それで今日はどうしました? こんなに早く帰ってくるなんて」
張任は一人一人に声をかけながら、仕事を止めるように指示を出していた。
「詳しいことは後で話すから、食事の準備をしてくれ。おい、みんな聞こえるかー! 今日はもう仕舞いだ! さっさと飯にするぞー!」
それから子供たちは歓声をあげて走り回り、女たちは両手で籠を手に持ちながらすぐに大きな建物の中に入っていった。何人かの者が男の方を見たが、にこりと笑みを浮かべて去って行った。男共も方々に散っていった。
張任は先導しながら、男をあばら家に連れて行った。
「その服は目立つから、これに着替えろ」
張任は箱の中から古い衣服と布切れを取り出した。
「そこに茶色い水がめがある。それとここにある盥をつかって体を洗いな。黒い水がめは飲み水だから絶対に無駄にするんじゃねぇぞ」
男は首を縦に振って頷いた。とにかく従った方がよいだろう。
「洗い終わったら、俺たちがいるところに来い。一番大きな建物だからすぐわかる。何か質問はあるか?」
男はたまらず話し掛けた。
「えぇっと、あの、どうしてそこまで親切にしてくださるんですか? こんな怪しい身なりなのに」
張任は頭を掻きながら言った。
「このご時世お前さんみたいな奴は珍しくねぇよ まぁ、さすがに名前もないっちゅうのは初めてやけどな」
歯を見せて笑い、張任は男を残して出て行った。男は、家の中を見回した。木の板をつないだだけの簡素な壁で、すきまが顔を覗かせている。衣服が入っていた箱の他に、隅には藁が敷いてあった。土手には大きな茶色の水がめと、小さな黒い水がめがある。それ以外何もなかった。
しかし、それでも、ここではそれが普通なのだと男は理解した。何もない男がここに
男は静かに、体を手ぬぐいでこすった。手ぬぐいに色がうつり、時折ぴちゃ、ぴちゃと水が落ちる音だけが響いた。
先の風景を、男は今まで見たことがなかった。まず電気が通っていない。そして服も全て手縫いなのだろう、酷くみすぼらしい。何か近代を象徴するような物など、何一つ見いだせなかった。余程の後進国、最貧国であれば、このような光景は、ひょっとしたらあるかもしれない。だが、単にその国に瞬間的に移動したようには思われなかった。もっと、より想像もつかない事がこの身に起きたのだと、男は直観した。
体を清め終わると、それを見計らっていたのか一人の男が入ってきた。白い髭を三尺も蓄えていた。男は襟を正して言った。
「それがし、姓を丁、字を程と申すものです。昔は官職を奉じておりましたが、宦官により追い出されてしまいました。ですが、名前をつけられるものは程以外おるまいと、張大公が仰られたため、僭越ながら私が執り行いいたします。何か好きな字はありますか?」
宦官というのは、確か去勢された男性で、皇帝に仕える者のことだ。
「いえ、特には……。でも秀とかどうでしょうか?」
男は何となしに言った。
「秀は光武帝のいみなですから、避けたほうがよろしいでしょう。そうですね、名は伯にしましょう。字は白でどうでしょうか。非常に縁起がよい字です。姓は……」
丁程は白い髯を手で触りながら言った。
「待ってください。姓ですが、張がいいのです」
「張ということは、大公の……」
丁程は少し戸惑っていた。
「そうです。お願いできないでしょうか」
男は、失礼に当たるのかもしれないが、それを承知で頼んだ。実を言えば、新しい名前など、どれでもよかった。ただ強いて言えば、親分と呼ばれた男の名がよかった。その程度の勢いであった。だから、次に丁程から、難色の意を示した言葉が飛び出てきたら、すぐに諦めるつもりでいた。
「いえ、わかりました」
丁程は正面に相対した。その後暫し思案に耽っているように目をつむっていたが、面を上げてゆっくり男に話しかけた。
「これよりそちは姓は張、名は伯、字は白である。名に恥じない働きをし、徳を磨くことを怠ることなかれ」
「はい、わかりました。謹んでお受けします」
「ではこれより真名をつけましょう」
男は大層驚いた。いみなはもう決めているのだから、真名はまた何か別のものなのだろうか?
「真名? それは何でしょうか? 名とは何が違うのですか?」
「む、これは……。そういえばあなたはこの地のことを殆ど知らないそうですね。よろしい、説明しましょう。名を呼ぶことができるのは目上の者だけです。それに対して真名というのは、自分が心を許した者にのみ呼んでもよいと許可を与えるものです。ですので、許されていない者が真名を呼ぶのならば、その者は切り殺されても文句は言えません」
男はぎょっとした。こんな風習が、古代中国にあるとは思いもしなかった。そして、鳥肌が立った。もしこれを知らずに、どこか適当な者に話しかけたら、切り殺されていただろう。
「それはまた注意を要する名なのですね。今すぐ決めなければならないものなのでしょうか?」
丁程はまた髯に手を当てて思案した。
「そうですね……。本来であれば生まれたときにつけられるのが普通です。ですが真名は親しいもの以外が使うこともありませんし、その名が書に残るわけでもありませんから、そうそう困ることはありません」
であれば、真名など使わなければ良い。必要になった時、考えればよいだろう。
「わかりました。ではまた機会を改めてつけることにいたします」
「親しいものに聞かれて答えない、ということはその方との
丁程と、新たに張伯と名づけられた男は集落の中を歩いていった。周りには誰もいない。いつの間にか暗くなっていた。空にはかすかに白い煙が窺えた。最初に見た時よりも家屋の様子がはっきりとわかった。どの家も張伯がいた家と遜色ない程度であった。
畑が時折見えるが、どの葉も少し端が黄ばんでいた。おまけに身ぶりもかなり小さかった。薄色の畑に、黄緑がぽつん、ぽつんと鎮座していた。村落の中心には井戸もあり、立て札がかかっていた。
「あの立て札には何と書いてあるんでしょうか」
「あれには、一日に汲んでよい水は一人桶四杯までと書いてあります。飲み水でなければ、向こうの川から当番の物が運んできます」
男ははっとした。昔であれば、字を読める者は一部の者に限られていたはずだ。
「ここでは文字が読める者は多いのですか?」
「いえ、私だけでしょう。あの立て札の文面を書いたのは私ですから」
その答えは男をがっかりさせた。
「え、でもそれだと何の意味があるんですか?」
「例え文字が読めなくとも、こうしてあそこに置いてあると、それを破るのが悪いことだと思うのです。恐らく、これは字が持つ不思議な力のためでしょう」
「はぁ、そういうものなのですか」
二人は皆が集まっている会堂に着いた。そこでは、いくつもの卓があり、それらの上には料理が所狭しと並んでいた。獣を丸焼きにした肉が置いてある卓もあった。
「おい、こっちにはやく来い!」
張任が手招きをしていた。卓の上には何かの肉が積みあがっている。他の卓では木の器の上に料理が載せられていたが、張任の卓では磁器の上に置いてあった。
「いいだろう。こいつはついこの間役人の倉を襲って手に入れたんだ。といっても、もろいもんですぐに割れちまうんだけどな」
それはお頭が乱暴に扱ってるからですよー、という野次が飛んできたが、張任はうるせぇと言って料理に箸をつけはじめた。
「張大公、そのようなことを新入りに言うのはあまり……」
「だから大公って呼ぶなと何度言わせるんだ。俺のことは親分と呼べ! こいつも元の場所に戻りたいですっていう顔なんかしてねえよ」
張任は男を見て言った。男は顔をそらした。こうも真っ直ぐみられるのは、何だか照れくさい。しかし男は、自分が話すなら今しかないと思い、口を開いた。
「あ、あの。一ついいですか?」
会が、急に静まり返った。冷や汗が額に浮かんだが、そんなものに気を配っている余裕はなかった。男はえいやと早口に言った。
「私の姓は張、名を伯、字を白と言います。助けてくださってありがとうございます!」
「なんでぇ、もう決めたんかい。おい、程! おめぇ急かしたりしてねぇだろうな。俺が頼んでからってすぐ動きやがって……。張白と言ったな、いい名じゃねぇか。顔つきも違ってやがる。それでおめぇさん、これからどうする?」
張任は身体を張伯に傾け、にやりと笑って尋ねた。
「あの、どうする、とは?」
「決まってんだろ。この後何をするんだ? 俺らを官憲に訴えるかい?」
「そ、そんなことは勿論いたしません! 私は、親分と同じ姓を貰いました。ここで一緒に暮らしたいです」
「いい返事だ。だがおめえに何ができる? そのひょろっちい体じゃぁ、何もできねぇだろう」
張伯は逡巡した後、こう答えた。
「確かに私は力比べでは誰にも勝てないでしょう。字も読めません。しかし、私は算術と易が得意です。失礼ながら、この集落ではあまり野菜が育てられていないようです。そこで土を入れ替えることを具申します」
「土を替えるっちゅう馬鹿なことは滅多に言うんじゃねぇ。だが算術ができるのは本当なんだな? そしたら程を助けてやってくれ。字も学びたいんだったら程から教えてもらえばいい」
「張大公、そ、それは私にこの若者の世話を任せるということではないでしょうか?」
「だからそう言ってるんだ。ちゃんと聞いてたか? それと若者じゃねぇ、他ならぬ程がつけた立派な名前がある。なぜ名付け親のお前がそれで呼んでやらない?」
「(張大公と言い過ぎた仕返しでしょうか……)わかりました。張白、二人で倉の管理や計理をいたしましょう。私のことは丁郎官と呼びなさい」
「わかりました。今後ともよろしくお願いいたします」
「話が終わったてんなら、宴にするぞ。 みんな、聞いてくれ! 今日から新しい奴が入ってくる。張白っていうんだ。前まで豪族のやろうに捕まっていたせいで、なんも知らない赤子みてぇな奴だ。これから程を手伝うことになった。みんな、意地悪すんじゃねぇぞ!」
張伯は辺りを見渡した。多くの人が光った目でこちらを見ている。一様にその顔は上気している。部屋には熱気がこもっていた。汗が一筋流れた。
「親分に助けられてここに来ました。みなさん、よろしくお願いします!」
歓声がわっと挙がる。額が熱かった。次々と注がれる酒を飲み干しながら、張伯は今後のことを考えていた。いつの間にか、自分の前の名前が何だったのかは思い出せなくなっていた。それが少し気になっていたが、ここでは使うことのない名であるため、必要ないと考え直した。
「よぉ、張伯っ! ここはいいぞぉ。明日からよろしくな!」
いろいろな者が、代わる代わる張伯に話し掛けた。張伯は、一つもまともな返事ができなかった。背中を叩かれたり、器に食べ物が盛られたり、酒瓶が増えたり、腕をつかまれたり、袖を踏まれたり……。いろいろなことが起こり、訳が分からなくなっていた。けれども笑い声だけは途切れることが無かった。
張伯は、今朝この地に来る前に何をしていたのかも、もやがかかっているかのように忘れていた。酒が忘れさせているのか、それとももうとっくに思い出せなくなっていたのか。どちらなのかはわからなかった。ただ今まで身につけた知識や常識は覚えていたため、さして気にすることは無かった。
張伯はまた一杯、今度は自分で酒を注いだ。
こうして一人の若者が後漢の地に降り立った。その姓を張、名を伯という。この後彼を待ち受けているものは何か。それは天だけが知っていることであろう。
何の後ろ盾もない奴が異国の地を訪れても、アウトローが精々に決まってるんだよなぁ。
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