しん 恋姫†無双 く~ずの一代記   作:ポケティ

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遊撃戦

 曹操が洛陽を出てから三ヶ月、賊が敗れることはなかった。曹操が勝利をつかむこともなかった。汝南郡陽安県に着くまで、賊の襲撃は一度たりともなかった。そしてそれは着いてからも同じであった。

 

「結局、戦いを恐れる腑抜けだったということか……」

 

 夏侯惇は鼻を鳴らした。張任とかいう奴も、その愛妾も、一度も攻めてくることはなかった。此方を恐れて、近くの県史や官史を度々悩ますように襲っているだけであった。此方が軍を率いても、水をつかむかのようにすぐに逃げてしまう。弱い者を襲い、強い者に立ち向かわない腰抜けは、夏侯惇の最も唾棄するところであった。

 

「いえ、彼らは賢いわ。私と戦わずして、私を倒そうとしている」

 

「なっ! そんな馬鹿な! そのようなこと、ありえるはずがありません!」

 

 夏侯惇は、またも主に対して大声を上げた。この性格は一生直らないかもしれない。曹操は、それに愛おしささえ感じていた。曹操らは官吏の家を借りて、そこから兵に指示を出していた。

 

「春蘭、考えてもみなさい。私たちは一度も戦っていないわ。そして、私の味方はそのことについてどう考えているでしょうね」

 

 夏侯惇は頭をひねった。こうした問答は苦手であった。しかし、主である華淋様は、最近このような問いかけを多く発っしていた。もちろんそのこと自体、頼ってくださるというので、寧ろ歓喜するところではあったが、夏侯惇の頭がそれに悲鳴を上げていた。

 

「……恐らく、偏屈な彼らは、華淋様に良い思いを抱かれないでしょう」

 

「戦いを恐れる腑抜けだと思うでしょうね」

 

「な……そんな!」

 

 現実は、賊が逃げているだけだ。しかし、それを信じる者がいるだろうか。いや、そんなことを信じて得となる者はいるだろうか。そんな者はいない。宦官は、嬉々として華淋様の失態を作り上げるだろう。

 

「私たちは、味方に殺されるのよ」

 

 曹操はあっけらかんと言った。

 

「で、でしたら、今こちらの全軍で持って、直ちに賊を打ち倒しましょう!」

 

 夏侯惇は自身の得意武器である七星餓狼を手に持つと、いきり声をあげた。

 

「待ちなさい春蘭。焦る必要はないわ。彼らは何もわかっていないの。誰を相手にしているのかさえ、ね。故曰、知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼、不知己、每戰必敗」

 

 曹操の目には失望がありありと浮かんでいた。

 

「私が堵陽(しゃよう)県、あるいは舞陰邑に軍を置かなかったのは何故かわかるかしら?」

 

 どちらも洛陽の南にあるが、益州に属している。今いる陽安から見ると、西の山々を超えた先にある。賊はこの山々を転々として、神出鬼没に襲撃を繰り返している。洛陽を出る前、曹操には二つの選択肢があった。

 一つは、これらの地域のどこかに陣を構えること。もう一つは、陽安に進駐することである。前者であれば、山に囲まれているため、糧食を充分に手に入れることは難しい。また山は賊が良く知るところである。しかし、朝廷からの煩い文が届かないという大きな利点がある。後者であれば――

 

「陽安であれば、いくらでも糧食を手に入れることができます」

 

「えぇ、その通り。汝南や潁川ほど人が多いところはない。私の小さな軍ぐらい、養えない道理はない」

 

 曹操は、精鋭兵しか連れていなかった。糧食の必要を、できるだけ抑えたかったのである。

 

「しかしこのままでは……」

 

「それもあり得ないわ。私の母は三公の一つである大尉まで上り詰めたのよ。どれだけ後ろ指をさされようともね。そう簡単に引き摺り下ろされることはないわ……それに袁家も味方よ」

 

 袁家というのは、四世三公の名門であり、汝南と潁川に大きな影響力を持っている。その袁家を味方にしている以上、宦官の嫌がらせなど瑣末なことに過ぎない。

 

「では、彼らは何を狙っているのですか?」

 

 春蘭は疑問に思った。我々はそう簡単には、味方によって殺されることはない。であれば、賊は何を……。

 

「さっき言ったとおりよ。彼らはどちらが長く持ちこたえられるか、それを競い合うことにした。でもこの勝負は私の方が有利。むしろ彼らの方が危ないんじゃないかしら?」

 

 曹操は鋭い笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 密議は、朝廷においては厠で行われている。狭く暗いところに、謀議を張り巡らす臭い人間がいるのである。張伯らもその例に漏れなかった。全ての窓にボロ布が当てられていた。幾筋もの光が布から飛び出ていたが、それらが彼らに届くことはなかった。

 

「やるべきことはただ一つ。奇襲を繰り返し、敵の士気を挫くことです」

 

 張伯は自信を持って答えた。決して正面から戦わない、それが曹操との戦いへの答えであった。夜襲、不意打ち、騙し討ち……。どんな策を用いてでも、敵の戦力をじわじわと減らしていく。(敵と正面からぶつかって)一気に減らすことは、今の戦力では無謀。そのことを張伯は誰よりも知っていた。

 

「それは何べんも言われたからわかってる。確か遊撃戦、っちゅう言うんだろ?」

 

「その通りです、親分。効果的なのは、敵の前衛を殺すことです。それを繰り返せば敵は前衛をやりたがらなくなり、軍として崩壊していくのです。無理して後衛を殺さず、前衛だけ殺して撤退し、隙を見てまた奇襲する。それがこの戦いの肝になります」

 

 張伯は、山賊を長年やっている親分たちであれば、すぐにこの戦法になれると予想していた。張伯は曹操を恐れていた。何せ、七傑――張伯が便宜的に名づけた、この時代において警戒を要する人物――の中で最も優れているのである。これを恐れずして、何を恐れるというのだろうか? そんな人間とは、張伯は戦いたくなかった。だからこそ、戦わずとも勝てる策を選んだのである。

 

「それで、おれたちを戦うよう仕組んで、お前はこそこそと何をしているんだ? 逃げる準備か?」

 

 張伯はその質問にはすぐには答えなかった。答えたくはなかったが、図星だと的外れに笑われるのが嫌で、しぶしぶ返した。

 

「他の村や国とも、同盟を結ぼうと話を持ちかけているのです。それぐらいのことは、すでにご存知かと思っておりましたが」

 

 伍倉は、張伯の言うことに一々食って掛かった。張伯は面倒でたまらなかった。伍倉は更に詰め寄った。

 

「それで、上手くいったのか?」

 

「まさか。どこも日和見を決め込んでいます。食べ物が手に入るだけでも、ありがたいと思った方がよいでしょう」

 

 張伯は家を後にして外出することが多かった。そうしなければ――死ぬと思ったからである。

 

「まぁ、張白。敵にならねぇっていうんなら、それは悪いことじゃねぇ。そうへそを曲げるな。後これはお前さんの妻のお嬢さんのおかげでもあるんだからな。それは感謝しろよ」

 

 張任は張伯に笑いかけた。酒を手に持っているが、流石に話題が話題のためか、最初から一口もつけていなかった。張伯は、親分が酒を飲まないことができるということに、新鮮な驚きを感じていた。

 

 張任の言は正しかった。他の村や国と同盟を持ちかけるとき、自分がその証に嫁を貰ったことを話すと、すぐに彼らは思い悩むようになった。単純な口約束だけの同盟では効力が低いのだろう。証文を交わすのも一つの手ではあるが、それよりも大きいのが婚姻なのだ。

 張伯にとってそのような同盟の違いは、朝に吐く息と夜に吐く息の違いと同じくらいであった。一方にとって不利益となれば、容易に破棄されるのは同盟の常である。もし自分たちが負ければ、同盟というものは――例え婚姻していたとしても――たちまちにして破棄されるだろう。 

 

「みなさん、お茶をお持ちいたしました」

 

 丁程が部屋に入ってきた。

 

「何度も襲ってはいるが、特に役に立っている気はしねぇ。そこんとこどうなんだ、張白」

 

「それは曹操に戦う気がないからです。彼……彼女の本軍は陽安から一歩も出ておりません」

 

 張任は酒瓶を揺らしながら言った。

 

「だが食料は町から運んでいるはずだ。それを襲っちまえばいいんじゃねぇのか?」

 

「その通りです。ですが、場所がよくありません。陽安よりさらに東には人が多い町がいくつかあるようです。食料はそこから運ばれているのです。よって攻めることができない理由は三つあります。

 一つは、我々がそんな人の多い都市に出向くと、下手をすれば町民が敵に回る可能性があるということ。もう一つは、敵は此方がどこを攻めに来るのかわかっているということ、そして最後に曹操がいるということです」

 

 張伯にとって、曹操がいるということが、奇襲をためらわせる唯一の理由であった。女というのも気味が悪かった。張伯はまだ信じられずにいた。曹操が女! 張伯の記憶が正しければ、曹操は男であった。となれば、ここは張伯の記憶にある、過去の大国ではない。限りなく似ているが、どこかが違う世界なのだ。

 このどこか、というのが懸念の種であった。単に性別が変わっているというだけではない。一部の女性には信じられない程の力を持つものがいる――もし人が文字通り吹き飛ぶという言を信じれば。

となれば、他にも違うことがいくつかあるかもしれない。そして生き残るためには、それらを見つけ出すのが不可欠だ。けれども、張伯は未だに見つけられていなかった。そもそも、記憶にある過去の国というのも定かではない。過去の人々がどのように暮らしていたかなど、考古学者や歴史学者でもなければ知ろうとさえ思わないだろう。

 

 得体の知れない恐怖が張伯の心に影を落としていた。敗北は許されない。曹操とまともに戦っても勝つことは望めそうにない。奇襲では相手の戦力を落とすのが関の山。だが張伯は、そのような難局にあろうとも、決して揺るがなかった。

 

「時間は私たちの味方です。時がたてば立つほど、曹操は不利になるのです。なぜだかわかりますか?」

 

 張伯は伍倉だけを見て言った。答えられないと踏んだからである。実際、口を開かず、ただ眺めるだけだった。

 

「聞けば、曹操は宦官の身内の一人を殺したそうです。であれば、曹操は宦官からはこのことで嫌われ、周りの者には祖父が宦官であるということで嫌われているでしょう」

 

 加えて天才への嫉妬。嫌われている者が、その才を余すことなく発揮したら、周囲の者はどうするだろうか? 直に打ち倒すに決まっている。丁程が宦官という言葉を聞き、わずかに顔を歪めたのを張伯は見逃さなかった。敵の敵は味方、という論説は彼には通じないだろう。

 

「彼を知り己を知れば、百戦危うからず、という諺もあります。私は曹操のことを良く知っています。しかし、曹操は私の名さえ知らないでしょう。それと伍倉」

 

 張伯は冷めた目で伍倉を見た。

 

「あまり人を殺さないようにしてください。降参する者は見逃すようにお願いします」

 

言っても聞かないとわかっているのに、口を開かなければならないのは、疲れることだった。

 

「ふんっ、そんなことはわかっている。ただ奴らが抵抗してくるから、(仕方なく)殺しているだけだ」

 

 敵は、捕まったら必ず殺されるとわかれば、必死に抵抗する。当たり前である。逆に捕まっても開放されるのであれば、怪我をしても味方と同じ治療を施されるのであれば、そのことを周囲に喧伝するだろう。これが続けば、敵も味方になるだろう。苛烈な見せしめは敵の士気を上げる。それだけではない。中立する者にも良くない影響を与える。張伯はそのことをうんざりするほど知っていた。同盟が新しく結ばれないのは伍倉にも責がある。

 

 張伯はだからといって、そのことを恨みに思ってはいなかった。むしろ、もっと人を殺して欲しいとさえ思っていた。親分や自分、あるいは他の者が率いる隊では、敵に対して慈悲が施されていた。だから何も問題はなかったのだ。

 

「とりあえず、このまま奇襲を続ければいいんだな?」

 

「その通りです。では、今日の会合は終わりにしましょう。親分と伍倉は、襲撃の準備を」

 

 遊撃隊は、主に親分と伍倉が率いていた。一度集落を出ると、戻るまでに五、六日かかった。そうなるよう張伯は指示を出していた。張任と伍倉らが出立したのを見送った後、張伯は家に戻った。家には誰も居なかった。だがそれを張伯が気にすることはない。いつものように横になった。

 

 妻は、刺激を求めてどこかで遊びに耽っているようであった。何処に行っていたとしても、皆彼女が重要であることを知っているのだから、手厚くもてなすだろう。張伯にとって、問題は、如何にして曹操を追い詰めるかということ一点であった。言うことを聞かない伍倉も、何処に居るとも知れない妻も、どうでもよかった。

 

 

 

 

 曹操と張伯。両者は、己の持てる才覚を発揮していた。が、しかし、張伯はこの地のことをあまりにも知らなさ過ぎた。味方のことも充分に知っていなかった。もし張伯が洛陽の輝きを、あるいは集落のことをもう少し知っていれば、また違った結果になったであろう。代償の取立ては、鐘の音と共に訪れた。

 

 張伯が跳ね起きたとき、既に悲鳴が巻き起こっていた。張伯が家を出ると、誰もが動き回っていた。張伯は、その中で走り回って、皆に逃げるよう怒鳴っている者をつかまえた。

 

「何があったのですか!」

 

「敵が攻め入りやした! もう門が持ちません! すぐに裏門から逃げてくだせぇ!」

 

 その者はそう言うとたちまち闇の中に消えた。

 

 張伯は慌てて裏門に向かって走ろうとした。しかし、考えるより先に体が止まった。敵はこの襲撃を入念に計画していた。でなければこうも簡単に混乱に陥るはずがない。見張りが気付いたときには手遅れであったからこそ、ここまで醜態を晒す結果になっているのだ。逃げた先に伏兵がいるというのも、容易に考えられる。

 張伯は周囲を見回した。この集落には出口が二つある。その内の一つに今敵が攻め込んでいて、反対側のもう一方に皆逃げようとしている。当然反対側にも敵が待ち受けているに違いない。かといってどこかに隠れるとしても、いずれ見つけられてしまう。

 張伯の視線は、自然と集落を囲む柵に移った。木でできていて、その表皮は丹念に削られている。おまけに先は削ってあり、きれいに尖っている。張伯の背丈の二倍ほどあった。越えられないわけではないが、簡単に越えることは難しい。足場になりそうなものは何もない。 

 

「助けて――!」

 

 女の絶叫を後ろ耳で聞きながら、張伯は家に戻った。現実逃避のためではなかった。焦りこそが死を招く。張伯はそのことを知っていた。手首に人差し指と中指を当て、心臓が落ち着くのを待った。落ち着いたのを確認してから、考え始めたのである。

 思考するのは敵の追い詰め方だ。敵は一方の門から攻めている。そして、隠れている人を探しつつ、反対側から逃げる人々を迎え撃つ算段でいる。逃げる側は必死なのだから、敵は迎え撃つとなれば悠長に探している時間はない。となれば敵から上手く隠れきり、それから柵を超えるのが、自分が取れる唯一の方法だ。

 張伯の考えは纏まった。後は、実行に移すだけである。隠れるのなら、柵に近いところがいい。柵のところどころには明りが設置されている。張伯はその明りを見た時、体が硬直した。そして何も聞こえなくなった。突拍子もない、しかしそれでいて、それしかないと信じられるような策を思いついたのである。

 

 普通であれば、人は明りがないところに隠れる。

 

 当然探す側もそれはわかっているのだから、暗く、見つけづらいところを探すに決まっている。まさか明りのすぐ近く、明りによって生まれる濃い暗闇の中に人が潜んでいるなど、誰が思うだろうか。

 張伯は、この考えが、一歩間違えれば笑いものになることを承知していた。一体誰が逃げ場のない壁にはりついて、しかも明りの側でじっとしているというのだろうか。見つけられれば一環の終わりのこの状況、足が震えずに、逃げ惑えずにいられようか。考えは纏まった。後は実行するのみであった。張伯は――――己の考えに身を委ねた。

 

 

 

 悲鳴が響き渡っていた。家から引きずり出されている者がいた。命乞いをする者もいた。槍を持ち、抵抗しようとして後ろから斬られる者がいた。張伯は、それらを見ても微動だにしなかった。人は、動くものに対しては敏感だからである。声が大きくなった。

 

「様子はどうだっ!」

 

 女の声が聞こえた。太ももを見せつけるような、開けた青い服を着ていた。弓を背負い、兵に囲まれ、井戸の側に立っていた。明らかに高い地位にある人間だ。

 

「抵抗はほとんどありません! あと少しで鎮圧できそうです!」

 

「死不再生、窮鼠嚙貍! 決して油断するなっ!」

 

 指揮を取っていたのはこの女であった。張伯はこの時初めて、敵を認識した。そこにいるだけで兵の士気が高くなっているのが、遠目からでもよくわかった。

 張伯は知る由もなかったが、女の名を夏侯淵と言った。夏侯惇の従兄である。張伯は女から目を離せなかった。この女によって、ここの人々が殺されている。命乞いをしていた女が地に伏せた。無抵抗の人間にも、女は容赦しなかった。いや、そもそも興味がないのか、視線をくれることもなかった。

 

 

 響き渡る悲鳴と怒鳴り声が大きくなった。反対側に逃げた者が、敵に追われて戻ってきたのだろう。人は逃げられないとわかれば、死に物狂いで戦う。女も矢を放っていた。今だっ! 張伯の動きは素早かった。柵にぼろ布をかけると、すぐにそれをたよりに両手で柵にしがみついた。足を木と木の隙間にかけようとしたが、なかなか上手くいかなかった。首から汗がつたって落ちた。張伯は、一旦登るのを止め、足を地面につけた。手は既にしびれていた。この様子ではそう何度もできないだろう。

 

 張伯はちらりと後ろを振り返った。丁度女性が、兵に殴られて倒れるところだった。その後女は髪をつかまれ、胸を剣で刺され、がっくりと首から力が抜けた。どうやら敵は、女性であっても容赦しない、一時の快楽を得るのを惜しまずに殺せる精鋭のようであった。あるいは、女が指揮官となれば、そのような暴行も行えないのかもしれない。

 

 張伯の顔に血が飛んだ。いや、飛んだと思ったのだが、触ってみても何ともなかった。極度の緊張で幻覚を見ているのかもしれない。張伯は、力を抜いた女が井戸に落とされるのを見た。それは、敵に見つかれば張伯も辿りうる道筋であった。

 張伯はもう振り返らなかった。忌々しい、聳え立つ柵が見える。いつ見つかって、あの女に撃たれるかわからない。しかし、そんなことを気にしていては逃げられない!

 

 張伯はもう一度挑戦した。生きるために。ぼろ布を折りたたんで歯で噛むと、思いっきり力を入れて、柵にしがみついた。そのまま、腕の力で体を持ち上げたのである。視界が一気に暗くなる。張伯は、上半身を柵の外に乗り出していた。このまま体を横にして降りようとしたが、腕がもたなかった。張伯は地面にたたきつけられた。

 

「うっ……ぐ…………」

 

 どすっ、という鈍い音がした。張伯は地面に倒れ伏した。暗闇のため受身を充分に取れなかった。張伯の体は悲鳴をあげていたが、声は極力漏らさなかった。歯に布をかませていたためか、うめき声を出さずにすんだのである。痛みが引くまでしばらく動けなかった。悲鳴の中、今のうめき音は敵に漏れ聞こえただろうか。敵は此方を見つけるだろうか。そんなことばかりが頭に渦巻いていた。

 張伯は這いずって移動し始めた。前にある茂みを手でよけるだびに、裾がぶち、ぶち、と音を立てた。張伯はその音さえ聞かれるのではないかと気が気でなかった。終いには、とっとと立って逃げるべきではないかと思い始めていた。

 

「おい、そっちはどうだ? 誰かいるか?」

 

 張伯の心臓は跳ね上がった。だというのに、体はすっかり固まっていた。

 

「いいや、誰もいない……柵を超えてくる奴なんていないだろう」

 

「まあそう言うな。楽でいいじゃないか。あいつらは村の中を尻に火をつけて走り回って、こっちはこうして立ってるだけでいいいんだから」

 

 張伯の左に二人の兵がいた。張伯は声が聞こえるまでその存在に気付かなかった。もし立っていたら見つかっていただろう。張伯は全く動けなかった。兵の会話はまだ続いていた。それが終わったら見つかるかもしれない。ここで殺してしまおうか。張伯は素早く思考をめぐらせた。敵は余り強そうには見えない。背丈も張伯とそう変わらない。武具をつけているのは厄介だが、上手くいけば助けを呼ぶ間もなく殺せるかもしれない。

 いや、駄目だ――。上手くいけば。その考えが命取りとなる。確実に始末できなければ、不用意に挑むことは危険である。兵法の鉄則、いや人生の鉄則を張伯は改めて認識した。張伯はひたすらじっと伏せていた。

 

「誰か逃げようとしているぞー!」

 

 その機は、案外に早く来た。集落から怒号が響く。誰かが逃げようとしている。その者は、張伯が残した、柵に縛り付けられた布を見て、これを登ればよいと思い至った。その者が柵を登った時、既に柵のどちら側にも兵が待ち受けていた。張伯はその者を見たことがあった。あの日、張伯が初めてこの地に降り立ったとき、張任、伍倉と一緒にいた者だ。張伯はその名を知らなかった。

 その男は、柵の上を器用に走って逃げようとしたが、槍で振り落とされて、串刺しにされた。張伯はそろそろと動き出した。敵はみな必死にもがく男に目がいっていた。これも、張伯が辿りうるかもしれない道筋であった。張伯は柵を超えた最初の者だったからこそ助かったのであった。

 

 

 

 もう、仏暁であった。這いずり回ったおかげで、服は泥だらけであった。追っ手が来ている様子はない。張伯はため息をついた。服は泥だらけであった。腕もところどころ血が流れていた。酷い格好であった。ここに川があれば、親分ら三人が来るかもしれない。いや、その内の一人はもう死んでいる。とにかく、そんなことを考えるくらい、張伯は落ち着いていた。

 張伯の胸にあったのは怒りであった。いいように女に敗れたのが気にくわなかった。己が敗れたということは、眼前にある事実であった。そして、張伯はその後の困難も充分認識していた。一人皆を見捨てて逃げたのであれば、下手をすると殺されるかもしれない。どこかに、逃げ切った者はいないだろうか。張伯は、集落の方を見据えていた。煙が上がっていた。女子どもでは、あの柵を超えるのは難しい。助けがあればできなくもないが、そんな暇があっただろうか。ああ、誰かいないだろうか。あの惨劇から逃げ出したものが、誰か――。

 

 果たして張伯の願いは通じた。それは、天が張伯に微笑んだのだろうか? 張伯は、そうは考えていなかった。少なくともこの時点では。

 

 張伯から二里ほど離れた場所に、白い髭を蓄えた男が歩いていた。身なりの良い、汚れ一つない服を身に纏っていた。懐には、文房四宝があるのだろう、大事そうに手を当てていた。

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