しん 恋姫†無双 く~ずの一代記   作:ポケティ

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脂が乗った董卓、魔都雒陽に打ち上がる
野獣と美女


 

 男は逃げ続けていた。地面が白くなろうとも、人目を避け、潜行し、目を光らせ、しぶとく生きていた。腹が減った時は、屈辱を噛み締めた。そんな生活は、女の声に際会した時、終わりを迎えた。

 

 さて、男が木々の隙間から覗いて見るに、背の低い女の子を、三人のがらの悪い男が取り囲んでいた。女の子はその背中しか見えないが、どうも服が貴人の、何か地位を持った人間のそれであった。対照的に男たちの服装は、己は山賊であると豪語していた。

 

 普通の人間であれば、この光景を見たら、どうするであろうか? 真っ先に助けに向かうだろうか? それとも、恐怖を感じてただ縮こまるだけであろうか? あるいは同じ意味だが、見なかったことにするだろうか?

 

 男は違った。男は自分も標的にならないよう、強く念じていた。それというのもこの男、賊として官憲から追われる身分であったからである。残念なことだが、敵の敵は味方、という関係が成り立つのは、力が拮抗している時に限られる。男は一人であったため、あの山賊たちと仲良くなるのは不可能であると考えていた。むしろ見つかったら何処かに売り飛ばされるかもしれない。

 だがこの点について、男は微塵も心配していなかった。男が唯一恐れていたのは――――今見える非力そうな女の子が、自分をも敵と見定めることであった。

 

 実はこの男、先日女から痛い目にあっていたのだ。ばっさばっさと快刀乱麻の音が響き、男たちは四肢を空中に投げ飛ばす羽目になったのである。そんな惨状を目の当たりにした男は、女に対して、底知れぬ恐怖を抱いていた。その恐怖は、地面と一体化しようとも、木の根っこを掘って齧ろうとも、消えることなく体に染み付いていた。

 

 女の子は、手に何の武器も持っていないように見える。だがそれは裏を返せば、武器などなくとも勝てる自信があるからではないだろうか? 山に一人でいるのも、それだけの実力があるからではないだろうか? 圧倒的な実力に裏付けされた傲慢が、どんなに恐ろしいだろうか!

 極めつけは、服である。上質な服を着ている以上、それだけ優秀だということである。その逆もまた然りである。優秀であれば、高貴な絹がその者を放っておくはずがない。

 

 優秀な女は、化け物。

 

 この法則は決して忘れてはならない。男は歯軋りし、拳を強く握った。これは、男が夥しい血と引き換えに手に入れた、唯一の真実であった。この女は、どう見ても只者ではなかった。

 

「あなたたちは、何故こんなことをするのですか?」

 

 それはこれを聞けばわかる。明らかに脅されているというのに、なぜこんなにも綽綽としていられるのだろうか? 絶望もせで、逃げることもせで、対話を試みている。それは、いつでも山賊どもを殺せる自信とそれを行える確かな実力があるからだ。相手が路端の石ころにしか見えなければ、どんな恐怖も覚えはしない。そして彼女は事実、相手をくず石に変える魔法の杖をその身に持っている、いや埋め込んでいるのだ。

 

「嬢ちゃんよぉ……こんなとこにいるんだ、覚悟の上だろっ!」

 

 山賊がすごんで言った。刃をもう片方の手に乗せて、弄り回していた。光が散漫した。男は内心ため息をついた。わざわざこんなことを言うのは、己の感じる罪悪感を紛らわすためだ。人を襲う時、相手が悪いと思うことで、心の安定を無意識に図っている。そう思わなければ相手を害することができない。つまりは弱者の戯言だ。手慰みに刃をいじるのもそうだ。敵と対峙するまさにその時、遊んでいる暇など存在しない。そのような無為な、危険な時間を作り出すこと自体、この山賊の弱さを語って止まない。次の言葉は、男の更なる失望を招いた。

 

「俺は知ってるぜ……あんたのことをよぉ。護衛も連れずに、領地を見回る心優しいお偉いさんだってな! ちょっとはっ! おれたちにも優しくしてくれよぉ!」

 

 本当に優しいのなら、既にこの世にはいない。または今もなお、官服を身につけてはいないだろう。厳しい判断も下すことができる人間だからこそ、ここまで上り詰めたのだ。鷹と鴨の区別もつかない賊は、ここで殺されなくとも、どのみちどこかで死ぬだろう。男は合掌した。冥福を祈るのではなく、あの女の子が三人の生き血をすするだけで満足してくれることを祈った。

 

「そんな……誰か、誰か助けてください!」

 

 賊が下卑た笑いを浮かべながら、女の子に近づく。女の子は、一歩、また一歩と後ずさった。男は戸惑った。こんなにもべたな場面は見たことがなかった。この女の子は、なぜわざわざ山賊らに付き合ってあげているのだろうか? そんな理由があるとは思えない。一思いに殺してあげるのが、優しい領主の務めではないだろうか?

 

 男の疑問は、すぐに恐怖にかき消された。

 

「そこの、木の陰にいるお方……どうか、どうか助けて……助けてください」

 

 その言葉は、全ての男を戦慄させるのに十分であった。どの男の心臓も高鳴っていた。山賊の一人が、指差された方向に視線を向けた。女の子は、相手の注意を逸らすのではなく、本当に助けを信じる眼をしていた。真っ直ぐな眼で、木を射抜いているのだ。そして、それ以外には注意を全く払っていなかった。山賊らは剣を何度も光らせた。山賊らがざわざわと動く音以外、無音であった。

 

「お、おいっ、なぁ……」

 

 一人が顔と眼をきょろきょろと動かして言葉を漏らした。

 

「は、はったりに決まってる!」

 

 山賊は、剣を前に振りかざしながら、ごくりと唾を飲み込んだ。木漏れ日におかしな影がないか、少しでも違う色が見えないか、目をぐるぐる動かした。そうしながら蝸牛の歩みで前に進んだ。木の後ろを、たじたじと窺った。

 

「へへっ、驚かせやがって。誰もいないじゃねぇか!」

 

 山賊が振り向いた時、仲間が首をぱっくり開けているのが見えた。

 

「は……?」

 

 二人の仲間は、地面に倒れた。そして、男が迫ってきた。ぼろぼろの服を着た、自分たちと同じ薄汚れた男が。最期に、白い光が見えた。

 

 

 

「助けてくださって、ありがとうございます」

 

 女の子は拱手しながら言った。他方、男は完全に落ち着きを失っていた。顔には生気がなく、足は異様なほど震え、すぐに崩れ落ちた。

 

「どうか、どうか命だけは助けてください! お願いします!」

 

 男は額を何度も地面にこすりつけた。この女は、間違いなく此方に気がついていた。だからこそ、見当違いの方向、賊たちが男に背中を見せる方向を指したのだ。そしてその意味するところは明白だ。

 

「指示のとおり、あいつらは殺しました! 信じていただけないかもしれませんが、私はあの賊とは何の関係もございません。名も知らないのです!」

 

 賊と敵対するかどうかの踏み絵。あるいは、自分で殺すのは面倒だから、他の者にやって欲しかったのである。

 

 もし仲間でないのなら、あるいは仲間と同じように死にたくないのなら、今すぐ殺しなさい―― 

 

 男にはそんな声が聞こえた。この女は生殺与奪の権を握っているのだ。いつ気まぐれで殺されるか分かったものではない。男は寒気の中、粟を生じていた。こんなところで、死ぬわけにはいかない。何としてでも、強者の気まぐれな慈雨を引き出さなければならなかった。殺す価値も無い、そう思わせる必要があった。

 

「落ち着いてください」

 

 そう言うとその女の子は、男の右手を両手で包み込んだ。そのあまりの滑らかな挙動に、男は居を突かれた。そして驚いたことに、それをゆっくりと己が腹に当てた。男は呆気にとられていた。女の子は男の手を動かし、あちこちを触らせた。柔らかい絹と、わずかばかりの熱を感じた。

 

「な、何を……」

 

「どうですか? 私はどこかに武器を隠していますか?」

 

 なるほど確かに、女の子は懐剣すら持っていなかった。だが男には、奇妙千万なことばかりであった。なぜ、わざわざ男の手で探らせたのだろうか? そのせいで、官服が血で汚れてしまっている。それに武器は確かに有用だが、別に武器はなくとも人は殺せる。一体どこに安心する要素があるというのだろうか? そもそも、こうして汚れた男を説得しようとすること自体、理解に苦しむ。

 

「武器を持たないというのは、徳を表します」

 

 女の子はにこりとして言った。それは男をさらなる疑問の渦底に誘った。徳が有るから、何だと言うのだろうか? 徳が有るのを誇示したかったのだろうか? だが、ここには二人しかいない。そんなことを示す意味があるとは思えない。ここで起きた、あるいはこれから起こることを知る者は、一人だけでも特段構わないのだ。

 

 男が困惑した顔を貼り付けている中、女の子は続けて言った。

 

「もしよろしければ、お礼をしたいのですが、私に着いてくださいませんか?」

 

 男は逃げようかと思ったが、右手は今だつかまれていた。男の顔は白くなった。もしやこのためにこんな回りくどい手を取ったのだろうか? 

 男の不安をよそに、女の子は男を引っ張ろうとした。

 

「少しお待ちいただけないでしょうか?」

 

 男は慌てて言った。すると意外にも、女の子は自然に手を離した。男は下を向きながら、一番遠くにある死体まで歩いて行った。男は黙祷しながら、頭を忙しなく働かせた。この女の子に、今のところ殺意は見受けられない。今も生きていられるのがその証拠だ。そして恐らくだが、このまま逃げても殺されることはないだろう。何せ相手はわざわざ放してくれたのだから。

 ここから逃げることはできるだろうか? できる。 ――――だが、逃げてどうするというのだろうか?

 

 

 ふと前を見ると、大木が見えた。女の子が先ほど指差したものであった。真ん中に穴が小さく空いていて、虚ができていた。男は何となしに覗いてみた。すると、茶色い塊が奥に嵌まっているのが見えた。明らかに木が産み落としたものではない。

 

「それは蝶の蛹です」

 

 突然、隣から声が聞こえた。男が後ろに引くと、女の子は体を震わせながら、虚を覗いていた。必死に爪先立ちをし、ぴょんぴょんと体を動かしている、無防備な背中が見えた。男の手には、いまだに刀が握られていた。

 

「もう少し暖かくなれば、羽化するでしょう」

 

 女の子は、どこからか拾ったのか、枯れた草木を手に持っていた。

 

「このままだと、穴が大きすぎて鳥に見つかってしまうかもしれません」

 

 女の子は手を上に大きく伸ばし、虚の周りに草木を引っ掛け始めた。ぽろぽろと、顔に枯れ枝が落ちていた。少し赤みのかかった頬に緑と茶のまだら模様ができた。この女の子はそれには構わず、額から少し汗を流しながら小さな手を動かしていた。

 男はまた刀を見た。未だ声は聞こへず。いや、この刀はあの日以来、沈黙を貫いていた。女の子は、足を滑らせつつも、木にへばりつこうとしていた。男はふと言った。

 

「蝶は、美しく飛び立ちますか?」

 

 女の子は横目に見ることもなく、相も変わらず虚に視線を注いでいた。

 

「え? えぇ、それはもう、きっときれいな白い羽をひろげるでしょう」

 

 突然男は、刀の先を虚に突き刺した。

 

「蝶になるためには、十分な広さの出口が必要です」

 

 男は言った。そして決意した。

 

 

 

 

 女の子の名前は、董仲穎と言うらしい。当然董が姓で、仲穎が字だ。七傑ではないため外れではあるが、優秀であることに変わりはない。どうも涼州刺史という職を奉じているらしく、節々の会話から判断するに、その職は相当偉いようだ。彼女は非常に期待できる人間であった。二人は、人目をできるだけ避けるような道を通りつつ、それでいて官の、つまり彼女の館に向かうという不可能なことに挑戦していた。

 

「董仲穎様、こんにちは!」

 

 無駄に元気な子供が飛び出してきた。その能天気な面を見るに、才のある者の対極にいるのだろう。

 

「こんにちは。今日はお母さんのお手伝いですか?」

 

「うんっ! これを届けるよう言われたんです!」

 

 そう言うとこの男の子は、籠から真っ黒の筍を取り出した。

 

「いいでしょうっ、これ! はつものですよ!」

 

「まぁ、とても美味しそうです。お母さんにも、喜んでいたと伝えておいてください」

 

「うん、わかった!」

 

 そう言うと男の子は、風のように走り去って行った。男は荷物を持とうとしたが、

 

「これは彼が私に渡したものです。他の者のお手を煩わせるわけにはいきません」

 

 とにべなく断られた。

 

「董仲穎様、今日は論語を読みました!」

 

「そうですか。大変良いことです。親への孝行を忘れずに、これからも勉励を欠かさないようにするのですよ」

 

 他にも色々な者が董仲穎の元を訪れ、いつしか彼女がいつの間にか背負っていた籠から、赤い人参がはみ出ようとしていた。男はその様子をぼんやりと眺めていた。他の者は男を見ると一瞬警戒するのではあるが、それだけであった。それは明らかに隣に立つ彼女のお蔭であろう。そしてこの光景は、男にはどこか懐かしい感じがした。

 

 やがて二人は、館の門の前にたどり着いた。

 

「董涼州刺史様! 今日は如何なされましたか。お召し物が、汚れておいでです」

 

 門番の男は、やや驚いたようではあったが、特に警戒している様子はなかった。隣に刀を持つ者がいるのだ。主の服に血がついているのなら、須らく警戒すべきである。門番失格であろう。

 

「彼に、案内を」

 

 それだけで、全てが伝わったようであった。門番の男は、男に隣にある、こじんまりとした家に入るよう言った。一見するに、牢屋ではなさそうだ。

 

「そこで体を清めるように」

 

 男は安心した。民が警戒心とは別に嫌悪感も表すのは、この臭いの影響が大きいと秘かに気になっていたからだ。

 

 

 

 

「お疲れのところ、失礼します。お話したいことがあるのですが、よろしいでしょか?」

 

 そう声をかけられたのは、男が着替え終わり、晩御飯を食べた後であった。断る理由も力もない。董仲穎が入ってきた。先ほどとは違い、軽装をしている。董仲穎は男の顔に何かを見つけたようであった。

 

「お顔が……」

 

「私の顔がどういたしましたか?」

 

「いえ、髭が生えていないなんて、珍しいことだと思いまして」

 

 そう言えば、きれいな顔を見せたのはほとんどなかったような気がする。あったとしても、ここに来た最初だけであろう。

 

「生まれつきのものです」

 

 そのような手術をしたと言っても、到底理解はされまい。

 

「失礼いたしました。それでは――」

 

 董仲穎は尋ねた。

 

「あなたのお話を、聞かせていただけませんか?」

 

 十分に考える時間はあった。今は、それが試される時だった。男は言った。

 

「初めに、私の名前は張任と言います」

 

 男は冷静に言った。

 

「洛陽の賊魁、という言葉に聞き覚えはありませんか?」

 

 董仲穎は目を丸くして驚いた。

 

「ええ。ですがその者は、その、殺されたはずです」

 

「それは偽物です。曹操という者は、宦官の孫娘らしく、手柄を捏造するのに長けているのです」

 

 董仲穎はやはり固まったままだった。男は落ち着きを見せながら言った。

 

「少し落ち着かれた方がよいでしょう。その間、私はここでお待ちしております。安心してください。私は逃げも隠れもいたしません」

 

 正直に言えば、もし廊下から聞こえてくる足音が多いのであれば、不可能であっても逃げるつもりでいた。その想定が堪らなく恐ろしかったが、男はそれがないことに賭けたのであった。董仲穎という女は、助けられたという恩を感じている。けだし優秀なこの女は、鉄の心で処分するかもしれなかったが、その恩にしがみ付いたのは分の悪い賭けではなかった。

 

 董仲穎は、男にとっては意外なことに、賊を発見したにも関わらず兵を呼んだりはしなかった。そもそも席を立ち上がることなど一度もなかった。そのまま正座を続け、黙考していた。この場では、蝋燭の火だけがちらちらと動いていた。やがて口を開いた。

 

「曹洛陽南部尉の軍との戦いは、どのようなものでしたか?」

 

 これは、本当に男が件の賊なのか確かめようとしているのだろう。

 

「初めはお互いに兵を差し向けて、小競り合いを繰り返すだけでした。しかしある時、曹操は卑劣なことをしました」

 

 男はじっと董仲穎を見据えた。

 

「彼女は夜襲をして、私たちの妻や子どもを、皆殺しにしたのです。一人たりとも、村から逃げることはかないませんでした」

 

 男は卓を力強く叩いた。手の痛みが、声に震えをもたらした。

 

「家は全て焼かれ、妻子はみな凌辱された後、井戸に投げ捨てられました」

 

 男はしばらく下を向き、うめき声とも嗚咽ともつかない声をあげた。

 

「私たちは、復讐を望みました。そして、彼女の軍と正面から戦ったのです。ですが、ですがっ! そこでも、彼女は鬼にも劣る所業をしたのです!」

 

 男は手を震わせていた。これはきっと彼女に効くだろう。

 

「民を盾にして、国の中で戦おうとしたのです!」

 

「なんとっ……」

 

「無論、私たちはすぐさま攻撃をやめ、引くことにしました。敵が無辜の民を傷つけたからといって、私たちがそれをするのはとんでもないことですから」

 

 男は悔しさを募らせながら言った。

 

「私たちはこの時、これ以上民に犠牲を広げるわけにはいかないと考え、逃げだすことにしました」

 

「逃げる……?」

 

「ええ、そうです。どこか遠くへ。危険がないところへ」

 

 男はかわいた笑いをしながら言った。

 

「ですが、その時突如曹操は襲いかかってきたのです! …………それにより、皆殺されました」

 

 男はうなだれたまま言った。

 

「ここまでが顛末です。曹操が吹聴することとは、大きく違っているでしょう」

 

 その後もいくつか質問があったが、男はその全てに完璧に答えてみせた。当然である。当事者であるのだから、答えられないことなど何もないのだ。一通りの疑問に男は答えた。

 

「なぜ私が、今もこうしてのうのうと醜い生き様を晒しているか、わかりますか?」

 

 時期を見計らい、男は質問を返した。

 

「一生のお願いです、生きてください、そう言われたのです。それも一人ではありません。何人もの仲間が、一生に一度だけの願いを、死ぬ間際に頼み込んだのです」

 

 男は拳を握り締めた。仲間を失いたくなどなかった、という悔しさ。これを表現するためには、下を向いて目を閉じ、過去を思い起こす振りをすれば良い。

 

「それが親分にとって、どれだけ受け入れられないことか、どれだけ恥になるかは分かっています。それでも生きてください、そうあいつらは言ったんです」

 

 自然と頬に熱いものが流れた。董仲穎は息を呑んで聞いていた。

 

「私は……ともすれば、死にたいと思っていました」

 

 あえて意外に思うことを言う。相手の興味をひきつけるためだ。

 

「何をしても死ぬとしても、皆と肩を並べて死ぬことができるのなら、それは悪いことではないでしょう?」

 

 そしてここで語調を強くする。ここでも、まだ釈然としない感情を抱えているはずだ。

 

「私は、皆が生きていればそれで良かったのです……それ以上は、何も望みませんでした」

 

 最後は気落ちするように。

 

「それが叶わないのならば、いっそのこと、皆で散りたかった……」

 

 賛同するのも、否定するのも難しい。そんな言葉を投げかけてやれば良い。

 

「ただ、親分だけは生きてくれと、そう言われました。だから、私の望みは唯一つです」

 

 ここが正念場だ。相手が目を逸らすほど、力強く見るのだ。

 

「私は生きたい! 生きたいのです!」

 

 何度も同じ言葉を繰り返せば、それだけ響いてくれるだろう。董仲穎の目は震えていた。男の言葉のどこかが、琴線に触れたのだろう。男はほくそ笑んだ。涙を流すほど共感する人間を、普通殺しはしない。

 

「質問したいことが、あと三つあります」

 

 男が安心するのは、まだ早かった。

 

「あなたは、私に殺されることを恐れていました。であれば、そもそも私を助けなければ良かった。それなのに助けたのはなぜですか?」

 

 仮に董仲穎が賊を倒すまで隠れていたら、心証ははなはだ悪いだろう。何せ、彼女は元から此方に気が付いていたのだ。最も、それは不意の言葉で知ったことであったが。

 

「私に従う者には、子供も多くいました。恐れながら申し上げますが、私は彼らと重ねてしまったのです」

 

 追われている者が、大切な人間のことを思い出して、危険を顧みず襲われている女の子を助ける。何という感動譚だろうか! だが、暗に背丈の低いことを指摘されているせいか、董仲穎は特に何の反応も示さなかった。

 

「二つ目の質問です。なぜあなたはあの場所にいたのですか? あなたは先ほど、山賊たちとは仲間ではないと言いました。では、なぜあなたはあそこに?」

 

 男は顔色を変えることなく言った。これも想定済みだ。

 

「ここは、非常に治安がよい場所です。民はみな勤勉に働き、罪を犯す者など一人もおりません……そこに私の居場所はありません」

 

 治安が悪ければ、人の多い街に身を潜ませることは簡単だ。

 

「嘘、というよりも、それだけが理由ではありませんね」

 

 董仲穎は、ゆっくりと顔を近づけた後、言った。部屋の隅の灯がわずかに身じろきした。

 

「ここからは私の推測ですが……」

 

 推測と確信の違いは、ここではあまりない。

 

「あなたは、彼らの財を手に入れようと、後を着けていたのでしょう」

 

 男は黙って聞いていた。

 

「同時に、二度と口を開くことがないようにするつもりだったのでしょう」

 

 朝起きた時に、物を盗られているのに気が付いたらどうするだろうか? 運が悪かったと諦める? 罪人がそんなことをする訳がない。泥棒が死ぬまで追い詰めるに決まっている。舐められないためにも、面子にかけてそうする必要があるのだ。それをされないためには、占有者の口を利けないようにする必要がある。

 

「私にそんな大それたことができるほどの力はありません」

 

 男は空言を言ったが、こんなものに説得力はまるでなかった。他ならぬ己が、彼らを黙らせたのだから。

 

「私には、一つ謝らなければならないことがあります」

 

 董仲穎は続けて言った。

 

「私は、初めからあなたが罪人だと知っていました」

 

 男は何も言わなかった。わずかな言葉も命取りになる。相手の反応を見逃すと、死への道に突き落とされる。罪人であることなど、服を見れば一目瞭然だ。その真意を、見極めるのだ。

 

「だからこそ、私はずっと考えていました。どうして、あなたが私を助けたのかを」

 

 こんなことをわざわざ言うのは、先ほどまでさんざん情熱を持って語ったことが、あまり心に響いていないということだ。男は殺しか、あるいは殺される準備をした。賭けの成否は、まだわからない。

 

「あなたは、どうしても私と会う必要があった。そして私に助けて欲しいことがあった。といっても、あなたに恩赦を与えられることがおできになるのはただ御一方のみです。恐らく私に匿って貰うのも一考したのでしょう。ですがそれよりも、あなたにはどうしても欲しい物があった」

 

 董仲穎は、男の横に仕舞われている刀を、ちらりと見た。

 

「あなたが欲しいものは、小刀でしょう。それも高い地位にあることを示す」

 

 男の右手が一瞬だけ動いた。男はつられて其処に目が動いたが、すぐに董仲穎を見た。視線は全く動いていなかった。

 

「そんなものを手に入れて、何ができるというのでしょうか? ちょっと調べれば、私が何の功績も残していないことぐらいすぐにわかります」

 

「調べられなければどうでしょうか」

 

 男は口を閉じた。ここまでの一連の質問は、答えがすでに彼女の胸の内にあるのだ。であれば男の返答に意味などない。

 

「これは質問ではありませんが、あなたはここより北の民の元に行くつもりなのではないでしょうか?」

 

 特別な知識、技能を持つ者、あるいは高い地位にある者を受け入れる土壌が、異民族にはある。

 

「あなたの手八丁口八丁であれば、恐らく彼らも信用するでしょう。彼らと共に暮らし、将になり、仲間の無念を晴らす。それが目的なのではないでしょうか?」

 

 危険だ。この女は危険だ。男の狙いの七割、いや八割方は見抜いている。そして、非情な決断も下すことができる。将来敵になる人間を逃がす道理はない。おまけに、男の口の上手さを牽制している。武に優れていても、智に優れる。簡単で、それでいて理不尽なことであった。

 男が選んだのはまたもや沈黙であった。それしかなかったのだ。

 

「やはりそうなのですね……」

 

 考えろ、考えろ、考えろ! もしここで違うと言っても、聞き入れられなかっただろう。だから、肯定だと受け取られるのは仕方がない。問題は、いつ謝罪と共に死刑の言葉が出るのか、ということだ。誰が殺す? 誰が殺しに来る? そこまで考えて男は、周りに兵がいないことを思い出した。男は目を見開いた。兵どころか、ここには男と董仲穎しかいない。これは……この意味するところは……

 

「私は、民が本当の意味で、笑顔で暮らせる国を作ろうと思っています」

 

 男は思わず顔を上げた。この世界において、国というのは遙かに多く存在する。街や村と同じくらいの規模でも、王が治めているのであれば、そこは国と呼ばれるのだ。だが、この場合の国とは、国とは……

 

「その民というのは、宇内の民を指すのですか?」

 

 男は、国についてではなく、わざとそこに含まれる民について尋ねた。董仲穎は男の眼を見つめて尋ねた。

 

「最後の質問です」

 

 優しく、それでいてかすかに震えた声色であった。

 

「それに協力して頂けませんか?」

 

 これを断わることはできない。そうした途端、この場で殺されるか、運が良ければ罪人として処刑されるかだ。だがすぐに飛びついたのであれば、命欲しさに適当なことを言っていると見做されるだろう。

 

「仲間をすべて失った某に、何ができるというのでしょうか?」

 

 肝要なのは、謙虚さを見せることだ。そうあるのではなく、そう見えるように振舞うのだ。

 

「私は、あなたのことを知っています。決して民に被害を与えない、義賊であると」

 

 男は、何も言わなかった。

 

「私は、あなた程仁侠と呼ぶに相応しい者を、他に知りません」

 

 男は、何も言えなかった。

 

「私はあなたの評を、民への愛を信じています」 

 

 男は何度か瞬きをした。

 

「それに確かに曹操には敗れたかもしれませんが、あなたには、人を率いる才があります」

 

 男の目から涙がこぼれた。

 

 だがしかし、上っ面の美辞麗句だけでは、共謀はできまい。

 

「民に優しい国を作る、そのためには邪魔者を殺すことも必要です。その覚悟がおありですか?」

 

「あります。ですが、できるだけその選択を取ることはしません。それに慣れたら、人ではなくなってしまいますから」

 

「その言葉が嘘にならない限り、この命にかえてでもお仕えいたします」

 

 長い沈黙があった。お互い、信じたものか、疑心暗鬼なのだ。何か、何かもう一押しするような、保証が欲しいのだ。董仲穎がぽつりと言った。

 

「お名前を……」

 

 そんな時に出るのが、真名であった。真名を聞くというのは、失礼に当たる行為なのだろう。何せそれは友情を、信頼を、人間を、試す行為なのだから。

 

「それはもう捨てました。私はもう、それを二度と名乗ることはないでしょう」

 

 だからといって、ここで真名を言わないのは不味い。

 

「確か久遠……そう呼ばれていたことが、あったような気がいたします」

 

 男は、何処かで聞いた真名を披露した。

 

「他言はいたしません。あなたを呼ぶ時は、張任、いえ、それも呼べないのですね……」

 

 董仲穎は右手を顎に当てながら考え込んだ。その目の奥には、何か感情が隠されていた。

 

「それではこうしましょう。これからは、あなたは私の遠戚ということにいたしましょう。そうすれば、周りの者も特に疑問を抱かないでしょう」

 

「それでしたら、董仲がよいです。名は白です。仲を字に」

 

「字に仲を? いえ、わかりました。それでは董仲、これからは私のことを仲穎様と呼ぶようにしてください」

 

 こうして、共謀の儀は終わりを迎えた。張伯は辛くも生存を獲得した。今ここに、張伯は蔑まれる山賊などではなくなった。董仲という、立派な刺史の親戚になったのだ。

 

 張伯がかような幸福にありつけたのは、ただ単に幸運だったからというだけではない。二人とも、臭いを感じていたからこそ、契ることができたのだ。その臭いとは、貧困、病、戦争。張伯は感謝していた。何せそれがなければ、とっくのとうに殺されていたのだから。山賊の親分をわざわざ保護する理由は何か? 決まってる。利用するためだ。何に利用するためか? ――そんなもの当然、戦争に決まっている。

 

 

 張伯は、木の壁があり、そして木の床で出来ていて、更には大人十人が優に寝られるくらいの家で、寝転がっていた。久々にありつけた、安住の家であった。逃隠の時代は既に終わった。

 この最果ての地。これ以上何もせず逃げたら、もう何もできないのではないだろうか? そう、何もできないのだ。敗北は許されない。一手でも間違えれば死を招く。だが、張伯はどことなく昂揚していた。今度は間違えない。今度こそ勝利を手に入れるのだ。

 そして、そう! 忘れてはいけない。あの曹操をこの手で殺してやるのだ。国を作るのに邪魔な王。邪悪な王。何としてでも、決着をつけなければなるまい。張伯は刀を強く握りしめ、そのまま眠りに落ちた。




 番外編はありません。
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