上映が終了し、映画館を出る。はっきり言って、映画の内容はなかなかのものだった。
さすが、向こうは製作費と技術が桁違いなだけある。
あんな映画は、日本ではまず作れないだろうな。
思っていたよりも満足してしまった僕が尾上の異変に気付いたのは、映画館を出た後だった。
「尾上、お前はどう……」
「宮代拓留」
普段の尾上とは打って変わったような低い声色に、僕は思わず振り返った。そこには一変させた雰囲気を纏った尾上が、僕の方を鋭い視線でジッと見詰めていた。
「……お前、『黒』の方か」
「そうだ」
映画館を出た尾上は、『黒』の尾上世莉架になっていた。
尾上には二つの顔がある――
『黒』の尾上は『白』の時とはまるで別人のように変わっているが、二重人格というわけではなく、これもまた尾上自身なのだと僕なりに理解している。
「『白』の方が、映画の途中で眠りかけていたからな。私が代わって観賞を引き継いだ」
「あいつ……」
やはり尾上には、あの映画はあまり合わなかったようだ。
「それで、この後の予定は決まっているのか? 宮代拓留」
「ああ、一応な……」
尾上の突き刺すような視線がジッと僕の方を見据えている。『黒』の方が、頭の中を覗かれている気分になる。
だが、尾上は何も言わず、僕の言葉を待っている。
「丁度良い時間帯だから、ランチにしよう。あっちにおすすめのフレンチ店があるからそこへ行こう」
おすすめの――って、こんな言い方じゃ、僕がネットで下調べしてきた事があからさま過ぎるだろう。
しかし尾上の方はやはり何も言ってこなかった。
ただ黙って、僕の後を付いてきてくれた。
目的の店に着くと、さっきの映画とは違ってこちらはさすがに賑わっていた。昼時で、しかもネットでも評判の人気店というだけあってか、なかなかの盛況ぶりである。
「どうする? 他にするか?」
あまり人が多すぎると、尾上には辛いんじゃないだろうかと思ったが、尾上の方はかぶりを振った。
「いや、ここで良い」
「……本当に平気か?」
「宮代」
尾上は、フッと笑った。
「この混雑程度で、私が食事もままならない程の状態に陥るとしたら……私は一生、渋谷に出てこられないぞ? 気を遣ってくれるのは有難いが、そんなに心配しなくても良い」
尾上本人にそのような事を言われ、思わず僕は恥ずかしくなった。僕が情けなく言い淀んでいると、『黒』の時しか見せないクールな微笑を向けたまま、尾上は口を開いた。
「わかっているよ。私には」
「尾上……」
「さぁ、入ろう。どうやら席には座れそうだぞ?」
尾上に腕を引かれ、僕はこの時だけ先導される側になってしまった。
尾上の言う通り、客が多かったがなんとか席に案内される事ができた。
僕たちが席に座ると、直後から更に大勢の客で賑わうようになる。
どうやらギリギリだったようだ。
そしてウェイトレスに注文を済ませると、僕と尾上は早速さっきの映画の話を始めた。
まさか『黒』の方とこの話題を話す事になるとは思わなかったが、尾上の方も割としっかり映画を楽しんでいたようだった。
確かにあまり感情は豊かではないが、僕の話にしっかりと付いてくるし、僕がつい頷いてしまうような事を言ったり、指摘する。
彼女と話していると、まるで男友達と話しているような気楽さが生まれる。
さすがに、尾上とは言え女子相手にこんな事を思うのは失礼かもしれないけど。
だが、僕が知らなかった『黒』の尾上を知る事ができたような気がした。
「お待たせしました」
注文した料理を待つのも苦にならない程、映画の感想の言い合いに夢中になっていた僕と尾上の所に、無事それぞれが頼んだ料理が届いた。
僕の前には香ばしく焼かれたオリジナルハンバーグ。お店自慢のソースがたっぷりとかかっており、香ばしいかおりが食欲をそそる。
尾上はオムライスだが、家庭のオムライスと違いオシャレな見た目をしている。傍に葉を添えており、流星のようにとろりとした黄色い卵の部分にケチャップがかけられていた。
「うん、美味い」
食べ始めるや、僕はそんな感想を口にしていた。噛めば噛むほど滲み出る肉汁は口から鼻に突き抜けるような香ばしさが広がり、たっぷりとかかったソースは程よく甘くて舌の機嫌を更に上昇させる。
対して、オムライスを口に運ぶ尾上は淡々としていた。咀嚼する口の周りの筋肉は、一切動いていなかった。
「……なんだ、人の顔をじろじろと」
「いや……」
「安心しろ。 美味しく頂いている」
僕の思考を読み取ったのか、尾上は毅然とした態度で告げた。
それなら、もう少し表に出しても良いんじゃないか?
と思ったが、これが『黒』の尾上なのだ。
あまり感情を表に出さない。『白』もなにを考えているのかわからないが、『黒』の方は別の意味でわからない。
だが、尾上の言葉もきっと嘘ではない事だけはわかる。
「……宮代」
「ん?」
ハンバーグの切れ端を運んでいた手を、僕は思わず止めてしまった。
何故なら、僕の目の前にスプーンの端を突き付けた尾上の姿があったからだった。
一瞬、目の前の光景が理解できなくてフリーズしてしまう。
「……尾上?」
「……宮代、これはデートなんだろう? それなら、こうやってお互いの料理を一口でも譲り合った方が良いんじゃないかと思って」
そう言う尾上の頬は、よく見るとほのかに朱色を帯びていた。
スプーンを握る手はぷるぷると小刻みに震えており、視線もあらぬ方向に向いている。
とても珍しい表情だったが、僕にそれを吟味する余裕はなかった。
「そ、それってつまり……あ~ん……」
「く、口に出すな!」
怒られた。尾上の頬が更に赤くなる。
「こ、これはデートなのだからするのは当然だろう。 私にだって『あ~ん』ぐらいはできる!」
「お前だって口に出してるじゃないか!」
「うるさい! いいから、さっさと口を開け! さもないと宮代拓留の秘蔵コレクションを来栖乃々に言いふらすぞ」
これ程までに脅迫染みた『あ~ん』があるだろうか。というか、なんで尾上がそれを知って――
尾上の気迫に押され、僕は抵抗もできずただ口を開く事しかできなかった。
「はい、あ~ん……」
尾上の低音ボイスが、心なしか震えているように聞こえた。
そしてようやく僕の口に尾上のオムライスが運ばれたが、正直に言って味の方はよくわからなかった。
そんな僕の思考を読んだのか、尾上は感想を聞かないまま、「次はお前だ」と告げた。
慌ててゴクン、と飲み下し、僕は声を上げた。
「ええっ!? どういう事だよ!」
「言葉通りの意味だ。 私がしたのだから、今度はお前が私にする番だろう。宮代」
待ってくれ。確かにこれはデートだけども、こんな恥ずかしい事を僕までしなくちゃいけないのか!?
確かに僕が読んだクール・キャット・プレスにもそんな事が書いていたような気がする。
クール・キャット・プレスの南方先生も言っていたじゃないか。女を喜ばすことの出来ない男はクズだと。
僕には――他の選択肢など、ないんだ。
「あ、あ~ん……」
僕はハンバーグの切れ端を、尾上の方に差し出した。
尾上は僕の方をジッと見据えていたが、やがて意を決したような表情で口を開き、そのまま僕のハンバーグをその小さな唇がぱくりと優しく包み込んでしまった。
尾上はもぐもぐと噛み締めるように咀嚼すると、コクンと喉を鳴らして、一人呟いた。
「……うん、成程な。理解した」
何をだろう……。しかしこれはされる方は結構恥ずかしかったが、する方もたまらなく恥ずかしい。
しかしこんな『黒』の尾上の顔も新鮮だと思っていると、僕はそこで現在自分達が置かれている状況に気付いてしまった。
周囲から降り注ぐ好奇の視線と、所々から聞こえる微笑ましそうな笑い声。
僕達は大勢の客が賑わう店内のど真ん中で、見事なバカップルぶりを披露してしまったのだ。
「……お、尾上」
「タク~! ここのお店、すっごく美味しいねぇ~」
いたたまれなくて尾上に声を掛けたが、そこにいたのはオムライスを美味しそうに頬張る『白』の尾上だった。
『黒』の奴、恥ずかしくて引っ込みやがったなぁ!?
「ずるいぞ、尾上!」
「うぇっ!? え、えっと……タクも食べたいの? じゃあ……はい、あ~ん」
「もう二度とするかぁぁぁぁッッ!!」
その後、僕は熱湯に茹れた茹蛸のような気分を味わいながらランチを終えた。
僕にとって散々だったランチを終えた後、尾上を連れて今度は渋谷のセンター街にある百貨店へと向かった。そこで尾上とショッピングをする事を目論んだのだが――
「……タク~? いる~?」
「何だよ……。ちゃんとここにいるよ……」
「そっかぁ、タクのことだから恥ずかしくなって逃げちゃうかと思って」
「そう思うのなら、頼むから早く出てきてくれ」
僕が会話をしている相手――というか尾上は、試着室の白いカーテンの向こうだった。そして僕の目の前には、女性用の水着がずらりと並んだ店内の光景が広がっている。
尾上に「なにを買い物したい」と聞いたら、新しい水着が欲しいと言う。今度の夏に新聞部のみんなで海に行こうと話していた新聞部の女性陣の会話を思い出す。まさかそれが伏線だったなんて、思いもしなかったが。
だからって、こんな時に水着を買う事はないだろう。服でも良いじゃないかと言ったが、前にうきの服を選びに来栖たちと買い物したばかりだと尾上は言った。
そもそも、高校生の初デートで水着を買いに来るカップルが本当にいるのか!?
初デートだぞ?女子が誘ったならともかく、男子がデートスポットに「水着店」を選んだとしたら百年どころか付き合って一週間の恋も瞬時に冷めるよ!
女子側の意向だとしても、初デートに臨む男子にはハードルがいきなり高すぎるだろう!
それに僕はもとから女の子ばかりの店内は苦手だ。
このなんとも居心地の悪い感じは、男子諸君ならわかってもらえるだろう。
本当に取材になっているのかと疑問に思い始めた頃、僕の耳元に尾上の声がした。
「タク~、準備できたよ~」
振り返ると、引っ張ったカーテンからちょこんと顔だけを出した尾上が僕の方を見ていた。
「尾上……、別に僕はお前の水着姿が見てみたいだなんてこれっぽちも思ってないんだからな。そこを勘違いするなよ。いくら僕の思考を読んだからって、それは何かの誤解であって……ひょおぉあああぁぁっっ!?」
僕が渾身の言い訳を告げ終わる前に、僕の視界に白い肌が飛び込んできた。
「えへへ。どう?」
「お、おま、お前ぇぇ……」
カーテンが開いた先にいたのは、ビキニ姿の尾上だった。柄は黄色と白の縞模様で、天真爛漫な尾上の雰囲気にどことなく合っているような気がする。
そして服の上からではわからなかった胸の膨らみと、くびれから下半身にかけてのしなやかなラインが露にされている。
すっごい柔らかそう――って、そうじゃなくて!
「ちょっとタクぅ! 目を逸らさないで、ちゃんと見てよぉ!」
「ちゃんと見てってお前……!」
長い付き合いの中でも、尾上の水着姿など拝んだ事は一度もない。しかも女性として色々と成熟しつつある今の身体なんて特にそうだ。幼馴染の水着姿は思ったよりも刺激が強すぎた。
「そんなんじゃみんなで海に行った時、鼻血噴き出して死んじゃうよ~? ほら見て、タク!」
確かに尾上の言う通り、他の女子の水着姿を見てしまったらどうなるんだろう。有村はああ見えてスタイルは良さそうだし、来栖はなかなか強そうだ。香月に至っては間違いなく壮観だろう、特に胸が。
「もう、タク~! こんな時に他の女の子の水着姿なんて妄想しないでよ~!」
「だ、誰のせいだよ!」
「タクったら、ちゃんと見て……あっ!」
「ば、馬鹿、お前っ! うわあッ!」
尾上が目を庇う僕の腕を掴んだ瞬間、バランスを崩しそうになり、僕は引き込まれるように試着室の方へと入ってしまった。
二人とも倒れはしなかったが、手を壁に付いた僕の視線の下には尾上の身体がおさまっていた。
そして片方の手が――なにか柔らかいものを包んでいる。
「(こ、これは……!)」
まるで壁ドンのような体勢になってしまっただけではない。事態はそれだけでは留まりきれないレベルに陥っている事に、僕は一寸遅れて気付いてしまった。
僕は試着室の奥に尾上を追い込んでしまい、壁に背を付けた尾上の胸を片方の手で鷲掴みにしていた。
手元に溢れる程でもなく、程よくフィットする大きさ。そして言葉では表現し切れない程のものすごい柔らかさ。
端から見れば半裸の尾上を襲っていると受け止められてもおかしくない画だった。
「お、尾上……」
「タ、タク……」
すぐ目の前にいる尾上は、上気したように赤くなった頬と、とろんとした瞳を僕の方に向けていた。
うるさく聞こえる心臓の鼓動は、僕の手を通じて感じる尾上のものなのか、僕自身のものなのかわからない程に大音響であった。
なにか、なにか言わなくては……。
いや、その前に早く尾上の身体から離れなくては。
「……ひ」
「ひ?」
「ひゃあーっ!」
「ぶぼっ!?」
突然、尾上が悲鳴を上げながら僕の身体を突き飛ばした。
試着室から吹き飛ばされた僕は、店内の床に身を滑らせる。床に倒れる僕の周囲からは、他の客や店員が訝しげに眺めていた。
「お、尾上……」
「ご、ごめん。タク……」
尾上のか細い声が聞こえたが、既に試着室のカーテンは閉まっていて、尾上の姿は見えなかった。
普段は男の僕に対してボディタッチなどのスキンシップをしたり、そういう面には疎いと思われていた分、今の健全な女の子らしい反応は却って僕を驚かせた。
いや、さすがにあんな事をされれば尾上も嫌だろう。悪いのは僕だ。
それに尾上も女の子だとわかって、どこかホッとしている僕がいる。
いや、変な意味じゃなくてね……?
試着室から出て来た尾上は、私服に着替えていた。腕には試着した水着が抱えられているが、その顔は暗かった。
「ごめんねぇ、タク……。突き飛ばしたりなんかして……」
「なんで尾上が謝るんだよ。 悪いのは僕の方だよ」
「ううん、タクは悪くないよ……。私が招いた事だもん……」
「尾上……」
落ち込む尾上の表情を見て、僕は頭を掻いた。
まったく、しょうがない奴だな……。
尾上がこちらに視線を向ける直前、僕は恥ずかしながらも呟いた。
「……似合ってたよ、水着」
「タク……?」
耳の裏から尾上の視線を感じる。僕は赤くなっているであろう顔を隠すようにそっぽを向いた。
これ以上は言わなくてもわかるだろう?
尾上はすぐに元の喜色溢れる声を放っていた。
「ありがとう、タク!」
その笑顔は……ちょっとだけ拝みたかったので、少しだけそちらに顔を向けた。
ショッピングの後、僕と尾上は雑貨店で商品を見たり遊んだり、その後は神宮に行ってお参りしたり……カラオケで思い切り歌ったり、色々な店を渡り歩いて遊び通した。
途中で思ったけど、これ、デートじゃなくても普通に尾上と遊んでいる時と変わらないな。
「タク、デート楽しいねぇ」
だけど、尾上は本当に楽しそうだ。だから僕も楽しいし、デートというのも悪くない気がしていた。
休憩がてらベンチに座りながら、来栖と食べたと言う評判のクレープを食べていた尾上が、スマホを出してせっせと何かを打ちこんでいた。
「さっきから、スマホで何をしているんだ?」
「今日のデートをメモに書いてるんだぁ。のんちゃんたちに頼まれちゃって」
そういえばこのデートが取材を兼ねているという事を忘れていた。尾上は事あるごとにスマホを出していたが、その理由がここで判明する。記事を書くために記録を残しているのなら納得だ。
だが……
「尾上、言っておくがあまり詳細に書きすぎるなよ?」
「う? なんで?」
「なんでって、恥ずかしいからに決まってるだろ……」
冷静に考えるとデートの内容を、他人に事細かに知られるのはかなり恥ずかしい事だ。
しかも有村や伊藤なら、からかってくるに違いない。
「でも、私はすっごく楽しかったよ。 タクとデートできて」
「尾上……」
そう言って、ニッコリと笑う尾上の笑顔はまるで太陽のように眩しかった。
そしてその口端の近くに、白い雲を見つける。
「尾上」
「んぅ? なぁに、タク」
「ちょっとじっとして」
僕は尾上にそう命じると、尾上の口端近くに付いていたクリームを指で拭い取った。
硬直する尾上を前にしながら、僕はそのクリームが付いた指先をそのまま当然と言わんばかりの自然な動作で、自分の口許に運んでしまった。
そして気付いた頃には時既に遅し。僕の舌にはクリームの甘い味が広がっていた。
更に僕の目の前には、目を丸くした尾上が、頬をほのかに染めてジッとこちらを見詰めていた。
「……お、尾上」
僕がなにを言おうかこまねいていると、不意に尾上の口から「ふふっ」と噴き出したような笑みが零れた。
そして尾上の発した言葉が、今度は僕を銅像のように硬直させた。
「なんだか私達、本当に恋人同士みたいだね。タク」