そうか。小父さんは死んだのか。
飲み込んだ事実が只管に重い。操さんに続き、また家族の様に想っていた人が居なくなってしまったのだと理解させられた。胸が張り裂けそうな程に痛みを感じた。
その悲しみのお陰か一瞬ばかりだが支配していた恐怖を上回る。
ただ身体は未だ恐怖に捉えられたままだった。喉奥は嗄れ果て、声を無理矢理響かせば痛みを感じる程だ。重病人の方がまだ動けるのではと錯覚せざるを得ない状態だった。
それでも無理、無茶を通して聞かなければならない問いがある。
「……して、どう……してそうなって……しまったんですか」
伝わり難い掠れた声だったが、目の前の化け物は耳も達者らしく少し驚いた表情を見せて、すぐさま醜悪な憎悪に染まる。
「切欠が必要だったのよ。何もかも。細々と生きるのも、死を選ぶのも、そして人外に身を堕とすにも。私にはほんの些細な切欠が必要だった。そしてそれは得られたけれどすぐさま捨て去り、またも切欠を待たなければならなかったわ、そんな折ね、そいつは何の脈絡も無く、唐突に現れた」
何かを思い出したのか、内なる憎悪を更に燃えあがらせて瞳の色を赤く変えていく。
「壁をすり抜けて悲観に暮れる私を見つけた。さめざめと泣く私にそいつは聞くの。"何で泣いているの"って。だから正直に答えたわ。我侭を通せる力の無い自分が不甲斐ないからって。そしたらそいつはくすくす笑いながら私に言ったのよ、"貴女、才能あるわよ"ってね」
言葉を切って忌々しい女だったわ、と付け加える。
先程の復讐心は明らかにその謎の女性に向けられていた。
「私は差し出された手を取り、教鞭を振るうそいつの知識を四六時中貪欲に求めた。狂人でも死の選択肢を取らざるを得ないほど過酷な修行を乗り越えて、復讐に新たな憎悪の薪をくべながら堕ちていく。くべてもくべても足りない、そう感じるようになって漸くと寝食を忘れ、角が生えた頃、遂に私は到ったのよ」
またも誇らしげに右角を撫でながら言う。
「鬼に、ね」
鬼。
寝物語に語られる恐るべき妖怪の種族。山を砕くという怪力を持ち、酒をこの上なく愛し、人間を拉致して勝負を吹っ掛ける傍迷惑な存在でもある。
あとは前に珍妙な異変を起こした鬼が現在博麗神社付近に出没するらしい、としか天狗の新聞に載っていた位しか知識面では知らない。
目の前の存在とはどうにも結び付き難い違和感があるが、確かに類似点はある。角と怪力くらいだろうか。
「堕ちた私を見てそいつは一瞬だけ驚いて、落胆した表情をしていたわ。勧誘も上手くいかず興味を失って早々に立ち去って行った。道教なんて端から興味などなく、仙人になど成る気はないから、くひっ良い気味だったわ!」
くひっくひひひっ。
一頻り不気味な笑い声を響かせて、化け物はずい、と近付いて真顔に戻る。
気付けば手を伸ばせば触れるほどに距離は縮んでいた。
「さて」
病的までに白い指先が頬に触れる。本能的な怯えに後ずさるも壁にぶち当たった。意味もなく逃げ場がもう無いことを再度確認してしまう。
「さて、さて、さて何故私は先生に説明してあげたのかしら……ええ?」
人差し指で頬から首筋をなぞり、爪で引っ掻く。痛覚に慣れた所為か、ほのかな痛みが走った後に血が鎖骨を伝う。それを爪で掬い上げて真っ赤に染まった爪を化け物は自らの舌先で弄る。
余程美味なのか、何度も何度も繰り返し滴る赤を口許へと運んだ。着物を肌蹴させて傷をつけては滲んだ血液を舐めとる……。
その度に瞳の色は赤から血の様な深紅の色へと変わっていった。人間の血肉が欲しがっているのか、益々化け物らしくなってきている。
「ん、その表情では理解してなさそうね。じゃあ答え合わせをしましょうか。簡単な話なのよ。これはね親心というものなの。育ての親に近い私ができる最後の情け。だって何も知らないままなんて嫌でしょ」
少なくとも私は嫌ね、と化け物は自身の感性を語る。
そこに嘘偽りは無くて全うなものに思えるが真実は禄でもないものだ。
「これからの起こす事には決して裏切らない駒が必要なのよ。ある程度熟知していて、復讐の動機がある。そんな夫と同じ様な駒が、ね」
ほらやっばりそうだ、とその時嫌気がした。察しの悪い僕でもこれまで拾い集めた事実が色々歪な形に繋がりをみせてきていた。
人里の噂話も、僕の草案も、人妖の確執も全部だ。
推理というよりも目の前の怪物に抱え込んでいた不満を当て付けただけの暴論であったが、こいつが原因となる黒幕なのは間違いない。
それにこいつは知っていたのだ。
操さんを失った僕がどういう行動に移すのかを。長年面倒をみてきた小母さんの記憶を持つこいつは悪意を以て利用出来る何かを探っていたに違いはない。
悟った事柄に怒りが芽生えた。
僕の怯えきった性根に少し勇気が灯る。
無謀なだけの激情に駆られただけで睨み付けることしか許されない行為だったが、それが化け物が理性を保っていたらしい一線を越えさせる要因になった。
「クヒッ」
傷を与えて、甚振るだけの行為がこの瞬間完全なる拷問へと変わる。
左肩に鋭利に尖った爪が傷口へと突き刺さり、奥へ奥へと潜り込んだ。最初に焼けた鉄に触れたような熱を感じて、それを自覚してすぐに激痛と絶叫に変わる。
大人げもなく泣き喚く。先程まで微かに残っていた勇気が一気に霧散した。
「――いいわ、いいわ! いいわ!! もっと苦痛に喘ぎなさい、そうすることだけが今の私を満たす。あぁ、もう最高の気分よ!」
もうなにもかもが無理だった。
僕は寝物語に語られる化け物退治の名人でも、博麗の巫女でもなんでもない。人里に生まれたただの人間なのだ。
こんな痛覚が刺激され続ける拷問に耐えられる訳がないし、逆境を打ち破る力も能力も無い。
もう、駄目だ。
絶望に支配されて、生も満足いく死も諦めなければならない状況に心が遂に折れてしまっていた。今思えばあんなに酷い目にあわされていたのに気絶したり、死なないように調整されていたのだ。
「ああ、あぁなにかしらこの感情は。操と楽しそうにしている貴方を眺めては愛おしく思っていたけれど、今はその時以上に苦痛に塗れた表情を愛しく思うよ。本当に嘘じゃないわ」
耳元で囁きながらほらほら、と煽って爪が抉り込ませる。激痛が迸る状況でそういう術とか能力とか何かを使っているのか化け物の声だけがやはり耳に残った。
「ああもう! 鬼になって良かった!!」
死ぬ。
明確な意識との決別が訪れてきたのを感じた。ぷっつりと張り詰めていた糸が切れた。何もかもから解放された気がした。
だけど化け物は死を許さず、僕を生に縛る。
「あら? 貴方はまだ駄目よ。夫と同じにはしないから」
暗闇に包まれた視界に鮮烈な光が走り、気が付けば鋭利に尖れた牙が首筋に突き刺って吸血鬼の様に血を啜われていた。
確かに意識が戻った。だけど灼熱の痛みが迸り、脳髄を焼いている。
痛い、痛い、痛い、と先程と変わらずのひたすらに痛覚が刺激されるだけの時間が繰り返される。永遠の様に感じた拷問は首筋から血に塗れるだろう口が離れる時に終わりを告げた。
「これで貴方は私の操り人形よ。ええ、家族になったのよ。漸くと私達は」
家族。本当に欲しかったもの。
望んでいた言葉だった。
心が踏み躙られる悔しさを感じられる余裕は無い。
あらゆる刺激で焼かれた脳味噌におぼろげな映像が視覚から流し込まれる。頬を朱に染めて恍惚とした表情で化け物はやはり嗤っていた。
「そうねぇ、折角家族になったのだからそろそろ私が何をするのか教えたげる」
内緒よ、と人差し指を当てた後に耳元で囁く。
「幻想郷は生まれ変わらせる。新たな秩序を得て、人と妖が争い合う世界になるのよ」
もうすぐ意識が暗闇に呑み込まれる僕を無視して、口端から血を滴らせた化け物は感極まってその場で立ち上がり、両手を掲げる。
まるで無垢な少女の様にはしゃいでいたようにみえた。
「ああ素敵な異変の始まりだわ!」
その喜びの声を耳に残して僕の記憶は其処で途絶える。
だからここから先の話は人から伝え聞いたものだ。霧雨さんから少しと霊夢本人から直接聞いた『博麗異変』の話である。