Overlord of Overdose ~黒の聖者・白の奴隷~   作:Me No

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 今回も長いです(大体、二万六千文字くらい)


奪う者と奪われる者

 朝方に降った雨は止み、夕焼けに染まるエ・ランテルの街を一人の女が歩いていた。

 女の身を包む真紅で統一された見事な衣装が夕焼けの光を浴びてより一層紅く染まる。

 城砦都市のメインストリートは雨によりあちらこちらに水溜りが出来ていた。

 路面の状態は最悪――誰もが足元を注意して歩き、それでも服を汚してしまうだろう。

 そんな中、女は肩で風を切って優雅に歩く。

 その見事な動きに誰もが女に視線を向けた。

 女の歩みに迷いはなく、その服装に汚れはない。

 素人でも分かるほどに洗練された動きだ。

 一体何者かと皆がその顔を見ようとするが縁の広い帽子を深く被っており女の顔は見えない。

 それは逆に皆の好奇心を刺激し、その視線を釘付けにした。

 皆の注目の視線を浴びる女が向かう先は城砦都市でも最高級の宿である黄金の輝き亭だ。

 皮鎧に身を包んだ警備兵に止められることもなく、エントランスホールを抜けて受付カウンターへと向かう。

 

「一晩の宿をお借りしたいのだけど?」

「畏まりました。ではこちらの宿帳にサインを頂けますか?」

 受付に座っていた男からペンを受け取って宿帳に名前を記載する。

 高度な教育を受けたことが明白な達筆ぶり――書かれている文字はスレイン法国語だ。

 

「ようこそ、クインティア様。城砦都市滞在に私どもの宿屋を選んでくださったことに深く感謝致します。お部屋のほうはどういたしましょう?」

「一番良い部屋をお願いするわ」

「畏まりました。では、お部屋を準備させていただきます。宜しければラウンジバーでお待ちいただけますか?」

 クレマンティーヌの視線が受付から見える位置にあるラウンジバーへと移動する。

「随分と盛況なようね」

「はい。お泊りになられているお客様の中にひじょうにお美しい方がいらっしゃいまして……」

「へえ」

 目的の人物は宿泊客らしい冒険者グループとテーブルを囲んで談笑していた。

「本当にお美しい方ね。一体彼は何者なのかしら?」

 受付の男にそれとなく話を振ってみる。

「さて、南方から来られたと聞いていますが……誰とでもすぐ家族のように打ち解けあってしまう魅力的な方ですよ」

「……そう」

 彼の周りには取り巻きのように客が囲んでいる。

 貴族にしろ商人にしろ相手と接点を持つのは重要なことだ。

 帝国皇帝や黄金の姫に勝るとも劣らない美貌の持ち主なのだから、一言話をするだけでも舞い上がる女とているだろう。

 そこまで考えてから朝方の失態を思い出し、クレマンティーヌの視線に苛立ちが混ざる。

 その時、まるで自分の苛立ちを察したかのように談笑していた男の視線がこちらを捕らえた。

 

(嘘。この距離で気付いた?)

 

 視線が合ったのは一瞬――男はクレマンティーヌの顔を見て目だけで笑った。

 自分から目線が外れたのを確認してからクレマンティーヌも笑う。

 

 自分は単に交渉に来ただけではない。

 英雄の領域に到達した自分を女扱いした男に一発ぶちかましてやるつもりで訪れたのだ。

 最初の出会いでは慢心が過ぎたためにまんまと自分の間合いを詰められたわけだが、相手が強者であることを自覚し対策を行えば恐ろしくない。

 あの男には致命的な弱点がある。

 女だ。

 

(……その笑顔、凍りつかせてやる)

 

 その為にわざわざこんな格好で赴いたのだ。

 あの男の性格を考えれば、自分の誘いに簡単に乗ってくるだろう。

 そこを制してどちらが上かはっきりと理解させてやる。

 

「ラウンジバーでのお食事やお飲み物は全てサービスとさせていただきますのでゆっくりとおくつろぎください」

「ありがとう」

 

 瞳に戦意を宿らせて、クレマンティーヌはラウンジバーへと足を向けた。

 

 

 ラウンジバーはさながら貴族達が催す舞踏会のように賑わっていた。

 舞踏会の主賓ははるばる南方からやってきたという謎多き青年。

 帝国皇帝、王国の黄金、聖王国の王女――世界に名立たる美形に勝るとも劣らない青年と一言でも会話しようと女性達が彼の周りを取り巻いている。

 それだけでなく彼の衣装を見て只者ではないと判断した宿泊客も少しでも繋がりを持とうと集まっていた。

 

「ふう……」

 いつの間にかラウンジバーの隅にぽつりと立っているメイド服の少女が一人。

 会話の輪から外れて壁の花になったエンリの口からため息がこぼれた。

 

(早く終わってほしいな。明日には私は帰らないといけないだもの)

 

 夢のような時間も終わりが近づいていることを知り、エンリの心に言葉に出来ない不安が募っていく。

 人語を解し本を読む黒猫は朝方、用事があると言って一匹で宿を出てしまった。

 それに驚く反面、二人きりで街を歩ける機会にエンリの胸は高鳴っていた。

 だが、今は見る影もない。

 

 エンリは城砦都市に遊びに来たわけではない。

 自分の用事である薬草売りは終わったが村の人達に頼まれたお使いが残っている。

 その為、雨が止んで地面の状態も悪い中、城砦都市エ・ランテルを歩いて回ったのだ。

 中央市場で保存の効く食料と狩りに使われる矢尻、自衛の為の武器を買って、教会に赴いて開拓村への移住希望者がいないかを確認した。

 この格好のせいで何かを買おとすれば高級品を勧められ、開拓村の住人だと言えば冗談と思われて笑われたりして作業は難航したが無事に終了することが出来た。

 

 本当に大変なのは、もっと別のこと。

 市場などの人込みのある場所に赴くことになるので徒歩で向かったのだが、歩いていると声をかけられる羽目になったのだ。

 みかかの腰に下げた剣を見て格好いいと小さな男の子達が寄ってきたし、何処の工房で創られたものかと聞いてくる冒険者もいた。

 これらはまだ微笑ましいものだし、理由を聞けばエンリも納得のいくものだった。

 厄介なのは女性陣――小さな女の子から果ては長年連れ添った夫と死に別れた老婦人まで色々と理由をつけて話しかけてくる。

 今日一日で一体何回道を尋ねられたことか、中にはいきなり求婚してくる人もいた。

 そんな女性陣の自分を見つめる瞳の冷たさは同性ながら恐ろしいものがあった。

 

 街中の視線を独占する美しい人だ。

 そんな人を連れて歩く自分に嫉妬するのは仕方ないことだし、優先される自分を少し誇らしくも思っていた。

 だが、こうも立て続けに嫉妬の炎に焼かれるとエンリとて何とも言えないモヤモヤしたものがこみ上げてくる。

 

(それにしても……貴族の人って、どうしてこう話が長いんだろ?)

 

 エンリも女性なので話しに花が咲いて村の仕事を疎かにして両親に怒られることもあった。

 しかし、それでもここまで長く意味のない会話をしたことはない。

 綺麗なドレスに身を包んだ女性の会話はあまりにも回りくどく理解しづらかった。

 しかも話の半分は余談であり、真面目に聞こうという意欲をガリガリと削いでいった。

 

「それで、もしよろしければ、私の邸宅の方でお暇な時にお話をしませんか? 歓迎させていただきたいのです」

「……ええ。機会があれば是非お願いいたします」

 満面の笑みで答えるみかかにエンリは離れた所から恨みがましい視線を送る。

 その時、照明のせいか彼女の碧眼が淡く輝いたように見えた。

 自分が見つめられてるわけでもないのにエンリの胸がとくんと鼓動する。

 遠くから眺めているエンリですらこれなのだ。

 真正面から見つめられた女性は顔を真っ赤にするだけでなく、うっすらと汗もかいているようだった。

「女性の誘いを断るほど無粋ではないつもりですよ」

 そういって相手の女性の手を取って、その甲に軽く唇を当てた。

 女性は返事も出来ずにコクコクと頷き、顔を両手で隠して退散する。

 周りの女性も自分に言われたわけでもないのに顔を紅潮させている。

 その様子をエンリは半眼で見守っていた。

 こうしてまた恋敵が増えていくのだ。

 

(もう! 行く気がないなら、はっきりと断ればいいのにどうして期待させちゃうのかな)

 

 過ごした時間は少ないがその密度には自信がある。

 想いを寄せる人の細かな仕草、表情、癖を何となくだが理解し始めていた。

 断言してもいいが、あれは絶対訪れる気はない。

 

(それともこれが貴族風の挨拶なのかな? なんだか今日のミカは様子がおかしい気がするし……)

 王国戦士長のような偉い人と話していた時でもあんなにツンツンとしていたのに今はふんわりと柔らかい対応だ。

 

 あくまでエンリ基準だが、あの「フッ」という笑顔は完全に余所行きの対応だ。

 村の子供と話す時や、自分を困らせて遊ぶ時はこれが「フフッ」になり少し楽しんでることが分かる。

 そして素の感情を表したりしてる時は「フフフッ」になって、ここでようやくツンツンした所がなくなるのだ。

 ちなみに最上位は「ニコッ」とか「ニコニコ」でネムを甘やかしてるときに見られ、エンリだって向けられたことはない。

 

(……って、あれ? もしかして、私の一番のライバルってネムなの?)

 

 思い返すと今日の買い物でもネムのお土産にと人形を買ってた。

 自分が貰ったのは日記帳とペン――それに王国の文字を勉強するための本だ。

 これはどっちの勝利なのだろうか?

 

「すんませーん」

 むむむっ、と悩みだしたエンリに声がかけられた。

「えっ? は、はい! なんですか?」

「あ、やっぱりエンリちゃんじゃん」

 馴れ馴れしく話しかけてきたのは冒険者風の男だった。

「え? あの、どちら様……」

「あれ? 俺のこと知らない?」

 エンリは必至に記憶を掘り起こしてみる。

 確かに何処かで見たような気がするのだが……一体、誰だろう?

 ンフィーレアと一緒にカルネ村に来た冒険者だろうか?

 エンリが思案する中、ドタバタと慌ててこちらに向かってくる三人の姿が見えた。

 

「ルクルット! お前、何してるんだ!」

 金髪碧眼――王国に有り勝ちな外見をした男がエンリに話しかけたルクルットと呼ばれる青年の肩を慌てて掴んだ。

「いや、リーダーがチェックインしてる間に親交を暖めあおうかなってね」

「この馬鹿!」

 締りのない顔で笑ったルクルットに向かって男は怒鳴ってからエンリに頭を下げた。

「仲間が失礼しました。私達はこの街の冒険者チーム『漆黒の剣』で決して怪しいものではありません。私はリーダーのペテル・モークといいます」

 リーダーの後ろにいるチームメイト――がっしりとした体格をした男の人と最年少であろう少年も頭を下げるのが見えた。

 どうやらこの人達はいい人そうだ。

 そう判断したエンリは座っている男は相手にせず、ぺテルに話しかけることにした。

「エンリ・エモットです。その、記憶にないのですがンフィーと一緒に薬草取りに来られた方なんでしょうか?」

「ンフィーって、もしかしてンフィーレア・バレアレさんですか? 残念ですが違います」

「えっ? なら、どこでお会いしたんでしょう?」

 ぺテルは否定してから、困った顔を浮かべる。

「そ、その……私達は昨日エ・ランテルの検問で順番待ちをしていた時に見かけただけです」

「……あ、ああ!」

 この格好のせいでカルネ村の住人だと信じてもらえずにドタバタした時のことだ。

「そういえば確かに見覚えがあります」

「良かった。私達は日ごろの疲れを癒し、英気を得る為に泊まりに来たのですが……」

「そこで俺がエンリちゃんを見かけたので声をかけたってわけ」

「そ、そうなんですね」

 ニヤリと笑うルクルットにエンリは曖昧な笑みで応じる。

「失礼ですよ。本当にやめてください……はじめまして、エモットさん。ニニャと言います」

「ダイン・ウッドワンダーである」

 エンリは二人に頭を軽く下げる。

 エンリも一人でいては気を揉むばかりなので助かった気もしていた。

 

「エモットさん。仲間が迷惑をかけてすみません。ルクルット、お前も……どうしたんだ?」

 ぺテルの声が緊張感を含んだものに変わる。

 相棒であるこの男の顔から先程までの軽薄さが消えているのだ。

 ニニャとダインの顔からも余暇を楽しもうという余裕が消え去っていた。

 エンリは何事かとルクルットの視線の先を追う。

 そこには真紅の衣装に身を飾る女性の姿があった。

 

 みかかを取り囲んでいた人々が波が引くように道を開ける。

 素人目から見ても洗練された動きに格の違いを思い知らされたからだ。

 女は道を空けた者達に礼を言う事はない。

 むしろそれが当然であるかのように迷いのない動きで進むとみかかの前に立った。

 

「御機嫌よう、アリス」

 クレマンティーヌは両手でスカートの裾をつまみ、軽く持ち上げてから深々と頭を下げる。

「おや?」

 その姿にみかかは新鮮な驚きを与えた。

 みかかが抱いていた粗野で乱暴なイメージを払拭する完璧な淑女の姿。

「御機嫌よう。どうして、ここに?」

 罠にかかった獲物の価値が上がるという嬉しい誤算に自然と笑みが浮かび、周りからは驚きの声が上がる。

 エンリ風に言えば「フフッ」という笑み――今まで対応した女性の誰よりも親密感のあるものだったからだ。

「あら? 私がこちらの宿を訪れるのを心待ちにしていると言ってくださったお言葉は嘘だったのですか?」

「あ、ああ……確かに言ったね、そんな事」

 瞳に涙を溜めるクレマンティーヌを見て、みかかの顔に苦いものが浮かぶ。

 その逆にクレマンティーは、ようやく一矢報いてやったことに暗い喜びを感じていた。

「私は貴方様のお言葉を信じて参った次第です」

「そうですか。こんなに早く訪れてくれるなんて思っていませんでしたよ」

 やられっぱなしでいるのも癪なので軽く反撃しながら辺りの気配を探ってみる。

 しかし、追跡を命じているはずのシコクの気配は感じられなかった。

 

(あの子、一体何処をほっつき歩いてるのよ?)

 

 困惑するみかかの隙をついて、クレマンティーヌは大きく距離を詰める。

 

「……っ」

 油断しすぎた自分を戒める。

 意識が他所にいっているのを鋭敏に察知したのだろう――クレマンティーヌがみかかの間合いを侵食してきた。

「如何でしょう? 今から二人きりでお話したいと思っているのですが?」

 そして、肩が触れ合うほどの距離からみかかに耳打ちする。

 

「待って下さい!!」

 

 周りの者が親密な二人の関係を興味深く見守る中、この場の空気に相応しくない荒い足音が聞こえてきた。

「エ、エモットさん。まずいですよ!? やめてください!!」

「やめません! どいてください! ちょっと、邪魔ですからどいてくださーい!!」

 人込みを無理矢理かきわけてエンリが魔法詠唱者らしき格好をした少年を連れて乱入してきた。

 礼儀作法など地平線の彼方に吹き飛ばす行いに、ある者は口を開けて唖然としたり、くすくすと忍び笑いを漏らしている。

 

「ああ、もう……」

 面倒な事になった。

 みかかは頭痛を抑えるように手を顔で覆って、エンリから視線を背けた。

「アリス様?」

 満面の笑みを浮かべてエンリが一歩一歩をゆっくりと詰め寄ってくる。

 

「この女の人は誰なんですか?」

 普段のエンリと変わらない声だ。

 だが、何か異様な圧力があった。

 

「朝の件って、何ですか?」

 ニコ。

「宿を訪れるのを心待ちにされてたんですか?」

 ニコニコ。

「二人きりでお話しされるんですか?」

 ニコニコニコ。

 顔は笑っているが目が全然笑っていない。

 

(……ペロロンチーノさん。私に同時攻略の仕方を教えて下さい)

 

 みかかさん。これはゲームでなければ遊びでもないですよ。

 そんな彼の声が聞こえた気がしたのは気のせいだろうか?

 現実逃避をしていたみかかの隙を突いて、下から覗きこんでくるメデューサがいた。

 

「アリスさまぁ――どうして、わたしのかおをみてくれないんですかぁ?」

 

「………………うあっ」

 やばい、目が合った。

 そっか。

 これがかの有名なヤンデレという存在か。

 

「外にお散歩に出かけられただけと聞いてたんですけど、こちらの方と何があったんですかぁ?」

 ギラリと刃物のように光沢のある視線を向けながら質問してくる。

 それを見て、クレマンティーヌはこれ見よがしにため息をついた。

「そこの方」

 クレマンティーヌはあからさまに見下した視線をエンリに向ける。

「……なんでしょう?」

 エンリはみかかが今まで見たことのない程、いい笑顔を浮かべて返事する。

 

「「………………」」

 

 ラウンジバーを奇妙な沈黙が支配した。

 二人の視線が正面からぶつかって火花を散らす。

 

「お名前をお伺いしてもかまわないかしら?」

「私はエンリ。カルネ村のエンリ・エモットです」

「カルネ……村?」

 エンリの言ったことを繰り返してから「ハッ」と鼻で笑った。

「な、何なんですか!?」

「いえいえ、別に――そう、カルネ村のエモットさんね」

 クレマンティーヌは嘲笑を浮かべていた顔を急に真面目なものに変えて、スッと背筋を伸ばす。

 そして、先程みかかに見せたように優雅に頭を下げた。

「私はクレマンティーヌ・リセリア・クインティアと申します。どうかお見知りおきを」

 非の打ち所のない完璧な挨拶に周りのものが「おおっ」とどよめき、エンリは後ずさる。

「あっ……うっ……」

 エンリが困惑するのが分かった。

 どちらが場違いであるのかを察したのだろう。

 黄金の輝き亭に宿を取る者の大半は貴族や大商人に連なる者達だ。

 突然乱入してきたエンリに味方する者は少ない。

 

「分かりました。部屋でお話を窺いましょう」

「ア、アリス?!」

 その声には非難の色があった。

 唯一の味方であるみかかがクレマンティーヌの申し出を受けたことが信じられないのだろう。

「エンリ。聞き分けなさい」

「わ、分かりました」

 固い口調にシュンと肩を落としてエンリは頷いた。

 

「クインティア様。お部屋の準備が整いました」

 ラウンジの空気が変わったことを敏感に察したベルボーイが慌ててラウンジに入ってきた。

「そう。ありがとう」

「どうぞこちらに――手荷物をお預かり致します」

「それには及びませんわ。私には立派な殿方がいらっしゃいますもの」

 クレマンティーヌは自然な動作でみかかの腕を絡み取る。

「な゛あ゛っ?!」

 それを見てエンリは声を上げた。

「ああ。もしかして貴方が持ってくださるのかしら? 確かに貴方には荷物持ちがお似合いだわ」

「私は――」

「エンリ。私はこちらの方と話があるから、貴方は先に部屋に戻ってなさい」

「………………はい」

 革鞄を受け取ると二人はベルボーイに案内されて部屋へと向かう。

 クレマンティーヌは一度だけ振り返って、エンリに勝者の笑みを見せつける。

「むむっ……」

 エンリはそれを見送ることしか出来ない。

 

 みかかが去った後は蜘蛛の子を散らすように集まっていた連中もラウンジを後にした。

 

(ううっ、ミカの……ミカの馬鹿!!)

 

 そんな中、恨みがましい視線で去っていった方を見つめ続けるエンリの肩を誰かが叩いた。

「エモットさん。少しいいですか?」

 そちらの方を見ると神妙な顔つきをしたニニャがエンリを見つめていた。

「あ、あの……どうしたんですか?」

「エモットさん。今の対応はいけませんよ」

「えっ?」

 自分に落ち度はない。

 どうして自分が責められるのか分からないエンリを見て、ニニャの顔に苦い物が浮かぶ。

「メイドが仕える主人に意見するなんてとんでもない事です。知らなかったで済まされませんよ」

「い、いえ。私はメイドじゃないので」

「えっ? じゃ、じゃあ……貴方は一体何者なんですか? どうしてあの人と一緒に?」

「そ、それは……」

 その言葉にエンリは返事が出来ずに立ち尽くす。

 どう言えばいいのだろうか?

 困り果てるエンリの元に漆黒の剣のメンバーがやってきた。

「ニニャ。冒険者が他者への詮索は行うのは御法度だぞ?」

「分かってますよ、ぺテル。ですが、あまりにもエモットさんが危なっかしいので、つい口に出てしまって……」

「ありがとうございます。見ず知らずの私を心配してくださったんですね」

 リーダーに言われて落ち込んだニニャに向かってエンリは頭を下げた。

 

「あー。それよりもエンリちゃん。おたくのご主人様に伝言を頼まれてくんないかな?」

「何でしょう?」

「あの女……ちょっとヤバイ奴かもしれねえ。何の仕事の話をするのか知らねえけど信用するなってね」

 その言葉にエンリは驚いた。

「どういう意味ですか?」

「あの女が街を歩いてるのを偶然見かけたんだけどさ。そん時と格好が全然違うんだよね。ワーカーって知ってるかな? 冒険者の落ちこぼれというか色々ヤバイ連中の総称なんだけど、そんな連中みたいな感じがしたね」

「もしかして……アリスを騙そうとしている?」

「かもな。ありゃ、かなりの役者さんだ。俺も初対面なら名家のお嬢様だと思っただろうし」

 確かにあの綺麗な挨拶は真似しようと思っても簡単に出来るものじゃない。

 何度も何度も練習した者の風格のようなものを感じた。

「ルクルットさんもありがとうございます。アリスには必ず伝えておきますね」

「いえいえ。俺達も周りの取り巻きと変わらないんだよ。おたくのご主人様とお近づきになりたいなと思ってる次第でね」

「皆さんもそうなんですか?」

「勿論です。エモットさんは分からないかもしれませんが、彼の足運びは常人の域を超えています!」

 興奮気味のぺテルの声にエンリは驚く。

「確かにエンリちゃんのご主人様は凄いな。あんなに静かに歩く奴、俺も始めて見たからな」

 自分のことではないのにエンリは何故だが誇らしい気分になってくる。

「良ければアリスとお話出来るように頼んでみましょうか?」

「是非、お願いします!」

 喜ぶぺテルの顔を見ながら、大丈夫だろうかと胸騒ぎがするのを抑えられずにいた。

 

 

(ただの快楽殺人者かと思ったけど、どこかの国お抱えのスパイだったりするのかしら?)

 

 腕を組んで隣を歩くクレマンティーヌをさり気なく観察する。

 初めて会った時は外套に身を包んでいたので分かるわけもなかったが見事なプロポーションをしていた。

 一歩歩くごとにドレスの襟元から胸の谷間に埋もれるネックレスが揺れて、チャイナドレスのように深く切れ込んだスリットから真っ白い足が顔を覗かせる。

 みかかの視線に気付いたのかクレマンティーヌはくすりと妖しく微笑むと、絡ませた腕に胸を押し付けてきた。

 

(こうやって男を籠絡するわけね……御苦労だこと)

 

 引き締まった身体つきをしているのに柔らかいという矛盾――そんな感覚を味わいながらみかかは感心していた。

 この女の性格から考えて男に媚を売るような人物には見えない。

 だとすれば、こういう色仕掛けは誰かから習ったのか、もしくは自ら学習したものなのだろう。

 

(でも、残念。額面通りに受け取るのは危険なようね)

 

 意識を集中させて敵感知の特殊技術を用いることで、まるでサーモグラフィーのようにクレマンティーヌの身体から朱のオーラが立ち上っているのが見えた。

 赤系統の色は臨戦態勢を知らせるもので友好的なものではない。

 つまり、この女は本心から愛想を振りまいてるわけではないということだ。

 だが、みかかは胸中で冷笑を浮かべた。

 朝に会った時よりも色の濃さが数段淡くなっている。

 つり橋効果の実験は良好ということだ。

 

 みかかはエンリの買い物に付き合うついでに特殊技術と吸血鬼の種族的能力の実験を行っていた。

 薬物精製スキルを用いて強制的に好感を勝ち取り、集まった相手に対して《生命力吸収/エナジードレイン》を用いて生命力を分けてもらうというものだ。

 生命力吸収を行えば吸血行為を行わずに済むのではないかという発想だったのだが、これは失敗に終わった。

 ユグドラシル風に言えば生命力吸収はHPの回復であり、吸血行為はステータス値の維持にあたるようだ。

 現在のみかかは吸血行為を怠っていた為、最大HPが一割ほど落ち込んでいる。

 いくら生命力吸収を行おうがHPは九割までしか回復せず、攻撃や敏捷などの他ステータス値も下がったままだ。

 その中には精神値――ゲーマー用語で言う所の正気度と呼ばれる物も含まれている。

 

(ただでも血の狂乱で暴走しやすいんだから、体調を気遣いつつ、気を引き締めてないとアルベドやシャルティアの誘惑に負けちゃうかもしれないわね)

 

 そういう意味で、みかかが一番警戒しているのはエンリだ。

 今朝、彼女相手に理性を失いかけたことで苦手意識がついたのかもしれない。

 もし、エンリがアルベド達のように積極的な行動に出られると、少し対応に困る。

 

(分からない。エンリにはあって他の人にはないものって何なの?)

 

 今日一日、目に付いた人々は手当たり次第に誘引し、これはと思う人物には魅了の魔眼を用いてみた。

 だけど、エンリほど惹かれることはなかった。

 単純に外見的な意味合いだけで言うならエンリより好みの人物だっていたというのに。

 今、隣にいるクレマンティーヌは十分な利用価値があるし、性格も容姿も嫌いじゃない。

 だけど、エンリには一歩及ばない。

 

 そういう気持ちを人は恋と呼ぶのだろうか?

 

 残念ながら、みかかには答えを出せなかった。

 

 みかかのことを恋を知らない哀れな女だとシコクは言った。

 確かにその通りだ。

 リアルでは人に恋焦がれたことなどないし、この世界では自分の気持ちが分からない。

 

 みかか・りにとか・はらすもちかはエンリ・エモットの血を一滴残らず吸い尽くしたい。

 

 これが――吸血鬼の愛し方なのだろうか?

 そんな気持ち、元人間の魂を持つ自分に分かるわけがなかった。

 

「アリス様。何処に行かれるんです?」

 クレマンティーヌに腕を引かれて立ち止まる。

 どうやらクレマンティーヌが借りる部屋に着いたようだ。

 

「こちらのお部屋になります」

 ベルボーイが鍵を開けて、扉を開いた。

 部屋のグレードはみかかと同じようで内装も調度品も変わりはない。

 幸か不幸か、みかかの隣の部屋だった。

 

「鍵はこちらに置いておきます。それではごゆっくりとおくつろぎ下さい」

「ありがとう」

 ベルボーイが部屋を後にすると同時にクレマンティーヌの淑女然とした顔つきが変わった。

「あー疲れた。こんなヒラヒラした服とか着るの何年ぶりだろ。裸と同じくらい落ち着かないわ」

 組んでいた腕を離して、クレマンティーヌは部屋へと進み、ソファに座る。

 かすかな金属音がみかかの耳に響く――ドレスの下には鎧を纏っているのだろう。

 

「……いい宿泊まってんだねぇ。ここってエ・ランテルで一番の宿なんでしょ?」

 クレマンティーヌは辺りを見回しながら言った。

「つまらない話は聞きたくない。何の用?」

 みかかは手に持った鞄を突き返しながら問う。

「何? メイドちゃんを苛めたのが気に入らなかった?」

「………………」

「あっ、その鞄はお土産。開けてみて開けてみて」

 ニヤニヤ笑うクレマンティーヌを無視して、みかかは何かの動物で出来た革鞄を慎重に開ける。

 中には大量の金貨と貴金属が詰め込まれていた。

「これは?」

「ンフィーレアを譲ってくれたお礼と口止め料。後さ、私をかくまってくれない?」

「……ふうん。貴方、誰かに追われてるの?」

「そう。これを盗んだせいでね」

 クレマンティーヌは懐からサークレットを取り出した。

 水滴が付着した蜘蛛の巣のような作りで、それなりの価値があるものに見える。

「それは何?」

「さすがに知らないか。これは巫女姫の証、叡者の額冠。スレイン法国の最秘宝の一つだよ」

「……なんですって?」

 よりにもよってスレイン法国だと?

 みかかの驚愕を他所に手に持ったアイテムを自慢するかのように見せ付ける。

 

「着用者の自我を封じることで人間そのものを超高位魔法を吐き出すだけのアイテムに変える神器。可愛い女の子がこんなものしてたからさぁ、似合わないから奪ってあげたんだよねー。まあ、外すと発狂しちゃうんだけどねー」

 そういってからクレマンティーヌはケタケタと笑った。

 

(ああ、そう――とても残念だわ。クレマンティーヌ)

 

 なるべく穏便に事を済ませるつもりだった。

 特殊技術を用いはしたが、あくまで自主的にこちらに組してもらうつもりだった。

 元より逃がすつもりはなかったが、これで穏便に事を運ぶつもりもなくなった。

 この女は今、この場で手に入れる。

 

「ねえ、クレマンティーヌ。その叡者の額冠見せてくれない?」

「どうして?」

 クレマンティーヌの顔が真顔に変わる。

「超高位魔法を吐き出すアイテムに変えるだっけ? どの程度の魔法が使えるのか気になってね」

「第七位階魔法まで――ンフィーレアを使ってアンデッドの大群を召喚する魔法《不死の軍勢/アンデス・アーミー》を使用するのが私達の目的よ」

「………………」

 私達?

 クレマンティーヌには仲間がいるのか。

 

(シコクがいないのは仲間をあたってるせい? でも、相手の手の内は大体分かったか)

 

「これを貸して欲しいならさ。あんたの腰に下げた剣を私に貸してよ」

「これ?」

「そう。ちょっと気になってるんだよね。凄い立派な剣だからさ」

「はい」

 みかかはベルトに固定していた剣を取り外してクレマンティーヌに差し出した。

「……あ、ありがと」

 クレマンティーヌはあっけに取られながらも剣を受け取って鞘から引き抜く。

 

「嘘。何、これ?」

 空のように青い刀身から漏れる冷気を見て、クレマンティーヌは感嘆の息を呑んだ。

「アイスソード。とある聖騎士さんから頂いた魔剣だよ」

「………………」

「剣を渡したんだから、今度はそっちの番。叡者の額冠見せてくれない?」

「お前、馬鹿か」

 クレマンティーヌの声が変わった。

「……はい?」

「女に甘い甘いと思ってたけど、ここまでいくと病気だな。これ、お前の主力武器だろ? それをあっさり渡すとか剣士舐めてんのか?」

 クレマンティーヌは立ち上がると剣を構えた。

「ズーラーノーンも飽きてきたから、あんたのいる八本指にでも匿ってもらうつもりだった。だけど、ここまで馬鹿な男じゃ大したことないね。悪いけど、ここで死んでくれない?」

「……フッ。ふふふ、ふふふふ、あはははははは!?」

 ズーラーノーンという謎の単語。

 そして、何故自分は八本指と関わりがあると思われてしまうのか?

 色々な疑問を他所に、みかかは腹を抱えて笑った。

 

「まさか、貴方――嘘でしょ? ころしてでもうばいとるって言ってるの!? 何よ、それ。まさか、この剣のこと知ってるわけじゃないでしょう?」

 

「な、何がおかしい!!」

 アイスソードをブンッと振るって、みかかに向かって突きつける。

 こんな恐ろしい力を放つ魔剣を奪われたというのにどうしてこいつは余裕の態度が崩れないんだ。

「おかしいわよ! これが笑わずにいられるものですか! あーもう、貴方素敵だわ。かつての仲間に見せてあげたいくらい。きっと、皆気に入ってくれると思うわよ?」

「ん? えっ? その口調……お、お前――まさか、女か!?」

「あっ、しまった。思わず素の自分が出ちゃった」

 笑いすぎて目の端に浮かんだ涙を指で擦りながら、みかかは片手を伸ばして手招きする。

「おいで、クレマンティーヌ。ころしてでもうばいとると言うなら、私を殺してみせなさい! 私がかつてそうしたようにね!!」

「ええ、やってやろうじゃないの!!」

 クレマンティーヌは剣をかまえ、必殺の体勢に移行する。

 

「能力向上、能力超向上」

「………………」

 武技を発動させる自分を鼻で笑う。

「……馬鹿みたい。なんで自分の手の内をわざわざ口に出して晒してしまうのかしら? 支援系の特殊技術だってばれちゃうじゃない」

「黙れ。分かった所で何の問題もない」

 そう呟きながらも疾風走破、超回避の二つの武技を口には出さず発動させる。

 

 不気味な相手だ。

 この剣が魔剣と呼ばれる類のものであることは間違いない。

 それを奪われても尚、相手は自分の優位を疑っていない。

 

 だが、しかし――。

 

「この人外領域に到達した天才、クレマンティーヌ様が負けるはずがないんだよ!!」

 全身全霊の一撃で決める。

 大きく息を吐き出すとクレマンティーヌは突進した。

 四つの武技を同時に展開し、身体能力を極限まで高める。

 さらに相手が何かをしてきたとしても防御系の武技を使える余裕を残してある。

 

 いくら最高級の宿とはいえ、所詮は屋内。

 間合いはさほど離れていない。

 短い距離を瞬時に駆け抜けたクレマンティーヌは手にした剣を突き出した。

 鍛え上げた己の膂力と魔剣の性能を合わせれば、アダマンタイトの鎧でさえ貫く自信があった。

 

 しかし、必殺の一撃も当たってこそだ。

 

 突き出された氷の魔剣は相手の身体を掠りもしなかった。

 左目を貫くはずの魔剣は想定のはるか斜め上である虚空を貫いている。

 

「ッ!?」

 その在り得ない光景にクレマンティーヌは驚愕する。

 そしてクレマンティーヌは自らの手首を掴む小さな手に気付いた。

 クレマンティーヌは己の攻撃が何故外れたのかを理解した。

 突き出した刺突の力を後押しするように、みかかは手首を掴んで斜め上に引っ張りあげたのだ。

 

(馬鹿な!? 私の技を初見で見切ったの?)

 

 余りにも自然に受け流されたので身体が異変を感じなかった。

 格闘技でいう受け流しは往々にして崩しの動作を兼ねている。

 刺突を繰り出して伸びきった右腕は同時に右脇腹を無防備な状態で曝け出すという隙を見せている。

 当然、殺し合いの最中にがら空きの急所を見逃すようなお人好しはいない。

 

「ボディがお留守になってるわよ」

 手首を掴んでいた手を離すと同時に拳を握り、がら空きの脇腹に向けて放つ。

 伸びきった右腕では防御出来ず、今から避けることも出来ない。

 みかかの拳はクレマンティーヌの脇腹に突き刺さる――筈だった。

 

「不落要塞!!」

 クレマンティーヌが叫ぶと同時に武技を発動させる。

 

「んんっ?」

 今度はみかかが驚愕する番だ。

 脇腹は筋肉のつきにくい箇所であり、そこに位置する肋骨は骨の中でも折れやすい箇所だ。

 そこを狙った拳撃が無防備な脇腹を叩くと同時に大きく弾かれる。

 

(武技か!?)

 

 戦士の魔法――この世界特有の特殊技術だ。

 

 みかかは完璧なタイミングで放ったカウンターが失敗したことに舌打ちする。

 ユグドラシルであれば受け流しからのカウンター攻撃は達成値にボーナスがついて与えるダメージは大きくなる。

 それこそ百レベルのみかがの攻撃ならクレマンティーヌの身体など爆裂四散してもおかしくない。

 今回は生け捕りにしなければならない為、手加減をしたせいでスピードが乗らず、結果的に防御スキルを使う隙を生んでしまった。

 

「即応反射、流水加速!!」

 

 最大の好機を逃したみかかを嘲笑い、武技を発動させる。

 即応反射で受け流しによって崩れた体勢を無理矢理、攻撃態勢に引き戻して流水加速によって攻撃に転じる。

 事前に能力向上、能力超向上を用いたことにより流水加速の効果はさらに高まっており、クレマンティーヌの一撃はガゼフの速度を容易に凌駕していた。

 

「死ねよ!!」

 

 この一撃の速さは流星の如し、そしてこの距離であれば外しようがない!!

 しかし、再びクレマンティーヌの刺突は空を貫いた。

 

「………………な?」

 まるで先程の巻き戻し――再び、クレマンティーヌの攻撃は受け流された。

 だが、その結果はまったく異なる。

「邪魔」

 何かが折れる音と痛みがクレマンティーヌを襲った。

「ぐっ!?」

 クレマンティーヌは苦悶の声をあげた。

 不落要塞を発動させるより早く、みかかの拳が脇腹に突き刺さって肋骨の数本がへし折れる。

 それだけではない。

 握られた手首も強烈な握力によって直角に曲がっていた。

 当然、そんな状態では剣を握ることなど出来ない。

 手から落ちた氷の魔剣が厚い絨毯の上に転がった。

 

「えっ?」

 その光景に理解が追いつかず、クレマンティーヌは首を傾げた。

 いや、理屈は簡単だ。

 遥かな高みに位置する者が相手が意外に頑張るものだからちょっと本気を出しただけに過ぎない。

 

「癒しの武技は持ってないの? それとも私の油断を誘っているのかしら?」

 後ろからかけられた声――冷たい指がクレマンティーヌの喉から頚動脈をツツッとなぞる。

「馬鹿な……」

 自分の背筋に冷や汗が伝う。

 いつの間に背後を取られたのだ?

 目の前にいた筈なのに、あっさりと背後に回られた。

「ちっ!!」

 戦士として背後を取られたままでいるのは危険すぎる。

 瞬時の状況判断でクレマンティーヌが後ろを振り返るが、そこには誰もいない。

 

「手首と肋骨が折れただけよ。勝負はまだこれからでしょう?」

 再び背後から声をかけられる。

「くそっ!?」

 半ば自棄になって、再び振り返るが、やはりそこには誰もいない。

「人間には二百十五本も骨があるのよ。数本くらい折れた所で大したことないでしょう?」

 そんな訳がない。

 肋骨は臓器を守る鎧の役目を担っているが、折れた肋骨など臓器を傷つける凶器でしかない。

 すでにクレマンティーヌの身体は万全の状態ではなく、身体能力は落ち込んでいる。

 そもそも万全の状態で挑んでこうなったのだ。

 何をどうしようが勝つことなど出来はしない。

「さあ、私を楽しませて頂戴。一度は私の不意を突けたじゃない。貴方ならもっと頑張れるはずよ?」

 まるで母親が子供を諭すかのように優しい声で励ましている。

「あっ、うっ……」

 まるで悪夢だ。

 何度後ろを振り返っても、辺りを見回しても、相手の姿を捉えることが出来ない。

 自らについてまわる影のように少女に後ろを取られたままだ。

 

(あ、在り得ない。そんな馬鹿な……)

 

 桁違いの力を前にして、クレマンティーヌの脳裏にある人物の顔が浮かび上がる。

 六大神の血を引き、その神の力を覚醒させた神人と呼ばれる二人。

 

 漆黒聖典第一席次。

 そして化け物中の化け物、漆黒聖典番外席次。

 あの二人より――こいつの動きは早くないか?

 

 だとしたら自分の行いは神に唾を吐いたも同然。

 その末路には死あるのみ。

 

(嫌だ。そんなの嫌だ。死にたくない。死にたくない!!)

 

 いつの間にか自分の身体が寒さに震えるように揺れていた。

 

「……そう。どうやら、手品の種は出し尽くしてしまったようね」

 怯えた自分を見て、残念そうに少女が姿を現した。

「このっ!!」

 最早、勝負はついてる。

 それでも残った右手で手刀を作って、クレマンティーヌは相手の瞳を潰しにかかる。

 クレマンティーヌの必至の抵抗を、少女はつまらなそうに眺めながら、悪戯をする子供のように小さな舌を出す。

 馬鹿にしてるのかと憤慨するクレマンティーヌの意識が急速に冷めて顔が引き攣った。

 

「う、嘘でしょ!!」

 

 照明の光に照らされて、舌の上に転がる金属が光っていた。

 みかかの舌に乗っているのは含み針――暗器と呼ばれる隠し武器だ。

 みかかはニヤリと笑って、クレマンティーヌに口づけするように口をすぼめてから「フッ」と針を吹き出した。

 相手の狙いは眼球――その異様な速度を前にクレマンティーヌは攻撃を即座に中止。

 折れた手で己の顔を庇う。

 ぷつりと肌を突き破って針が刺さると同時、クレマンティーヌの膝が力を失った。

「はっ?」

 そのまま訳も分からずに絨毯に倒れこむ。

 

「麻痺毒よ。残念だったわね」

 

 毒?

 針に塗ってあったのか?

 なら、毒を塗った針を口に含んでいるあいつはどうして無事なんだ?

「ああ、やっぱり――剣を落とした拍子に床に傷がついてる。ばれなきゃいいけど」

 倒れた自分の横を通り過ぎ、転がった魔剣を拾うと再び腰に下げる。

「さてと、約束どおり叡者の額冠を借りるわね」

 みかかはクレマンティーヌの懐から叡者の額冠を抜き取ると、《道具上位鑑定/オール・アプレーザル・マジックアイテム》のスクロールを取り出して使用する。

「……性能的にはユグドラシルにはないタイプの道具ね。ふうん……一度着用して外すと正気を失う。着脱者を救うには破壊するしかない。しかも着用者には特別な資格が必要。だからンフィーレアが欲しかったってわけね」

「……し、信じられない」

 無様に床に倒れ伏したまま、クレマンティーヌは喘ぐように呟いた。

「ん?」

「スクロールを扱うなんて、あんた魔法詠唱者でもあるの? 何者なのよ? そんな奴、聞いたこともない」

「………………」

 みかかは何も答えずにクレマンティーヌの左手に触れると医療系の特殊技術を用いる。

 瞬時に折れた左手の手首は治癒して元の姿に戻った。

「ち、治癒魔法まで? 在り得ない、在り得ない」

「その手の反応はそろそろ見飽きてきたからしなくて結構よ。化け物でも見る目をされるのは不快だもの」

 折れた肋骨を治しながら、つまらなそうに呟く。

「………………」

 自らの立場を理解したのかクレマンティーヌは口を閉じる。

 そして母親の仕事を見守る子供のように、みかかの医療技術を眺めていた。

 

(凶手として、あれだけ技を極めながら魔法まで取得してるっていうの? 天才なんて言葉で片付く器じゃない)

 

「ど、どうして……」

「んっ?」

「どうして殺しの技と癒しの技を極められるのよ? 在り得ないわ。相反する力を求めれば中途半端な結果に終わる筈なのに……」

 

 そもそも戦士と魔法詠唱者の腕を両立など出来るわけがない。

 どちらか一方を極めるのが精一杯で、どちらも鍛えれば中途半端に終わる。

 それは英雄の領域に到達したクレマンティーヌですら同じだ。

 

 なのに、何故この少女だけ違うのだ?

 

「私の職業構成は三本矢――暗殺、医療、薬物精製で構成されてる」

 理解は出来ないが、クレマンティーヌは一字一句を忘れない覚悟で話しに聞き入っていた。

 英雄の領域に到達した自分を嘲笑う神域の領域に到達した者の力の秘密を知れるかもしれないと思ったからだ。

「成長タイプには早熟型や平均型とか色々あるけど私は大器晩成型。百レベルを前提とした種族・職業構成を行っている」

「………………」

 やはりか。

 この少女も神人――六大神や八欲王と同じ、プレイヤーなのだ。

「だから四十レベルに到達しない貴方が私の職業構成を真似ればそうなるでしょうね」

「………………」

 つまりは、自分には才能がなく、彼女には才能があった。

 それだけの話なのだろうか?

「だけど、貴方の言ってることには一部大きな誤りがある」

「えっ?」

「暗殺、医療、薬物精製は決して相反する力ではない。相互に密接な関係があるものよ」

 

「薬も過ぎれば毒になるし、人を殺す術を極めるということは人を生かす術を極めることに繋がる。貴方なら人より長く拷問出来るじゃない?」

 確かに拷問を行うときは長く苦しむように致命的な臓器や血管を傷つけないように注意している。

 逆に戦うときは容赦なく相手の急所を狙い打っている。

 自分は人を殺すことだけを追い求めたので気付かなかったが、確かに人を救う術も心得ているのかもしれない。

「私はあれも欲しいこれも欲しいと思って職業構成を選んだわけじゃない。如何に合理的に人を殺すかを追求した結果、こういう職業構成に落ち着いただけよ」

 その言葉にクレマンティーヌは感動した。

 血を求める狂犬に過ぎない自分とは異なる徹底的に追求した殺しの美学がそこにはあった。

「正統派はどの状況でも満遍なく強いけど面白くないでしょ? 私の友人は固定値は裏切らないと言ってたけど、こっちには正統派にはない爆発力がある。ダイスが回った時の達成値は正統派の比ではないわよ? 固定値は期待を裏切らないかもしれないけど、期待を上回ってもくれないわ」

 楽しそうに己の殺しの技術を自慢する少女がクレマンティーヌには眩しく見えた。

 そして、この少女なら自分を受け入れてくれるだろうという期待も。

 理解出来ない狂人を見る目――邪教集団の中でさえ、クレマンティーヌは理解されなかった。

 しかし、この少女なら違う――そういう確信がある。

 

「これで良し。他に痛む所は?」

「……ない。もう一つ聞いていい?」

「まだあるの?」

「あんたは私が今まで見た誰よりも殺す術に長けてる。その技能は誰から習ったの?」

「神様」

 みかかは吐き捨てるように言った。

 

「冠位暗殺技能習熟――生と死を極めた暗殺者の頂点に立ったものが有する技能、だったかしらね。本来なら修練の果てに会得する技術を九十レベルに到達したときに神様から頂いたのよ」

 そういってみかかは剣を抜いて振り回した。

「っ!?」

 それは一見すれば出鱈目な動き――狂人が刃物を振り回しているのと変わらない。

 だが、そこには常人では生きることも適わないほどの年月を殺すことに捧げた者の境地が宿っていた。

 この太刀筋は素人でありながら素人ではない――その内になにか得体の知れない神を宿した無慈悲なまでに極められた一撃だ。

 

「ハッ……こりゃ、勝てないわけだわ」

 クレマンティーヌは眩いものでも見たかのように目を細めた。

 自分には理解が及ばないほどに極められた殺しの技術――最早、道具の優劣など問題にならないほどの真髄が彼女には宿っている。

 自分はなんと愚かだったんだろう。

 彼女なら魔剣を持った自分でも、そこら辺の家庭から借りてきた包丁を使って殺せるだろう。

 

「お願い、私にあんたの技を教えてくれない?」

 

「はぁ?」

 みかかは小馬鹿にしたように笑った。

「笑えない冗談ね。私の命を狙ってきておいて、今更都合が良すぎるじゃない?」

「分かってる。でも……最初にその力を見せてくれてたら、あんな真似はしなかったよ」

「……ふむ」

 その意見は一理あると思った。

 みかかの敵感知スキルで見ても緑色の友好的なオーラに変わっている。

「それで私が貴方を教える対価に貴方は何を差し出すというの?」

「あんたの足元にも及ばないけど、それでも英雄と呼ばれるくらいの力はあるし国の内情もある程度把握してる。きっと役に立つから」

「全然駄目ね。足りないわ」

 無様に倒れ伏す自分を冷酷に見据える瞳に変化はない。

 このままでは死ぬ、殺される。

 己の人生において初めて訪れた大きな転機――最大級の幸運を目の前に無為に、無価値に、無意味に死んでしまう。

 言葉に出来ない感情が胸を渦巻き、クレマンティーヌの瞳に涙が浮かんできた。

 

 みかかは胸中で改心の笑みを浮かべる。

 ここが落とし所だ。

 

「血の巡りの悪い子ね。そうじゃないでしょう?」

「えっ?」

 クレマンティーヌの頬を撫でながら優しく語り掛ける。

 撫でる手には精神抵抗値を下げる毒が仕込まれており、即座に肌から吸収されて効果を表す。

 クレマンティーヌの瞳の焦点が定まっていないのを確認してから、噛んで含めるようにゆっくりと語り聞かせる。

「命を救ってあげた私に対して貴方が差し出すものが奉仕だと言うの? それって、当たり前のことよね?」

「じゃ、じゃあ……何を差し出せば?」

 迷い子のように不安な瞳を浮かべるクレマンティーヌにみかかは魅了の魔眼を用いた。

 その効果は朝に行ったものの比ではない。

「ぁ……うぁ……」

 みかかが有する特殊技術を駆使して強化された魔眼の威力はクレマンティーヌの精神を抵抗も許さずに塗り潰していく。

「決まってるわ。すべてよ。あなたの持ってるものは当然のこと――私にとって意味のあるものすべて、この世で意味のあるものすべてを私に捧げなさい」

「……はぃ。さ、さげ……」

「聞こえないわね」

 震える顎を掴んで、上を向かせて射竦める。

 再び蒼く光る碧眼を見て、クレマンティーヌの理性は完全に消し飛んだ。

 

「捧げます! 全部、何もかも!!」

 

「そう。嬉しいわ」

 みかかの腕が動けないクレマンティーヌの身体を抱きかかえる。

 以前のような言葉だけの抵抗すらない。

 

(……墜ちたわね。出来れば、じっくりコトコト煮詰めてあげたかったのだけど仕方ない)

 

「私は貴方の命を救ってあげたんだもの。貴方は私の為に生きて死ぬ義務があるでしょう?」

 少しばかり残念なものを感じながら、その耳元に囁いた。

 クレマンティーヌはみかかの腕に包まれ、そっと目を閉じて頷いた。

 

「いいわ、信じてあげる。貴方に裏切りの黒い影が差さないことを願っているわ」

 一度だけ強く抱きしめて念を押してから、みかかは身体を離した。

 その際に薬物精製スキルを用いて、全ての毒をゆっくりと取り除く。

「………………」

 麻痺から立ち直ったクレマンティーヌの顔は夢心地のように呆けていた。

「命を拾ったというのに、心ここにあらずな感じね」

 みかかの言葉にハッとして、クレマンティーヌは優雅な礼をしてみせる。

「し、失礼致しました。お嬢様」

 それを見て、みかかは気になっていたことを尋ねた。

「あなた……元は貴族か何かだったの?」

「はい。スレイン法国でも名家と呼ばれるクインティアの家系です」

「……ふうん」

 名家に生まれながら、何をこじらせたら人を殺すのが楽しくて仕方ない殺人狂に育つのか、少しばかり興味がそそられる。

 落ち着いたら聞いてみるのもいいだろう。

 

「貴方の実家に興味もあるけど今はいいわ。別に私の言う事に逆らわなければ口調まで変えろとは言わないわよ」

「よ、宜しいのですか?」

「ええ。人の生き方を変えるのは良くないわ。それに大抵、そういうものって手遅れだし。私に隷属してくれればそれで結構よ」

「………………」

 それは矛盾している命令のような気がするのだが。

 ともあれ、この少女の性格は理解した。

 我侭、強引、高飛車――絵に描いたような貴族のお嬢様だ。

 

「じゃ、じゃあ……堅苦しいのは嫌だからそうします。ええっと……命令を聞く代わりに私を鍛えてくれるんだよね?」

「ええ。しっかりと躾けてあげるから安心なさい。私の花嫁に相応しい存在になれるようにね」

「えっ?」

 その瞳に宿る妖しい光にクレマンティーヌは身体を固くした。

「で、でも、貴方って……女の子、でしょ?」

「それは私が男になれるなら問題ないという認識でいいかしら?」

 ユグドラシルには一時的な性別変換アイテムが存在する。

 男子禁制や女人禁制のエリアなど普通に存在するし、クエストクリアのために特定の性別でなければならないという条件があるからだ。

 試したことはないが、それを使えばどうにかなるだろう。

 

「い、いや……ほら、私って力ならまだ役に立つ自信があるけど、そっちの方はご期待に添うとは思えないよ!」

「黙りなさい」

 風が舞った。

「………………」

 気がつけば、自分の首に魔剣の刃が触れていた。

 刃は肌を裂いて頚動脈に触れている。

 一歩でも動けば血管は裂けて、盛大に血を噴き出すだろう。

 

「もう忘れたの? 私の命令は絶対よ」

 冷や汗を流す自分を冷徹な瞳で見つめながら警告する。

「貴方の意思なんて知ったことじゃない。私がそう決めたんだから貴方は私の物になるの」

 傲慢不遜な物言いだが、この少女にはこの上なく似合っている。

「お返事は?」

「は、はーい。分かりました」

「宜しい」

 再び目にも留まらぬ速度で剣を収める。

 その速さにクレマンティーヌは憧憬の眼差しを向けた。

 いずれは自分もあの神域に手をかけることが出来るのだろうか?

 いや、花嫁として躾けるといった以上、自分は今よりずっと高い所に登れるだろう。

 

「よ、宜しくお願いしますね。だ、旦那様」

 クレマンティーヌは意識して可愛い声を出して媚びてみる。

 しかし、まさか自分が誰かを旦那様などと呼ぶ日が来ることになるとは思ってもみなかった。

 

「旦那様? 冗談でしょう? 少し目をかけたくらいで調子に乗らないで」

 そんな自分に呆れた目が向けられた。

「今の貴方はせいぜい私の使用人レベルよ。お嬢様と呼びなさい」

「わ、分かりました。お嬢様」

 完全に我侭なお嬢様の相手をしているメイドみたいな状態だが、相手は神域の化け物だ。

 機嫌を損ねればあっと言う間に殺されてもおかしくない。

 だが、この緊張感は悪くない。

 絶対的強者だと思っていた自分が、この少女の前では無力な一般人に成り下がっている。

 しかし、こういう立場でしか学べないものがある。

 それはこの少女といることでしか得られない貴重な経験だ。

 

「さっそくで悪いけど命令よ。そのドレスを脱ぎなさい」

「えっ?」

「脱げと言ってるのよ。早く」

「い、いや、ちょっと待って! 私にも心の準備ってものが!!」

「あっ、そう」

「っ?!」

 自らの身体を庇うように抱いたクレマンティーヌの顔が恐怖に引き攣る。

 眼前の少女の機嫌が急降下していくのがアリアリと感じ取れたからだ。

 

「二度も同じ事を言わさないで」

 

 みかかが煩わしげに右手を振るうと青く光る五本の閃光が走る。

 空を裂いて鋭い音が耳朶を打ち、極細の糸がクレマンティーヌの身体を縛りつけた。

 

「わ、分かりました! 脱ぎます! 脱ぎますから!!」

 蜘蛛の巣にかかった哀れな獲物と化したクレマンティーヌが必至に叫ぶが、時既に遅しだ。

「うるさい、貴方の意思なんて、私は聞いてない」

 糸が絡まったのを確認すると、みかかは指をパチンと鳴らした。

「きゃ、きゃあああああああああ!?」

 瞬間、薄布を一気に引き裂く音と共にクレマンティーヌのドレスがビリビリに破かれる。

 

「やっぱり下に鎧を着てるのね」

「え? まさか……それが知りたかっただけ?」

「そうよ」

 その言葉にクレマンティーヌは顔を赤くして怒った。

「だったら、普通に聞けばいいじゃない! なんでドレスを破くのよ!?」

「最近、女性の服を無理矢理引き剥がすことに楽しさを覚えたからよ」

「趣味悪っ!!」

 フンッと悪びれもせずに宣言する少女にクレマンティーヌの頬の筋肉がぴくりと引き攣る。

 

「どーすんのよ。替えの服なんて持ってきてないのに。これじゃ、外に出られないじゃない!」

「そんな下着みたいな鎧つけてるくせに羞恥心はあるのね」

 クレマンティーヌの鎧はユグドラシルではビキニアーマーと呼ばれるもので現実には在り得ない鎧だった。

 ブラジャーに似たトップスと短いボトムに申し訳程度の装甲が施されたもの。

 ユグドラシルなら敵NPCや一部のいかれたプレイヤーが着用していたが、まさか異世界で実際に着用する者がいたのは驚きだ。

 

「そういう意味じゃなくて、この鎧見れば何でか分かるよね?!」

「ええ。私の趣味にけちをつけるだけあって、とってもいい趣味してるじゃない」

 クレマンティーヌの鎧は魚の鱗のように無数の冒険者プレートが着いてあった。

 銅、鉄、銀、金、白金、ミスリル、オリハルコン――アダマンタイトを除く全ての種類が存在していた。

「どうしてアダマンタイトがないの? 貴方ならアダマンタイトくらいどうにか出来るでしょ?」

 マジマジと胸部を見られるのにむず痒いものを感じながら、クレマンティーヌは答える。

「一対一で戦うならね。さすがにアダマンタイト級になると警戒も厳重だから奪えないのよ。私は尾行とかチマチマした行動は得意じゃないし」

 そう言ってクレマンティーヌは唇を尖らせる。

「ふうん。でも、駄目よ。ちゃんとシリーズアイテムはコンプリートしないとね。なんなら私が取ってきてあげましょうか?」

「……結構よ」

 この少女の性格が読めたクレマンティーヌは申し出を断ることにした。

「一対一で戦える状況さえ作ってくれれば自分で取れるもの」

「いい子ね。そういう所、好きよ」

「………………」

 毒気のない笑顔にクレマンティーヌは肩の力が抜けるのを感じた。

 とんでもなく恐ろしく、それと同じくらい我侭で小生意気な少女だが、こうして見ると意外に可愛らしい所があるじゃないか。

 

「でも、その鎧だと武装としては貧弱だし外を出歩けないわね。とりあえず私が昔愛用してた武装を貸してあげるわ」

「お嬢様の慎み深い胸を包む服は私にはサイズが合わな……ふぐっ!!」

 みぞおちに強烈な衝撃が走ると同時にクレマンティーヌの身体が軽く宙を浮いた。

 

(早すぎっ……全力で警戒してたのに見えなかった)

 

 そしてそのまま受身も取れず絨毯に沈む。

 

「貴方が絨毯に倒れこんだこととまったく無関係なのだけど」

 倒れ伏した自分を見つめながら、ぽつりと呟く。

「人の身体的特徴を揶揄するのはとても良くないことではないかしら?」

「……し、失礼致しました」

 スタイルに関する話は厳禁と己の心に深く刻み込む。

 空気抵抗が少なそうで自分は羨ましいくらいなのだが……。

『疾風走破』なんて呼ばれてる自分だが、割とぷるんぷるん揺れて痛いのだ。

 ……とかいう事をこのお嬢様の前では口にしないほうがいいだろう。

 

「いつまでもそんな所に寝転んでないで着替えたらどう?」

 みかかは虚空に手を突っ込むとアイテムボックスから服と外套、それに一本の細剣を取り出してテーブルに置いた。

「いたたた……いやぁ、久しぶりに床に転がされたわ」

 自分の身体が宙に浮くくらいの力で突かれたのに、すでに痛みは収まりだしていた。

 単純に力任せで殴ったのではこうはならない。

 絶妙の力加減で急所を突いたのだろう。

「服を貸してくれるのはありがたいけどお嬢様と私じゃ体格が違うから着れな……って、ええっ!?」

 クレマンティーヌは思わず生唾を飲んだ。

 一体どこからアイテムを取り出したのかも気になるが、置かれているアイテムはどれも並みのマジックアイテムではないことが分かる。

「戦闘メイド服後期型一式と透明化の能力がある外套、ブルークリスタルメタルの細剣よ。メイド服はマジックアイテムだからサイズは問題ない筈だわ」

「こ、こんなの借りていいの?」

 飛びつくように細剣を手にとり試しに振ってみる。

「なに、これ? うわ、やばいわ」

 恐ろしく軽い――それだけでなく初めて手に取る物なのに自分の手を延長させたかのように自由に扱える。

 予想以上の一品に思わず身震いしてしまう。

 これは国の至宝に扱われてもおかしくない一品だ。

 次にクレマンティーヌはテーブルに置かれたメイド服を見た。

 

「この服はあのメイドちゃんのと似てるね。私の趣味じゃないんだけど……」

「いいの? 上位物理無効化スキルを三回まで発動させることの出来るものよ?」

「物理、無効化? それって、もしかして……」

「言葉の通りよ。斬撃、殴打、刺突、あらゆる物理攻撃を防ぐわ」

「……マジで?」

「ええ。ただし、どんな些細な攻撃でも発動するし、その度に小破、中破、大破と服が破れていく仕様だけどね」

 ちなみにエンリの着ている戦闘メイド服初期型は一度で大破する仕様になっている。

「着る! 着る着る! この装備、私にぴったりじゃん!!」

「そうね。高機動で紙装甲なあなたにはぴったりな装備だと思うわ」

「うんうん。じゃあ、着替えてくる」

 服を手にとったクレマンティーヌは上機嫌で寝室へと消えていく。

「とんでもない殺人鬼のくせに子供みたいにはしゃいで……可愛らしいこと。サイコパスの知り合いが出来るなんて不思議な気分だわ」

 その様子を微笑ましく見守っていたみかかだが、不意に頭に何かが繋がる感覚を覚えた。

 

『みかか様、聞こえますか?』

 そして、直接声が響いた。

「……ルプスレギナか?」

『はい』

「お前が《伝言/メッセージ》を使ってくるという事は……」

『御慧眼でございます。先程、ンフィーレア・バレアレとエ・ランテル都市長が複数名の衛兵を伴って、そちらに向かいました』

「な、なんですって……」

 その言葉にみかかは唇を噛む。

「そう……ちゃんと警告してあげたつもりだったのだけどね」

 相手を甘く見たか。

 今日一日、自分を追い詰める為に必至になって行動したのだろう。

『心中お察しいたします。尚、現時刻をもって御二方の遊戯は終了となります。ンフィーレア・バレアレの対応についてはモモンガ様の命に従う。宜しいですね?』

「そういう約束です。私に異論はありません」

『失礼致しました。では、私はこれにて――』

 魔法の効果が終了し、静寂が訪れる。

 

「新しい友を得れば、失う者もいる。ままならないものね。何もかも」

 

 みかかは深くため息を吐くと天井を見上げた。

 

 

 夜の帳も下りて、薪の火が辺りをぼんやりと照らしている。

 赤く燃える焚き火の横に恐ろしい異形の姿があった。

 ギカントバジリスクと呼ばれる恐るべき魔獣の首だ。

 地平線の彼方にその姿が見えただけで一目散に逃げ出さないといけないほどの危険な魔獣の周りに多数の人物が集まっている。

 依頼人である大商人のバルド率いる商隊と護衛とエ・ランテルの冒険者チーム『虹』が昼間の出来事について語り合っていた。

 話の内容は強大な魔獣を一刀の元に屠った新たな英雄、モモンの勇姿についてだ。

 

 冒険者チームがいかにモモンが優れた冒険者であるかを大商人バルドに語っているのを見て、モモンガは内心でほくそ笑んでいた。

 冒険者組合では『漆黒の悪夢』という不名誉な二つ名で呼ばれていたが、それも今は『漆黒の英雄』に変わっていた。

 むしろ最初に悪評が立ったのが幸いしたとすら言える。

 モモンガは社会人として当たり前のことをしていただけなのだが、その丁寧な態度は冒険者や商人達には意外な側面だったらしい。

 昔、悪さをしていた人間が真人間になるとそれが普通のことであるにも関わらず、周りが高評価を下すことがある。

 今のモモンガはまさにそんな状態だった。

 

(やる事なす事全てが上手くいくのは嬉しいけど、失敗した時の反動が酷そうで怖いよ)

 

 こういうのを何と言うんだったか、確か――主人公補正?

 まさか、鈴木悟はただの社会人だ。

 物語の主人公なんて務まる柄じゃない。

 

「それでは予定通り、私は先に休ませてもらう」

「ごゆっくりどうぞ。モモンさん!」

 モモンガがちょっとした祝宴を挙げている連中に話しかけると皆が一斉に姿勢を正して頭を下げた。

 

(依頼主まで頭を下げなくても……いや、九死に一生を得たわけだから感謝してもおかしくはないけどさ)

 

 軽く手を挙げることで答え、モモンガはパンドラズ・アクターを連れて自らの天幕へと歩き出す。

 皆から離れた所にある天幕に入ると入り口を閉め、念の為に外の様子を窺う。

 命の恩人をゆっくりと休んでもらう為か、今日の出来事の熱がまだ冷めていないのか、こちらに注意を払っているものはいなかった。

 モモンガは兜を外して、その骸骨の顔を晒す。

 

「……すまない。待たせたな、シコクよ」

「いいえ。私の為に貴重なお時間を割いて頂きましたこと深く感謝致します」

 三つ指をつき、深く頭を下げる。

「気にすることはない。みかかさんが村娘のお守りをしている以上、お前が動くのは仕方ないことだ」

「ありがとうございます」

 再び頭を下げようとするシコクを手で制する。

 

「それより状況が大きく動いたと聞いた。報告を頼む」

「ハッ。みかか様に接触したクレマンティーヌを名乗る人間ですが、その者は邪教集団ズーラーノーンの幹部であるカジットと共にエ・ランテルで都市壊滅規模の魔方儀式を行うつもりです」

「ほほう。あれだけの大都市を第三位階魔法を扱うのがやっとの現地人が魔法儀式で壊滅させるというのか?」

「はい。クレマンティーヌはスレイン法国の人間であり、国より至宝を盗み出して逃亡中の身のようです。至宝の名は叡者の額冠――着用するのに厳しい制限がありますが、着用出来れば自我を失う代わりに第七位階魔法を扱う道具に変えることが出来るというものです」

「なるほど。こちらの世界の人間から言わせれば第七位階魔法を扱えるアイテムは至宝と呼んでもおかしくないな。クレマンティーヌはみかかさんに接触したというよりはンフィーレアの力が目当てだったというわけか」

「その通りです」

 シコクは頷いて話を続ける。

 

「ンフィーレアを誘拐し叡者の額冠を装備させて第七位階魔法《アンデス・アーミー/不死の軍勢》を使用。エ・ランテルを死の街と化し、その騒動に乗じて行方を晦ます計画だったようです」

 己の保身の為に都市を壊滅させようと企むとは大した女だ。

 その行動力には感心するが、信用できる人物ではなさそうだ。

 

「この計画の核であるンフィーレア・バレアレについてはルプスレギナが完全不可視化を使って尾行中です。こちらを訪れた原因でもあるのですが、先程都市長宅を訪れて会談後、街の衛兵を伴ってみかか様の元に向かいました。半刻の内には黄金の輝き亭に到着する予定となっております」

「愚かな男だ。みかかさんが友好的に接してやったにも関わらず、自ら進んで墓穴を掘るとはな」

 沸点を超えた怒りの感情が強制的に沈静化されるが、それでも波は収まらない。

 

「クレマンティーヌは確保済み。邪教集団についても私の指揮下にあります。これから城塞都市に起きる悲劇を未然に防ぐことも、さじ加減を調整して起きる悲劇を演出することも容易です。静観するというのも一つの手でございましょう。さて、如何致しますか?」

 天幕の中が静寂に包まれる。

 まるで判決が言い渡される瞬間のように。

 

「……シコク。私はな恩には恩を、仇には仇を返すべきだと思っている」

 裁判長たるモモンガの声は静かだった。

 

「そして、この街の運命はこの街に住む者が決めるべきだろう」

 そういってモモンガは《遠隔視の鏡/ミラー・オブ・リモート・ビューイング》を取り出した。

「……それは、つまり?」

「もうすぐみかかさんの所に奴が訪れるのだろう? ンフィーレア・バレアレがどのような選択を行ったのか私達も見せてもらおうじゃないか。その選択にこの街の運命を委ねよう」

「……それも一興かと」

 シコクが微笑んだことにモモンガは安堵していた。

 理論派のアルベドやデミウルゴスとは異なり、シコクは直感派だ。

 何となくでモモンガが大したことのない支配者なのが発覚してもおかしくない。

 その為の苦肉の策――全てを相手に委ねるという作戦である。

 

(俺達が何かをする必要もない。何もしなくてもンフィーレアは誘拐されて儀式に使われる。そして相手の戦力は完全に把握済みなんだから、最高のタイミングで助けに入ることも可能だ)

 

 そもそもモモンガはンフィーレアが何故、ここまでみかかを敵視しているのか分からない。

 みかかは見当がつかないと言っていたが、自分の欠点とはいうのは自分には見えにくい物だ。

 知らず知らずのうちに相手を怒らせていたということも考えられる。

 

(在り得ないとは思うが、みかかさんの対応に問題があったなら助けてやってもいい。もし死んだとしてもそれはそれで好都合だ。蘇生させてやれば流石に心を入れ替えるだろう)

 

 それでも変わらないなら、遠慮会釈なく責め殺す。

 その時はナザリックに存在する悪夢の体現者達、ニューロリスト、恐怖公、餓食狐蟲王、デミウルゴスの洗礼を受けることになるだろう。

 

「……モモンガ様」

「んっ?」

「もしも、ンフィーレアが取るに足らない理由でみかか様に牙を剥いていたのであればどうなるのでしょうか?」

 シコクの問いかけにモモンガは瞳に憤怒の炎を宿して答えた。

「知れたことだ。その時は未曾有の大惨事となった城塞都市を私が救ってやろう」

「モモンガ様の御帰還は明日の夕方――それまで放置するとなると都市に壊滅的な被害が生じることになりますが?」

「それがどうした。私達は人間の味方ではない。陥落しないだけマシだと思うべきだろう?」

「……仰るとおりでございます」

 モモンガの答えにシコクは瞳を伏せつつ頷いた。

 

 




 ずいぶんお待たせしました。
 あーでもないこーでもないと書いてたらいつの間にかこんなに間が空いてしまった次第です。

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