使い魔のくせになまいきだ。 ~ マガマガしい使い魔 ~   作:tubuyaki

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STAGE 32 その空舟(ふね)を漕いでゆけ

 大空に浮かぶ囚われのマリー・ガラント号の姿が、遠く、小さくなっていく。魔王とルイズの二人は、必死に舟を漕ぎ続けた。

 

 

「追って来てないでしょうね!?」

 

「おそらくダイジョーブです。これだけ時間が経って動きがないのです。十分逃げ切れるでしょう」

 

 やがて舟は霧に近づき、その中へと突入していった。二人は肌を刺すような冷たさと、霧の中を乱反射して一面を白に染め上げる強烈な光に必死で耐えながら、オールを漕ぎ続けた。やがてふっと寒さが和らぎ、閉じたまぶた越しの光が弱まったのを感じ取ったルイズが目をうっすら開けていくと、目の前にはいよいよ近くなって来た、雄大なアルビオン大陸が広がっていた。

 

「これでもう逃げ切れたかしら?」

 

「ええ、もう安心して良いでしょう。空賊だって、白い霧を掻き分けて小舟を探すようなヒマ人ではないでしょうしね。ですがルイズ様、ここからが本番ですぞ。陸地につくまでが脱走ですからな」

 

「分かってるわよ。任務はこれからだもの」

 

 ルイズは一度後ろを振り返って、深い霧に隔てられてしまった先の情景に思いを馳せた。

もう既に空賊船は、マリー・ガラント号を連れて空賊の根城に向かっているのだろうか?

ワルドは、果たして上手くやっているだろうか?

 

 ルイズは目を閉じてワルドの無事を始祖に祈り、気持ちを切り替えて再び舟を漕ぎ出した。

 

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 この世には、2種類の船がある。水に浮かぶ船と、空に浮かぶ船だ。これらの船は見た目上、とてもよく似ている。それもそのはず、海を行く船を造っている大工たちが、空の船も作っているからだ。

 かつて、ハルケギニア大陸とアルビオン大陸の間を行き来できたのは、ドラゴンを召喚したメイジだけだった。空を飛ぶ幻獣は他にもいたが、ドラゴンほど力強く、素早く、また長く飛べる種族は他にいなかった。故にその時代のドラゴンは、天と地を結びつける力と権威の象徴として、今日以上に神聖視されていた。特に空を介してしか他の国とやり取り出来ないアルビオンではその傾向が顕著であり、アルビオン王家の紋章にドラゴンが描かれるようになったのは、その時代の影響あってのことだろうと歴史家たちは言う。だが当時、ドラゴンを介して行われる人やモノのやり取りは、極々限られたものに過ぎなかった。いくらドラゴンが力強いといえども、その数が絶対的に足りなかったのである。保有できるドラゴンの数を増やせないかと、ハルケギニア中の国が躍起になったが、いくらメイジたちが喉から手が出るほどに欲したとしても、サモン・サーヴァントで思い通りにドラゴンを呼ぶことなど出来ないし、また手懐けることが出来る野生のドラゴンなんてものもまず存在しない。結局彼らはどうする事も出来ず、ハルケギニア大陸と浮遊大陸の間では、とても貿易とは呼び難い程度のわずかな物資がやり取りされるだけであった。二大陸間には文字通り、天と地の隔絶があった。

 ドラゴンを使わずに大陸間を行き来する。それはかつてのメイジにとって、果てしない高みへの挑戦であった。この勇敢とも無謀ともとれる空への挑戦は、二大陸間の交易を切り開く巨万の富を賭けた一大事業として、王侯貴族の強力な支援の下に幾度となく繰り返された。だが当時、誰もがその難しさを真には理解していなかった。

 グリフォンやマンティコアでは力が足りない。ならば、これらの幻獣を束ねてそりをひかせてはどうか? 幻獣を使ったのでは、どうしても力尽きてしまう。ならば、空に浮かぶのは気球に任せて、そこに火のスクウェアメイジや風のスクウェアメイジを乗り込ませてみてはどうか?

 幾多の試みが成され、その全てが失敗に終わった。誰もが、ハルケギニアの上空に吹き荒れる風に打ち勝ち、その先にある高みへと至ることが出来なかった。運よく生還した者は、ハルケギニアからアルビオンを目指すのは、大しけの中を船も無しに泳いでいくようなものだと語った。幾多の犠牲を重ね、誰もが空への夢を諦めかけた頃、土メイジの手によってある発見がなされた。かつては単に魔石とだけ呼ばれていた雑多な鉱物の内、特に軽いものに適切な刺激を加えると、強力な浮遊力を得られることが明らかにされたのである。古くからその存在が知られていた『風石』の意義が、本当の意味で発見された瞬間だった。この成果により、大地に眠っていた『ただの石』は、一躍大資源となった。やがて風石の大鉱脈が発見されるようになると、かつては夢想家だけが思い描いたアイデア、空を飛ぶ船が現実のものとして考えられ始めた。嵐の波風にも耐え得る船を宙に浮かべれば、風の猛り狂う空域を乗り越えて、はるか上空のアルビオン大陸へも向かえるのではないか。帆を上手く張れば、風を味方に付けることすら出来るし、何よりヒトとモノを沢山持ち運べる。各国の大号令の元、空船の開発が進められた。

 当初は、空石を積んで宙に浮かぶも船体が逆さまになったりしていた船も、やがて姿勢を安定させたまま航行出来るまでに発展した。そして空に一番近い世界樹の頂から、ついにアルビオンに向けて船が飛ばされた。船には、幾人ものスクウェア・メイジと共に、操船と操舵を熟知した一流の船乗りたちが乗り込んだ。彼らは未知なる空の環境に戸惑いながらも、必死で船を操った。メイジや平民の区別なく皆、船内を駆け回り、船乗りが帆を、舵を操る間に、メイジたちは魔法で船体の姿勢が保たれるよう、間断無く魔法を掛け続けた。やがて船が最も強い風の吹く空域を超えると、その上空にアルビオンの姿が見えた。そこから、アルビオンを見下ろす位置にまで上昇するのは、すぐのことであった。船は、風石による浮遊力を抑えていき、ついには浮遊大陸に降り立った。

 斯くして、2大陸間の航路は切り開かれた。初めは熟練の船乗りと凄腕のメイジの相乗りが必須だったこの航行も、造船の技術が発達するにつれ、平民だけでの行き来が可能になっていった。こうして空船乗りの仕事は平民のものとなっていき、同時にアルビオンとハルケギニアの各地は、幾多の空船によって結ばれることとなった。空船を介して人と物とが行き交いするようになったハルケギニア世界は、より一層の豊かさを甘受するに至るのだった。

 

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 舟から突き出された2本のオールが、ゆったりと空をかきわけて回る。ルイズは魔王と息を合わせながらオールを手繰る内に、ぼんやりとした気分になってきた。もはや追っ手を気にする必要もないため、二人は息を切らさない程度のペースで舟を漕いでいる。皆に恐れられるアルビオンの強風も、彼女たちのいる宙域では大分収まっているらしく、舟は静かに揺れるのみであった。ルイズは暖かな日差しを身に浴びながら、これはまるでラグドリアン湖でボート遊びをした時のようだと思ってしまった。もっとも、ラグドリアン湖と違って舟は水面にではなくひたすらの青い空の中に浮かんでいるし、また彼女たちが操るオールも、水面を浮かぶ舟のものとは大きく異なっていた。普通のオールの先は、水をかけるように平たい形となっているが、空用のオールには代わりに、大きな鳥の羽が扇のように括り付けられていた。羽には硬化の魔法が掛けられており、これで風を掻き分けるのである。そのようなものを使って本当に前に進めるのかと思われるかもしれないが、宙に浮く舟は重たい水の抵抗を受けない分、これで案外、漕ぎ続けると早く進むのだった。

 

「まあ!」

 

 ルイズは外の景色を眺めていて、歓声を上げた。燕の群れが、彼女たちの乗る舟のすぐそばを通り過ぎていき、アルビオン大陸の岸壁へ向け飛んで行った。

 

「もう、上陸も目前ですな。全てが順調でナニヨリです!」

 

魔王はオールを持つ手を休めずに言った。

 

「着いたら、まずはお昼をいっぱい食べたいものです」

 

ルイズは一漕ぎしてから、返事を返した。

 

「街が近ければね。多分、港町も近くにあると思うけれど……」

 

魔王も、一漕ぎしてから言葉を返した。

 

「まあ、いざとなったらコケでも食べましょうか」

 

「コケって、食べられるの?」

 

ルイズの訝しげな声に、魔王ははたとオールを漕ぐ手を止めた。

 

「何をバカなことを言っているのです。ガジガジムシだって、コケを食べているじゃあないですか」

 

「ムシじゃない。私は人が食べられるかって、聞いてるのよ」

 

ルイズに促され、魔王は再びオールを漕ぎつつ答えた。

 

「当然、食べられます。なんたって、養分とコラーゲンがタップリですからね。

 魔界でも、不健康食品の材料としてヒジョーに注目されております」

 

「ダメじゃない」

 

「偏見はよくありませんぞ」

 

魔王は汗を拭いつつ言った。

 

「コケは魔界の超ロングセラー食品、マガ汁の材料になっているほどポピュラーな食材なのです。

 『マズい! もう一匹!』のCMで、それはそれはよく売れているものなのです」

 

「余計に食べたくなくなったわよ」

 

 二人はそうやって、下らないことを話しながら舟を漕ぎ続けた。周りを風が吹き抜けていく。

 

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「なんで……」

 

ルイズは怒ったような、疲れたような、それでいて焦ったような声を上げた。

 

「なんで着かないのよ!」

 

 彼女たちの前方には、相変わらず浮遊大陸がでんとその威容を誇っている。大陸の上から下まで続く岩肌を、ルイズはもうかれこれ半刻以上も見続けていた。

 

「オカシイですね。もうすぐ着くと思ったのですが……

あんまり大陸が大きすぎて、遠近感が狂っていたのかもしれません」

 

 実際、アルビオンへの航行に不慣れなものは、よくこの錯誤を犯す。空は物に溢れた地上とは違い、何もない空間がどこまでも広がっている。すると、空に浮かぶものの背景には何もないために、見たものが自分からどれだけ離れているか分からなくなってしまうのだ。同様の現象は、日常的なところでは月を見上げている時にも起きる。空に浮かぶ月は、人の目には雲より少し高いところにあるように見えてしまう。しかし実際には、月は雲が浮かぶ高さの何万倍もの高さに浮かんでいる。それと同じ錯覚が、過去にアルビオンを目指した船人の多くを惑わせてきた。

 

「イヤー、オソロしいですな」

 

「じゃあ何よ、私たちまだまだ漕がなきゃいけないわけ?」

 

首を垂れるルイズを、魔王は元気に励ました。

 

「クヨクヨしても仕方がありません。ここはファイトいっぱつ、

ワシにでもなったつもりでこの空を駆け抜けましょう!」

 

「もう、嫌。うんざりだわ」

 

 どれだけ嫌でも、漕ぎ出さなければ始まらない。ルイズは機嫌を損ねたままに、再びオールを漕ぎだした。

 

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「これは…… どういうこと?」

 

先ほどよりも更に機嫌悪そうに、ルイズは言葉を吐き出した。

 

「なんで辿り着けないのよ! 全然、近付いた感じがしないわ!」

 

「イヤ、心なしか遠くなった気もしますな」

 

「うそ! うそよそんなの! だって、こんなに必死に漕いでるじゃない!

こんなに風を切って舟が進んでるのよ!?」

 

ルイズは魔王の言葉を、そんなものは認められないというように強く否定した。

 

「ムム? ルイズ様、ちょっと景色も変わって来てませんか?」

 

「どこがよ?」

 

「ホラ、先ほどは左手に見えていたあの岩山が、今は右手に見えています」

 

「それって…… 流されてるじゃないの!」

 

 ルイズは、ついに現実を無視できなくなって、頭を抱え込んだ。始め、ルイズたちの舟は確かに前へと進んでいた。しかし実は、大陸側から舟に向けて緩やかな風が吹き込んで来ていたのだ。風は、ルイズたちが気付けないほど穏やかに、緩やかに強まっていき、やがては舟を大陸から遠ざけ始めた。しかし周りには何もない空の上では、舟が風を切って前に進んでいるのか、それとも強風を受けて後ろに押し流されているのか、判断するのは容易ではない。彼女たちは今になってようやく、自らの置かれた状況を理解したのだった。

 

「まさか、このまま流され続けたりしないわよね?」

 

ルイズは弱気な声を上げた。

 

「と、トーゼンです! 考えてもみてください。マリー・ガラント号を発った時と比べたら、

 チャクジツに舟はあの陸地へ近付いたハズでしょう? きっと今は風が悪いだけなのです!」

 

「そ、そうよね! 今はただ、向かい風で舟が進み難くなってるだけよね!」

 

「そのとーりです! もうかれこれ一時間以上も流されてるかと思いましたが気のせいでしょう!

 風だって、いつかは向きが変わります。明日は明日の風が吹く!」

 

「良いこと言うじゃない! そうよ風向きは変わるわ。明日になってからじゃあ遅いけど!」

 

 ルイズと魔王の二人は、それまでになくせかせかと、オールを手繰っては前へ、手繰っては前へと動かし始めた。

 

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「やったわ! 岸はもう目の前よ!」

 

「イヤッフゥ! さあ、ラストスパートです! ここまで近付いたら、もう後はラクショーでしょう!」

 

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「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……どうして……」

 

「……」

 

「どうして…… また…… こんなに岸から遠ざかってるのよ!

 さっきはあんなに近付いてたじゃない!」

 

 ルイズはがっくりと俯き、オールを操る手を止めてしまった。

魔王もゲップゥと苦しそうな息を吐き出いて、ぐったりと項垂れた。

 

「ホ、ホントどうなってるんでしょう? 何が何だかサッパリです。

 まるでナニモノかに翻弄されているかのようなキブンです」

 

「ナニモノかって、何よ。そんなものいてたまるもんですか ……あ」

 

ルイズはそう言うと、顔色をより一層悪くした。

 

「ルイズ様?」

 

 呼びかけられても、彼女は返事を返さなかった。ルイズは先ほどの魔王の話を聞いていて、ふと遠い日の出来事を思い出した。今の彼女はまさにその記憶で、頭の中が埋め尽くされそうになっているのだった。

 

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あれはまだ私が幼いころ、家族に連れられアルビオンへ旅行に来た時の事だった。

 

「わぁ、キレイ!」

 

ルイズは、初めて見るアルビオンの空の青さに興奮を覚え、今にも空に向かって駆け出しそうな勢いだった。

 

「こらおチビ! そんなにみっともなくはしゃぐんじゃないわ」

 

すぐさま小言を言う長姉のエレオノールに、ルイズは露骨に不満そうな顔をした。

 

「えぇ? だってぇ……」

 

「だっても何もないわよ! どうしてアンタは素直に言うことが聞けないかしら?」

 

「い、いひゃい! いひゃいですエレオノール姉さま! 助けて、ちいねえさま!」

 

「あらあら」

 

助けを求められた次姉のカトレアは、二人の姉妹の微笑ましいやり取りを見てのほほんと笑った。

 

「ち、ちいねえさま!」

 

「よそ見するんじゃないわよ、おチビ! いいから私の話を聞きなさい!

大体何よ、なんでカトレアだけちいねえさまと呼んで、私は名前呼びなのかしら?

おおねえさまって呼べばいいじゃない?」

 

不思議そうに訊ねたエレオノールに、ルイズはこう答えた。

 

「えぇ? だってぇ……」

 

エレオノールはキーッと悔しそうに歯噛みした。そしてより一層激しくルイズのほっぺたを引っ張り倒した。

 

「いひゃ! もげる! ほっぺがとれちゃう!」

 

「そう簡単にほっぺはとれないわよ」

 

「これこれ、その程度にしておきなさい。カトレアや」

 

「! はい、お父様」

 

 エレオノールは父親ヴァリエール公爵の一言で、借りてきた猫のように大人しくなった。ルイズは引っ張られたほほをまだ痛そうに手で抑え込んでいる。そこへカトレアが、優しくルイズの頭を撫でた。

 

「痛かったわね、ルイズ」

 

「ちいねえさま~! エレオノール姉さまがまたいじめる~!」

 

そう言ってルイズはカトレアに抱き着いた。エレオノールの頬が再びぴくっと吊り上がった。

 

「あ~、ゴホン。娘たちよ、少し大事な話があるのだ」

 

 公爵の言葉に、三姉妹は居住まいを正した。公爵は思った。娘たちは、言うことを素直に聞いてくれる良い子、いや素晴らしい子だが、目を離すとすぐに、こう、なんというか…… これも遺伝か。そう思って公爵がちらりと横を見ると、彼の妻カリーヌとバッチリ目が合った。

 

「何か?」

 

 公爵はその一言に、自分の考えが見透かされたのではないかと思うような威圧感を覚え、慌てて『何でもないのだ』と白を切った。

 

「そうだ、時に娘たちよ。アルビオンの空はどうだね?」

 

「とっても美しいですわ!」

 

元気いっぱいな様子で、ルイズが一番に返事を返した。

 

「ええ、まったくルイズの言う通りですわ。美しくって、見ていて心が洗われるようですもの。

 お父様、わざわざ旅行に連れて行ってくださって有難うございます」

 

そうかそうかと、満足そうに公爵は頷いた。

 

「カトレアはどうだ? アルビオンは空気が澄んでいると聞いて連れてきたが、旅で少し堪えなかったかね?」

 

「平気ですわ、お父様。ここのところ私、とっても調子が良いんですもの。

 こんな素晴らしいところに来れて、私とっても嬉しいですわ」

 

「それは良かった! それでこそ、お前たちと一緒にアルビオンまで来た甲斐があるというものだ。思う存分このアルビオンを満喫していこうではないか」

 

 笑顔を漏らす公爵に、娘たちも微笑みを返した。何時もは厳しい顔をしている彼の妻も、この時ばかりはすこしだけ口元が緩んでいた。だが公爵は、そこでキリッと表情を変えると、低い声で話し始めた。

 

「お前たちは私の「私たちの」……私たちの自慢の娘だ。あえて何も言わずとも、良い子でいてくれることだろう。だが娘たちよ、ここアルビオンにおいてこれだけは守って欲しいということが一つだけあるのだ」

 

「それは何ですの?」

 

 長女のエレオノールが聞き返した。次女カトレアと三女のルイズも、真剣そうに公爵へ顔を向けている。

 

「ここアルビオンの空は素晴らしい青さだ。そして、おあつらえ向きなことにここアルビオンには、空用のボートというものまである。湖畔に置いてあるような、少しばかり漕ぎ出して遊べるようなやつだ」

 

「わあ、楽しそう!」

 

ルイズが歓声を上げた。

 

「まだお父様の話の途中よ」

 

 エレオノールはルイズを諫めたが、彼女やカトレアも、空のボートに興味がありそうな顔をしていた。

 

「そうだろう。舟で空を進むのは、フライで宙に浮くのとはまた別な楽しさがあるという……

だが娘たちよ。絶対に自分たちだけでは舟に乗らないと約束してくれたまえ。例え十数メイルの距離を漕ぎ出すだけであろうともだ。舟に乗りたければ、必ずカリーヌと一緒に行きたまえ」

 

「分かりましたね?」

 

カリーヌが公爵の後を継ぎ、厳しそうな声音で質した。

 

「分かりましたわ。お父様、お母さま」

 

「私たちだけでは、絶対に舟に乗りませんわ」

 

 エレオノールとカトレアが返事したのを見て、ルイズもこくこくと頷きながら、返事を返した。

 

「誓いますわ。絶対にお父様の言いつけを守ります」

 

「よろしい」

 

カリーヌからの重圧が解け、ルイズはほっと胸を撫で下ろした。

 

「ですがお父様、それにお母様も」

 

エレオノールは少し不思議そうに言った。

 

「病気がちなカトレアやおチビはともかく、少し過保護すぎじゃありませんこと?

私だってトライアングルですのよ。十数メイルぐらい、フライですぐじゃありませんか。

例え数十メイル岸から離れても、いざという時は妹たちを守れますわ。

もちろん言い付けは守りますけど……」

 

公爵は、首を横に振りながらそれに答えた。

 

「お前がそう思うのも無理はない。ここがもし別の場所であれば、それももっともだったことだろう。だがここはアルビオンなのだ。土地が変われば、常識も変わる。アカデミーへの入会を目指すお前がそれではいけまい。お前たちも、風の怖さを知らんわけではないだろう?」

 

「そ、そうですわね」

 

 娘たちは、顔を強張らせながら公爵の言葉に頷いた。公爵は、そこでちらりと視線を横に向けた。またも彼の妻カリーヌと、バッチリ目が合った。

 

「何か言いたいことでも?」

 

「いや、別になんでもない、大したことではないのだ! 風に熟知したお前なら、風の怖さもよく知っているだろうと思ってな」

 

 カリーヌは、公爵の何かを恐れるような、また何かを隠すような態度に、はあとため息をつくと娘たちに向き直った。

 

「あなたたちは風の怖さと聞いて、どうせ私から折檻を受ける時のような突風を思い浮かべているのでしょう。ですが自然に吹く風の恐ろしさとは、そう目に見えて分かるようなものばかりではないのです。一つ話をしましょう。ここアルビオンの岸辺に住む者は、皆知っている有名な話だそうです。心してお聞きなさい」

 

 カリーヌは、背筋を真直ぐに伸ばして聞き入る娘たちへ、空の恐ろしさを語り始めた。

 

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 『アルビオンの空には魔物が住んでいる』と言われるが本当か? 船乗りたちはみな口を揃えて言う。まったくのその通りだと。時にアルビオンの空には、50メイルを超える大船を転覆させそうになるほどの強風が吹き荒れる。船がいきなり何十メイルも落下することもあるし、そうかと思えば今度は船体が大きく傾いて、船員たちが船から振り落とされそうにもなる。実際、振り落とされる者もいる。力と度胸、経験、それから運、全てが無ければ切れ抜けられない。俺たちは、そんな恐ろしい空の魔物を征して今ここに生きているのだと。船乗りはそうやって空に怯えつつも、どこか誇らしげに皆へ語る。だが空の魔物は、何も嵐の中だけに住んでいるわけではない。例え魔物の姿は目に見えずとも、穏やかな空の中、その手は岸辺すぐのところにまで伸びている。

 惚れ惚れするような青い空が広がる日には、みんな思わず空に漕ぎ出したくなるものだ。決して大船でなくてもいい。小舟で少し漕ぎ出すだけでいい。暖かな日差しの下で、あたり一面の青い空に包まれながら、風を切って進む。その快感は何物にも代えがたい。浮遊大陸を外側から眺めて、生い茂る木々や、剥き出しになった岩肌、轟々と流れゆく滝を見て回るのもいい。アルビオンでの自然の魅力全てが詰まった空での一時……その魅力に憑りつかれる者は少なくない。だが、決して忘れてはいけない。この広いアルビオンの沖に漕ぎ出す舟は数あれど、そのいくつかは帰らぬということを。

 穏やかに吹き抜ける風の中を、夢中になって遊びまわり、ふと気が付くといつの間にか舟が沖の方に流されている。遠くへ行き過ぎたと思って、舟の進路を岸に向けてオールを漕いでも、なかなか前には進まない。進んだと思っても、時折吹き抜ける強い風が、舟を元の位置へと押し戻す。湧き上がってくる、じれったい思い。だがその思いはしばらくすると、焦りへと変わっていく。少しずつであれ進んでいると思っていた舟が、実は陸から遠ざかりつつあることに気が付くからだ。広大な空の中、遠く、小さくなっていく岸辺。乗り手は腕の力を強めて、バタバタとオールを掻き動かす。しかし舟は戻らない。穏やかな風に吹かれているだけだというのに、必死になって漕いでいるというのに、決して前には進まない。そんな時、舟はもう既に魔の手に落ちている。目に見えぬ風の大きな流れ、離岸風という空の魔物にとらわれているのだ。離岸風はただの風ではない。例え弱い風だと感じようとも、離岸風は全てを沖へと押し流す。なぜならその風は、風の精霊たちが宿って吹く魔の風だからだ。

 風の精霊は、沖から大陸へと吹き付ける風に乗って、浮遊大陸にやってくる。しかし風の精霊は移り気だ。大陸中が風の精霊たちで満ち溢れ窮屈になると、彼らはのびのびと動き回れる空へまた戻ろうと、岸から沖へ向かう大きな風の流れを作り出す。その風はとても強く、風メイジでなければトライアングルの唱えたフライであろうと、逆らって進むことは難しい。だが離岸風に飲まれた者は、その恐ろしい流れの強さにすぐには気付けない。それと言うのも、風の精霊たちは大抵、人の気配を感じるとそれを避けて進むからだ。風の精霊に気に入られた生き物だけが、彼らを見て、彼らの声に耳を傾け、そして彼らに触れることが出来る。彼らの流れを感じることが出来る。逆に人々は、どれだけ沢山の精霊たちが自分たちの周りを取り囲み、彼らの乗る舟を押し流そうとしていても気付けない。舟を押す力がどれだけ強くても、肌に感じる風は穏やかそのものなんてことが起こる。

 離岸風、それこそが穏やかな空に住まう恐ろしき魔物の正体である。小舟程度では、それに逆らって進むことは敵わない。舟の漕ぎ手が諦めず、力を尽くしたところでその流れからは抜け出せない。やがて疲弊した漕ぎ手とともに、舟は遥か遠くへと流されていく。そして岸辺から眺めると、舟はどこまでも青い空の中へ吸い込まれていくかのように姿を消す。そうなったが最後、舟は二度と戻らない。

 アルビオンでは年に何万件もの風難事故が起きているが、離岸風による死者の数は、嵐による被害者数と空の幻獣による被害者数を足した数よりも大きいという。だから、アルビオンの空の中にある時は、決して忘れてはいけない。どれだけ穏やかな空の中にも、そこには魔物が住んでいるのだということを……

 

「迷信ですが、流された人は風の精霊たちによって、誰も知らない彼らの住処へと連れていかれ、一生をそこで過ごすそうです。ですが、空に精霊の住処があるなど馬鹿げています。風はあまねく偏在する。止まることなく、至る所へと動き回るのが風の本質ですから、人が暮らしていけるような彼らの住処などありえません。ですから沖に流された舟はきっと、どこかで風石が尽きて、地上へと落ちていくのでしょうね」

 

 カリーヌはそう話を締めくくった。

 

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「いや! いやぁああああ! 助けて! 誰か助けて!!」

 

「ルイズ様」

 

「いや! いやよ! こんなところで死ぬのはいや! 誰か、誰か助けて!」

 

「ルイズ様!」

 

「ワルド! ワルドはどこ!? ギーシュは? それにキュルケだって!

そうよタバサだわ! 彼女の風竜に乗せてもらえば、無事に陸地まで送り届けて貰えるはずよ!

みんな、どこにいるの……!? 私はここよっ!」

 

 ルイズは、声を枯らさんばかりに必死に叫んだ。しかし彼女の悲痛な声は、空の青さの中へと吸い込まれるように消えていくばかりだった。

 

「まさか、こんなことになるとは…… ザンネンです」

 

「いやあああ! 助けてえええ! エレオノール姉さま! ちいねえさま! お父さま! お母さま!!」

 

 返ってくる音もなく、誰にも言葉が届くことはない。空には誰もいないし、何もない。ルイズはこの時、空に浮かぶ舟はのどかなものであるばかりでなく、外界から切り離されたとても孤独な存在であることに気付かされた。

 

「なんで、なんでよ……! 私にはやらなきゃいけないことがあるのに……!」

 

ルイズは顔をくしゃくしゃにして、涙を流しながら俯いた。

 

「……運が良ければ、他の船に見つけてもらえるかもしれません」

 

魔王の言葉に、ルイズはグスッと鼻をすすってから返事した。

 

「でもこんな広い空の中、私たちの小さな舟なんて見つかりっこないわ」

 

「だから運が良ければなのです。それに、もしかしたらまた風の流れが変わって

岸に近づくかも?」

 

「運が良ければ?」

「ええ、運が良ければ」

「ああ、なんてことなの……!」

 

 魔王の言葉を聞いて、ルイズの気分はさらに重く沈み込んだ。しかし嘆き叫ぶ元気すら無くなるようなどうしようもない現状は、彼女に僅かばかりの冷静さを取り戻させもした。

 

「……ごめんなさい。取り乱したわ。今は出来ることをやるしかないわよね」

 

「その通りです。まずは現状把握といきましょうか。ショージキ、あまり聞きたくはないのですが、この舟に積まれた風石はあとどれぐらい持つでしょうか?」

 

「積み荷にもよるけど、この手の舟は半日ぐらいは浮いていられるものよ。けれどいくら軽くしても、まず一日とは持たないでしょうね」

 

その答えに、聞いた魔王も言ったルイズも表情を暗くした。

 

「となると、少しでもこの舟をもたせるには、荷を軽くするしかありませんな」

 

「そうね。重いものは、思い切って捨てないといけないわ」

 

「けれどこの舟に、積み荷というほどのものは載っておりませんぞ」

 

「いいえ、私たちの持ち物も馬鹿にはならないわ。金属で出来たものなんて、特に重たいでしょうもの」

 

ルイズの意図するところを察し、魔王は思わず空を仰ぎ見、そして項垂れた。

 

「私たちの命が掛かっているんだもの。覚悟を決めて頂戴」

 

「そんな…… いや、しかし…… ハァ……」

 

魔王は意気消沈した様子で言った。

 

「まさか、これを手放さなければならない時が来るとは…… ですが、確かにルイズ様のおっしゃる通り、命には代えられません。大変、いやホントーに大変惜しいことではありますが、このダイジなダイジなデルフなんちゃらを手放すことと致しましょう!」

 

「いや、ツルハシもよ」

 

「ハッハッハ、ご冗談を!」

 

「いや、冗談でも何でもないんだけど」

 

「またまた御冗談を!」

 

しばらくは笑っていた魔王だったが、やがてルイズの本気を察すると、絶叫した。

 

アバババババ! ジョーダンじゃありません! ツルハシが無かったら、何も始まらないじゃないですか! 世界征服の道のりは、まだ始まったばかりなのですぞ!?」

 

「要するに、ツルハシを持っていて始まるものなんて、ロクでもないことに決まってるってことよね。捨てましょう」

 

ルイズの判断に、魔王は強硬に抵抗した。

 

「キョヒです。断固、抗議いたします! ゼッタイ反対、何が何でも阻止します! 貴族政治の暴虐を許さない!! それを捨てるなんてとんでもない!」

 

ルイズは、しばらく考え込んでから答えた。

 

「そう…… それもそうね。確かにツルハシは大事な道具だし、私だって捨てるのは惜しいわ」

 

「ええ、そうでしょう、そうでしょうとも! ルイズ様にも分かって頂けましたか?」

 

「ええ、そうよ。よくよく冷静に考えてみれば、他に捨てるものがあったんだわ。私ったら、何で気が付かなかったのかしら?

 

軽く首をかしげるルイズに合わせて、魔王も首を傾げた。

 

「ほう、そんなお荷物があるのですか?」

 

「ええ、そうなのよ。しかも、ツルハシよりずっと重いの」

 

「それはケッコウなことですな。ではすぐに捨てましょう! 魔界でも善はいそげと…… いや、マチガイました。悪は急げと言いますしな。悪事は拙速を尊ぶのです。警察にも捕まり難くなりますし…… それで、どんな荷物なのですか?」

 

「その荷物はね、ツルハシと違って全然役に立たないのよ。絶えずかしましく物音を立てては持ち主を困らせ、煩わせ、そして挙句には持ち主に危機をもたらそうとするの」

 

「はて? そんなウルサイ荷物、この剣以外にあったでしょうか?」

 

「ええ、あるの。それも、私の目の前にね。その、大きな大きなお荷物が……!」

 

語気を強めたルイズに詰め寄られ、魔王は言葉を詰まらせた。

 

「あんた、ツルハシの代わりに捨てられとく?」

 

「……謹んで、ごエンリョいたします」

 

魔王はガックリと項垂れた。

 

 

 魔王は力ない手つきで、ローブの下に仕舞い込んでいた重たいツルハシを取り出した。

彼はそれをすぐには捨てず、名残惜しむかのようにじっと見つめていた。その姿に魔王の葛藤を見たルイズは、釣られるように自らも悲しい気持ちがこみ上げて来たが、それをぐっとこらえて彼に語り掛けた。

 

「……あんたの気持ちは分かるけど、これは必要なことなのよ。もし私にもワルドのような力があれば、杖一つでこの舟もどうにかなったんでしょうけど…… 今やそのツルハシは、私にとっての杖と同じで役に立たないわ。むしろその重さで、私たちの首を絞めているの。仕方がないことだと、受け入れるしかないのよ。だって、命がかかっているんですもの」

 

 そうやって声を掛けられても、魔王はじっとツルハシを見つめ続けていた。ルイズは、もう彼をそっとしておいてやることにした。魔王のあまりに痛々しい様子に、彼女にも迷いが生じたのだ。

確かに、重たいツルハシを捨てるのが遅ければ、それだけ舟が沈むのも早くなるだろう。だが、それが一体何だというのか? 岸辺近くにいるならともかく、こんな沖合まで流されている。これでは誰かに救助されるのも絶望的だろう。最後の一時ぐらい、自分と共にあった道具を傍に置いていてもいいのではないか? ルイズはそう思いを巡らしながら、自分の大事にしている杖を取り出して、まじまじとそれを見つめた。

 

 お父様とお母様から頂いた、大切な杖。結局、こいつが私の期待に応えてくれることは無かったけれど、それでも私にとっては大事なものだったわ。最近はあまり構ってあげることが出来なかったわね。  

 

 ルイズは心の中でそう語りかけながら、ローブの端で杖を磨いてやった。杖の表面はつやつやと光り、美しい木目がルイズの心を慰めた。ルイズは思った。あいつにとってツルハシは、私にとってのこれのように大事なものだったのだろうかと……

 

「コレです」

 

魔王が不意に口を開いた。その目は未だ、手にしたツルハシにしっかりと注がれていた。

 

「コレならいける、いやコレを使うしかないのです。ルイズ様!」

 

 ルイズはボケっと魔王を見つめながら思った。ああ、こいつも恐怖のあまり、頭がおかしくなったのかしら。ツルハシをどう使おうが、舟はどうにもならないというのに……

 

「コレを使って、舟を動かすのです!」

 

「いいこと、魔王」

 

ルイズは、諭すように語りかけた。

 

「いくらそのツルハシがすごいからって、空を掘って何になるの?

 いくらそれを振り回したって、舟は前へと進まないのよ!」

 

「そうじゃアリマセン!」

 

魔王は叫んで返した。

 

「いいですか? ルイズ様のお力を使えば、例え腕力が無くたって、このツルハシをぶんぶん振り回せます!」

 

「だから何よ」

 

「だから、このツルハシにこの舟のオールを括り付けてですね……!」

 

ルイズは、思わず立ち上がった。舟がぐわんと揺れる。

 

「ロープがそこに置いてあるわ!」

 

「ええ、これを使いましょう! ……やや、このオール、船べりに金具で括りつけられていて、ツルハシに結べません!」

 

「私がどうにかするわ。このオールの端をしっかり持ってなさい!」

 

ルイズは、オールの支点となる船べりの金具に近付くと身を屈め、そこに杖を向けた。

 

「ウル・カーノ」

 

 オールを繋ぎ止めていた固定具が、小さな爆発と共に砕け散った。心配されたオールも、どうにか傷付けずに取り外すことが出来たようだ。ルイズは自分の魔法の才能の無さを、この時ばかりは始祖に感謝した。

 

「これでいいわよね? 後はロープを使って括り付けるだけよ!」

 

「お任せください!」

 

 魔王はツルハシとオールの柄とを重ね合わせると、ぐるぐるとロープを巻き付け始めた。ツルハシの柄の端から端までを2重3重にぐるぐるとロープで縛り付ける。やがてツルハシとオールは、しっかりと結び付いた一本の道具となった。

 

「貸しなさい!」

 

はやる気持ちを抑えつつ、ルイズはオールを携えて船尾に向かった。そしてツルハシを振るうことを意識して、そのオールを動かし始めた。

 

「おぉ、おおぅ!!」

 

 魔王が歓声を上げた。オールはバタバタバタバタと、普通に漕いでいたらあり得ないような速度で、風を掻き分け始めた。舟の急発進に、思わずルイズがよろめく。

 

「マチガイありません! 進んでいます! これは進んでいますぞ!」

 

 舟は、これまでが嘘であるかのようにぐんぐん速さを増していく。やがて舟は、ハルケギニア世界ではまだ当分発明されることがないであろう、モーターボートのごとき速さで突っ走り始めた。

 

「イヤッフゥ〜〜~~!!!」

 

 異様にテンションが高くなって、変な叫び声を上げ始めた魔王を尻目に、ルイズは安堵のあまり胸を撫で下ろし、その場に座り込んでしまった。

 

「本当に…… 良かった……!」

 

 ルイズは再び涙を流していた。でもその顔は笑っていた。岸部がだんだんと近くに見えて来るのがわかる。ルイズは目を擦って涙を拭うと、魔王に声を掛けた。

 

「ねえあんた。今まで酷いこと言ったりして悪かったわ。あなたのおかげで私の命も助かったわ」

 

「いえいえ、使い魔としてトーゼンのことをしたまでです!」

 

魔王は誇らしげにそう言った。

 

「始め、あんたが召喚された時はとんだ外れを引いたものだと思っていたけれど……

 私が間違っていたわ。あんたは最高の使い魔「アッ!」

 

舟ががくんと揺れた。

 

「え!?」

 

猛スピードで進んでいた舟がみるみる失速していく。

 

「なに!? 一体何が起きたのよ!?」

 

ルイズが慌てて船尾を振り返った。

 

「オールがないわっ!」

 

 ルイズが慌てて舟から身を乗り出して見ると、ツルハシの先の縄が緩んですっぽ抜けたオールが、きれいな放物線を描きながら空の下へと落ちていくのが見えた。オールは、ものの数秒でルイズの視界から消え去った。後には解けたロープと、空しくぶんぶんと震えるツルハシだけが残されていた。

 

「……」

 

「ダ、ダイジョーブ! オールならまだもう一本あります!」

 

 魔王は冷や汗をかきながら、船体に残されたもう一本のオールを指差した。

ルイズは、深い深いため息を付いた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「それ、本当に大丈夫なんでしょうね!?」

 

「ハイ、今回はホントーに強くギッチギチに縛っております。

これでもう、ゼッタイにすっぽ抜けることはあり得ませんな!」

 

「これでもし失敗したら、今度こそ私たちオシマイなのよ?

 そこんところ、ちゃんと分かってるでしょうね」

 

「モチロンです! 私だって死にたくはありませんとも」

 

ルイズは魔王をじっと睨み付けた。魔王も視線を逸らさずに、その赤い瞳でルイズを見返し続けた。

 

「……ならいいのよ。じゃあ、今度こそ上陸するわよ」

 

 ルイズはそう言うと、ゆっくりとツルハシを振るい始め、だんだんとその動きを速めていった。

やがてオールは、バララララと風を切る音を立て始めた。それと一緒に舟も、前へ前へと加速していく。

 

「……」

 

 ルイズは先ほどのこともあり、オールを注視し続けた。彼女の緊張は、岸辺近くに舟が至るまで解けることはなかった。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 つい先ほどまではあんなに遠くに見えた岸辺も、あと十数メイルを残すのみというところになって、ようやくルイズは胸を撫で下ろした。

 

「魔王、あんたの欠点は詰めが甘いことね。私に相応しい立派な使い魔になるためにも、

 そこのところよ~く理解しておきなさい!」

 

「いやマッタク、面目ありません。ですが、ルイズ様」

 

「何よ」

 

「確か使い魔って、主とお似合いのものが呼ばれるんでしたよね」

 

「そうだけど、それが何よ」

 

「いえいえ、お互い詰めの甘さには気を付けましょうということです。

 最強のダンジョンが出来たと思って調子ブッこいてたら、

 わずかなミスですべてが崩壊するなんてことは珍しくはありませんからな」

 

「ふん、誰にものを言ってるつもり? 私は栄えあるヴァリエール家が三女」バキィッ!

 

 大きな物音に驚いた二人が後ろを振り向くと、そこには折れた木の棒を括りつけられたままに、

高速で震えるツルハシの姿があった。ルイズが慌てて身を乗り出してみると、これまたきれいな放物線を描きながら、持ち手の先を無くしたオールが落下していくところであった。オールは、下へ下へと吸い込まれていくかのように消えていった。

 

「「    」」

 

 ルイズも魔王も口をあんぐりと開けて、もう何も見えなくなった眼下の空を凝視し続けた。

風がビュウと吹いた。船が上下に揺れる。その風の一吹きで、舟はまた岸へとゆっくり押し返され始めた。岸までは、とてもジャンプして届く距離ではない。これが水の上ならば、ほんの一泳ぎすれば届くというのに、たったの数メイルが今はとても遠い。

 

「終わった…… 完全に、終わったわ……」

 

 ルイズはぐるぐると目眩がするような感覚と共に足の力が抜け、舟底に膝をついた。今の彼女は、心の隅から隅までが虚脱感で満たされ、もはや涙すら出ない。ルイズは疲れきって目を閉じた。頭の中に、どうでもいい記憶が次々と浮かんでくる。ああ、これが走馬灯かと、ルイズはボロボロになった心の内で呟いた。

 

僕の可愛いルイズ・・・ お願い、あなただけが頼りなの!  ホゲェー!!! ・・・やっぱりあんたってゼロね。 青銅のギーシュ、いざ参る!  知らない。 杖に己が誇りと名誉を誓うのじゃ・・・ ツルハシって、カッコイイ! あんた、よくそんな趣味の悪い奴を呼んだものね。お嬢様も不憫だ。あの方だけ魔法がお出来にならない。 見て、あの方がヴァリエール家の三女ですって! クックベリーパイをお持ちしました。 そもそも、ものが燃えるという現象は目に見えぬ程小さな熱素という粒が周りの物質から移動し、風こそが最強だ!  貧弱、貧弱ゥ!なコケでも積もれば山となるんです マモノが住んでいる空のアルビオンの果てに船はウィンボドナの港にウェールズ王子は手紙を持って、追い詰めた貴族派がトリステインを火の海に変え、破壊神によって世界は滅ぼされる運命の元に使い魔は高笑いしながら土に潜りヴェルダンディ!僕の可愛いヴェルダンディ!ドバドバミミズはいっぱい食べたかい?・・・って何でそのガジガジムシを食べてるんだ!気持ち悪いじゃないか!いくらでも土を掘れるなんてどうなってるんだい。僕じゃ十数メイルも掘れれば上々さ。そんな魔法力は物の理に反した素晴らしいもので、まさに奇跡の御業と言えます。作用反作用の理からして、ああ今言ったのは要するにものを押すと、押した方は反対側に押し返されて動くわけです。ですからレビテーションで浮かび上がったもの同士が押し合えば互いに反対の方向へ動くのです。この原理を利用し、船から荷を一方向に捨て続けることで、何とか岸辺に辿り着くことが出来たという話がこれが始祖の啓示ねこれだわこれこそが私が助かる唯一の道にしてマガマガしき悪を葬り去る一石二鳥の使命で行動あるのみ諦めずにやるのよルイズ手遅れになる前にやるのよ押せば必ず船は反対方向に向かって動くものこの手を前に突き出して思いっきり突き飛ばせば舟も岸辺に向かうに間違いないわ今こそ泥臭いツルハシの呪縛から逃れてこの心の虚無に飲み込まれ……

 

「ルイズ様!」

 

「へ?」

 

ぼんやりとした頭で、ルイズは言葉を発した。頭が靄に包まれたようで、どうにもならない。

 

「ほら、ここまで近いのであれば、このツルハシをブーンヒョイ!っと陸地にやってですね」

 

「私はレビテーションを使えないの。だってゼロだもの」

 

「何をネボケているのですか! 魔法なんぞ使えなくてもブン投げればよいのです。

このロープを縛り付けたツルハシを思いっきり投げて、岸辺にザクッと突き立てる。

たったそれだけです。後は、ロープを少しづつ引っ張って、舟を岸辺に寄せていく。

要するに、カギ縄の要領ですな」

 

 ルイズの頭は働いていなかったが、魔王に急かされるままに彼女はツルハシを手に取り、“力”を込めてぶんと振るった。十分に勢いのついたツルハシは、くるくると回りながら宙を飛んだ。ロープがピンと伸びたところで、ツルハシは急速に地上へと落ちていく。そして岸辺の方から聞きなれた、ガタリという地面を掘る音が響いた。

 

「さあ、後は引っ張るだけです!」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 ……まだ足元がふわふわと浮かんでいるような気がする。ここが浮遊大陸の上だから? いや、そんなことはないわね。大陸は大きいのだから、舟に揺られるように地面が揺れ動くことなどあり得ないもの。そんなものは、舟で揺られ続けたことによる錯覚よ……

 

 ルイズは、ついに願い叶ってアルビオンに降り立ったというのに、未だ自分の立っている場所がひっくり返るのではないかという浮遊感が抜けなかった。

 

「いやはや、今日の出来事はイイ教訓になりましたな」

 

 ルイズは、自分がこんなにも疲れ果てているのにケロッとしている魔王を恨めし気に見つめた。

 

「どんなに苦しい状況、どんなに諦めたくなるような境遇に陥っても、決して忘れてはイケナイものがある。大事にしなくてはならないモノがある。そのことが身に染みてよく分かりました。ルイズ様も、分かりましたよね?」

 

 魔王のきらきらとした瞳に本気でウザイと思いながら、ルイズはぼそりと答えを返した。

 

「諦めない心「ツルハシですっ! 挫けない心? 何度でも立ち上がる勇気!?

ハッ! そんなものリセットボタンのない世界ではツーヨーしないのです!

やはり持つべきものはツルハシです。ツルハシこそが世界を救う、いやホロぼすのです!

無人島に一つ持っていくとしたら? その答えはツルハシ! キレイな飲み水を確保するのに

必要な道具は? その答えもやっぱりツルハシ! そもそも漂流とかしないために必要なのは?

やっぱりツルハシ! ツルハシ!! ツルハシなのです!!!

生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答えは? ……やっぱりツルハシ!

そう、それこそがこの世界の真実だったのです!」

 

悟りきったような柔和な笑みを浮かべる魔王へ、ルイズは言った。

 

「もう一つ、重要な真実があるわ」

 

「オオ、なんとルイズ様は、私よりももっと深い智慧を会得なさったというのですか? やはり破壊神様は持っているモノがチガイますな。して、その真実とは?」

 

魔王は目を輝かせて、ルイズの答えを待った。

 

「それはね…… あんたを信用しちゃいけないってことよ! イル・ウィンデ!!」

 

「フゲェエエエッ!」

 

 ルイズによる咄嗟の爆裂魔法は、大砲を放ったかのように魔王を大空へと弾き飛ばした。放物線を描いたボロキレのような魔王の影は、やがて木々の茂みの中に落ちて、パキパキと枝の折れる音を響かせた。再びの魔王の悲鳴と共に、野生動物のギャーギャーと鳴きわめく声がルイズの耳を楽しませた。

 

「なんでツルハシだけが召喚されなかったのかしら?」

 

 ルイズは本気でそう思いながらも、腰にぶら下げていたコンパスを手に取り、方角を調べた。それから丁寧に折り畳んで仕舞っていた地図も取り出し、つぶさに眺め、おおよその現在地に目星を付けた。

 

「北があっちで、この形の岸辺がこの方向に伸びているから、多分ここらへんよね。今日中に着けそうかしら?」

 

 森の方からは、今なお獣だか鳥だかのしきりに騒ぐ声が聞こえる。ルイズはふんふんと鼻歌を歌いながら歩き始めた。彼女はもうすっかりと普段の調子を取り戻し、しっかりとした足取りでアルビオンの大地を踏みしめていくのだった。

 

 




魔王にオールを任せるな!

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